北条長時 – Wikipedia

北条 長時(ほうじょう ながとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府第6代執権(在職:康元元年11月22日〈1256年12月10日〉 – 文永元年〈1264年〉)である。居所から赤橋 長時(あかはし ながとき)とも称される。

六波羅探題北方・連署を務めた北条重時の嫡男。母は4代将軍藤原頼経に仕えた女房で正室の平基親(平親範の子)の娘(治部卿局)。北条氏極楽寺流の嫡家・赤橋流の祖。第5代執権・北条時頼とは義兄弟、第8代執権・北条時宗は甥にあたる。

重時嫡子[編集]

重時の次男として生まれる。重時が六波羅探題に任命されて上洛すると長時も随伴して上洛し、父の薫陶を受けながら京都で成長した。

嫡男であった異母兄の為時は嘉禎元年(1235年)10月に疱瘡にかかって重篤になり、精神的疾患を伴う後遺症も残ったため、重時により廃嫡された。このため、長時が嫡男とされた。

執権以前[編集]

宝治元年(1247年)3月27日、北条時盛の娘と結婚する。6月の宝治合戦の後の7月、父・重時は第5代執権で娘婿の北条時頼を補佐すべく鎌倉に下向し(『葉黄記』)、父が鎌倉に下向した翌日の7月18日に後任として長時が六波羅探題北方に就任した。『葉黄記』の同年6月6日条の記事として、同年5月に時頼の妹で将軍藤原頼嗣の正室であった檜皮姫が重態となったため(5月13日死去)に父の名代として鎌倉に下向していた長時から派遣された飛脚がわずか3日間で京都の重時の元に到着した、とする記述を載せている。宝治合戦があったのは6月5日のことであり、長時は鎌倉にいて合戦前夜の現地の緊迫した情勢を伝えたと推測される。重時を宝治合戦の黒幕(プランナー)とみる石井清文は、京都にいた重時が鎌倉の長時を通じて時頼や安達景盛と連絡を取り合っていたとしている。

宗尊親王の将軍擁立に当たった。親王が鎌倉に下向する際は、供奉と担当した。建長8年(1256年)に引退した父の跡を受けて鎌倉に戻り、評定衆に加わる。六波羅探題北方は同母弟時茂が就任した。同年7月、武蔵守に任官される。

執権就任[編集]

建長8年(1256年)11月22日に執権(義弟)の時頼が病のため、時頼の嫡男・北条時宗に執権職を譲るまでの一時的な中継ぎ(眼代)として長時に白羽の矢が立ち、6代執権に就任する(『吾妻鏡』)。この際、武蔵国務・侍所別当・鎌倉小町の別屋敷なども譲られている。しかし実質的な権限は病の癒えた時頼が掌握していた。1260年には赤痢のため病床に付していた宗尊親王の代理として鶴岡放生会に参列したが、長時自身、この年の末には病魔に蝕まれていた。文永元年(1264年)7月3日、病により執権職を辞任して出家、叔父の北条政村が7代執権となる。同年8月21日、浄光明寺にて35歳で死去。同寺には長時の木像と位牌が今も現存している。勅撰集に12首の歌が採録されている。

長時の家系、赤橋流は義宗、久時、守時といずれも昇進が早く、引付を経由することなく評定衆に選出されており、家格の高さは北条氏の中でも得宗に次ぐものであった。最後の執権・赤橋守時、足利尊氏の正室赤橋登子は曾孫にあたる。

長時は執権としての実権は無かったが、忠実に事務処理を遂行しており、権力欲が乏しく着実に事務処理を行なう事が出来、将来の時宗の権力継承に関して障害にならない温和な人物だったという。

※日付=旧暦

  • 1245年(寛元3年)3月29日、従五位下に叙し、左近衛将監に任官。
  • 1247年(宝治元年)7月18日、幕府の六波羅探題北方と就る。
  • 1256年(建長8年)3月29日、3月20日、六波羅探題退任。月日不詳、評定衆と就る。7月20日、武蔵守に転任。11月22日、執権と就る。
  • 1258年(正嘉2年)12月14日、従五位上に昇叙。武蔵守如元。
  • 1264年(文永元年)7月3日、出家。8月21日、卒去。享年35。

参考文献[編集]

関連作品[編集]

関連項目[編集]