越前康継 – Wikipedia

越前康継(えちぜんやすつぐ、初代:天文23年(1554年) – 元和7年9月9日(1621年10月23日))は安土桃山時代から江戸時代の越前国・武蔵国の刀工。下坂派の棟梁格で、名を相伝し幕末まで江戸幕府御用鍛冶を務めた家系である[1][2]。 初代康継の出自は判然としないが、美濃国赤坂千手院派の後裔といわれる。近江国(滋賀県)長浜市下坂が生国で[2]、下坂氏のお抱え鍛冶の下坂八郎左衛門の息子又は弟であると言われる。名を下坂市左衛門といった[3]。初期作品では「肥後大掾(大掾)下坂」の銘を刻む[2]。 慶長年間(1596年~)の初頭に越前に移り住み[1]、越前北ノ荘藩主結城秀康(徳川家康次男)のお抱え鍛冶となったと伝わる[1]。この秀康の推挙により、慶長10年か11年頃(1605-6年)[1][3](あるいはもっとくだって慶長18年(1613年)頃[2])、家康・秀忠に召されて江戸で鍛刀を命じられる。腕を認められて五十人扶持の士分待遇にあずかり[1]、家康より「康」の字を賜って「康継」と改銘[2]。葵の御紋を作刀の茎に切ることを許された[1]。ゆえに「御紋康継」、「葵下坂」と称される[2]。越前と江戸に隔年交代の勤務を命じられている。 康継本来の作風は、関鍛冶風の板目肌に湾(のた)れに互の目がまじり砂流しのかかる刃文を焼く。[1]。『駿府記』によれば元和元年(1615年)閏6月16日、二条城にて大坂城落城の際、焼身となった名物や天下の名刀類の捜索と再刃を承っている。これを機に、それらの写し物も手掛けるようになったため、相州貞宗をはじめとする相州伝の作風を学び取った影響が出ている。なお、これら写し物の多くには本多成重の所持銘のあるものが多く、彼は康継の有力な後援者であったと考えられる。 作刀に見事な彫り物のあるのが多いが、これは越前の彫刻家である喜内(紀内[4])一門による[3][5]ものである。重要文化財指定の作に、熱田神宮への奉納の葵紋の脇差で、竹と梅枝の彫り物がある作がある[6]。ほか、重要美術品の刀もある。 南蛮鉄を用いた最初の刀工だといわれ[3]、「以南蛮鉄」の添銘がみられる例が多々ある[1]。 嫡子である二代康継(正保3年2月15日年没)は名を下坂市之丞、入道して康悦[1][7]といい、旗本の水野成之や阿倍正之とも交流した六方者であったらしいが[1]、技量も確かで、将軍秀忠にその才能をめでられて江戸定住となり神田紺屋町に屋敷を褒美に与えられた[1]。作風は初代とほぼ同様で、初二代とも後世の業物の番付けにも名を連ねる。 二代康継の没後、二代康継の嫡男右馬助(のち市之丞)が若年であったためその叔父である初代康継三男の四郎右衛門の間で跡目争いが起こり[7]、「権現様御取立の家柄」ということで越前松平家の家老たちや阿倍正之らの仲介により、三代目は右馬助が江戸下坂家を踏襲(江戸三代)し、四郎右衛門が越前下坂家の分家を継ぐことになった(越前三代)。以降も江戸康継家は明治頃の十二代まで、越前康継家は幕末の九代まで続いているが、作風は新刀一般のものと大差なく、四代以降は両家とも作刀も少なく技量も劣る。 参考文献[編集] 辻本直男「家康公と越前康継」『大日光』52号、1980年。

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レーダーチャート – Wikipedia

レーダーチャートの例(食堂の評価) レーダーチャート(英: radar chart)は、複数の項目がある変量を構成比に直すことなく正多角形上に表現したグラフ[1]。中心を0とし各項目ごとに値が大きいほど外側になるよう表現する[1]。主に、それらの項目を属性としてもつ主体の性能などを比較するために用いる。クモの巣グラフ・鶏の鶏冠等ともいう。 データをプロットした後、隣同士のデータを直線で結んで作成する。結ばれた範囲内を塗りつぶす場合もある。 レーダーチャートは中心が0で全体的に値が大きいほど外側に向かって広がり、全体的に値が小さいほど中心に収束する[1]。また、バランスが取れているほどグラフの正多角形に近い形になる[1]。 類似するあるいは、相関する属性を近くに配置すると分かり易い。逆に、特定の主張をするために、単位、段階、測定値などを選択すると論理を誘導することになる。 それぞれの軸に独立性があるか、何をどういう作為できめたかの説明がないと判断を誤る可能性がある[2]。 ナイチンゲールがクリミア戦争に際して、戦死者・傷病者に関する膨大なデータの分析結果を示す際に考案したとされる[3]。 参考文献[編集] 西岡康夫『数学チュートリアル やさしく語る 確率統計』オーム社、2013年。ISBN 9784274214073。 関連項目[編集]

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京都府立女子専門学校 (旧制) – Wikipedia

京都府立女子専門学校 (きょうとふりつじょしせんもんがっこう) は、1927年 (昭和2年) 3月に設立された公立の旧制専門学校。後身は、京都府立大学。 京都府立京都第一高等女学校 (現府立鴨沂高校) 同窓会など地元の要望に応えて設置された女子専門学校。 創立時は本科 (修業年限3年) に文学科・理学科 (家政科・理科) を設置した。 新制(京都府立)西京大学文家政学部の前身である (現 京都府立大学文学部・公共政策学部・生命環境学部)。 同窓会は 「京都府立大学同窓会」 と称し、旧制・新制合同の会である。 1927年3月30日:

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旅はパノラマ – Wikipedia

『旅はパノラマ』(たびはパノラマ)は、一部日本テレビ系列局で放送されていた中京テレビ製作の旅番組である。製作局の中京テレビでは1985年4月6日[1]から2007年9月29日まで放送。 22年6か月間にわたって放送されていた名鉄グループの単独提供番組で、その殆どの期間において15分番組として放送されていた。中京テレビが十八番としているグルメ情報番組としての側面も併せ持っており、かつて存在していた番組公式サイトには、リポーターが訪れた料理店や土産物屋などに関する情報が毎回詳細に綴られていた。 なお、名鉄グループはこの番組のオンエア開始5分前まで東海テレビで放送されていた『夢のちから』も提供していた。遅れネット局においては名鉄グループの提供ではなく番組販売扱いで、CMはスポットCMのみ、あるいはローカルスポンサーを付けての放送が行われていた。 この番組は、日本初の「女性が作る女性のための旅番組」をテーマに掲げてスタートした[1]。当時はリポーターが女性であるのは勿論のこと、ロケ先へ同行するディレクター、カメラマン、照明担当、音声担当に至るまで全て女性ばかりで構成されていた。番組内でも彼女たちスタッフの映り込みがあり、また、スタッフロールの代わりに彼女たちの旅先での記念写真を映すなどの工夫を凝らしていたが、3年目からは「オール女性スタッフ」のコンセプトを解消し、以後は男性スタッフが増えていった。また、後に男性リポーターを起用するようにもなった。 番組は、放送開始から長らく土曜7:30枠で放送されていた。系列局各局で『ズームイン!!サタデー』の同時ネットが開始された頃、中京テレビは7:30から放送していたこの番組を動かせず、しばらくの間『ズムサタ』をこの時間で飛び降りていた。その際には、7:30直前に急に番組を中断するのではなく、7:25頃のCM明けに中京テレビローカルで独自のコーナー(CM前の日本テレビからのアイキャッチで取り上げた話題を中京テレビが伝える)とエンディングを設けることで出来るだけ飛び降りの違和感が生じないようにしていた。また、7:30以降の中京テレビからの中継は裏送りで行っていた。この状態は、1996年10月に番組が土曜17:00枠へ移動したことによってようやく解消した。 1998年10月からは土曜11:45枠で放送されるようになったが、番組は2003年3月に一旦レギュラー放送を終了。同年4月からは特別番組扱いになり、単発番組の放送枠である土曜10:25枠で2か月に1回ほどのスローペースで放送されるようになったが、その代わりに放送時間は55分と大幅に拡大した。特別番組と化してからはレギュラーリポーターの起用を中断し、毎回著名なタレントをゲストリポーターに迎えるようになった。2004年からは毎回片岡鶴太郎が1人の女性ゲストとともにリポーターを務める形式へ移行した。 2006年4月からは15分番組に戻り、再び元の土曜11:45枠で毎週放送されるようになったが、それから1年半後の2007年9月に番組は終了。合わせて22年6か月間にわたる放送に幕を閉じた。番組の終了後、同時間帯では同じく名鉄グループ提供の旅番組『ゴリ夢中』が放送されている。 前期の出演者[編集] 前期には、オーディションで選んだ一般女性をリポーターに起用していた。当初は3人1組での出演だったが、3年目からは輪番制で1人ずつが出演する形式へ移行した。特別編として文化人をゲストに招き、彼女たちとともに旅をさせる回もあった。その後、番組は一般女性をリポーターに起用するのをやめ、タレントを起用するようになった。 後期の出演者[編集] 後期には、毎回この中から1人が輪番制でリポーターを務めていた。この番組が何本撮りで制作されていたのかは不明だが、3週連続もしくはそれ以上にわたって同じ人物が出演するケースがよく見受けられた。なお、公式サイト上でのリポーターの扱いは、2006年3月までは「案内人」だったが、同年4月のレギュラー放送再開以後は「旅人」と表記されるようになった。 スタッフ[編集] ナレーター – 槇大輔 テーマ音楽 – 川井憲次 プロデューサー –

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野瀬泰申 – Wikipedia

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セルゲイ・ハチャトゥリアン – Wikipedia

セルゲイ・ハチャトゥリアン 基本情報 生誕 (1985-04-05) 1985年4月5日 出身地 アルメニアエレバン ジャンル クラシック音楽 職業 ヴァイオリニスト 担当楽器 ヴァイオリン この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “セルゲイ・ハチャトゥリアン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp ·

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沖縄地区税関 – Wikipedia

沖縄地区税関(おきなわちくぜいかん)は、日本の税関。沖縄県を管轄し、沖縄県那覇市に主たる事務所を置く。財務省設置法第12条第2項により「当分の間」置かれるとされている。財務省設置法上は、税関と別の組織であるが、同法附則第3項に「他の法令において「税関」、「税関長(中略)とあるのは、別段の定めがある場合を除き、それぞれ沖縄地区税関、沖縄地区税関長、(中略)を含むものとする。」と規定され、他の税関と同等の機能となっている。 組織的には、管轄が1県にとどまることもあり、他の税関のように部を置かず、次長4人[1]が他の税関の部長の役割を行っている。 琉球政府の琉球税関の流れを汲む。沖縄独自の制度である特定免税店制度を所管している。かつては観光戻税制度という独自制度を所管していた。 1886年 – 西表島(内離島)に税関出張所設置(長崎税関管轄) 1894年 – 那覇税関出張所設置 1899年 – 那覇税関出張所を那覇税関支署に昇格 1943年 – 税関官制廃止(税関と海務局を統合し海運局を設置) 1950年 – 琉球列島米国軍政府行政法務部に税関移民局設置 1951年 –

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