マキシム・マリニン – Wikipedia

マキシム・ヴィークトロヴィチ・マリニン(ロシア語: Максим Викторович Маринин[1]、1977年3月23日 – )は、ロシア出身の男性フィギュアスケート選手。2006年トリノオリンピックペア金メダリスト。2004年、2005年世界フィギュアスケート選手権優勝。身長187センチ。コーチは2001年までナタリア・パブロワ。以降はオレグ・ワシリエフ。振り付け師はスヴェトラーナ・コロル。現役時代の活動拠点はイリノイ州シカゴ。趣味は音楽鑑賞。パートナーはタチアナ・トトミアニナ。ロシア語では「マクスィーム・ヴィークタラヴィチュ・マリーニン」が近い。 1981年にスケートを始める。きっかけは両親が学校でスケート教室の生徒募集の張り紙を見たから。ただ、プロのコーチに師事するのが遅れた為に、同世代の他の選手に較べて常に技術で後れを取っていたと本人は述懐している。最終的にエフゲニー・プルシェンコの出現で彼はシングルの道を完全に諦めたという。これが1993年である。この頃、サンクトペテルブルクのクラブからペア競技に転向しないかという誘いを受けて拠点を変え、ペア競技に取り組み始める。しかし最初のパートナーとは上手く行かず、1995年にチームは解散。この年のロシア選手権会場のサマラで当時女子シングルの選手で国内選手権12位だったタチアナ・トトミアニナと出会い、彼等はチームを結成する。トトミアニナが故郷ペルミからサンクトペテルブルクに移動した1996-1997シーズンよりチームは本格的に活動を始める。 ペア転向当初はなかなか結果が伴わなかったが、2000年頃から有力チームとして認知されるようになる。2001年にはロシアから活動拠点をシカゴに移し、それにともなってコーチもワシリエフに変更している。 2002年のヨーロッパ選手権で最初の大きなタイトルを獲得(以降、引退する2005-2006シーズンまで全勝)。直後のソルトレイクシティオリンピックでは4位に食い込む。ただ、この時点では3位の申雪&趙宏博組との実力差は明らかであった。実際、2002年と2003年の世界選手権ではいずれも申雪&趙宏博組の後塵を拝して2位に終わっている。この時期までの彼等の演技について良く言われたのが、「技術的には上手いかもしれないが、これといった特徴に欠ける」という意見であった。 しかし彼等はさらにその技術に磨きをかけ、ついに2004年世界選手権では申雪&趙宏博組越えを果たして世界の頂点に到達する。この大会では申雪&趙宏博組のコンディションが今ひとつであり、両者が万全の状態で激突したわけではなかったが、彼等の進境が著しいこともまた明らかであった。 この時期を境に申雪&趙宏博組が怪我に苦しんで万全の調子を発揮出来なかったこともあり、2000年代中盤を代表するこの二つの最強チームの全盛期はほとんど入れ違いのような形になっている。続く2004-2005シーズンではグランプリ・シリーズ緒戦のスケート・アメリカでリフトを失敗してタチアナが頭部から氷上に落下という大事故を経験するも、シーズン後半には見事に復活して2005年の世界選手権も圧勝(この時のフリー・プログラムは落下事故で使ったものと同じものである)。さらに2006年のトリノ・オリンピックでも張丹&張昊組、申雪&趙宏博組の猛追を横綱相撲で押さえ込んでパーソナル・ベストの演技で優勝を勝ち取り、アマチュアのキャリアを終えた。 チャンピオンズ・オン・アイス・ツアーに参加していたが、現在はロシアに戻ってアイスショーを中心に活動している。 シングル出身である彼らは、フリー演技の際、3トウループ+2トウループというコンビネーションジャンプを飛んだ。現在でも通常ペアでは、2つのジャンプをシークエンス(ジャンプの後にステップを入れ、その後2回目のジャンプを飛ぶ)で飛ぶのが一般的。このペア以降、コンビネーションジャンプを飛ぶ組みが増えた。3トウループやトリプル・サルコウもフリー・プログラムに採り入れている。 主な戦績[編集] 詳細[編集] ^ ロシア語ラテン翻字: Maxim Victorovich Marinin

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伊藤小坡 – Wikipedia

伊藤小坡 1922年(大正11年)撮影 生誕 宇治土公 佐登 (1877-04-24) 1877年4月24日 日本・三重県宇治山田(現伊勢市) 死没 (1968-01-07) 1968年1月7日(90歳没) 日本・京都市上京区 国籍 日本 著名な実績 美人画 伊藤 小坡(いとう しょうは、本名:佐登(さと)、旧姓:宇治土公(うじとこ)、1877年(明治10年)4月24日 –

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タンゴ・ヨーロッパ – Wikipedia

タンゴ・ヨーロッパTango Europe 出身地 日本 ジャンル ロック 活動期間 1980年 – 1984年 レーベル アルファレコード(1982年 – 1983年)キングレコード(1984年) メンバー 斉藤美和子(ヴォーカル)坂口かおる(ベース)是沢淳子(ギター)石田美紀(ドラム)塚越優香(キーボード&サックス) タンゴ・ヨーロッパ(Tango Europe)は、主に1980年代前期に活躍していた5人組のガールズバンドである。 1980年12月結成。1982年、アルファレコードより『きらいDAIきらい』でメジャーデビュー。 “ミーハー・ファンキー”という新しいジャンルの音楽を目指していたという。『笑ってる場合ですよ!』『オレたちひょうきん族』(共にフジテレビ系)にも何回か出演していたことがあった。

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愛知県道143号豊橋停車場線 – Wikipedia

駅前大通り愛知県道143号豊橋停車場線 愛知県道143号豊橋停車場線(あいちけんどう143ごう とよはしていしゃじょうせん)は、愛知県豊橋市内を通る一般県道である。全線にわたって中央部に豊橋鉄道東田本線が走っている。 路線データ[編集] 1904年(明治37年)2月:豊橋停車場道が、それまでの里道から愛知県の仮定県道に編入。 1956年(昭和31年)4月14日:認定 1998年(平成10年)2月19日:豊橋鉄道東田本線が延長 2005年(平成17年)3月31日:豊橋鉄道東田本線駅前大通停留場開業 駅前大通り(豊橋市) アゼリア通り(豊橋市) この通りは、東田本線の停留所などもあり交通量が多く、豊橋市の中心街を通るため歩行者も多い。 起点となる豊橋駅を後にし、通りを進むと周りに大きなビルなどが建ち並ぶ。道路の直下は広大な地下駐車場となっている。終点となる交差点は新川停留場もある大きな交差点である。なおここから先は市道(大池通り)だが、直進を続ければ向山町を経由して市東部の飯村町に至る。 交差・接続する道路[編集] 沿線[編集] 起点付近には、地下通路と小規模の地下街がある。往時は、通行者でごった返したが、豊橋駅の橋上駅化改築でペデストリアンデッキが新設されてからは人の流れが変わって、現在は閑散としている。 関連項目[編集]

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高橋佳奈子 – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “高橋佳奈子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年4月) 高橋 佳奈子(たかはし かなこ、3月31日生)は、日本のDJ。血液型はB型。愛称はかなちゃん。新潟県立新潟南高等学校卒業。妹がいる。 BEAT COASTER〜FRIDAY EDITION〜で16:00~18:00まで新潟市にあるCOZMIXビル1Fポートスクエアにて公開生放送を行っていたが、2008年11月のポートスクエア廃止により、ポートスクエアからの公開生放送は終了した。 J’s COUNTDOWN内では、自分のことを「かなちゃん先生」と呼んでいる。そのことを、2006年12月31日にコメント出演の「Takuma」に突っ込まれていた。 2006年に挑戦したことはおかっぱである。 2007年からHPの記載が、高橋佳奈子から「タカハシカナコ」に変わっているが、改名したわけではなく、「飽きた」からだという。 J’s

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ひねりゴマ – Wikipedia

この項目では、指先で回すコマの一種である「捻り独楽」について説明しています。ゴマを指先でつぶして作る「捻り胡麻」については「ゴマ#食材としてのゴマ」をご覧ください。 この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2014年2月) 様々なひねりゴマ左はおもちゃ系・右は郷土玩具系 ひねりゴマ(捻り独楽)は、独楽を回し方で分けた場合の類型の一つ。軸を指で捻る事で回すもので、最も簡単な独楽である。 独楽を回し方で分けた場合、ひねりゴマは何の道具も使わずに回す独楽のうち、指先だけで回すものである。指先ではそう大きな力をかけられないから、独楽そのものもごく小さなものに限られる。より大きいものは、指先では回せないので、軸を手のひらに挟んでこすって回す手よりゴマかヒモを巻いて回す糸巻きゴマになる。 ひねりゴマは回すのも簡単であるが、性格上、それ以上の発展はあまりない。しかし、作るのは簡単なので、恐らく最も原始的な独楽と言っていいであろう。手作りするのも簡単である。 回転する胴体と軸がある、という程度の共通点が認められるが、形の自由度は高い。例えば紙の円盤の中心に軸を通せば出来上がる。胴がより厚い固まりであってもよいし、ドングリのように縦長であってもよい。 ただ、最低限の共通点として捻る時に指で挟むための軸の出っ張りが必要になる。これは上側に出ているのが普通であるが、後述のように下に出ていても回すのは可能である。下側の先端は少なくとも突出している方が安定して回転するが、必ずしもその必要はない。 なお、後述する空中で回す独楽についてはさまざまな異なった特徴がある。 普通のひねりゴマは上に軸が突き出しているから、これを片手の指の間に挟み、捻って手を放せば回る。後は倒れるまで見守るだけである。基本的に回転を後で追加することはできない。 また、製品としては存在しないようであるが、下側に突き出た軸を持って回すこともできる。手のひらを上に向け、指先に下側の軸をつまみ、捻りながらやや上に投げ上げるようにして手を引けば、台の上に落ちて回る。押しピンはこの方法で回して遊ぶことが可能である。 独楽の起源には諸説あるが、各地で独立に出現したものであろう。その起源としてよく考えられているものに、巻き貝とドングリがあるが、これからはごく簡単にひねりゴマが作れる。巻き貝の場合、先端部の殻を残し、殻の口の方から殻表面を壊すと、中心の軸部分が先端の円錐形の殻から突出した形となり、逆さまにすればひねりゴマになる。ドングリの場合、丸い底に軸を突き刺せば、とがった先端を下にしてよい独楽になる。ドングリなどの木の実で作られた独楽は木の実ゴマと呼ばれ、世界に広く分布している。これらが独楽の起源であろう。実際に出土したり古い絵図に見られるものはぶちゴマのほうが圧倒的に多く、ひねりゴマが見られる例はごく少ない。これは、作りが簡単すぎるためかもしれない。古代ギリシャの絵にはひねりゴマらしいものが出ている例がある。 商品としては、幼児用の小型の独楽が時折見かけられる。むしろ、駄菓子などの付録として見かける例が多いかもしれない。郷土玩具としては、回して楽しむと言うより、さまざまな意匠を凝らしたり、色や模様を楽しんだりと言う事を目的とする作品が多々ある。 子供たちは、たいてい勝手に捻りゴマを作る。例えば先のドングリのほかに、牛乳ビンの蓋やフィルムケースの蓋など芯をつければすぐに独楽になる。押しピンも独楽として使える。芯が上に抜けていないので、下から軸を持って回す。本来は独楽として考えられていないから、個体差が大きく、よく回るのを探すのが大変だが、それもまた楽しみである。同じやり方で、急須の蓋なども回せる。 独楽として使うことを想定しない商品もある。たとえば箸置きとして作られたものや、千代紙細工などで、要するに、独楽の形のものを小さく作れば大抵は捻りゴマになる。実際に回しても大抵は回る。小さいと力のモーメントは大きくならないので、多少の誤差は気にならないで、そこそこは回ってしまう。 江戸時代には、貨幣の真ん中に軸を通して回す銭ゴマというのが子どもの間で流行したと言われる。現在でも穴の開いた硬貨はあるが、これに軸を通して回す例は余り聞かない。 変わった使い方[編集] 独楽を単に回すだけでなく、他の目的で使う場合もある。力が強かったり回転が速かったりする必要があれば別だが、そうでなければひねりゴマが使われる。作りが簡単だからであろう。 たとえば賭けゴマというのがある。独楽を回して倒れた方向を当てるというものであるが、そのための独楽はひねりゴマである。また、逆立ちゴマも大抵はひねりゴマである。その他、電子部品を組み込んで、回すと光ったり音が出る例もある。このようなものは、余り派手に回ると壊れやすいため、ひねりゴマ程度がちょうどいいのかもしれない。 空中で回す独楽[編集]

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房中術 – Wikipedia

房中術(ぼうちゅうじゅつ)とは、中国古来の養生術の一種。房事すなわち性生活における技法で、男女和合の道である。 男女の交接を描いた春宮画 男同士の交接を描いた春宮画。19世紀。 房中術は古代中国から続く養生術の1つである。中国の宇宙観を表す『易経』の繋辞上伝には「易に太極あり。太極から両儀が生じた」[1]とあり、宇宙の根源である太極から両儀(陰陽)が生じたとしている。「易」という漢字は日(陽)と月(陰)を組み合わせた会意文字で、昼と夜の移り変わり、変化を表すとともに陰陽も象徴している。陰陽は陰あっての陽、陽あっての陰、一対であり両儀(連れ合い)で切り離すことができないとされる。繋辞下伝には、「男女(陰陽)の精が一つになって万物が生まれ出る」[2]と書かれており、万物の生成論を説いている。 中国の自然哲学である陰陽思想と五行思想が一体化した陰陽五行思想は、宇宙の森羅万象のあらゆる現象は陰と陽の結びつきによって成り立つと説明する。陰陽が平衡を欠けば消長盛衰し、調和すれば秩序が保たれる。天地万物の一つである人間もまた同じ陰陽の原理に従っている。一箇の人間もその中に陰陽があり、陰陽の調和があれば秩序ある生活ができ、平衡を欠けば病となる。男女においては男を陽に女を陰とする。天地万物の陰陽が調和して万物が生成されるのと同様に、男女の交わりが陰陽の規律にのっとることは、自然の理にかなうと考えられた[3]。 『漢書』「芸文志」方技略に付されている房中の解説に、房中術の要点が記されている。「楽しみに節度があれば、心は穏やかで長生きできる。おぼれて顧みなくなれば病が生じ、いのちが損なわれる」[4]。房中術には様々な性行為の技法が含まれているが、女性が十分に興奮した状態で交わること、男性は快楽に身を任せず精(精液のことではなく気の一種)を漏らさないように交わることが随所で説かれている。 本来の房中術は、性という人間の必須の行為に対して節制を保ち、おぼれることなく適度な楽しみとし、無用に精をもらさないことで身体を保養し、男女の身心の和合を目指すものであった。 1973年、中国湖南省長沙市の郊外、馬王堆三号漢墓から、大半の書名すら現代に伝わっていなかった貴重な文献が発掘された。その中には、房中術と性医学を主題にした書物が六点含まれていた。『十問』、『合陰陽』、『天下至道談』、『胎産書』、『養生方』、『雑療法』である。馬王堆から出土した文物類には、戦国の七雄、楚の特色が見られる。このため馬王堆文献の成立年代は、埋葬当時の前漢初期より古く、戦国時代と推定されているが、更にさかのぼり春秋前期(前700年頃)、あるいはそれ以前かもしれないと言われている[3]。 房中術は後漢末の張道陵の五斗米道(天師道)に取り込まれ、唐代編纂の『隋書』「経籍志」に経典が道経に属するものとされた[5]。以降、道教の不老長生のための養生術の一つにされた。 古代中国の性典のほとんどは中国では散逸したが、日本で編纂された平安時代の医書『医心方』「房内篇」には『素女経』『洞玄子』『玉房秘訣』などの中国の房中書が引かれている。葉徳輝はそれらの房中書の復元を試み、1907年に『双梅景闇叢書』として刊行した。オランダのファン・フーリックは中国古代の房中・性医学の文献をまとめ1951年に『秘戯図考』、1971年に『中国古代房内考』を出版した[6]。海外の研究や馬王堆漢墓からの古代資料の発見などを契機として、中国での学術的研究が始まったのは比較的近年のことである[3]。 房中術と儒家[編集] 『漢書』「芸文志」の「方技略」には房中八家の書、八種類が挙げられている。『容成陰道』、『務成(堯の師)子陰道』、『堯舜(堯・舜は儒家の聖人天子)陰道』、『湯・盤庚(湯は殷の初代天子、盤庚は同十九代天子)陰道』、『天老(黄帝の七輔の一人)雑子(雑多な諸子)陰道』、『天一(天乙に同じ、湯王のこと)陰道』、『黄帝(上古の聖人天子)三王(夏の禹王・殷の湯王・周の文王)養陽方』、『三家(三皇か、三皇は天皇・地皇・人皇ほか諸説あり)内房有子方』。これらの書名には人名を冠しており、そのほとんどが儒家の理想とする聖人である。 道徳的な印象の強い儒家において、房中術が結びつくのは儒家の「孝」の論理からである。『孟子』「離婁上篇」に「不幸に三あり。後(のち)無きを大となす」[7](親不孝には三つある。そのうち子孫がないというのが最も重大な不孝である)とある。儒家は子孫が絶えることは、祖先に対する祭祀が絶えることであり、父母への孝養が尽くせなくなることを意味する。そうならないためには、子をもうけることが大切であるとされ、房中術は儒家において本来は否定されるものではないとされた[8]。古代から現在に至る中国の人間関係と社会組織の基盤をなす宗族制においても、健全な嫡子を生むことが宗族のなお一層の繁栄につながることも房中術の存在する根拠の一つであった[4]。 宋代になると、儒家に理学(朱子学)という新しい哲学大系が生まれ、宇宙(天)の原理と人間の本性を究明しようとした。ところがこの理学の「存天理、滅人欲」(天の理にしたがい、人の欲をなくす)の思想は、房中術を誨淫の書とみなすようになり、それまで存在した房中書の大半は散佚していった。房中術は単に快楽だけを求める淫猥な性の技巧だと誤解を受けるようになり、一般に知られる房中術は実際にそのように変化していき、世間から影を潜めた。本来の房中術は道教のいくつかの流派に秘術として受け継がれるだけになった。理学のこの思想の社会的影響は現在にまで続き、中国ではみだらな文物に対する厳しい目が存在する[3]。 房中術と道教[編集] 『漢書』「芸文志」では医術と神仙術の中間に位置するものとして房中術は一家をなしていたが、そのあとを受け継ぐ図書目録である『隋書』「経籍志」では一家を立てておらず、付録されている道教書の解説「道経」に「房中十三部、三十八巻」と記載されており、後漢末の頃から次第に房中術を含む方術は、道教に属するものとみなされるようになっていった[4]。道教における房中術は長生術のひとつである。その目的は精を愛(お)しみ気を蓄えることで延年益寿・不老長寿を目指すことにあった[9]。 後漢から三国・晋にかけて房中術は方術の一つとして流行しており、『後漢書』には方士の伝記が集められている。そこにみられる左慈は『全三国文』(『典論』)8巻論郤倹等事[10]、曹植の『弁道論』[11]においては房中術をよくしたとされている。方士は初期道教が成立すると次第にそこに受け入れられることとなった。後漢末には最初の道教教団である太平道と五斗米道が興り、太平道はすぐに滅びたが五斗米道は方術による教化をはかった。五斗米道では房中術は黄赤の道とも呼ばれ、入信儀礼であると同時に男女陰陽の気の交流と天地の気を交わらせることによる一種の救済儀礼でもあった[4]。東晋の葛洪は『抱朴子』で不老長生の術を著し、外丹の服用に最上の価値を置いた。行気や房中術は外丹には及ばないが治病長生の効果があるとした。房中術については、人は陰陽の交わりを絶ってはならず、陰陽が交わらなくなると気が滞り病気になりやすく長生できなくなると、その効果を説いている。『抱朴子』に引かれている十種類の房中書は散佚してしまったが、その一部が馬王堆文献や日本の『医心方』と六朝期の道士である陶弘景の養生書『養性延命録』に引用されている。唐代の医家・道士の孫思邈が百九歳の時に書いたとされる医薬養生書『千金要方』は薬の処方や養生術を説いており、房中については特に四十歳以上の人には欠かせないものだとしている。その要点は、淫蕩に耽って快楽を追い求めるようなことはせず、節制して養生と体力の強化に努め、交わるには女性を心ゆくまで楽しませ補益することであると書かれている[3]。 道教内では新天師道を創始した北魏の寇謙之は房中術を否定するなど、その扱いは一様ではなく[4]、本来の意図から外れて淫猥に流れやすいことから実際にそのような行動を起こすこともあったらしく[9]、肉体を不浄として性欲に否定的な仏教側からの批判や宋代の儒家の認識の変化などの社会情勢によって、房中術は道教でも表立って行われなくなっていき一部に秘術として残るだけになっていった[3]。 房中術と内丹術[編集] 唐代以降、行気や存思などの道教の養生術から、従来の煉丹術である外丹術とは異なる内丹術という修行法が発達したが、これと房中術の還精補脳の技法との関連性を指摘する研究者もいる。房中術は陰丹とも呼ばれた[12]。

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九条兼実 – Wikipedia

この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2021年7月) 九条 兼実(くじょう かねざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の六男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。通称は後法性寺関白(ごほっしょうじ かんぱく)。五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。五摂家のうちこの3家を九条流という。 摂政・関白藤原忠通の六男。母は、家女房で太皇太后宮大進・藤原仲光の娘・加賀。同母兄弟4人の中の長子である。同母弟には、太政大臣となった兼房・天台座主となった慈円などが、また異母兄には近衛基実、松殿基房が、異母弟には興福寺別当となった信円らがいる。 兼実が40年間書き綴った日記『玉葉』は、当時の状況を知る上での一級史料となっている。 有職の公卿[編集] 久安5年(1149年)、摂政・藤原忠通の六男として生まれる。母の身分は低かったが、異母姉である皇嘉門院の猶子となり(『兵範記』保元元年正月4日条)、保元3年(1158年)には兄・基実の猶子の資格で元服、正五位下に叙せられ、左近衛権中将に任ぜられる。永暦元年(1160年)には従三位となり、公卿に列した[注釈 1]。 保元の乱で勢力を後退させた摂関家は、故実先例の集積による儀礼政治の遂行に特化することで生き残りを図ろうとしていた。皇嘉門院の庇護を受けて兼実も学問の研鑽を積み、有職故実に通暁した公卿として異母兄の基実・基房に次ぐ昇進を遂げる。長寛2年(1164年)に16歳で内大臣、仁安元年(1166年)に18歳で右大臣に進んだ。兼実は若年ながら公事・作法について高い見識を有し、特に左大臣・大炊御門経宗の作法については違例が多いと厳しく批判している。しかし、兼実の官職はこの時から20年間動くことはなく、永らく右大臣に留まった。これは欠員が出ず昇進が頭打ちになったこともあるが、所労・病悩を訴えて朝廷への出仕が滞りがちだったことも要因の一つとして考えられる[注釈 2]。 治承・寿永の乱[編集] 治承3年(1179年)11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するが(治承三年の政変)、これは兼実に思わぬ僥倖をもたらした。新たに関白となった近衛基通は公事に未練であったため、平氏は兼実にその補佐役としての役割を期待して、兼実の嫡男・良通を権中納言・右大将とする優遇策に出た。兼実は平氏から恩顧を与えられることを「生涯の恥辱」と憤慨しながらも、任官自体は九条家の家格上昇に繋がるため受諾した。公事の遂行について助言を求める基通に対しても、「故殿(基実)の深恩を思う」としてその手ほどきをしている[注釈 3]。 治承4年(1180年)の以仁王の挙兵を機に全国各地は動乱状態となり、治承5年(1181年)には清盛が死去して後白河院が院政を再開するなど情勢は目まぐるしく変転するが、兼実は特定の勢力に属さず内乱期を通して傍観者的態度を取った。この時期の兼実は右大臣の要職にありながら朝廷にほとんど出仕せず、後白河院からの諮問には明確な返答を避け[注釈 4]、摂政の基通に対しても煩わしさからか公事・作法を教示することはなくなっている。兼実は内心の不満や批判は日記の中だけに止め、それを公言したり、後白河院や平氏に正面切って対峙するようなことは決してしなかったが、貴族社会崩壊の危機に直面して苦慮している後白河院にとっては信を置きにくい存在であり、両者の関係は敵対とは行かないまでも徐々に冷却化していった。 翌治承4年(1180年)、兼実は熊野に向かう自らの護持僧・智詮に自ら書写した『般若心経』と『法華経』を託し、現状の混乱した政治を憂い、自らが権力の中枢に立った暁には「政を淳素に反(かえ)す」(『玉葉』治承4年3月20日条)、すなわち政治の刷新を図って昔のような安定した社会を回復させる決意を示した。兼実は家司でもあった清原頼業に『貞観政要』の加点を求めるなど、中国の政治書の学習に没頭する。ところが、その最中の同年の暮には平重衡による南都焼討によって東大寺・興福寺が炎上し、兼実は悲嘆することになる(『玉葉』治承4年12月28日条)。興福寺が藤原氏の氏寺であったという側面もあるものの、同年5月27日の朝議において「謀叛の証拠がない」ことを理由に興福寺への攻撃に反対(『愚管抄』巻第5)し、その後の再建に対する後白河法皇からの諮問でも再建の重要性を訴える一方で、戦乱や飢饉が解決しない中での造営は民を苦しめるだけである(『玉葉』治承5年7月13・15日条)とも説き、神仏への祈祷と徳化(=徳政)の両立と調和を訴えた。この祈祷と徳政の両立と調和によって「政を淳素に反す」という兼実の信念は以後一貫されることになる[5]。 政治の中枢から一定の距離を置く兼実が頼みとしたのは、異母姉の皇嘉門院だった。皇嘉門院は兼実の幼少の頃から親密な関係にあり邸宅も接していた。養和元年(1181年)12月に皇嘉門院が崩御すると、兼実は日記に繰り返し哀惜の情を綴っている。皇嘉門院の所領の大部分は兼実の嫡子・良通に譲られており、九条家の主要な経済基盤となった。唯一と言ってよい拠り所を失った兼実は、莫大な財力を持つ八条院への接近を図り、八条院無双の寵臣である三位局(高階盛章の女)を室として良輔を産ませ、実子のいない八条院への養子の送り込みに成功している。ただし、三位局は謀反人である以仁王の室であった女性で兼実にとっては政治的交渉相手の1人に過ぎず[注釈 5]、兼実にとって彼女が自分の子を身ごもったのは全くの想定外の出来事であったために生まれた子の扱いに困っていたところ、以仁王を失っていた八条院の意向で彼女に引き取られたとする見方もある[6]。

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ヒア・イット・カムズ・アゲイン – Wikipedia

ヒア・イット・カムズ・アゲイン(Here It Comes Again)はスパイス・ガールズのメンバー、メラニーCのセカンド・ソロアルバム、Reasonに収録されている、同アルバムからのファースト・シングルである。2003年2月24日にヴァージン・レコードからリリースされ、UKチャート最高7位をマークした。また、ロシアではチャート1位をマークした。4万枚を売り上げ、2003年の売り上げランキング190位になった。 トラックリスト[編集] “Here It Comes Again” [ラジオ・エディット] – 4:07 “Love to You” – 4:36 “Like That” –

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スパニングツリープロトコル – Wikipedia

スパニングツリープロトコル(英語: spanning tree protocol、STP)は、LAN内でループ構成を回避するためのデータリンク層の通信プロトコルである。IEEE 802.1Dで定義、および規格化されている。 本プロトコルはDECで働いていたラディア・パールマンによって発明されたアルゴリズムを基礎としている。LANを点と線によって構成されるグラフとみなし、LAN接続の一部をあえて利用禁止とすることでスパニング木を構成する。すると、木構造はループ(閉路)を持たないことから、LAN内部でのループが回避されたことになる。 STPの標準にはIEEEとDECが制定した2つの異なる規格が存在するが、コンピュータネットワークにおいて一般的に利用されるのはIEEEのものである。これらの間に互換性はなく、両方のSTPを同時に運用した場合は正常に動作しない。 スパニングツリーの必要性[編集] 本プロトコルの本質的な必要性は、LANにおけるループ構成を避けることにある。 ネットワークにおいてループ構成を構築した場合、いくつかの問題が発生する。第一に、スイッチの間でブロードキャストフレームがループすることで、ブロードキャストストームと呼ばれる現象が起き、CPUリソースと帯域幅を消費する。そして第二に、自分が発信したはずのフレームが別の場所から戻ってくる為、スイッチが行うMACアドレステーブルの学習が正しく動作しない。 本プロトコルを利用すれば、ネットワーク利用者が不用意にループを構成した場合もスイッチが自律的にループを解消し、上記のようなネットワークの不正動作を防ぐことが出来る。 また、本プロトコルは実質的な冗長化プロトコルとして使われることがある。 ネットワークデザインにおいては、重要なパスが故障した場合の代理として予備の(冗長な)リンクを作ることが望ましい。しかしある2点間の経路を複数作ると、その2点間にループが構成されてしまい、LANが正常に動作しない。ここで本プロトコルを用いることで、リンクの冗長化を実現しつつループ構成を防ぐことができる。 スパニングツリープロトコルの動作[編集] 本プロトコルは、BPDU(bridge protocol data unit)と呼ばれるフレームのやり取りによって、木構造の根となるブリッジ(ルートブリッジ)を定める。その上でさらにBPDUを交換することでルートブリッジまでの仮想的な距離をしらべ、その情報をもとに不要な経路を遮断する。 BPDUはブリッジID(ブリッジの優先度とMACアドレスで構成)とパスコスト(通信速度などを基に設定)から成り立つ。 各ブリッジはBPDUを交換し、その内部に含まれるブリッジIDの比較により、ルートブリッジを決定する。

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