Warning: mysqli_query(): (HY000/1712): Index szlgt_options is corrupted in /var/www/html/jp/wiki13/wp-includes/wp-db.php on line 1924
March 2022 – Page 3 – Enzyklopädie

Month: March 2022

勇者王ガオガイガー – Wikipedia

『勇者王ガオガイガー』(ゆうしゃおうガオガイガー、The King of Braves GaoGaiGar)は、1997年2月1日から1998年1月31日まで、名古屋テレビ・テレビ朝日系列で毎週土曜17:00 – 17:30[注 1](JST)に全49話が放送された、名古屋テレビ・サンライズ制作のSFロボットアニメ作品。 1977年より同時間帯にて放送されてきた、名古屋テレビ・サンライズ制作によるロボットアニメ、並びに1990年から放送されてきた勇者シリーズの最終作であり、関連作品を除いてはシリーズ唯一のステレオ放送作品でもある。 概要 勇者シリーズの8作目に当たり、「ガガガ」「GGG(スリージー)」などとも通称される。監督の米たにヨシトモにはとにかく「ガガガ」という語感へのこだわりがあったようで、タイトルも当初は『勇者王ガガガッティー』というものが考案され、その後も『ガオガイガー』に決まるまでに『ガルガイガァ』『GOギーガー』などの候補も存在した。物語の基本原型は、古典文学の「竹取物語」であり、同時にその根底には「勇気があれば、いかなる奇跡も呼び込める」というメッセージが織り込まれている[1]。 本作品では、いわゆる「リアルロボット」系の作品の緊張感、そして「スーパーロボット」系に分類される作品のカタルシスを融合させるという、これまでのシリーズ作品とは一線を画した意欲的な作品作りが試みられた[1]。強大な地球外生命体と、人類の科学の粋を結集した巨大ロボットとの攻防を軸に、毎回緻密なメカニック描写を盛り込みつつも熱血漫画のように事態を収拾するというストーリー作りが、全編を通して貫徹されている[1]。こうしたリアル志向の作品作りは玩具展開の面にも影響を与えており、それまでのシリーズで顕著であった、アニメ内でのロボットの描写と実際に商品化されたロボット玩具との間の溝を埋めるべく、本作品ではアニメ制作側からこれまで以上に玩具メーカーに提案していくというスタンスが採られている[2]。その結果必殺武器としての剣や銃、所謂「グレート合体」に代表されるようなロボットのパワーアップを始めとした、従来のシリーズで「定番」とされてきた要素が本作品では排され、作中での描写においても商品としての玩具においても、個々のロボットのギミックや個性がより追求される格好となった[3][2]。 また本作品では、登場人物にそれぞれに膨大なバックボーンが設定されており、それらを補完する目的も兼ねて、ゲームや、ドラマCD、コミックスなど様々な形でのメディアミックス展開が行われた。本作品とメインスタッフや世界観が共通するテレビアニメ『ベターマン』(1999年)や、テレビシリーズ終了後に発表された続編OVA『勇者王ガオガイガーFINAL』(2000年、全8巻)もその一環であり、結果それまでの勇者シリーズの枠組みを超えた、「勇者王シリーズ」ともいえる独自の展開へと発展していった[1]。 あらすじ 1997年の冬の日、天海夫妻の目の前に謎のメカライオン・ギャレオンが飛来。夫妻に1人の赤子を託し、飛び去って行った。 2003年、高校生宇宙飛行士・獅子王凱が乗るスペースシャトルスピリッツ号は宇宙空間で機界生命体ゾンダーの宇宙船と衝突。凱は瀕死の重傷を負いながらもギャレオンに助け出され、地球に帰還。その手には緑色の宝石・Gストーンが握られており、凱の父・獅子王麗雄はGストーンを用いて、凱をサイボーグとして蘇生させる。 2年後の2005年。地下に潜伏しているゾンダーは地球侵攻を開始。対ゾンダー用に組織された地球防衛勇者隊GGGも出撃し、その一員となった凱は対ゾンダー用の巨大ロボ・ガオガイガーとなる。その圧倒的なパワーで敵を破壊。敵の核を壊そうとしたガオガイガーの前に羽を持った緑の髪の少年が現れ、核を元の人間へと戻す。彼こそが天海夫妻の手で育てられた赤ん坊が成長した姿、天海護であった。浄解能力を持つ護をGGG特別隊員に加え、GGGは地球防衛の戦いを続けていく。 幹部である機界四天王と上官であるパスダーを倒したのも束の間、ゾンダーの本隊である機界31原種と対原種を目的としたジェイアーク隊が出現。宇宙防衛勇者隊に再編成されたGGGは三つ巴の戦いを繰り広げていく。 戦いの最中、全ては三重連太陽系の紫の星のシステムの暴走から始まり、護とギャレオンは緑の星、ジェイアーク隊は赤の星の生き残りであることが判明。 GGGとジェイアーク隊は共闘の末に原種を打ち破るもジェイアーク隊は消息を絶つ。さらにパスダーの手で種子を埋め込まれていたGGG隊員・卯都木命が機界新種ゾヌーダに変貌。Gストーンの力も寄せ付けないゾヌーダの前に倒れていく勇者たちだったが凱の決死の浄解で命は救われ、凱も生機融合体への進化を果たす。事件後、護は他の星で機界新種の脅威にさらされている人々を救う為、ギャレオンと共に宇宙へと旅立った。

Continue reading

三条駅 (香川県) – Wikipedia

三条駅(さんじょうえき)は、香川県高松市上之町二丁目にある高松琴平電気鉄道琴平線の駅である。駅番号はK04。 相対式ホーム2面2線の地上駅。 のりば ホームは5両編成まで対応していて、2両分の屋根が設置してある。ホームのベンチには座布団が置かれている。駅建屋は1番線琴平方に設置。途中下車指定駅。 当駅から太田駅までは複線となっている。 名称こそ三条駅であるが当駅が位置しているのは三条町ではなく上之町であり、三条町の中心からも北寄りに離れた場所に位置している。ただし、その三条町は古代条里制に由来する町名であり、讃岐国では東から西へ数えた「条」は南北に長い土地の区画を表す位置表示である。同じく南北に細長い琴平線の場合も起点から仏生山までの全線はかつての「香東郡三条」に収まっていることから、この駅名は僭称的用法とはいえども、古くの本来の意味では全く間違いというわけではない。 駅名標(2014年10月) 利用状況[編集] 1日乗降人員推移 [1] 年度 1日平均人数 2011年 2,182 2012年 2,300 2013年 2,428 2014年 2,450

Continue reading

西大路駅 – Wikipedia

西大路駅(にしおおじえき)は、京都府京都市南区唐橋西平垣町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅である。駅番号はJR-A32。「JR京都線」の愛称区間に含まれている。 京都市電西大路線が西大路九条駅から延長されたのに合わせて開業した。 盛土上に島式ホーム2面4線を有する地上駅(12両編成対応)であるが、乗降は内側線の2線のみが使用されている。駅舎および1番のりばの頭上を東海道新幹線が通過する。当駅の桂川方で上り外側線から京都貨物駅への線路が分岐しているが、この分岐の信号機は京都貨物駅の場内信号機であり、当駅自体は絶対信号機がなく停留所に分類される。 エレベーターは設置されており、バリアフリー対応。但し、南口側からはエレベーターが設置されていない。 直営駅(長岡京駅の被管理駅のため駅長は配置されない)。ICOCA利用可能で、ICOCAの相互利用対象カードも利用できる。JRの特定都区市内制度における「京都市内」の駅である。 のりば[編集] のりば 路線 方向 線路 行先 1 A JR京都線 下り 外側線 (通過列車のみのため閉鎖) 2 A JR京都線

Continue reading

岐阜放送 – Wikipedia

「ぎふチャン」はこの項目へ転送されています。ぎふチャンラジオについては「岐阜放送ラジオ」をご覧ください。 この項目では、現存する放送局について説明しています。1956年まで同名を名乗った放送局については「ラジオ東海」をご覧ください。 岐阜市今小町にあった旧社屋(2008年6月に解体:跡地には岐阜新聞社の新印刷工場が建設された。) 株式会社岐阜放送(ぎふほうそう、Gifu Broadcasting System, Inc.)は、岐阜県を放送対象地域として中波放送(AMラジオ放送)とテレビジョン放送を兼営している特定地上基幹放送事業者である。 略称はGBS、愛称は「ぎふチャン」で現在は番組表表記などで主に後者が使用される。ラジオ・テレビともに独立放送局である。 放送局概要[編集] 概説・歴史[編集] 1962年9月、地元の地方紙である岐阜新聞社(当時は岐阜日日新聞社)により完全子会社ラジオ岐阜として設立。同年12月24日に全国45番目にラジオ放送を開始した。 きっかけとなったのは、1959年に発生した伊勢湾台風以降に、当時存在した県域ラジオ局の「ラジオ東海」[注釈 1] が、三重県域のラジオ局「近畿東海放送」(旧・ラジオ三重)と合併し、中京圏広域ラジオ局である東海ラジオ放送(1960年4月開局)となったことや、NHK岐阜がNHK名古屋から配信されている番組をそのまま放送していたため、大規模な自然災害などが起きた時に岐阜県を主体とした報道機関がないことへの不安からと言われている。その後、1968年8月にテレビ放送事業を開始するにあたり、現在の岐阜放送に改称した。 1992年4月より、岐阜テレビ・岐阜ラジオというテレビ・ラジオごとの新たな呼称が採用された[注釈 2]。後にラジオは、系列の岐阜新聞社も出資するエフエム岐阜(FM GIFU)を意識してか、「AM岐阜ラジオ」に呼称を変更している。 2005年には、開局以来初のマスコットキャラクター・はちゃ丸が登場。 2007年には、開局45周年を機に、岐阜市今小町(市役所などが立ち並ぶ岐阜市中心街。岐阜新聞社の隣)からJR東海岐阜駅前に建設された再開発ビル「岐阜シティ・タワー43」(2007年10月13日オープン)の4階フロアへ本社を移転。同年11月11日の11時11分11秒より放送を開始した。これに先だち、同年10月1日より同局の通称をぎふチャンとし(社名は変更なし)、テレビ・ラジオの番組表での表記も変更された。ただし、現時点では正式名称の「岐阜放送」が放送局名として番組で使用される例もみられる[5]。また公式サイトも一新され、トップページのミニ画面で「ぎふ100%」などのCMが視聴出来る他、一部アナウンサーの日記を掲載し始めるなど、以前よりも内容が充実した。 2011年7月24日の地上デジタル放送完全移行を機に、新キャラクターの「UPるんチャン」が登場した[6]。

Continue reading

理想気体の状態方程式 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “理想気体の状態方程式” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年7月) 理想気体の等温曲線。温度が一定のいくつかの条件下での圧力 p と体積 V の関係を示す。左下から右上に向かって高温になる。 理想気体の状態方程式(りそうきたいのじょうたいほうていしき、英語: ideal gas law)とは、気体の振る舞いを理想化した状態方程式である。 なお、理想気体は、この状態方程式に従うが、その振る舞いは状態方程式だけでは決まらず、比熱容量の定数性が要求される。 熱力学温度

Continue reading

バッファロー・ビル – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “バッファロー・ビル” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年2月) バッファロー・ビルとシッティング・ブル “バッファロー・ビル”ウィリアム・フレデリック・コーディ(William Frederick “Buffalo Bill” Cody, 1846年2月26日 – 1917年1月10日)は、アメリカ西部開拓時代のガンマン、興行主。1872年に名誉勲章を受章した。 「野生の西部ショー」のポスター(1900年) 1846年2月26日、アイオワ準州(のちのアイオワ州)のルクレール市近くの丸太小屋の農場にて生まれる。両親、父アイザック・コーディと母メアリー・コーディは1840年にオハイオ州シンシナティからアイオワ準州に家族と共に移住していた。1853年に兄のサミュエルが死んだ後、彼と家族はアイオワ準州からカンザス州に移住し、幼時から馬や銃の扱いに長けていたといい、まだ15歳だった1861年にポニー・エクスプレスの御者として雇われている。雇われた当時のOverland

Continue reading

利尻富士町 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “利尻富士町” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年8月) 利尻富士町(りしりふじちょう)は、北海道最北の宗谷地方、利尻島にある町。 地名の由来は、アイヌ語の「リー・シリ」(高い島)に由来する利尻山の通称「利尻富士」から。 宗谷地方西部の日本海上にある利尻島東部に位置する。 地勢は険しく、山と海にはさまれた海岸に集落が点在、 北部の鴛泊(おしどまり)、南部の鬼脇が主要な集落。 海に囲まれているため夏冬の気温の格差は小さい。夏は30度未満、冬は最低でも-10度程度。 風が強く、年平均風速は5m以上。 隣接している自治体[編集] 以下の市町村は隣接していないが、航路により関係が深い。 縄文時代より栄える。 江戸時代は松前藩によってリイシリ場所が開かれていた。

Continue reading

おおかみ座 – Wikipedia

おおかみ座(おおかみざ、狼座、Lupus)は、南天の星座でトレミーの48星座の1つ。日本の多くの地域では高く昇らないので目立たず、また九州以南でなければ全体を見られない。 主な天体[編集] 恒星[編集] 固有名のある恒星はない[1]。2等星のα星以外にも3等星が6つある。 また、西暦1006年におおかみ座領域に超新星 (SN 1006) が出現したことが記録されている。 星団・星雲・銀河[編集] NGC 5822:散開星団。星座南部にある。 NGC 5749:散開星団。星座南部にある。 NGC 5824:球状星団。星座北部にある。 NGC 5986:球状星団。星座北部にある。 IC 4406:惑星状星雲。西部の境界線上にあり、2つの渦巻銀河と、ウォルフ・ライエ星を含む。この星雲の中心星は知られている中で最も高温の星の1つである。 NGC

Continue reading

巨福呂坂 – Wikipedia

巨福呂坂(旧道)を南側(鎌倉方面)から望む(2004年11月9日撮影) – このすぐ奥は、私有地のため通行できなくなっている 巨福呂坂洞門(新道)を南側(鎌倉方面)から望む(2004年11月9日撮影) – 1993年5月に竣工した落石防護施設。 地図 巨福呂坂(こぶくろざか)は、神奈川県鎌倉市に存在する切通しで鎌倉七口のひとつ。小袋坂とも書く。鶴岡八幡宮裏手の雪ノ下から山之内(現在のJR北鎌倉駅付近)を結ぶ道。 鎌倉時代・吾妻鏡の記録[編集] 『吾妻鏡』には貞応3年(1224年)12月26日の条(※11月20日に元仁元年に改元)に四角四境祭の記述があり、その中に「所謂四境は、東六浦・南小壺・西稲村・北山内」とある。その後、文暦2年(1235年)12月20日条(※9月19日嘉禎元年に改元)の四角四境祭では小袋坂の地名が見える。この山内と小袋坂はこの場合は同じ場所、ないしは近辺と考えて良く、北鎌倉駅ホームから北側の高台に見える後の山ノ内の鎮守八雲神社がその場所に建てられたとの伝承がある。 仁治年間に鎌倉幕府執権、北条泰時が命じて作らせた切通しと一般に思われており、それを強いて否定すべき記録も無いが、『吾妻鏡』延応2年(1240年)10月10日条および10月19日条(※改元・仁治元年)に出てくるのは「山内の道路を造らる」であり、建長寺から鶴岡八幡宮寺までの峠道であるかどうかは明文ではない。なおその工事の事情は「これ嶮難の間、往還の煩い有るに依ってなり」とある。 その10年後の建長2年(1250年)6月3日の条には北条泰時の孫の北条時頼の沙汰として「山内並びに六浦等の道路」とあり、その工事の理由として、先年山内の道路を作って往来を容易にしたが崖崩れ等により土石に埋もれてしまったので、とある。 「先年」とは北条泰時が命じた工事[2]であることは確実であろうが、この場合の山内は北条泰時にとっては現在の大船5丁目の常楽寺近辺の別業(別邸)からであり、北条時頼にとっては山内西亭(現在の明月院の近く)からの往来であって、そのルートは現在言われる巨福呂坂切通と亀ヶ谷坂切通の2つとも該当する。 鎌倉史の学者の世界では「はっきりとは判らないが建長寺前を通る峠道とみなして大過あるまい」と言うレベルである。 鎌倉北条氏滅亡の戦記[編集] 元弘3年(1333年)5月の鎌倉の戦いで新田義貞率いる倒幕軍をこの地で迎え撃ったと言われている。この時代の戦記で比較的信用されている『梅松論』では「武蔵路」は第16代執権赤橋守時が大船と深沢の間の洲埼・千代塚で戦い「一足も退かず自害す」とあり、その後の5月18日から22日の間「山内・小袋坂・極楽寺の切通以下鎌倉中の口々、合戦の鬨の声・矢叫び・人馬の足音暫しも止む時なし」とあるのみで場所を特定する手がかりは無い。 江戸時代初期の記述[編集] 巨福呂坂の鶴岡八幡宮側、聖天坂の道祖神。(2007.02.10撮影) 「玉舟和尚鎌倉記」では「亀ヶ井坂」と「小袋坂」が分けて書かれ、徳川光圀の「鎌倉日記」になって亀ヶ井坂を「亀ヶ谷坂」、小袋坂を「巨福呂坂」と記述される。つまり、建長寺前から峠に至る道を「小袋坂」を「巨福呂坂」とした確実な文献は江戸時代初期のものである。 江戸時代後期の記録[編集]

Continue reading

玖珠郡 – Wikipedia

大分県玖珠郡の位置(1.九重町 2.玖珠町) 玖珠郡(くすぐん)は、大分県(豊後国)の郡。 人口22,279人、面積557.88km²、人口密度39.9人/km²。(2022年3月1日、推計人口) 以下の2町を含む。 郡域 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町のまま変更されていない。 歴史 古代 太宰府出土の木簡に、「久須評」と書かれたものがあり、7世紀の評制時代の球珠郡のことと推定される[1]。評が郡に改称したのは大宝元年(701年)である[2]。 天平12年(740年)頃までに成立したとされる『豊後国風土記』において、豊後国の8つの郡のひとつとして球珠郡(漢字が現在の「玖」ではなく「球」である)が挙げられている。同書の球珠郡の条には、「昔此村有洪樟樹因曰球珠郡」と記されており、昔、この地に大きな樟があったことに因んで付けられたとされる。範囲は、概ね現在の玖珠郡全域にあたる。 また、承平年間(931年 – 938年)に成立した『和名類聚抄』でも、球珠郡とされており、今巳、小田、永野の3郷があったと記されている。 江戸時代 1803年の唐橋世済他『豊後国志』によれば当時の玖珠郡には郷四、山田、古後、帆足の4郷があり、村は麻生原(アソバル)、内匠(タクミ)、恵良(ケラ)、美良津、魚返(オカエリ)など合計81村(村54、支村27)[3]。人口は約29,000人(石高29,333石)。特産品は砂金[4]、明礬石、砥石、天麻(漢方薬原料のオニノヤガラ)等。 近世以降の沿革 知行 村数 村名

Continue reading
Exit mobile version