火垂るの墓 – Wikipedia

火垂るの墓』(ほたるのはか)は、野坂昭如の短編小説で、野坂自身の戦争体験を題材とした作品である。兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くし、引き取り先の叔母と険悪な仲にあった14歳の兄と4歳の妹が、終戦前後の混乱の中を兄妹で独立して生き抜こうとするが、結果誰にも相手にされなくなり栄養失調で無残な死に至る姿を描いた物語。兄妹の愛情と戦後社会との狭間で、蛍のように儚く消えた2つの命の悲しみと鎮魂を表現している。

『火垂るの墓』を原作とした同名タイトルの映画(アニメーション、実写)、漫画、テレビドラマ、合唱組曲などの翻案作品も作られている。特にアニメーション映画は、戦災孤児が直面する厳しい現実を一切の妥協なしに描いたことから、戦争の酷さを後世に伝える作品として高く評価された。併せて、この映画で小道具として登場したサクマ式ドロップスも人気を博した[要出典]。日本では他にもテレビドラマ化,実写映画化が行われた。イギリスでは実写映画化が予定され、撮影は2014年から行われる[1] はずだったが、結局、実現しなかった。

発表経過[編集]

1967年(昭和42年)、雑誌『オール讀物』10月号に掲載され、同時期発表の『アメリカひじき』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。単行本は両作併せて1968年(昭和43年)3月25日に文藝春秋より刊行された。文庫版は新潮文庫より刊行されている。翻訳版はAlycia Davidson訳(英題: Grave of the Fireflies)をはじめ、各国で行われている。

作品構成・文体[編集]

文体は、関西弁の長所を生かした「饒舌体」の文体ながらも、無駄のない独特のものとなっている[2][3]

物語の構成は、冒頭にまず物語の結末部分が描かれ、駅構内で死んでいった主人公の少年の腹巻きの中から発見されたドロップ缶を駅員が放り投げると、その拍子に蓋が開いて缶の中から小さい骨のかけらが転げ出し、蛍が点滅して飛び交う。そして、その骨が少年の妹の遺骨であることの説明から、カットバックで時間が神戸大空襲へ戻っていき、そこから駅構内の少年の死までの時間経過をたどる効果的な構成となっており、印象的で自然な流れとなっている[2]

作品背景[編集]

神戸大空襲後の神戸市街

『火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)6月5日の神戸大空襲により自宅を失い、家族が大火傷で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出、1941年(昭和16年)12月8日の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。

野坂は幼児期に生母と死別したのち、神戸で貿易商を営んでいた叔母夫婦の養子となったが、前述の神戸大空襲で住んでいた家は全焼。当時14歳だった野坂は1歳の義妹とともに西宮市満池谷町の親類宅に身を寄せたり、あるいはその近くのニテコ池の南側に広がる谷間に10カ所ほどあった防空壕で過ごすなどの経験を実際にしている[4][5]

ただし、「空襲で父母をなくした」は詐称であり、養父は実際に空襲で行方不明となっていたが、養母は大怪我をしながら生きており、元から一緒に暮らしていた養祖母も健在だった[5]

野坂は戦中から戦後にかけて2人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかし西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂は、その家の2歳年上の美しい娘(三女・京子)に夢中であり、幼い妹・恵子(物語とは異なりまだ1歳6カ月で、8月22日に疎開先の福井県で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実はない[5]

野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には、兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたことを認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという[6]。西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している[7]。こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めて、野坂は『火垂るの墓』を書いた。「節子」という名は野坂の亡くなった養母の実名であり、小学校1年生の時に一目ぼれした初恋の同級生の女の子の名前でもあった[8]。「恵子」という名前を、『エロ事師たち』の主人公の義娘の名前に付けたのは、妹への思いがあったからだという[8]

野坂は妹の恵子について次のように述べている。

一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹と、虱で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。(中略)ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。 — 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」[5]

あらすじ[編集]

1945年(昭和20年)9月21日、清太は省線(現在のJR神戸線)三ノ宮駅構内で、14歳の若さで衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中にはわずか4歳で衰弱死した妹・節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げていった。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。

太平洋戦争末期、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区[注釈 1])に住んでいた清太とその妹・節子は6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の嫁で今は未亡人である兵庫県西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。

最初のうちは順調だった共同生活も戦争が進むにつれて、2人を邪魔扱いする説教くさい叔母との諍いが絶えなくなっていった。居心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出ることを決心し、近くの満池谷町の貯水池のほとりにある防空壕の中で暮らし始めるが[注釈 2]、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていった。清太は畑から野菜を盗んだり、空襲で無人となった人家から火事場泥棒し、時には見つかり殴られた上に派出所に突き出されながらも飢えをしのいだ。

ある日、川辺で倒れている節子を発見した清太は、病院に連れていくも医者に「滋養を付けるしかない」と言われたため、銀行から貯金を下ろして食料の調達に走る最中に日本が降伏して戦争は終わったことを知った。清太は日本が敗戦し、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。戦後の物不足の中、清太はやっとの思いで入手した食べ物を節子に食べさせたが既に手遅れとなっており、節子は終戦から7日後の8月22日に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を去る。その清太もまた栄養失調に侵されており、身寄りも無いため三ノ宮駅に寝起きする戦災孤児の1人として野垂れ死に、死体は他の死亡した30人の死体と共に荼毘に付され、無縁仏として納骨堂へ収められた。

直木賞の選評[編集]

『アメリカひじき』と一緒に受賞し、選考委員の評価は総じて高いもので、反対派はいなかった。

海音寺潮五郎は、「大坂ことばの長所を利用しての冗舌は、縦横無尽のようでいながら、無駄なおしゃべりは少しもない。十分な計算がある。見事というほかはない」と評し[3]、「後者(火垂るの墓)の結末は明治調すぎて、古めかしすぎて乗って行けなかったが、自伝的なものがありそうだから、こうせざるを得なかったのであろう」と述べている[3]

水上勉は、「出来がよく、野坂氏の怨念も夢もふんだんに詰めこまれて、しかも好短篇の結構を踏み、完全である。感動させられた」と述べ[3]、松本清張は、「私の好みとしては『アメリカひじき』よりも『火垂るの墓』をとりたい。だが、野坂氏独特の粘こい、しかも無駄のない饒舌体の文章は現在を捉えるときに最も特徴を発揮するように思う」と評している[3]

川口松太郎は、「直木賞作家の本命とはいい難く、君の技量は逆手だ。文章のアヤの面白さに興味があって事件人物の描写説得は二の次になっている」とし[3]、「野坂君が独特の文体の上に、豊かな内容をもり込む作家になってくれたらそれこそ鬼に金棒だ」と助言をしている[3]

大佛次郎は、「この装飾の多い文体で、裸の現実を襞深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背向けていない」とし[3]、「作りごとでない力が、底に横たわって手強い」と評している[3]。柴田錬三郎は、「さまざまの話題をマスコミにまきちらし乍ら、とにもかくにも、文壇へふみ込んで来たその雑草的な強さは、敬服にあたいする。私は、『火垂るの墓』に感動した。劇作者的文章が、悲惨な少年少女の最後を描いて、効果をあげたことは、われわれ実作者に深く考えさせるところがあった」と高い評価をしている[3]

アニメ映画[編集]

火垂るの墓』(ほたるのはか,英題:Grave of the Fireflies)は1988年に公開されたスタジオジブリ制作の日本のアニメーション映画で高畑勲監督の長編アニメーション映画第6作。雑誌『オール讀物』に連載していた野坂昭如の同名小説(『火垂るの墓』)を原作とする。

ストーリーは概ね原作同様であるが、多少の差異がある。清太の死が冒頭で描かれ、幽霊になった清太の「僕は死んだ」というナレーションから始まってカットバックしていき、神戸大空襲から清太が死地となる駅構内へ赴くまで原作の構成をほぼ忠実になぞっているが、後半部分の演出、特に節子の死のシーンの描写(原作では清太が池で泳いでいる間に死んでいる)や、冒頭で現代の三宮駅から過去の三宮駅に切り替わるところやラストで現代の神戸の街のシルエットに繋がる構成などはアニメオリジナルであり、幽霊となった清太が自分が死ぬまでの数カ月間を現代まで繰り返し見ていることやこれが心中物であるのが冒頭だけでわかるように緻密に計算されて描かれている。

作中で画面が赤くなる時は、清太と節子の幽霊が登場し近くで見ており、記憶を何度も繰り返し見つめていることを意味し、阿修羅のように赤く演出されている[10][注釈 3][注釈 4][注釈 5]。ただしアニメ絵本ではこの部分は大幅に省略され、ラストで現代の神戸の街を見ている2人が赤い状態の幽霊であることを示唆する場面があるのみである。アニメ絵本は概ね映画本編を忠実になぞっているが、唐突に出てきたセリフ・行動・場面など説明がなされている。

上映データ[編集]

公開日
上映時間
1988年(昭和63年)4月16日 日本の旗 日本 88分26秒19コマ
サイズ カラー ワイド
上映スクリーン数 東宝洋画系129館
制作期間 1987年2月1日 1988年4月11日
作画枚数 5万4660枚
使用色数 304色
キャッチコピー 4歳と14歳で、生きようと思った」、「忘れものを、届けにきました
同時上映 「となりのトトロ」

製作の経緯[編集]

本作は、1988年(昭和63年)の公開時、宮崎駿監督作品『となりのトトロ』と同時上映されているが、先に企画された『となりのトトロ』は、当初、60分程度の中編映画として企画されており、単独での全国公開は難しかった[11]。そこで鈴木敏夫の発案として同時上映作品として高畑勲監督作品『火垂るの墓』の企画が決定したという経緯が伝えられている。

最終的に、両作とも上映時間は90分近くなり、長編2本体制で公開された。アニメ映画界の二大巨頭の代表作、しかも作風も物語も印象も全く相反する内容の作品を一緒に観ることができたが、当時としてみれば地味な素材であった上、東宝宣伝部が消極的だったことや[12]、高畑・宮崎両監督の一般的な知名度も現在ほどではなく、公開日が春休み後の中途半端な時期でもあったため、配給収入は5.9億円と伸び悩んだ。評論家からは好評で『キネマ旬報』誌の日本映画ベストテンでは6位に食い込んでいる。

両映画の制作はスタジオジブリで同時に進行した。東映動画でも長編作品を2本同時進行したことはなかったといい、高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった[13]。特に揉めたのが作画監督の近藤喜文の処遇であった。結果として宮崎側が新しく参入したスタッフを中心に制作したのに対し、高畑側は近藤や美術監督の山本二三など旧知のベテランを集めた。高畑は後年の回想で、近藤を獲得することが(人材面での)「最優先、いや絶対的な課題」であったと述べ、それ以外のメンバーについては自ら勧誘には動かなかったとしている[14]

当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『となりのトトロ』の時間も延び[15]、結果的に長編2本の同時進行となった。しかし、彩色の作業がどうしても公開までに完了しないことが判明する[14]。高畑は、大幅なカットで破綻させることなく観客の鑑賞に堪える方法を百瀬義行とともに検討し、「『演出意図』としての必然性が感じられれば、見る人に受け入れてもらえるのではないか」という「苦肉の策」で、1988年(昭和63年)4月の公開時点では清太が野菜泥棒をして捕まる場面などを色の付かない白味[注釈 6]・線撮り[注釈 7]の状態で上映することとなった[14]。これらの箇所は公開後も制作を続け、後に差し替えられている。鈴木敏夫によると、公開が間に合わないという話になった際、高畑は同様に未完成版を公開したポール・グリモーの『王と鳥』(『やぶにらみの暴君』)のように未完成になった経緯の説明を冒頭に付けて公開する提案をして、鈴木がそれを断ると、2箇所彩色が抜けることを明かし、鈴木はその状態での公開を承諾したという[16]

わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑勲はいったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて1991年(平成3年)に『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰することになる(おもひでぽろぽろも本作と同じように過去の思い出しである)[17]

徳間書店社長・徳間康快の要請を受け、野坂の原作小説を文庫として販売している新潮社が『火垂るの墓』の出資・製作となっている。新潮社がメディアミックスで映像製作に携わる初めてのケースとなった。こうした経緯もあって、ビデオやLDは徳間系列ではないパイオニアLDCから発売され、その後リリースされたDVDも、ジブリ作品としては例外的にワーナーの扱いとなっていた[注釈 8]。また、2020年からNetflix(アメリカと日本を除く世界約191カ国)とワーナーメディア系のHBO Max(アメリカ)にて順次開始されたジブリ作品の定額制動画配信サービスでも当作品のみ除外となっている[18][19][20][21]

監督の意図[編集]

高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが(「決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた」とも[22])、反戦アニメと受け取られたことについてはやむを得ないだろうとしている。高畑自身はこの映画を心中物として描いており「戦争の悲惨さを出すんだったらもっと激しくやらなければおかしいんじゃないか。」と述べている[23]。高畑は、兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものであると解説し、特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたいと語っている[24][25]。また、「当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代。清太はそんな全体主義の時代に抗い、節子と2人きりの『純粋な家族』を築こうとするが、そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と述べている[26]

時代描写[編集]

高畑勲のリアリズム志向により、1945年(昭和20年)当時の風景が忠実に再現された[注釈 9]。作画に参加した庵野秀明が、神戸港での観艦式(清太の回想)の場面の軍艦(高雄型重巡洋艦「摩耶」)を出来るだけ史実に則って描写することを求められ、舷窓の数やラッタルの段数まで正確に描いたという逸話が残されている。もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わった[27]

作中に登場するB-29の1機、第500爆撃団第883飛行隊所属機「スパイン・シュー」とその搭乗員

劇中の空襲の描写についてもリアリズム志向は徹底されており、高畑は自身が1945年6月29日の岡山大空襲を経験していたので、そのときの記憶が劇中の空襲の描写に活かされている[28]。また、神戸大空襲で神戸を焼き払ったアメリカ軍爆撃機B-29についても、空襲のシーンで登場するテールマーク「Z」のB-29はサイパン島に配置されていた第500爆撃団第883飛行隊の所属機であるが、機体番号が確認できる6機は、「41」機(愛称マイプライドアンドジョイ)、「42」機(愛称スパイン・シュー)、「44」機(愛称なし)、「47」機(愛称なし)、「50」機(愛称ファンシーディティール)、「51」機(愛称テイルウィンド)で実在の機体であった。高畑はB-29がどの方向から神戸に侵入してきたかなどを徹底的に調査してこのシーンを描かせており、実在機を描いたのにも高畑のリアリズムへの強いこだわりを感じられるが[29]、実際の史実ではこの日出撃していたのは「41」(マイプライドアンドジョイ)機、「42」(スパイン・シュー)機、「50」(ファンシーディテール)機、「51」(テイルウインド)機であり、「44」機は1944年11月29日の東京市街地への夜間空襲で、単機で東京市街地に突入したが帰路に行方不明となって、機長ハロルド・M・ハンセン少佐以下11名が戦死して以降は欠番となっており、「47」機は出撃していない。次の爆撃任務となった2日後の6月7日の大阪大空襲では「47」機も出撃している[30]。ちなみに6月5日の神戸大空襲では530機のB-29が空襲に参加したが、日本陸軍航空隊飛行第111戦隊の五式戦闘機13機が迎撃してB-29を5機撃墜6機撃破を報告している。アメリカ軍の記録でも11機のB-29を損失し、うち3機が日本軍戦闘機により撃墜、3機が日本軍高射砲で撃墜、3機が戦闘機と高射砲協同で撃墜、1機が損傷が大きく硫黄島で墜落、1機が原因不明の損失と記録されており、飛行第111戦隊の報告と符合する。この日がB-29が一回の出撃で10機以上の損失を被った最後の日となった。

登場人物の会話は関西出身の俳優や声優を起用したネイティヴな関西弁である。「キイキ悪い(体調が悪い、病気の意)」、「(二本松の)ねき(脇、近くという意味)」などといった現在ではほとんど使われることがなくなった古い表現も、原作小説のままに使用されている。ただし、いわゆる神戸弁ではなく、大阪弁に近い言い回しに統一されている点が異なる。

キャスト[編集]

公開当時、清太の声を担当した辰巳努は16歳1カ月、節子の声を担当した白石綾乃は5歳11カ月で、共に作品舞台と同じ関西地区の出身者である。清太、節子の母の声を担当した志乃原良子も大阪出身であり、他にも、同じ関西が舞台である高畑勲の作品『じゃりン子チエ』に出演経験のある山口や表淳夫も含めた関西出身の俳優が多数出演しており、本職のアニメ声優はほとんど起用されていない。

清太
声 – 辰巳努
本作の主人公。14歳(旧制中学3年)。
劇中で、通っていた神戸市立中(旧制)は空襲で全焼したことが清太により言及。家も焼け出され、母も死去し、幼い妹・節子と共に西宮の親戚の家に行くが、叔母と折り合いが悪くなり自由を求めて節子と共にその家を出る。衰弱する節子に食べ物を与えるため盗みをするなど必死になるが、栄養失調で節子を失い、1945年(昭和20年)9月21日夜、清太自身も三ノ宮駅構内で栄養失調のため衰弱死した。同時に節子の遺骨が入ったドロップの缶は駅員に放り投げ出されていった。
アニメ映画では死の直前、意識が朦朧としても節子のことを考えていた[注釈 10]。節子の死後は添い寝をするときも火葬する際にも無表情なのは清太の人間性の消失を描いており、食べ終わった雑炊やスイカがアップになるシーンは清太が食べたという証拠であり、煩わしさが消えたことで「ああ、もう、世話をしなくていいんだ」と内心ホッとしたためである。[34]
盗みを始めた理由についてアニメ絵本では節子が病気になりかかっているので「なんとかしなければならないと思ったため」という記述がある。
節子
声 – 白石綾乃
本作のヒロイン。4歳。清太の妹。
母の言葉や着物のことを覚えている[注釈 11]
清太から母が亡くなったことは聞かされず、病院に入院していると誤魔化されていたが、中盤で、実は叔母から母が既に亡くなったことを聞き、知っていたことが判明する。栄養失調から来る衰弱のため体に汗疹や疥癬ができ、髪には虱がつき、何日も下痢が続いていた。その影響で徐々に目も虚ろになり焦点もあっておらず、死の直前は清太の言葉もほとんど通じていなかった。この際、おはじきをドロップと思って舐めたり、石を御飯だと勘違いするほど思考力が落ちていた。スイカを食べた後、目を覚ますことはなく息を引き取った。彼女の遺体は清太によって大事にしていた人形、財布などと共に荼毘に付され、遺骨はドロップの缶に納められた。
ドロップが好きで、手持ちを全て食べつくし、衰弱し何を食べたいかを聞かれ最後に「またドロップ舐めたい」と語っていたが叶うことはなかった。アニメ絵本で清太は節子を荼毘に付す直前、「もう一度ドロップ舐めさせてあげたかった」と述壊している。モデルは、戦時中に栄養失調で亡くなった原作者の妹である。
なお節子役を演じた白石は「節子と同年輩で関西弁の子役」という監督の要望で起用され、マネージャーから口伝えにセリフの指導を受けプレスコで収録を行った[35]。志乃原は白石について「本当にいい子でした」と述べている[36]。また辰巳努は「あの子のおかげでだいぶやりやすかった。あの子の声やから、最後の節子が死にそうになるところで、思わず素直にセリフが出てしまったのかもしれません」と述べている[35]
清太・節子の母
声 – 志乃原良子
兄妹の母親。心臓が悪い(原作においては節子を出産した後に心臓病を患ったと説明されている)。気立てのよい、上品な美人。
2人より先に防空壕に行こうとしていた際に空襲に被災、全身に大火傷を負い重篤となる。包帯も取れない状態で、腕の一部が焼け蛆虫がついており、清太が駆けつける直前に昏睡状態に陥り、そのまま死亡。
清太は節子に真実を話すことができず、「西宮の回生病院に入院している」ことにしている。なおアニメ映画では、清太は母の遺骨を納めた箱を叔母の家についた直後に庭に隠した。原作では棚の上の戸袋に隠し、中盤で母の死が節子に知れてからは、母の遺骨は布引町近くの春日野墓地に埋葬されていると節子に告げ、まだ防空壕の中にあるにもかかわらず清太はそういう希望を語っている。清太が持っていた7,000円の貯金は「母がもしもの時のために銀行に預けてくれていたものである」と劇中では言及。
なお、清太が泥棒で捕まり、殴られた際に節子が清太にかけた言葉は、原作では「母の口調」とあり、アニメ絵本では「母が昔、節子が泣く度に言った台詞」と書かれている。母親の登場シーンは事実上、冒頭のみで後は回想シーンなどで登場する。清太が回想した母と節子と海に行った場面は劇中では特に説明がないが、アニメ絵本や原作の記述によると1年前の出来事とされている。
清太・節子の父
兄妹の父親で海軍大尉。戦争に出征しているため、劇中では写真と回想シーンでのみ登場する。モデルは野坂の実父とされる。
清太は昔、父の観艦式を見たと言及しており、節子が生まれる前から海軍にいたことが示唆されている。この観艦式は、原作では1935年(昭和10年)10月となっている。戦争に出征してからは清太が手紙を出しても連絡が着かなくなっていたが戦争終了後、父の乗った連合艦隊は全滅していたことが判明する。なお、父が乗り込んだとされる高雄型重巡洋艦摩耶は1944年(昭和19年)10月のレイテ沖海戦でフィリピンのパラワン水道において米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没している。ただし769名(士官47名、下士官兵722名)が救助されていることから、本当の生死は不明である。また、特にネットでは彼が摩耶の艦長であるとする言説が散見されるが、劇中でそのことを裏付ける内容は一切示されていない。
設定資料では帽子を取った姿や、着物姿も描かれている。
親戚の叔母さん
声 – 山口朱美
西宮在住。清太と節子を一時的に引き取る。
当初はうまくいっていたが、次第に諍いが絶えなくなる[注釈 12]
原作では「未亡人」「小母さん」と表記され、清太の父親の従弟が夫だった。清太と節子を預かることは清太の言及によると約束になっていたようであり、叔母の言動から母も叔母の家に疎開する予定だった模様。原作ではお互い空襲で家が焼けたら身を寄せ合う約束だったと記され、アニメ絵本でも、状況によっては叔母が清太達の家に疎開する可能性も示唆されている。勝手に出て行ったのは清太達で叔母は直接的に追い出す言動は取っていないが、引き止めもせずにせいせいし、原作では、2人を疫病神と呼び、「横穴へ住んどったらええ」と言っている。
叔母さんの娘
女学生。三つ編みの清楚な風貌の少女。節子に下駄をプレゼントする。
母が自分達の食器にだけ雑炊をまともに盛ったのに対し、清太と節子にはほとんど雑炊の汁しか与えなかった際は、居心地の悪そうな素振りを見せる描写がある。
叔母宅の下宿人
学生。眼鏡をかけた、真面目そうな青年。
劇中で名前は呼ばれておらず絵コンテ集で確認できる。
叔母に愛想を尽かされ庭で煮炊きする清太と節子を見て、気の毒がる素振りをするが、下宿人という立場からか積極的な擁護まではしなかった。叔母のセリフでは勤労奉仕に熱心に参加している模様。原作では、家には娘と、商船学校[注釈 13]在学中の息子・幸彦と、神戸税関に勤めている下宿人がおり、下宿人は闇の食料ルートに詳しく缶詰などを持ってきて、叔母の娘の気をひこうとしている。

スタッフ[編集]

音楽[編集]

挿入歌[編集]

「埴生の宿」(原題「Home Sweet Home」)
作詞 – ジョン・ハワード・ペイン / 作曲・編曲 – ヘンリー・ローリー・ビショップ / 歌 – アメリータ・ガリ=クルチ
日本盤発売元 – BMGビクター株式会社

賞歴[編集]

テレビ放映[編集]

日本テレビ系列(一部の局を除く)で放送の『金曜ロードショー』で1989年と1990年に2年連続で放送した後、1993年以降は2年に1度(奇数年)[注釈 14]、8月の終戦の日前後[注釈 15]にこの作品を放映していた。2009年に放送された後、2013年11月22日に高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』公開記念で約4年ぶりに放送された[39]。本作はジブリ唯一の戦争作品[注釈 16]であるため、基本的には8月中に放送されるが、9・11・13回目は8月以外に放送された[注釈 17]。このうち、11回目の放送は11月であり、特別の理由もなく夏以外の時期に放送された唯一の例外である[注釈 18]。戦後70年にあたる2015年には、終戦の日前後としては6年ぶりとなる8月14日に放送された[40]。3年ぶり13回目の放送である2018年は、4月5日に逝去した高畑の追悼特別番組として同月13日[41][注釈 19]に放映された。

視聴率[編集]

  • 数値はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。
回数 放送日 視聴率 備考
1 1989年8月11日 20.9%
2 1990年8月17日 10.7%
3 1993年8月13日 14.5%
4 1997年8月8日 19.1%
5 1999年8月6日 18.8%
6 2001年8月10日 21.5%
7 2003年8月22日 15.1%
8 2005年8月5日 13.2%
9 2007年9月21日 7.7%
10 2009年8月14日 9.4%
11 2013年11月22日 9.5% 『かぐや姫の物語』公開記念放送
12 2015年8月14日 9.4%
13 2018年4月13日 6.7% 高畑の追悼放送[注釈 20]

反響・評価など[編集]

原作者の野坂は、映画公開前年に発表した文章「アニメ恐るべし」の中で、「いわゆるアニメの手法で飢えた子供の表情を描き得るものかと、危惧していたのだが、これはまったくぼくの無知のしるし、スケッチをみて、本当におどろいた。(中略)ぼくの舌ったらずな説明を、描き手、監督の想像力が正しく補って、ただ呆然とするばかりであった」とその緻密さに驚き、場所も含めたその描写によって自分が「眼をそむけつづけてきた」過去と「今は、少し正直に向き合っている」と記している[42]

『となりのトトロ』のような楽しいアニメを見ようと映画館を訪れ、楽しいトトロを見た後に『火垂るの墓』を見て、衝撃を受ける、涙が止まらない、茫然自失で席から立ち上がれない観客が続出したという[43][注釈 21]。そのため、「上映の順番を逆にしてくれればよかったのに」という声も少なくなかった。

舞台となった西宮市の西宮回生病院、香櫨園浜・夙川駅・夙川公園、ニテコ池(貯水池)、神戸市の御影公会堂や御影小学校、石屋川などを、モデルとなった場所を訪ねる人は絶えず、地域史研究の一環として地元の教育委員会が見学会を催すこともある[注釈 22]

日本で「ジブリがいっぱいCOLLECTION」シリーズとして発売されたセルビデオは、40万本を出荷した[44]。海外でも多く視聴されており、英国の映画雑誌『エンパイア』誌が発表した「落ち込む映画ベスト10」の第6位にランクインされた。

黒澤明は『火垂るの墓』を見て感動するが、宮崎駿監督の作品と勘違いしてしまい、宮崎に賞賛の手紙を送っている。受け取った宮崎は複雑な顔をしたという[45]。ただ、一番好きだというわけではなく、最近の作品の中ではよかったということで褒めていたのだと、娘である黒澤和子が語っている。

日本国外ではベネット・ザ・セージのオンラインレビュー[46] を元に高畑勲の悪評も様々なサイトで事実として広められている[47][48][49]。その内容は、高畑がバブル景気でゆたかに暮らしてる若者を憎み、反抗行為を罪悪感で捻じ伏せ年長者の言いなりにさせようと戦争時代の苦しみを見せ、全ての責任を若い主人公に被せるよう被害者の野坂昭如を唆しその物語を書換えたなど、ネガティブ・キャンペーンも含んだ個人仮説である。この他、DVDコラムニストのジョシュア・クラインは、本作を子供だけのものと思われがちなアニメを高度な芸術に仕上げた作品であると評しており、また、アニメが生身の俳優を凌ぐ場合もあることを、本作が証明しているのも述べている[50]

韓国では、他の多くのジブリ作品が上映済みの中、「日本は戦争加害国なのに、戦争被害者を装うための映画だ」として、反日感情の高まりとともに当初2005年の上映予定が無期限延期となり、2014年になってようやく上映された[51]

関連商品[編集]

作品本編に関するもの[編集]

映像ソフト
出版
音楽
  • 火垂るの墓 イメージアルバム徳間ジャパンコミュニケーションズ(1997年4月5日)TKCA-71115
  • 火垂るの墓 サウンドトラック 徳間ジャパンコミュニケーションズ(1997年4月5日)TKCA-71116

外部リンク[編集]

1995年(平成7)年の10月から11月にかけて戦後50周年特別公演として舞台化された。

キャスト[編集]

ほか

スタッフ[編集]

会場[編集]

テレビドラマ[編集]

終戦60年スペシャルドラマ『火垂るの墓―ほたるのはか―』として2005年(平成17年)11月1日の火曜日21:00 – 23:54に日本テレビ系で放送された。

「ドラマ・コンプレックス」第一弾番組でもある。

撮影は当時の風景を可能な限り再現するために、神戸周辺のみならず日本各地をロケして行われた。視聴率は21.2%を記録した。アニメでは描写されなかった部分(清太達の名字、父親がいかにして戦争に出掛けたか、叔母が清太達を引き取ることになった経緯、清太が通う学校描写)が描かれた。本編のDVDは2006年(平成18年)2月22日発売された。

ドラマ版の製作に当たって、野坂昭如は「ドラマは、原作を離れて自由である。ぼくの小説が戦後60年経った現在、違う形となり、今を生きる人たちに、戦争の惨たらしさを少しでも伝えられれば、原作者として有難いこと」とのメッセージを寄せている。

番組終了後、「このドラマはフィクションですが、世界中には今も清太や節子のように戦火の中に暮らしている子供たちが数多くいます。」と視聴者にメッセージを寄せている。

キャスト(ドラマ)[編集]

横川家[編集]

原作では設定のなかった学校が、エリート進学校である神戸一中(野坂昭如が当時在学していた神戸市立中とは異なる)に設定された。
アニメ映画と同様駅員に節子の遺骨が入ったドロップの缶は放り投げ出されるが、久子に拾われ、なつが形見として所持する事になる。
アニメ映画とは違い、人形や財布等はなく、そのまま遺体は清太によって荼毘に付された。
清太と節子の父で、海軍大佐[52]
1943年夏、出征の際、息子の清太に自分の代わりに大黒柱として母の京子と妹の節子を守り抜くよう言い聞かせた。
終戦後、実は既に死亡していたことが判明する。
清太と節子の母。

澤野家[編集]

親戚の叔母。源造の妻、なつ、はな、ゆき、貞造の母。半年前に嫁ぎ先の源造の実家を空襲で失い疎開してきた。
京子とは、従姉妹同士で[53]清太、節子(横川兄妹)の従姉妹おばにあたる。
京子に頼まれ清太と節子を預かり当初は好意的に接していたが、帰りを待っていた源造が戦死し清太達が持ってきた食料を自分の子供たちに与える為諍いが絶えなくなっていき、なつには「鬼」と比喩された。
終戦後は肩の荷が下りたのか、節子の遺骨が入ったドロップの缶をせめてもの供養と持ち帰り、なつに託している。
番組の冒頭2005年(現代)では 源造の戦死から満60年、久子は95歳と言う大往生を迎えて死去し、通夜 葬儀・告別式の後 久子の遺体は火葬場にて荼毘に付され火葬、なつ達遺族らによって遺骨が拾われた。
久子の夫、大工。なつ、はな、ゆき、貞造の父。
疎開先で赤紙が届き、1943年夏、「必ず生きて帰ってくる」と家族に伝え出征。その後、1945年にソルモン諸島のルバング島で玉砕し、利之により戦死通告が届く。
仕方なしとはいえ、なつに「鬼」と比喩されるまで久子の性格を歪ませた張本人である。
源造と久子の長女。
清太と節子死後、形見であるドロップの缶は60年後まで所持する事になる。
横川兄妹及びなつ本人や自身の妹弟(はな、ゆき、貞造)とは又従兄弟同士にあたる[54]
源造の末弟で、なつ、はな、ゆき、貞造の叔父。足が悪く杖を使用している。
終戦後、老人に絡まれている清太を助けた後、久子に貯金を取り上げられそのまま家を後にする。
源造と久子の次女。
澤野四姉弟の中で唯一、久子の葬式に参列していない。
源造と久子の三女。
源造と久子の長男。

町の人々[編集]

町の駐在。
澤野源蔵の出征の際の行事に参加した他、戦死通告を久子に届けた。
よろず屋の主人に殴られ警察に連れて行かれた清太を久子に引き渡した。
清太達が2人で生活していると聞くと「戦争中に子供2人だけで生きていくなんて無理やで」と驚いていた。
避難先の小学校で、清太を重傷を負った母親の元に案内し、指輪を渡した。
配給された米を1人1人配っているが久子は澤野家では6人(清太、節子を預かってからは8人)分必要なためこれだけでは足りないと言うため度々口論になり、そんなに欲しいのなら闇米を買うしかないと勧めている。
清太と節子に食べ物を分けるのを拒否したため、清太に食べ物を奪われた。
よろず屋の主人。澤野源蔵の出征の際には本編の1943年夏以前に海軍で戦死した息子を思い出し泣いていた。
自分で飯を作ることになった清太に金額をまけ、「何があったか知らんけど意地をはったらあかんで」と励ました。
上記のように戦死した息子が海軍であったため、海軍大佐を父に持つ清太が自分の店に盗みに入った時には、情けなさのあまり自分の手も怪我をするほど殴りつけた。戦争終了後、現れた清太に素子とともに呆れるも、節子に食べ物を食べさせるため土下座され、卵と米を渡している。
栄作の妻。
源造の出征の席で泣き出した栄作を叱責し、「あの子は天皇陛下のために死んだんや」と息子の死を受け入れていた。久子に清太が中学生なのに勤労動員や隣組の消火活動にも参加しないことに疑問を投げかけた。

現代[編集]

60年後のなつ。清太と節子の形見であるドロップの缶を持っていた。
  • 光村 恵子 – 井上真央(少女時代のなつと二役)
なつの孫かつ久子のひ孫。高校生。少女時代のなつと瓜二つ。

その他[編集]

松澤演じる駅員はアニメ映画と同様、清太が持つ節子の遺骨が入ったドロップの缶を放り投げた後、久子に拾われた。

スタッフ(ドラマ)[編集]

撮影協力[編集]

外部リンク[編集]

  • 終戦60年スペシャルドラマ「火垂るの墓 -ほたるのはか-」 – 日本テレビ

実写映画[編集]

原作者の野坂によると、アニメ映画製作の段階までに何度か実写映画化の企画は存在した[55]。もっとも具体的だったのは、KKベストセラーズ創業者の岩瀬順三によるものだった[55]。岩瀬は、アメリカ・アリゾナ州に戦災を受ける前の神戸の街を再現し、アメリカで保存されている飛行可能なB-29から実際に焼夷弾を投下、出演者には断食をさせて栄養失調を再現するといった壮大なプランを描き、野坂自身も取材をかねてB-29に乗りに行ったりしたが、実現することなく岩瀬は亡くなった[55]

その後、2000年代になって改めて実写企画が発足し、2008年(平成20年)7月5日に公開された。黒木和雄監督により企画が進行していたが、黒木の死去により、黒木を師と仰ぐ日向寺太郎が監督となった。叔母役の松坂慶子は事実上の悪役ということから一度はオファーを断ったと告白している。

ロケ地に選ばれた秋谷池(西脇市黒田庄町)

全ての撮影が舞台となる兵庫県内で行われた。池の土手を歩くシーンや池辺で飛び交う蛍をとる印象的なシーンは、西脇市黒田庄町喜多字秋谷口の秋谷池[1] で撮られた。メイキングのDVDは公開同年の8月8日、本編DVDは翌2009年(平成21年)3月27日発売。

特徴[編集]

アニメ映画とは異なり、登場人物による回想を廃止し、現在進行形のストーリーに変更している。一部原作でのみ描かれた部分、本作オリジナルの部分も多い[注釈 23]。清太は喘息を持病に持ち、剣道が得意という設定が追加された。原作では駅で亡くなっていたが、実写映画では1人で生きようと雨の中歩き、倒れるもその後再び立ち上がり去っていった。

原作やアニメ映画などでは、当初はうまく行っていた叔母の家での共同生活が次第に悪くなる展開だったが、実写映画は最初から最後まで叔母の態度が悪い。「家に置くのを半年前に夫が戦争で戦死し大変なため、一度は追い返そうとするも食料を持っていたことから態度を変えて置く」流れで共同生活が始まっている[注釈 24]

清太の父の消息(生死)については特に触れられていない。日向寺監督は、「姓名は亡くなった人物にだけ付ければいい」との考えで、作中で亡くなった人物にしか姓名は設定されていない。清太の父は姓名が設定されていないため、生きているのではないかとも言える。

原作、アニメ映画などでは空襲の被災により意識不明のまま亡くなった母を、実写映画では一瞬だけ意識を取り戻し、その後亡くなると言う形へ変更している。これに伴い叔母の家に向かう場面をやや変更し、到着するまでの道順が初めて描写された。今までは最初しか出番がなかった清太の地元の町内会長や西宮に住む原作の登場人物などがクローズアップされオリジナル化されて、あまり描かれなかった清太と他者との交流シーンが大幅に追加されている。同じ野坂の小説『アメリカひじき』では、主人公の回想部で終戦直後の町内会の人々の様子が少し描かれている。

アニメ版、ドラマ版では節子が死んだ際は火葬シーンがあるが、映画では火葬せずに土葬のみとなっている。

キャスト(映画)[編集]

スタッフ[編集]

外部リンク[編集]

『火垂るの墓』は吉森みきを、滝田ゆうなどにより漫画化されている。

  • ほるぷ平和漫画シリーズ20『焼跡のうた』(ほるぷ出版、1984年11月、全国書誌番号:85004871、ISBN 978-4593531226)
  • 『怨歌劇場』(ぱる出版、1993年10月20日)
    • 絵:滝田ゆう。原作:野坂昭如。
    • ※ 『火垂るの墓』をはじめ、野坂の12編の短編が漫画化されている。
  • 宙コミック文庫 漢文庫シリーズ『怨歌劇場』(宙出版、2007年1月25日)
    • 絵:滝田ゆう。原作:野坂昭如。
  • ホーム社 MANGA BUNGOシリーズ『火垂るの墓』(ホーム社、2010年7月10日)
    • 画:三堂司。原作:野坂昭如。

合唱組曲[編集]

2010年(平成22年)に、新実徳英により混声合唱組曲が作られている[56]

  • 混声合唱組曲『火垂るの墓』 第33回演奏会 神戸市役所センター合唱団
    • 2010年(平成22年)11月19日 神戸文化ホール中ホール
    • 作曲:新実徳英。作詞:車木蓉子。
    • 構成は、「1.駅」、「2.火垂る」、「3.飢え」、「4.悔」、「5.愛―蛍」、「6.臨―声」の、6から成る。
    • ※ 被爆・終戦65周年記念特別企画。

おもな刊行本[編集]

  • 『アメリカひじき・火垂るの墓』(文藝春秋、1968年3月25日)
  • 文庫版『アメリカひじき・火垂るの墓』(新潮文庫、1972年1月30日。改版2003年)
  • 限定豪華版『火垂るの墓』(成瀬書房、1978年6月21日)
    • あとがき:野坂昭如。
    • 収録作品:アメリカひじき、火垂るの墓
    • 限定200部。毛筆署名落款
  • アニメ絵本『火垂るの墓』(新潮社、1988年5月)
  • 大型アニメ絵本『火垂るの墓』(徳間書店、1988年8月)
  • 朗読CD『火垂るの墓』(新潮社、2001年7月25日)
    • 朗読:橋爪功。CD1枚。76分。
    • 収録内容:火垂るの墓、野坂昭如談話
  • 英文版『The Grave of the Fireflies』(Tate Pub & Enterprises Llc、2009年)

注釈[編集]

  1. ^ 清太・節子一家が住んでいたとされるのは、武庫郡御影町大字御影字上中・字上西。現在の神戸市東灘区御影本町六丁目・八丁目あたりである。
  2. ^ 貯水池は、現在の夙川公園北東部付近にある貯水池(ニテコ池)がモデル。防空壕は、ニテコ池のほとりに実在した壕。野坂自身もたびたび避難したという。
  3. ^ 『蛍』、『焼夷弾』、『母の遺骨』、『幽霊となった節子(清太に触れる瞬間)』など清太の視点で死を象徴するものは赤く光った描かれ方をしている。
  4. ^ 冒頭に出てくる2人と、新しくなるドロップの缶は幽霊になったイメージ、幽霊の節子が三宮の駅で倒れる過去の清太の所に行こうとしたのをもう1人の清太が制止するのは「自分も(幽霊になり)ここにいるから心配しなくていい」という意味、電車に乗り叔母の家まで行くのは「過去を思い出しに行く」とも言えるシーンで、「死人に口なし」ということもことわざもあるように幽霊の清太は冒頭とラストを除きしゃべらない。
  5. ^ 宮崎駿は稲葉振一郎『ナウシカ読解』インタビューで「幽霊というのは死んだ時の姿で出てくるのでガリガリに痩せてお腹が減った状態で出てこないとおかしい」と幽霊の2人の状態に矛盾を指摘しているが、この矛盾点について、著書「出発点」270Pでは、兄妹が先に死んだ母の幽霊と出会っていないことをあげ、考察を行っている。ここで宮崎は兄妹の幽霊の姿について「二人は幸福な道行きの瞬間の姿のまま、あそこにいる」「二人の絆だけで完結した世界に、もはや死の苦しみもなく、微笑みあい、漂っている」のだと述べている。
  6. ^ 本来映画用語では”アフレコに際して絵も全くなく担当する部分を色の線の長さや形状等で示した状態での収録”を指す。なお画像を全く持たない状態からの収録をするプレスコでは極普通の手法である。
  7. ^ アニメ用語では本来”彩色のない原動画を絵コンテ等に合わせて完成アニメと同じタイミングで撮影したもの”を指す。
  8. ^ 新潮社との契約が満了した2008年(平成20年)8月以降はブエナビスタから再発売された。2012年(平成24年)4月にはBlu-ray Disc版が発売された。
  9. ^ ただし、空襲時の警防団員の描き分けや警察官の制服の生地色や正肩章の装着、佩剣が乗馬勤務者用のものであり釣環の数も多い、略帽を着用していないなど、資料が偏る傾向もみられる。
  10. ^ 節子と海に行った帰りにおんぶを要求された際にはうんざりした様子でため息をついている。
  11. ^ 近藤喜文が書いたイメージボードでも家から持ってきた荷物を整理する清太の横で母のおべべ(着物)を大事そうに抱く節子が描かれている。
  12. ^ 実際の野坂が疎開した先の叔母は映画のように態度が悪くなっていない。
  13. ^ 史実において、当時神戸に所在していたのは商船学校ではなく、高等商船学校(高等商船学校神戸分校。神戸商船大学の実質的な前身)である。
  14. ^ 1996年8月23日にも放送予定であったが、渥美清の逝去による放映作品変更の影響で翌年に延期となった(8月23日には8月9日に放映予定であった『スタンド・バイ・ミー』に差し替え)。
  15. ^ 終戦記念日である8月15日に放送した事例はない(4回目の放送は8月15日が金曜日になる年であったが、1週間早い8月8日に前倒しで放送されている。また、7回目の放送では同じく8月15日が金曜日になる年であったが、1週間遅い後送りで放送されている。)。
  16. ^ 軍隊や戦闘が演出される作品は他にもあるが、太平洋戦争など、史実に伴う戦争を取り扱った作品は当作のみ。
  17. ^ 9回目は清太の命日にあたる9月21日に放送されている。
  18. ^ 13回目は高畑の死去に伴う緊急追悼放送のため、例外的なケースである。
  19. ^ この日放送予定だった『名探偵コナン から紅の恋歌』は4月20日に、20日に放送予定だった『パシフィック・リム』は5月11日に、それぞれ延期となった。
  20. ^ 原作者の野坂の没後としても初放送。
  21. ^ 綿矢りさの『かわいそうだね?』に『火垂るの墓』への言及があり、この映画を小さい時に観てトラウマになっているという。
  22. ^ ニテコ池へは阪神電鉄西宮駅より阪神バスの山手線もしくは鷲林寺線で「満池谷(まんぢだに)」下車すぐである(ここには巨大な墓地と火葬場がある)。舞台の1つである阪急三宮駅(神戸阪急ビル)は阪神・淡路大震災により建物が全壊し、別設計の駅舎が再建されている。
  23. ^ これは原作においても過去を思い出す人物がいないとは言え、清太が亡くなるところから始まるので、現在進行形での展開はその意味でも初めてでもある。
  24. ^ 家に預かるということを、原作やアニメ映画版とテレビドラマ版では最初から承知していたが、実写映画版はなぜか知らなかった様子である。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]