Month: June 2019

竹田賢一 – Wikipedia

竹田 賢一(たけだ けんいち、1948年[1][2] – )は、日本の大正琴奏者、音楽評論家[3]。1970年代半ばから、当時ニュージャズと称されていたフリージャズ[4]や前衛的即興音楽の領域で、演奏家として活動するとともに、そうした即興的音楽についての評論を、音楽雑誌や文芸評論誌などに発表した。 1948年、東京都生まれ[1]。現代朝鮮研究所の研究生として東京都立大学 (1949-2011)在学時に「朝鮮革命研究会」を興すなど、活発な政治活動を行っていた[5]。ドロップアウトしたあと、1974年、天井桟敷館で劇団自動座の女優、ルビ新子のコンサートをプロデュースし、音楽活動を始める[6]。 1975年、坂本龍一と「学習団」という芸術-実践の運動体を組織した[7]。同年、間章に勧められてジャズ専門誌『ジャズ批評』や『ジャズ』への寄稿を始め、その後は、各種の雑誌への寄稿やライナーノートなども手がけた[1]。 1976年、竹田のプロデュースの下、坂本と土取利行とのコラボレーションアルバム『ディスアポイントメント-ハテルマ』を発表。即興演奏集団「ヴァイブレーション・ソサエティー」を三浦崇史と結成[7]。後に灰野敬二も参加した。 1979年、「ヴェッダ・ミュージック・ワークショップ」を発足。大正琴の即興演奏はここから[7]。 1970年代おわりころから平井玄らと雑誌『同時代音楽』の発行に関わる[4]。 1981年、「反ポップ・バンド」を掲げたユニット A-Musik を率いて演奏活動を展開し[1][8]、1983年には、同時代音楽を発売元として1st.アルバム『e kú ìrójú』(エクイロジュ)を発表した[9]。A-Musik に参加し、アルバムに関わった中には、竹田のほか、小山哲人(ベース)、石渡明廣(ギター)、久下恵生(ドラムス)、時岡秀雄(サックス)、篠田昌巳(サックス)、工藤冬里(ピアノ)らがおり、さらに、曲によって高橋鮎生、千野秀一、箕輪攻機、坂本龍一、大熊ワタルらが加わっている。 2006年、ネット配信のみで、A-Musikの2nd.アルバム『生きているうちに見られなかった夢を』を発表。ゲスト・ヴォーカルにソウル・フラワー・ユニオンの中川敬が参加した。 2013年、初の著作集『地表に蠢く音楽ども』を発売。 2020年、意外なことに輪投げが得意なことが判明。町内老人会で優勝したとTwitterで明らかにした。

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塩野毘沙門堂祭礼 – Wikipedia

塩野毘沙門堂祭礼(しおのびしゃもんどうさいれい)又は、福徳毘沙門天祭礼とは、山形県米沢市塩井町塩野に鎮座する塩野毘沙門堂の秋祭りのことである。 お堂の下に古い井戸を持つ塩野毘沙門堂において、この地区の人々が毎年豊作祈願として行う村祭りの一つである。 祭りは毎年8月の17、18日に塩井地区の人々が集まって行われ、神輿渡行を中心とした祭事が主で、17日の夕方から夜にかけて町内を練り歩き、午後8時30分頃に毘沙門堂境内に神輿が戻ってきて、境内を所狭しと暴れまわる。暴れ神輿が最大の見せ場となっている。普段は静かな境内もこの日ばかりは提灯が燈され、出店屋台が建ち並ぶ夏祭りである。 神輿渡行[編集] 塩野毘沙門堂(福徳毘沙門天)の祭礼の中心となる暴れ神輿を仕切るのは塩井町の選ばれた若者たちで、「若者頭」と呼ばれる数名である。若者頭は広告作りから提灯張り・境内清掃・挨拶回りなどをこなし、祭り当日を迎える。 毘沙門堂の格子戸が外され、神輿の準備が行われる。塩野毘沙門堂の神輿は暴れ神輿と呼ばれるもので、神輿と棒を括る時にロープを使い締め上げたロープが解けにくいように、お神酒を掛けて引き締める。 塩野毘沙門堂に伝わる神輿は2基存在している。古来使用していた八角神輿は、この祭りが「暴れ神輿」の為、祭りの度に神輿の飾りが壊れるという理由で、現在は担ぎ手が集まる夕方までご神体を入れ、車に乗せて町内を渡御している。逆に夕方から若者たちに担がれる神輿は、金具飾り等一切無く、上部の鳳凰も宝珠となっている。 8月17日の夕方に塩野毘沙門堂別当である般若山延徳寺の住職が入堂して若者頭を集めて祭りの安全を祈願し、神輿の御神体となる宝塔(毘沙門天)を頭に手渡す。頭は住職より預かった宝塔を神輿の内部に安置して扉を閉め、神輿のローソクに火を燈して出発する。 神輿渡行の配列は露払いの赤・黒の獅子が先を走り、継いで若者頭・旗持ち・住職・太鼓・神輿の順で進んで行き、町内を練り歩くのである。 露払いの獅子[編集] 神輿渡行に先だって地元の男子高校生達によって、獅子頭による露払いが行われる。山形県南部には、長井の黒獅子祭りに代表されるように数多くの獅子祭りがある。しかも通常の獅子舞とは違い、二人一組で正月などに舞い躍るものではなく、獅子幕を引っ張り合う(赤湯の暴れ獅子)形のものや、獅子頭を奪い合う熊野大社(南陽市)の獅子ばよい)など大勢で行う形のものが多い。ここ塩野毘沙門堂では、赤・黒の獅子頭が存在し、通常舞などに使用される頭より大ぶりで、二人で頭を持ち、さらに幕を4、5人で持ち、露払いをする為、神輿渡行の順路にある家々を威勢良く走りめぐる。頭持ちが頭を走りながら揺らすので、「パンパン」と獅子の噛む音が響き、数件隣まで来ると獅子が来たのを確認出来るので、泣き出す子供もいる。この赤と黒の獅子は、神輿が境内に戻る前に到着するが、境内の露払いの為に、毘沙門堂を左右両方から回り、正面で頭合わせをする(赤・黒の両獅子頭が激突すること)これが三度行われ、毘沙門堂内に戻り獅子は終了する。 この獅子頭の面相は加賀獅子に似た面をしている。 暴れ神輿[編集] 町内を渡行してきた神輿は小中学生の行列(旗持ち)を先頭にして境内に戻ってくる。神輿の担ぎ手は大人達16人-20人くらいで担ぎ、境内を太鼓の音がする方へ移動し、所狭しと暴れまくる。この祭りの最大の見せ場となる。 時には神輿が逆さまになってしまう程激しい暴れ方をする。暴れ神輿も毘沙門堂を三度回りその度に、数段ある大き目の階段を毘沙門堂内に向けて神輿ごと駆け上がるが、若者頭に蹴落とされる。通常は三週目の駆け上がりで神輿が上がるのであるが、時には4、5週目で上がる事もある。また、境内には弁天池と呼ばれる池があり、近年はそこへ神輿ごと入り、水浴びをする傾向があるが、毘沙門天という荒々しい神仏を感じさせる祭りである。 大般若会[編集] 宵祭りの終えた8月18日は、塩野毘沙門堂本祭りといい、子供神輿や別当般若山延徳寺の大導師を中心に近隣の住職が集い、大般若会(お大般若)が厳修される。この大般若会には、若者頭なども参拝して、祈祷後には、毘沙門天のお札が手渡され、近隣の家々に配られる。この大般若会は春にも厳修されている。 塩野毘沙門堂の祭りに雨が降る事が度々あるが、これは毘沙門堂より西方に位置する広幡町の成島八幡宮の祭礼が晴れれば塩野毘沙門堂祭礼は雨が降り成島八幡宮祭礼が雨ならば塩野毘沙門堂祭礼は晴れると言伝えられる。 これは共に「戦いの神」であるからとも云われる。また、毘沙門様の暴れ神輿に対して八幡様のひきづり神輿などとも称されるようである。

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デボー聖堂 – Wikipedia

デボー聖堂(スペイン語: Templo de Debod)は、古代エジプト建築の聖堂を解体し、スペインの首都マドリードに再建した建築物。 建築と芸術[編集] 解体前のデボー聖堂 デボー聖堂は元々上エジプトのアスワンの15km南に建設された[1]。 これはナイル川の第一の滝や、女神イシスを祀るフィラエ神殿が近い。 紀元前2世紀前半、クシュ王国のAdikhalamani王がアメン神を祀る神殿を建てた[1]。 この神殿は、ダッカ神殿(英語版)と同様の後期メロエ様式で装飾・建築された[1]。 プトレマイオス朝のプトレマイオス6世とプトレマイオス8世、プトレマイオス12世の時代に、神殿は12×15mに拡張され、フィラエのイシスを祀った。 ローマ帝国のアウグストゥスとティベリウス両皇帝が装飾を完成させた[2]。 現在マドリードに有るデボー聖堂 正面から見るデボー聖堂 1960年、アスワン・ハイ・ダム建設に伴い、多くの貴重な建築物が水没の危機に曝された。 UNESCOはこれらを保護するため、国際的に呼びかけを行った[3][4]。 1968年、スペインはアブ・シンベル神殿保護に協力した謝礼として、エジプト政府からデボー聖堂を寄付された。 1972年、デボー聖堂はマドリードの王宮近くのオエステ公園(英語版)に再建され、一般に公開された[5]。 門は元とは別の順番で設置された。 古代エジプト建築が残る世界でも貴重な事例であり、スペインでは唯一である。

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ハマスゲ – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2013年6月) ハマスゲ (Cyperus rotundus L.) は、乾地に生えるカヤツリグサの1種。雑草としてよく見かけられ、また薬草として利用される。 ハマスゲは単子葉植物カヤツリグサ科カヤツリグサ属の植物である。スゲと名が付いているがスゲ属ではない。乾燥したところにもよく育つ多年草である。 地下に塊状の茎を持ち、細い縄のような匍匐茎を伸ばして広がる。まばらな群落を作るが、それほど大きな集団を見ることは少ない。 根出葉をよく発達させる。葉は細くて長く、それほど硬くはなくてざらつかない。幅は2-6mm。先端はゆるやかに垂れる。主脈の両側に膝があって断面は浅くM字状。深緑で非常に強いつやがある。 初夏から秋にかけて花茎を出す。花茎はまっすぐに立ち、やや細くて深緑、やはり強い照りがある。その先端に花序を付け、基部の苞は3枚ほど、長いものは花序より長いが、あまり目立たない。花序は1回だけ分枝する。小穂は線形で長さ1.5-3cm程度、互いにやや寄り合って数個ずつの束を作る。小穂の鱗片は血赤色で艶があるが、やや色が薄い場合もある。果実は鱗片の半分程度。 雑草として畑地に生えることも多い。根茎や匍匐茎を持つので引き抜きにくい上に根絶が難しく、その点ではやっかいであるが、背は高くならないので庭などではそれほど邪魔にはならない。 生育環境と分布[編集] 乾燥に強く、日ざしの強い乾いた地によく成育する。砂浜にも出現し、名前もこれによるものであるが、実際には雑草として庭や道端で見かけることの方が多い。強い日射や乾燥にも強く、舗装道路の路傍にもよく出現する。時にはアスファルトを突き破って生えているのを見かける。 本州から琉球列島にかけて、国外では世界の熱帯から亜熱帯域に広く分布する。 薬草としては古くからよく知られたもので、正倉院の薬物中からも見つかっている。生薬としては香附子(こうぶし)と呼ばれ、秋から翌春にかけて肥大した根茎を掘り取って乾燥させたものを用いる。漢方では芳香性健胃、浄血、通経、沈痙の効能があるとされる。成分としては精油0.6-1%を含み、これにはα-キペロン、キペロール、インキペロール、キペレンなどが含まれる。現在は主として中国、韓国、北朝鮮、ベトナムからの輸入によっている。香蘇散、女神散などの漢方方剤に配合される。 2000年前にスーダンで暮らしていた人々の遺骨の分析から、当時の人々はハマスゲを食べていたことがわかった。また、彼らは驚くほど健康な歯を持っており、それはハマスゲの抗菌作用による可能性があることが示唆された[2] カヤツリグサ属で本土において同様な場所に出現する種としては、カヤツリグサ、イヌクグ、クグガヤツリなどがあるが、これらは根出葉がそれほど発達せず、また小穂もそれほど色づかないので、形も見かけもかなり異なる。八重山には類似のスナハマスゲ (Cyperus stoloniferus Retz.)

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浪川睦会 – Wikipedia

浪川睦会 設立 2006年7月29日 設立者 村神長二郎(朴植晩) 本部 福岡県大牟田市上官町2-4-2 首領 浪川政浩(朴政浩) 構成員数(推定) 約250人(2014年) 敵対組織 四代目道仁会 浪川睦会(なみかわむつみかい)は、福岡県大牟田市上官町2-4-2に本部を置く指定暴力団。構成員は、約250人(2014年)。 九州誠道会 2006年5月、二代目道仁会理事長二代目松尾組組長大中義久(松尾義久)は、三代目道仁会会長に襲名した。 2006年5月、二代目道仁会副理事長三代目村上一家総長村神長二郎(朴植晩)は、三代目道仁会の跡目争いに伴い、離脱した。 2006年7月29日、九州誠道会を結成して、九州誠道会会長に襲名した。 2007年6月13日、佐賀県佐賀市の福所江川の船着き場で、九州誠道会系組長鶴丸善治の刺殺体が発見された。 2007年6月19日、熊本県熊本市の自宅で、九州誠道会系組員入江秀則は、射殺された。

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エドワード・スタンリー (第11代ダービー伯爵) – Wikipedia

第11代ダービー伯爵エドワード・スタンリー(英: Edward Stanley, 11th Earl of Derby、1689年9月27日 – 1776年2月22日)は、イギリスの貴族、政治家。 ダービー伯爵家の分家スタンリー准男爵家の生まれだったが、1736年に本家が絶えたためダービー伯爵位を継承した。 1689年9月27日、ビッカースタッフ(英語版)荘園の地主である第4代准男爵サー・トマス・スタンリー(英語版)とその妻エリザベス(旧姓パッテン)の長男として生まれた[1][2]。 1714年5月に父の死により第5代准男爵位を継承し、同年9月にラフォード荘園の地主ロバート・ヘスキスの娘エリザベスと結婚した[3][1]。1723年にはランカシャー長官(英語版)に就任した[1]。1727年から1736年にかけてランカシャー選挙区(英語版)から選出されてホイッグ党所属の庶民院議員を務める[1]。政治派閥的にはサー・ロバート・ウォルポール首相に反対する所謂「愛国派」に属したが、彼は政治活動よりもランカシャー南部地主としての社交活動をもっぱらとしていた[3]。 1736年に第10代ダービー伯爵ジェームズ・スタンリーが死去し、本家筋のダービー伯爵家が絶えた。系図を大幅にさかのぼった男系傍流である彼が第11代ダービー伯爵位を継承し[注釈 1]、貴族院へ移籍した[6]。 1742年にはランカシャー知事(英語版)に就任した[1]。名誉革命で国を追われたステュアート朝国王ジェームズ2世の孫チャールズ・エドワードが1745年9月にジャコバイト派(反名誉革命派。ステュアート朝復位派)やイギリスと交戦状態にあったフランスの支持を得て、ハノーヴァー朝からイギリス王位を奪還するための軍事行動を開始し、瞬く間にスコットランド首府エディンバラを占領した[7]。 ランカシャー防衛は州知事のダービー伯爵に委ねられる事になったが、1662年民兵法により州は議会の同意なしに民兵を自由に動かすことができず、しかも議会の決定は遅かったので、ダービー伯爵は武器・弾薬が敵の手に落ちないようにすることだけに専念した。11月にチャールズ・エドワード軍が南進したため、ダービー伯爵は一時ロンドンまで逃れたが、12月中にはチャールズ・エドワード軍がカンバーランド公の軍に追われて撤退を開始したため、ダービー伯爵もランカシャーに戻って再び民兵の編成にあたった。1746年5月にはカンバーランド公勝利の報告を受けて安堵の言葉を漏らしている[8]。 この頃から息子のストレンジ卿ジェームズ・スタンリー[注釈 2]が政界やランカシャーにおいてダービー伯爵をしのぐ活動をするようになり、1757年にはランカシャー知事の地位をストレンジ卿に譲ることになった。しかしストレンジ卿は1771年6月にダービー伯爵に先立って死去した。この時ダービー伯爵は81歳だったが、ランカシャーにおけるダービー伯爵家の権威を維持する必要から、彼が再びランカシャー知事に就任することになった[10]。 1776年2月22日にノーズリー(英語版)荘園で死去した。ダービー伯爵位とその財産は孫(ストレンジ卿の長男)であるエドワード・スミス=スタンリーが継いだ[11]。 1714年に地主の娘エリザベス・ヘスキスと結婚し、彼女との間にストレンジ卿ジェームズ以下1男6女を儲けた[1]。

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コラリコラ類 – Wikipedia

このページ名「コラリコラ類」は暫定的なものです。(2021年3月) コラリコラ類 分類 学名 CorallicolidaKwong et al., 2020[1] 属 Corallicola Anthozoaphila Gemmocystis コラリコラ類(コラリコラるい、corallicolid)はアピコンプレックス門に属する単細胞真核生物の一群である。コラリコラとはサンゴに棲むものという意であり、その名の通りサンゴと広義の共生関係にあるが宿主にとって有害か否かは判明していない[2]。分類学上はコラリコラ目(Corallicolida)[1]、コラリコラ科(Corallicolidae)[1]をあてる。 サンゴの隔膜糸(mesenterial filament)の細胞内に共生している。光合成能はないものの、クロロフィルの生合成系を持っており、その役割は未解明である[2]。 アピコンプレックス門のうちコクシジウム類に近縁な系統で、3属3種が記載されている以外に環境DNA中から多様な配列が報告されている。 Corallicola aquarius イソギンチャクモドキ科Rhodactis属を宿主とする。 Anthozoaphila

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三殿台遺跡 – Wikipedia

三殿台遺跡(さんとのだいいせき)は、神奈川県横浜市磯子区岡村にある縄文時代から古墳時代にかけての大規模な集落遺跡である。国の史跡。250軒以上の竪穴住居跡が見つかり、その大部分が弥生時代のものである。遺跡は現地保存されており、敷地内に復元住居や遺構の保護施設がある。また展示施設横浜市三殿台考古館があり、出土した遺物などが展示されている。 標高約55メートルの小高い台地上の住宅街の一角にある。遺跡範囲は広さ約10000平方メートルが保存されているが、既に消滅した部分を含めると本来は40000平方メートルの規模だったと推定されている[1]。 この周辺の丘の斜面に貝塚が点在していたことから、1899年(明治32年)に遺物を採集し、鳥居龍蔵と共に調査をした地元の医師、藤田清玐(せいはち)が「屏風ヶ浦岡村貝塚」として『東京人類學會雑誌』で紹介した[2]。その後小規模な発掘調査が何度か行われた。 1961年(昭和36年)、遺跡の乗る台地が隣接する横浜市立滝頭小学校岡村分校(現・横浜市立岡村小学校)の校地拡張予定地となったことで、和島誠一を主任として大規模な発掘調査が行われ、約10000平方メートルの遺跡残存部全域が発掘され、縄文・弥生・古墳の3時代に亘る集落跡が確認された[3][4]。1966年(昭和41年)に国の史跡に指定され、翌1967年(昭和42年)、三殿台考古館が開館し遺跡とともに公開された[5]。住居跡は252軒が確認され、うち8軒が縄文時代、43軒が古墳時代、残余の大部分が弥生時代のものである[注 1]。 横浜市三殿台考古館・住居址保護棟。建物周囲に並ぶ杭列は竪穴住居跡の検出地点を示したもの。 所在地・交通[編集] 神奈川県横浜市磯子区岡村町4-11-22 イベント[編集] 考古館における展示のほか、勾玉作りや弓射ち体験、土器作り体験などのイベントを年間を通して開催している。またオリジナルグッズ販売も行っている[6](横浜市埋蔵文化財センターでは通信販売[7])。 横浜出身の音楽ユニットゆずの5thアルバム『すみれ』(2003年)付属ブックレットの写真に、本遺跡内で撮影されたものがあり[8]、ゆずファンも訪れるスポットとなっている[9]。 注釈 ^ 三殿台考古館サイトでは「170軒近く」を弥生時代のものとしているが、この数字は資料によって差があり、『国史大辞典』6巻(吉川弘文館 1985年)は「縄文時代8軒、弥生時代200軒、古墳時代43軒」とし、『図説 日本の史跡』1(同朋舎出版、1991年)は「縄文時代8軒、弥生時代151軒、古墳時代43軒、不詳約50軒」とする。 出典 参考文献[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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