魁聖一郎 – Wikipedia
魁聖 一郎(かいせい いちろう、1986年12月18日 – )は、ブラジル・サンパウロ出身で大島部屋(入門時は友綱部屋)所属の現役大相撲力士。日系ブラジル人3世で2014年に日本に帰化[2]。本名は菅野 リカルド。旧名リカルド(ヒカルド)・スガノ。身長195cm、体重204kg、血液型はO型。得意手は右四つ、寄り。最高位は東関脇(2016年7月場所)。いわゆる「花のロクイチ組」の1人[3]。趣味はゲーム。好物は焼肉、ハンバーガー、コーラ。
ブラジル在住時代[編集]
日系ブラジル人3世である。ブラジル出身であるが幼少期からサッカーは好きでなく中継も見なかった[4]。幼少期には父に無理やりサッカーをやらされて練習が終わると泣きながら家に帰ることがあったという[5]。16歳の頃に父親の知り合いで、子息が相撲をやっていた人に「体が大きいからやらないか」と誘われたのが直接のきっかけであり魁皇に憧れて相撲を始め[6]、全ブラジル相撲選手権大会・無差別級で優勝した経験を持つ。アマチュア時代は本人曰く「相撲は力だけで勝てた。今は間違ってもそんなこと思わないですけど、ブラジルのアマチュア時代はそうだった」こともあり、相撲にのめり込んでいったという[7]。とはいえ当時は相撲の稽古は週1度から2度程度であったといい、角界入り後に稽古量の違いを痛感したことを話している[8]。2006年7月に来日し、元十両・若東の黒田吉信から紹介された友綱部屋に入門した。四股名は友綱部屋伝統の「魁」と、キリストを意味する「聖」を組み合わせて「魁聖」となり、下の名前の「一郎」は祖父の名前から付けた。
入門から関取昇進まで[編集]
2006年9月場所に前相撲に出場し2勝2敗で初土俵。身長194cmの大柄な体を武器に、序ノ口と序二段でそれぞれ6勝1敗の好成績を挙げていずれも1場所で通過し、2007年3月場所に三段目へと昇進する。三段目では最初の2場所は好成績を挙げたものの、その後3場所連続して負け越してしまった。しかし、2008年1月場所では6勝1敗、翌3月場所では5勝2敗と連続して好成績を挙げ、同年5月場所において幕下へ昇進した。
幕下昇進後は2場所連続して勝ち越したものの、2008年9月場所から3場所連続して負け越してしまい、2009年3月場所では再び三段目へ陥落してしまった。1場所で幕下へ復帰した後、西幕下46枚目の位置で迎えた同年9月場所では7戦全勝の成績を挙げて優勝決定戦に進出した。優勝決定戦では臥牙丸に敗れて幕下優勝はならなかったものの、その後は幕下上位に顔を出すようになり、2010年5月場所において東幕下2枚目の位置で5勝2敗と勝ち越しを決め、翌7月場所に新十両へ昇進した。これによって10代友綱が育てた2人目の関取が誕生したことになる。
関取昇進後[編集]
2010年11月場所では11勝4敗の成績を挙げて優勝決定戦に進出し、4人による優勝決定戦を制して初の十両優勝を果たした。続く2011年1月場所でも東十両筆頭で8勝7敗と勝ち越しを決め、翌5月技量審査場所において新入幕を果たした。その5月技量審査場所では、1980年11月場所の佐田の海以来31年ぶりとなる新入幕での初日からの9連勝を記録し[9]、最終的には10勝5敗の好成績を挙げて、自身初となる敢闘賞を受賞した。この場所優勝した白鵬の優勝パレードでは旗手を務めた。その後は幕内で4場所連続して負け越してしまい、2012年3月場所には十両へ陥落したものの、その3月場所で10勝5敗の好成績を挙げ、翌5月場所において再入幕を果たした。同年7月場所では10日目まで1敗を守り、西前頭8枚目の位置ながら急遽大関との対戦が組まれたこともあり終盤に失速。それでも11勝4敗の好成績を挙げて2回目の敢闘賞を受賞した[10]。翌9月場所では最高位の西前頭筆頭へ昇進し、三役昇進も見えたが、4場所連続で負け越して幕内下位まで落ちた。
東前頭12枚目で迎えた2013年7月場所では初日から5連勝。10日目まで1敗を守り、一時に優勝争いにも参加したが、11日目からやや失速し、11勝4敗の成績を残しながらも敢闘賞受賞にはならなかった。続く9月場所、その次の11月場所は連続して7勝8敗の負け越しを喫したものの、2014年1月場所は12日目に7敗となって後がない状況から千秋楽まで3連勝して3場所ぶりの勝ち越しを果たす。翌3月場所は3枚半上昇となる東前頭3枚目の地位を与えられ、9日目に負け越しが確定した[11]ものの千秋楽まで食い下がって6勝9敗とした。2015年5月場所は12日目終了時点まで白鵬とトップを並走して優勝争いを盛り上げ、10勝5敗と好調を示すも三賞獲得はならなかった[12]。
西前頭7枚目で迎えた2016年3月場所は、11日目に勝ち越しを決めた後も白星を伸ばし、11勝4敗の好成績で終えた。千秋楽後、新三役の可能性について「三役なれるんかな。そんなに期待したら、上がれなかった時にショックが大きい」[13]と一抹の不安を口にしていたが、翌5月場所で無事新三役(東小結)に昇進。友綱部屋としては、現師匠が1989年5月に部屋を継承してからは1994年夏場所の魁皇以来2人目となる新三役で、ブラジル出身力士としては初の三役となった[14]。初土俵から10年近く掛かっての三役について、昇進の記者会見に同席した師匠は「入門当時(の期待度)からすれば三役に上がるペースとしては遅いかな。相撲に取り組む姿勢でスローな部分があるから仕方ないけど、とにかくノンビリしているのが、スローになった」[15]と歯がゆさを口にする一方で、「まだまだ上を狙える」[16]と奮起を促していた。
新三役場所以後[編集]
新三役となった5月場所は、大関以上の相手には照ノ富士にしか勝てず1勝6敗だったが、関脇以下では逸ノ城以外全勝と強さを発揮して千秋楽の栃煌山戦で勝ち越しを決めた。
翌7月場所は東関脇に番付を更新、師匠の定年までに関脇昇進を果たす形となった。成績は序中盤では2不戦勝(後述)に恵まれるなど健闘したが、終盤で負けが込み7勝7敗で迎えた千秋楽、同じく7勝7敗の大関・照ノ富士に敗れ7勝8敗[17]で場所を終えた。小結で迎えた翌9月場所も6勝9敗と負け越し。4場所ぶりの平幕で迎えた翌11月場所では3日目に白鵬に敗れ、大相撲史上3人目となる通算1000勝目を献上してしまった。以降も著しい不調に陥り、自身初となる初日から10連敗、終盤に挽回したものの3勝12敗で場所を終えた。翌2017年1月場所は前頭9枚目と大きく番付を落として臨んだ。中盤に負けが込み、10日目終了時点で7敗と勝ち越しに後が無くなったが、そこから5連勝で8勝7敗と勝ち越した。翌3月場所は場所前に右膝前十字靱帯断裂・右膝外側半月板損傷の大けがを負い当場所を全休する見込みだったが、全休すると十両落ちが必至となる番付だった関係上、6日目から強行出場。膝の踏ん張りが全く効かない状態で苦しんだが、3勝を挙げ十両落ちを回避した。しかし翌5月場所も、9日まで6勝3敗と好調の状態から終盤で負けが込み、最終的に7勝8敗と負け越し、31場所連続で務めた幕内からの陥落が決定した。東十両筆頭で迎えた翌7月場所は、初日から8連勝中であった朝乃山と9日目に対戦してがっぷりの右四つで土を付け幕内常連の力士としての力量を見せつけ、以降も白星を重ね11日目に早くも勝ち越し、翌9月場所の幕内復帰を確定させた[18]。10勝4敗で迎えた千秋楽に勝てば豊山・朝乃山・大奄美と4人で優勝決定戦を戦うことができたが、竜電に敗れてしまった。西前頭13枚目に帰り咲いた翌9月場所は4場所ぶりの幕内での勝ち越しとなる9勝を挙げ、復調をアピールした。以降も勝ち越しを続け、2018年3月場所は東前頭6枚目まで番付を戻し、場所前には変幻自在な取り口の弟弟子・旭大星らと充実した稽古で落ちた力を取り戻さんとしていた。その3月場所は初日から好調で、8連勝で中日勝ち越し。翌日も勝利し新入幕の2011年5月技量審査場所以来[19]となる9連勝としたが、逸ノ城に敗れて連勝がストップ。しかし翌11日目は貴景勝の休場により不戦勝で、幸運な形で二桁となる10勝目を記録。12日目は遠藤に敗れ2敗目。13日目は番付面よりも優勝争いを重視した審判部の判断で、横綱・鶴竜が対戦予定だった関脇・御嶽海[20]を外して魁聖を対戦させる、いわゆる「割崩し」を経験[21]したが、結果は鶴竜に叩き込みで敗れ連敗となり、優勝は逃した。しかし残り2日は連勝し、自己最多勝の12勝3敗(大関・髙安と並ぶ優勝次点)で28場所ぶり3回目の敢闘賞を獲得。一方で、先述の鶴竜に敗れたことで後述の不名誉な記録も樹立してしまった[22]。続く5月場所は三役から落ちる星の力士が1人しかないかった影響で三役返り咲きを逃し、僅か4枚半上昇の西前頭筆頭に甘んじた。その場所では関脇以上に全敗と壁に跳ね返され、10日目に負け越しを決定させ、最終的に6勝9敗。東前頭4枚目となった7月場所は、大関・高安を破るなどで9勝6敗の成績。2場所ぶりに西の筆頭に返り咲いた9月場所は、初日に大関・豪栄道を破るなど幸先の良いスタートとなったが、2日目からの横綱戦を3連敗。4日目は稀勢の里と58秒8の大相撲を演じた[23]が、寄り切られて黒星。大関以上からの星は結局豪栄道戦の1番に留まった。それでも平幕以下の力士相手には全て勝ち、11日目には大関獲りがかかっていた関脇・御嶽海を破るなど安定感を発揮して8勝7敗と勝ち越した。千秋楽に魁聖は帰り三役の可能性について「とりあえず期待はしない。期待して上がらなかったらがっかりしちゃう」[24]と、前述した新三役の前場所(2016年3月場所)千秋楽とほぼ同じ趣旨のコメントを残したが、翌11月場所は西小結となり、13場所ぶりに三役に復帰した。2019年3月6日、友綱部屋の大阪稽古場に出稽古に来た白鵬との稽古で元々痛みがあった首を悪化させた[25]。2場所の十両暮らしを経て西前頭16枚目で再入幕となった2020年1月場所は、成績自体は千秋楽に8勝7敗の勝ち越しに留まったが、この場所14勝1敗で幕内最高優勝を成し遂げた德勝龍に唯一土を付けたため、「1人だけ勝ったのに(三賞で授与される盾のジェスチャーをしながら)何かなかった?」と三賞をおねだりしていた[26]。
2020年6月20日に、約5年間の交際を経て外国出身で日本国籍の一般人女性と結婚した。新型コロナウイルス感染症の流行により、同じ都内在住にも関わらずなかなか会えないようになってしまったため「一緒に住めば会える」という気持ちになったという[27][28]。
2021年11月場所12日目の照強戦での白星で幕内400勝を記録。その日の白星に際して「(幕内400勝に)知らなかったです。いやーすごいですね」とコメントを残した[29]。
2022年2月1日、それまで所属していた友綱部屋が、師匠の名跡変更により大島部屋へ改称されたため、自身も大島部屋所属に変更となった[30]。
取り口・評価[編集]
- 基本的に体格を活かした四つ相撲を取り口としており、碧山や栃ノ心といった自身を上回る怪力の力士や松鳳山や栃煌山のように投げや引き技のあるもろ差し力士を不得手とする一方で、玉鷲や豊響のような押し一辺倒の力士や勢のようなまともに受ける相四つの力士を得意とする傾向がある。
- 持病に腰痛があり、調子の悪い場所では粘り無く土俵を割る相撲も目立つ。
- 元テレビ朝日アナウンサーの銅谷志朗は2014年11月場所前の座談会で「右四つ左上手を取った際の圧力にはものすごいものがある」と評した。
- 一方で元文化放送アナウンサーの坂信一郎は「もっと闘志を前面に出した相撲を取れば」と精神面の弱点を挙げていた。
- 元日本テレビアナウンサーの原和夫は「腰が下りないから前に出ても結局覆いかぶさるような体勢になって、逆転技を食いやすくなる」と腰高を指摘した[31]。
- 阿武松は新関脇をつかんだ頃の相撲に関して「前は懐が深くても足がぐらぐらしていましたが、少し安定してきました」と高評価した[32]。
- 鳴戸は2016年11月場所前の座談会で「腰の重さはどっしりしていて大関クラスですよ。ただ、動きが遅いので上位陣の左右の動きについていけない」と語り、同席していた西岩も「どうも上位陣に勝つイメージが沸かない。相撲もまともだし、横綱、大関にとってはやりやすいと思いますよ」とコメントした[33]。
- 動きの遅さから猪突猛進型ではないにもかかわらず変化に弱く、2016年に年5回変化を受けて1勝4敗はその年の幕内力士の中で3番目に多く変化で負けた記録である[34]。
- 2019年の週刊誌のインタビューでは、投げを打つと寧ろ膝に負担がかかり過ぎるので、相撲において前に出る以外の余計なことはしなくてよいと指導されていたことを明かしている[35]。
- 小兵は苦手であり廻しを取ろうとすると叩きを食うので押しや突っ張りを活かし、離れて相撲を取る。
- 十両に上がった頃は沢山の観客の前で緊張したが、2019年3月のインタビューでは立合いで考えないように心掛けているという[36]。
- 好物はコーラで、毎日3本飲んでいるという[37]。
- 趣味はゲームで「幕内一のゲーム好き」を公言する程である[4][38]。
- 先代師匠の影響で喫煙者となった[39]。
- 寒さが苦手であり、暖かい時期が好きである[40]。
- 上述の通りサッカーには無関心を示し、地元開催となった2014 FIFAワールドカップの大会中に母国が準決勝に進出したにもかかわらず「結果くらいは気になるけど、あまり関心がない」と発言し話題になった[41]。
- いわゆる霊感を信じる傾向があり、絶不調とされた2016年11月場所で10連敗を喫した際には「気持ちには元気あるんだけど体が動かない。体が…たぶん何か憑いてますね」と、祈禱のポーズを見せた[42]。この祈祷を試みて以降復調し、11日目に御嶽海に初白星、14日目に錦木に勝利し2勝目、千秋楽も栃煌山に勝利し3勝まで積み重ねた。
- 使用している化粧回しの1つには、コルコバードのキリスト像が描かれている[43]。
- 2018年4月17日放送分の『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』では普段の食事量として最初「セブンイレブンのコッペパンは3個」「いつもおごってもらっている寿司は10皿」と答えて出演者の東貴博を怪訝がらせたが、東が肉に関する質問をしたところ「ステーキを食べる時は1キロから。焼き肉は30人前食べますね」と答え、東を「そういうの待ってたよ~」と興奮させた[44]。
- 取材などの場で質問に対する受け答えの機転が利く。その裏には謙虚さがにじみ、相手への配慮もさりげない。自虐的な談話も多い[45]。
- 2020年11月場所3日目のABEMAの大相撲中継ではアニメオタクであることが明かされた[46]。
- それまで普段深夜近くまでゲームをしていたが、2021年1月場所の休場中は午後10時でゲームをやめて睡眠をしっかり取るようにした[47]。
エピソード[編集]
入門前~新弟子時代[編集]
- ブラジル在住時代より祖母が日本食を振る舞っていたこともあって入門時には既に納豆以外ならば部屋のちゃんこを全て問題なく食すことができたという[7]。
- 反面、敬語や先輩への接し方などの礼儀については、相当に苦労したという。それでも、訪日前に不安だった差別などはなく、「実際は皆優しく接してくれました。日本人は冷たくてあまりしゃべらないと聞いていましたが、それは違うとすぐに気付きました」と後年振り返っている[7]。
- 新弟子時代にはホームシックになったこともあったが、友綱部屋では携帯電話やスマートフォンを新弟子が持つことは許されず、少ない小遣いでテレホンカードを買い、度数の残りを気にしながらブラジルに連絡していた[48]。
- 番付表や日本の土産物を実家へ送るだけでも1万円程かかる上に、送った荷物が現地で盗まれて実家に届かなかったなど、親孝行したいという思いとは裏腹に苦労した[48]。
- 2006年9月場所初土俵の同期生は魁聖の他に2名いたが、いずれも前相撲を欠場したり、初土俵直後に長期休場をしたりしたまま引退したため、実質的には彼1人である。
旭天鵬との関係[編集]
- 来日間もないころから旭天鵬を尊敬しており、取的時代に「綺麗な力士だ」と思って一緒に写真を撮ってもらって以来交友を持つようになった[49]。
- 旭天鵬が大島部屋に所属していた時期に2回対戦し、2011年7月場所中日は押し出しで勝ち、2011年9月場所7日目は寄り切りで敗れた。
- 2012年4月25日に2代大島が停年を迎え、大島部屋力士が友綱部屋に移籍したことによって、同部屋の兄弟弟子になった。
- 2017年5月場所後には師匠・10代友綱の停年に伴い、当時引退して4代大島を襲名していた旭天鵬が11代友綱となり友綱部屋を継承したことから、旭天鵬と師弟となった。
マスコミへのコメント[編集]
- 2016年の夏巡業中、日刊スポーツの絵日記に使う絵として、東京タワーをサラッと描いた。その意図を聞くと「早く、東京へ帰りたい。ホームシックです」と苦笑いで答えた。「ただ、所属する友綱部屋は墨田区業平にあり、すぐそばには新たなシンボル、スカイツリーがそびえたっています。描くなら、そっちだったのでは?」と記者に突っ込まれると「いや、スカイツリーは毎日見てるんで。東京タワーには上ったことないんですよ。1度、行ってみたいという気持ちもこめて描きました」と返した[50]。
- 関脇昇進の際の記者会見では「入門したときはブラジル人の最高は十両。俺もとりあえず十両になることが目標だった。それが幕内の、三役に上がれるとは思わなかった」と語った。更に大関を期待する声がある事に関しては、会見に同席した師匠は番付がここまで上がって既に満足しているようで、「この上は…。もういいです。師匠と(最高位で)肩を並べたくらいで、それ以上になるとテングになる。本人のためにもその方がいい」と語り、居合わせた報道陣の笑いを誘っていた[51]。
- 故郷ブラジルで行われた2016年リオデジャネイロオリンピックに興味を示していなかった魁聖であったが、ゲーム好きであるため「閉会式の、安倍総理のマリオを生で見たかった…。マリオ良かったですね」と話していた[52]。
- 白鵬に通算1000勝目を献上した2016年11月場所で自身初となる中日負け越しを喫した際は、「全然駄目ですね。来場所、頑張る。もう冬眠します。」と弱気なコメントを残した[53]。
- 2017年夏巡業の取材では、最近ハマっているのが、立ち食いスタイルで有名な「いきなり!ステーキ」に行くことと答えている。「部屋の近くのお店は、少ないけど座れる場所があるんです。あそこはお肉を炭で焼く。炭の味が肉につくのが最高。神です。シュラスコと同じなんです」とその味を称えていた。魁聖が好きなのは霜降り肉ではなく赤身のステーキであり、魁聖は「ブラジルではもともと、脂がない肉を食べていたから」と答えていた[54]。
- 同時期、日刊スポーツの力士が絵日記を書く企画では、大好物のコーラを片手に肉にかぶりつくドラゴンボールの孫悟空を描いた。因みに魁聖はブラジルに住んでいた子供のころからドラゴンボールのアニメが大好きだった[54]。
- 父が時差のある故郷で朝早くからテレビの生放送を見て応援している事に触れ、2018年3月場所6日目のインタビューでは「番付が上がれば朝ゆっくりになる。もう一度三役に戻りたい」と父への気遣いの意味も込めて復活を夢見る[55]コメントを発した。
取組関連[編集]
- 上述の通り不調に喘いだ2016年11月場所は3日目に白鵬と対戦して敗れ、大相撲史上3人目となる通算1000勝目を献上した力士として歴史に名前を残してしまうことになった。
- 2019年3月場所終了時点で横綱戦は37戦全敗、横綱戦未勝利の記録としては闘牙を抜いて単独ワースト1位の連敗記録を更新中である[22][56]。
- 2020年3月場所は2019新型コロナウイルス対策として力水は柄杓に口を付けず形だけ行うことになっていたが、12日目には間違って力水を口に入れてしまい、このことは同日に8勝目を挙げて勝ち越しを確定させた直後に明かした[57]。
不戦勝関連[編集]
- 不戦勝が非常に多い幸運な力士で、通算獲得数は2019年9月場所現在で11個(十両2個を含む)で歴代では2位、現役では2位[58]。
- 2016年7月場所では初日に大砂嵐が、7日目に琴奨菊が、それぞれ休場したことにより、2014年1月場所(琴奨菊)以来史上21例目となる「1場所での2不戦勝」を記録し「いつもいい子にしているから運がいい。明日から頑張らないといけない」とコメントした[59]。
- 上述の「2不戦勝」を獲得したにも関わらず負け越してしまった2016年7月場所の千秋楽後には「不戦勝が2度もあったのにもったいない。取組より、これより三役で緊張した」と述べていた[60]。
- 2017年11月場所から2018年3月場所までに3場所連続の不戦勝を記録[61]。
- 2018年3月場所で貴景勝の休場により不戦勝を獲得した際は「昨日で全部パワー使って筋肉痛だったんで」「みんな、オレの時に休んでくれて優しいね」「いつもいい子にしているから、相撲の神様に好かれている」と笑いながらコメントした[61][62]。
いずれも2022年1月場所終了現在。
(以下は最高位が横綱・大関の現役力士)
- 横綱・照ノ富士には3勝8敗。照ノ富士の大関在位中は1勝4敗。照ノ富士の横綱昇進後は対戦無し。
- 大関・貴景勝には2勝3敗(うち1勝は不戦勝)。貴景勝の大関在位中は対戦なし。直近の勝利は2018年7月場所で決まり手は押し出し。
- 大関・正代には9勝1敗(うち1敗は不戦敗)。正代戦は得意としており、土俵の上で敗れたことはない。正代の大関在位中は対戦なし。
- 大関・御嶽海には7勝1敗。御嶽海の大関在位中は対戦なし。
- 元大関・髙安には5勝12敗。その他にも2007年9月場所に三段目での対戦(魁聖勝ち)、2011年1月場所に十両での対戦(高安勝ち)があった。直近の勝利は2018年7月場所で、決まり手は小手投げ。
- 元大関・栃ノ心には12勝14敗。栃ノ心の大関在位中は3敗。
- 元大関・朝乃山には3勝2敗。朝乃山の大関在位中は対戦なし。
(以下は最高位が横綱・大関の引退力士)
- 元横綱・白鵬には13戦全敗。いずれも白鵬が横綱昇進後の対戦である。
- 元横綱・日馬富士には16戦全敗。当初3戦は日馬富士が大関在位中の対戦であった。
- 元横綱・鶴竜には15戦全敗。初顔(2011年5月場所)は鶴竜が小結在位中、2度目から5度目の対戦は鶴竜が大関在位中の対戦であった。
- 元横綱・稀勢の里には12戦全敗。11度目までは稀勢の里が大関在位中、12度目は稀勢の里が横綱在位中の対戦である。
- 元大関・雅山には2勝3敗。いずれも雅山が大関陥落後の対戦であった。
- 元大関・豪栄道には5勝15敗。うち豪栄道が大関昇進後は4勝9敗。その他にも2010年9月場所に十両での対戦(豪栄道勝ち)があった。
- 元大関・琴奨菊には2勝13敗(うち不戦勝1)。琴奨菊が大関在位中は1勝9敗(うち不戦勝1)。
- 最高位が関脇以下の力士との幕内での対戦成績は以下の通りである。
- ※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。太字は2022年1月場所終了現在、現役力士。
テレビ出演[編集]
主な成績[編集]
2022年3月場所終了現在
通算成績[編集]
- 通算成績:579勝573敗37休(92場所)
- 幕内成績:406勝457敗37休(60場所)
各段優勝[編集]
- 十両優勝:1回(2010年11月場所)
場所別成績[編集]
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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2006年 (平成18年) |
x | x | x | x | (前相撲) | 西序ノ口35枚目 6–1 |
2007年 (平成19年) |
西序二段66枚目 6–1 |
西三段目96枚目 4–3 |
西三段目75枚目 6–1 |
西三段目18枚目 2–5 |
西三段目42枚目 3–4 |
西三段目56枚目 3–4 |
2008年 (平成20年) |
東三段目69枚目 6–1 |
西三段目14枚目 5–2 |
西幕下52枚目 5–2 |
西幕下35枚目 4–3 |
西幕下29枚目 2–5 |
東幕下50枚目 3–4 |
2009年 (平成21年) |
西幕下60枚目 3–4 |
東三段目15枚目 5–2 |
西幕下52枚目 5–2 |
東幕下31枚目 2–5 |
西幕下46枚目 7–0 |
西幕下6枚目 3–4 |
2010年 (平成22年) |
東幕下10枚目 5–2 |
西幕下5枚目 5–2 |
西幕下2枚目 5–2 |
東十両12枚目 8–7 |
東十両4枚目 7–8 |
東十両6枚目 優勝 11–4 |
2011年 (平成23年) |
東十両筆頭 8–7 |
八百長問題 により中止 |
西前頭16枚目 10–5 敢 |
東前頭5枚目 6–9 |
東前頭8枚目 4–11 |
東前頭14枚目 6–9 |
2012年 (平成24年) |
東前頭16枚目 5–10 |
西十両4枚目 10–5 |
東前頭12枚目 9–6 |
西前頭8枚目 11–4 敢 |
西前頭筆頭 7–8 |
西前頭2枚目 7–8 |
2013年 (平成25年) |
西前頭3枚目 6–9 |
西前頭5枚目 3–12 |
東前頭14枚目 8–7 |
東前頭12枚目 11–4 |
西前頭4枚目 7–8 |
西前頭5枚目 7–8 |
2014年 (平成26年) |
西前頭6枚目 8–7 |
東前頭3枚目 6–9 |
東前頭6枚目 8–7 |
東前頭3枚目 5–10 |
西前頭6枚目 8–7 |
東前頭4枚目 7–8 |
2015年 (平成27年) |
東前頭5枚目 7–8 |
西前頭6枚目 5–10 |
東前頭11枚目 10–5 |
西前頭3枚目 6–9 |
西前頭5枚目 6–9 |
東前頭7枚目 9–6 |
2016年 (平成28年) |
西前頭3枚目 5–10 |
西前頭7枚目 11–4 |
東小結 8–7 |
東関脇 7–8 |
東小結 6–9 |
東前頭2枚目 3–12 |
2017年 (平成29年) |
東前頭9枚目 8–7 |
東前頭8枚目 3–7–5[63] |
西前頭15枚目 7–8 |
東十両筆頭 10–5 |
西前頭13枚目 9–6 |
東前頭10枚目 8–7 |
2018年 (平成30年) |
西前頭8枚目 8–7 |
東前頭6枚目 12–3 敢 |
西前頭筆頭 6–9 |
東前頭4枚目 9–6 |
西前頭筆頭 8–7 |
西小結 3–9–3[64] |
2019年 (平成31年 /令和元年) |
東前頭8枚目 10–5 |
東前頭筆頭 3–12 |
東前頭8枚目 3–5–7[65] |
西前頭15枚目 1–10–4[66] |
東十両8枚目 9–6 |
東十両5枚目 11–4[67] |
2020年 (令和2年) |
西前頭16枚目 8–7 |
東前頭14枚目 8–7 |
感染症拡大 により中止 |
東前頭10枚目 6–9 |
西前頭12枚目 7–8 |
西前頭12枚目 6–9 |
2021年 (令和3年) |
東前頭16枚目 休場[68] 0–0–15 |
東前頭16枚目 8–7 |
東前頭15枚目 9–6 |
東前頭11枚目 6–9 |
東前頭14枚目 6–9 |
東前頭17枚目 7–8 |
2022年 (令和4年) |
西前頭17枚目 5–7–3[69] |
東十両3枚目 4–11 |
x | x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 – 十両 – 幕下 – 三段目 – 序二段 – 序ノ口 幕内序列:横綱 – 大関 – 関脇 – 小結 – 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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