Month: April 2022

エディ・チーバー – Wikipedia

エドワード・”エディ”・マッカイ・チーバーJr.(Edward “Eddie” McKay Cheever, Jr. 、1958年1月10日 – )はアメリカ出身のカーレーサー。元F1、CART、IRLドライバー。2008年現在、アメリカ人のF1最多出走ドライバーである。F1時代はエディ・チーバーと、またアメリカに戻ってからは、エディ・チーバーJr.と呼ばれることが多い。1998年にインディ500をチームオーナー兼ドライバーとして制している。また、弟のロス・チーバーは日本でも活躍したドライバーで、息子もヨーロッパを中心に活躍しているドライバーである。 プロフィール[編集] カート/F3時代[編集] アリゾナ州フェニックス出身。幼少時にイタリア・ローマに移住し、そこでレーシングカートでレースキャリアをスタートさせる。カートでチャンプ獲得後はフォーミュラ3に参戦。F3では同じアメリカ人で、後に同じくF1に参戦し、インディ500も制したダニー・サリバンとコンビを組み、またフォーミュラ2ではマクラーレン参入前のロン・デニスのチーム、プロジェクト4で走っている。 F1時代[編集] 1978年、弱冠20歳でセオドールから開幕2戦にエントリーするも、共に予選落ちし、ケケ・ロズベルグに交代させられる。ヘスケスからエントリーした翌3戦目の南アフリカで初めて予選を通過するが、この年の決勝レースはこれ1戦のみとなる。また翌年はブランクをあけることになる。 1980年、オゼッラから初めてフル参戦を果たすが、4戦予選落ち、完走1戦のみに終わる。活躍するのはティレルに移籍した1981年から。開幕戦母国アメリカで初入賞を5位で果たすと計5戦に入賞、10ポイントを上げる。さらにリジェに移籍した1982年には入賞は4戦に減るが、母国での2位表彰台を含む3回の表彰台を獲得し、翌1983年にルノーに抜擢される。 ルノーでは、アラン・プロストのチームメイトとなり、4度の表彰台を含む22ポイントでランキングベストの7位に食い込む。しかしルノーでの生活も1年で終わり1984年・1985年はアルファロメオに在籍。アルファロメオの戦闘力不足でもあり、この2年間での成績は移籍初戦の4位入賞のみであった。 1986年はカール・ハース率いるハース・ローラから母国アメリカのみスポット参戦。1987年からは中堅チームのアロウズに3年間在籍し、1989年アメリカグランプリでは3位表彰台を獲得するが、目立った成績を上げることはできず、1989年末で母国アメリカへと戻ることになる。 CART/IRL時代[編集] その後はCARTへチップ・ガナッシ・レーシングのCART最初のドライバーとして参戦。CARTとIRLが分裂した1996年にはIRLへ移籍、その年のインディ500では決勝ファステストラップのトラックレコード(236.103mph/379.971km/h)を樹立した。同年後半には自らのチームを立ち上げ、IRLでの参戦を継続する。 1998年にはインディ500を制し、またその後は参戦台数中1、2台しか採用していなかった日産製インフィニティエンジンで参戦を続けたが、インフィニティが撤退した2002年限りで第一線からは退き、その後はチームオーナーに専念しつつ、インディ500を中心としたスポット参戦や、グランプリマスターズにも参加(シルバーストン大会では優勝)している。 エピソード[編集]

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金山寺 – Wikipedia

この項目では、岡山市の寺院について説明しています。その外の金山寺については「金山寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 金山寺(きんざんじ、かなやまじ)は、岡山県岡山市北区金山寺(かなやまじ)にある天台宗の寺院。山号は銘金山。近世には銘金山観音寺遍照院とも呼ばれていた[1]。本尊は千手観音。 寺に伝わる『金山観音寺縁起』(室町時代の成立)によれば、当寺は奈良時代の天平勝宝元年(749年)に報恩大師が孝謙天皇の勅命により開創し、後に報恩開創の備前四十八箇寺の根本道場となったという。創建当時は法相宗に属し、裏山の三鈷峰に建てられていた。本尊として報恩大師自作の千手観音が安置されたと伝わっている。 報恩大師(? – 795)は、備前国津富郡波河(岡山市芳賀)の出身という半ば伝説的な僧で、岡山県地方の古寺には報恩の開基伝承をもつものが多い。 寺は延久元年(1069年)焼失し、平安時代末期の康治元年(1142年)に現在地に移された。 嘉応年間(1169年 – 1170年)に宋より帰国した栄西により護摩堂などが建てられ宗派も天台宗に改められた。この時に院号を遍照院とした。鎌倉時代には将軍家の祈祷所となっている。 戦国時代の文亀元年(1501年)金川城主の松田氏は金山寺に対し自身の信奉する日蓮宗への改宗を迫った。寺院側はこれに応じなかったため、松田氏は寺院を焼き払い堂宇は灰燼に帰した。 その後、伯耆国大山寺より法印円智(豪円)が来山し、松田氏を滅ぼした宇喜多直家の援助を得て、天正3年(1575年)に本堂・護摩堂を再建した。この時に建造された本堂(2012年焼失)は国の重要文化財に指定されていた。宇喜多氏の庇護下、備前国の寺社総管として優遇された。江戸時代になると、岡山藩主池田光政により寺社総管から備前国天台宗総管に改められた。なお、光政は仁王門を寄進している。 平成24年(2012年)12月24日、本堂が火事で全焼した[2]。 その後平成25年(2013年)8月7日付の官報告示で、本堂の重要文化財指定が解除された[3]。 重要文化財(国指定) 金山寺文書(もんじょ) 附:金山観音寺縁起 – 平安時代から室町時代までの古文書7巻(52通)と縁起書1巻からなる。寺領に関する文書が多数を占める。昭和44年(1969年)6月20日、重要文化財指定。

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城下かれい – Wikipedia

城下かれい(しろしたかれい又はじょうかかれい)は、大分県速見郡日出町で漁獲されるマコガレイである[1]。「城下カレイ」[2]や「城下ガレイ」[3]等と表記されることもあるが、ブランド名としての正確な表記は「城下かれい」(「かれい」は清音で平仮名表記)である。 日出町は、別府湾に面する高台に建つ日出城(暘谷城)を中心とする日出藩の城下町であった。この城の下にある海岸付近では海底の数箇所から清水が湧き出て、付近の海域は塩分濃度の低い汽水域となっている[4]。このため、この海域で海水性・淡水性のプランクトンを食べて成長するマコガレイは、泥臭さがなく、味は淡白かつ上品であることで知られており、城の下で獲れることから城下かれいと呼ばれる[1]。 城下かれいは、肉厚で、頭が小さく、尾ヒレが広く角張っていないといった形態上の特徴を有し、他で漁獲されるマコガレイと区別される[1]。 その美味は古来より知られており、江戸時代には武士しか食べることができなかった[注 1]。また、日出藩では端午の節句の全員登城の際に城下かれいの料理が出され、そのために4月頃から一般には禁漁にされたともいう[6]。城下かれいは、将軍への献上品とされて珍重されていた。通常は、参勤交代の際に干物が献上されていたが、閏年には端午の節句に間に合うよう、生きた城下かれいをいけすを備えた船や早馬を用いて江戸まで運んだといわれる[1][注 2]。 毎年5月には日出町で城下かれい祭りが開催され、城下かれいを通常よりも手頃な価格で味わうことができる催しもあるが、人気のため毎年競争率が高い。ゴールデンウィークの時期には観光客が多く価格も高騰するため[5]、城下かれい祭りの時期を避けて、城下かれいをランチセットで比較的安価に提供している料理店に行くのも一つの方法である。 美味しく食べることができるシーズンは、産卵に向けて肉付きが良くなる4月から9月頃にかけてである。特に5-7月頃は最も味が良くなる時期といわれている[1]。 調理法としては、刺身、寿司、吸い物、天ぷら、唐揚、南蛮漬、煮付などがある[1][7]。刺身は梅酢を使ったタレで食す[6]。 漁獲量向上への取り組み[編集] 日出町におけるカレイ類の漁獲量は昭和50-60年代には100トンを超えていたが、近年は大幅に減少し、20トン以下で推移している。このうちマコガレイは1-2割程度である。漁獲量減少の原因ははっきりしないが、藻場の減少、海水温の上昇、護岸工事による産卵場所の消失等が考えられるという[2]。 大分県では1968年(昭和43年)から稚魚の放流に取り組んでおり、2000年(平成12年)からは日出町や別府湾岸の大分市、別府市、杵築市の3市と共同で稚魚の中間育成、放流を行っている。また、日出町ではアマモ場の再生にも取り組んでいる[2]。 人物に関するエピソード[編集] 城下海岸にある高浜虚子の句碑 木下謙次郎が1937年(昭和12年)に著した『続・美味求真』では、日本国内の名物料理八種のひとつに挙げられ、「この魚の特徴は、肉質やわらかく色が純白で、少しの生くささも無いことである。これを刺身にすれば光沢があって青水晶のごとく、香味優逸にして確かに魚介の首位に推すべきである」と称賛されている[1][6]。 高浜虚子は、日出町を訪れて城下かれいを賞味した際に、「海中に 真清水湧きて 魚育つ」という句を残しており[8]、城下海岸にはこの句の句碑が建立されている[9]。 城下かれいを供することで有名な日出町の料亭「的山荘」では、皇室、並びに各界の多くの著名人が訪れている[10]。その中には、松本清張、司馬遼太郎、小林秀雄[11]、江藤淳[11]らも名を連ねている。 森高千里の代表曲のひとつ(後にミニモニ。もカバーした)である『ロックンロール県庁所在地』の歌詞に「城下かれい」が登場する。

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フレッチャー・プラウティ – Wikipedia

レロイ・フレッチャー・プラウティ(Leroy Fletcher Prouty, 1917年1月24日 – 2001年6月5日)はアメリカ合衆国の軍人、作家、実業家、外交評論家である。 プロフィール[編集] プラウティは23年間軍務に就いた。最終階級は大佐。1955年から1964年にかけてペンタゴンで統合参謀本部、国防長官、空軍のスタッフを務めたが、彼の任務内容はペンタゴンとCIAとのリエゾン・オフィサー(連絡将校)であった。1970年代にはアムトラックのシニア・ディレクターとなり、また全米鉄道基金博物館(National Railroad Foundation and Museum)の理事も務めた。 CIAとペンタゴンとのリエゾンは政府内の重要機密に触れることのできる数少ない役職であり、そのときの経験からプラウティはCIAが政府や議会の目の届かないところで国際情勢にいかに影響を及ぼしているかを指摘してきた。自身の著書ではCIAの機構とその発展、冷戦の期限、U-2撃墜事件、ベトナム戦争、ケネディ大統領暗殺事件の真相などについて詳述している。プラウティはこれらの出来事は全て密接に関わりあっており、その裏には極秘の「グローバル・エリート」の存在があると指摘している。プラウティの軍及び政府における経歴は、これらのプラウティの主張に信憑性を与えている。 この関連の話はプラウティの著書『The Secret Team: The CIA and Its

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ソモト – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ソモト” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年2月) ソモト Somoto Municipality ソモト中心部にあるパロキア教会 旗 印章 ソモトの位置(ニカラグア) 座標: 北緯13度28分 西経86度34分 /

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段落記号 – Wikipedia

¶ 段落記号(だんらくきごう)は段落を表す約物であり、「¶」のような形で見られる。 英語では pilcrow (ピルクロウ) または paragraph markと呼ばれるほか、alinea (ラテン語:a linea, 「行から離れて」)ともいう。 段落記号は、個別の段落の字下げとしても、長い文書のなかで新しい段落を明示する際にも使われる。後者はエリック・ギルの著作An Essay on Typographyに見られる。段落記号は中世では朱書の一種であり、段落を視覚的に分離するのが一般的でなかった頃に一連の考え(英語版)を示すのに使われた。[1] 一般には、段落の区切りを表す目的で、段落の始めあるいは段落の終りのいずれか一方に置かれる。 段落記号はディセンダーラインからアセンダーラインにかかる小文字のqのように描かれることが多い。丸の内側は塗りつぶしてもしなくてもよい。椀型の部分を更に下に伸ばし、Dを反対にしたように描かれることもあって、これは古い印刷でよく見られる。 1477年の書物に見える段落記号 capitulumから現代の段落記号までの予想される変遷 図形はラテン文字の「C」(「章」を意味するラテン語:

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品川警察署 – Wikipedia

品川警察署(しながわけいさつしょ)は、警視庁が管轄する警察署の一つである。 警視庁第二方面に属し、品川区の東北部を管轄している。 署員数およそ180名、識別章所属表示はNA。 東京都品川区東品川三丁目14番32号 最寄駅:京浜急行電鉄本線新馬場駅 管轄区域[編集] 品川区 東品川一・二・三・四丁目(五丁目は東京湾岸警察署の管轄) 南品川一・二・三・四・五・六丁目(全域) 広町一・二丁目(全域) 西品川一丁目(25番・26番・28番から30番までを除く)、二丁目(9番の一部を除く)、三丁目(一丁目25番・26番・28番から30番までと二丁目9番の一部は荏原警察署の管轄) 豊町一丁目(2番の一部。それ以外の地域は荏原警察署の管轄) 戸越一丁目(25番から27番・29番の各一部、31番。それ以外の地域は荏原警察署の管轄) 北品川一丁目(6番を除く)、二・三丁目、四丁目(一部を除く)、五・六丁目(一丁目6番と四丁目の一部は高輪警察署の管轄) 東五反田二丁目(16番から22番まで)、三丁目(18番・19番、20番の一部。それ以外の地域は大崎警察署の管轄) 沿革・歴史[編集] 台場交番(品川区北品川一丁目29番8号) 青物横丁駅前交番(品川区南品川二丁目5番9号) 三ツ木交番(品川区西品川二丁目6番12号) 御殿山交番(品川区北品川六丁目7番21号)

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サン・カロージェロ – Wikipedia

サン・カロージェロ(イタリア語: San Calogero)は、イタリア共和国カラブリア州ヴィボ・ヴァレンツィア県にある、人口約4,200人の基礎自治体(コムーネ)。 位置・広がり[編集] 隣接コムーネ[編集] 隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のRCはレッジョ・カラブリア県所属を示す。 人口動態[編集] 外部リンク[編集] アックアーロ , アレーナ , ヴァッツァーノ , ヴァッレロンガ , ヴィボ・ヴァレンツィア , カピストラーノ ,

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コンポーネント (自転車) – Wikipedia

自転車におけるコンポーネントは、自転車を構成する複数の部品をひとまとまりで扱うための呼称である。略してコンポとも呼ばれる。日本のシマノが最初に用い、シマノ製コンポーネントが広く使われるに従い一般呼称として広まった。シマノでは自転車部品全てを指してコンポーネントと呼ぶことがあるが、一般には、フレーム、フォーク、ホイール(車輪)、タイヤ、サドル、ハンドルは含まれない。英語圏ではカンパニョーロが自社製品につけた英語呼称「グループセット (Groupset) 」が(たとえシマノ製であっても)一般用語として用いられることが多く、Groupやイタリア語のGruppoも日本語でのコンポ相当で英語圏で広く使われる。 コンポーネントとは、シマノが1970年代前半から導入した「自転車部品セット販売」の呼称である。当時、クランク、変速機、多段ギア、ハブなど自転車を構成する部品は、個別に専門メーカーが開発・製造・供給販売しており、完成車メーカーは、部品メーカーの製品を選択し組み付け製造していた。ギア、チェーン、変速機などの革新に従い、部品メーカーの部品を組み合わせる際に、部品互換性を検証する必要があった。しかも部品を発注するには複数メーカーへの発注を毎回繰り返すこととなった。 シマノが市場調査でここに注目し、研究開発した成果がコンポーネントだった。部品メーカー一社による互換性問題が少ないセット物での部品一括供給は完成車自転車メーカーに大いに好まれ、このためシマノが世界に冠たる企業として躍進した一方、自転車部品業界にとっては革命的な事態となり世界的な部品メーカーが幾社も淘汰される端緒となった。カンパニョーロは「Gruppo(グルッポ)」(英語でGroupset、グループセット)と名づけてこれに参入した。その後は部品メーカーの寡占化が進むと同時に自転車部品は複数部品を組み合わせた形で供給されることが主流となった。 1970年代当時のコンポーネントの一例: 現在はこれにペダルも含まれる。自社製品をなるべく多く完成車メーカに買ってもらうための戦略がコンポーネントという売り方だった。 シマノのコンポーネントという売り方が功を奏したため、各メーカもこぞって自社製品をシリーズ化し、シマノと同じような売り方をはじめた。最初のシマノのコンポーネント・シリーズはデュラエースであるが、変速機は以前から売られていたCraneであった。その後はグループごとに開発が進み、グループごとに特徴があるコンポーネントへと進化していった。 通常、コンポーネントは部品の組み合わせなどで複数の価格帯で用意され、それぞれの価格帯(グレード)ごとに個別の名称(ブランド名、通常は登録商標)がつけられるのが一般的である。同一フレーム使用の完成車であっても、価格帯の異なるコンポーネントでの複数組み合わせを用意することで、価格差をつけて複数の完成車両とすることができ、これを異なる名称で販売することができる。自転車メーカーが経費をかけずに車両バリエーションを増やせる方法の一つである。 各社のコンポーネント[編集] 自転車部品を広範に作りしかも一定の品質で大量に供給することができるメーカーは非常に少ない。そういったコンポーネントメーカーはシマノ、カンパニョーロ、SRAMだけである。近年まではその3社に絞られていたが、FSAやROTORなどのパーツメーカーも少量ではあるものの、コンポーネントを販売している。以前は、日本のマエダ工業(サンツアー)、イタリアのジピエンメ、レジナ[要曖昧さ回避]、フランスのマヴィック、スイスのエドコ、スペインのゼウスなどからもセット販売があった。イタリアのミケなどのように他社であるシマノやカンパニョーロのパーツと組み合わせてコンポーネントを構成するメーカーも存在する。MTB用パーツメーカーとして有名なSRAMが、2007年から独自コンポーネントの販売を開始した。ダイヤコンペ(吉貝機械金属)はこれのOEM供給を受け、ロードバイク用変速機を販売した。 自転車構成部品メーカーはコンポーネントメーカー以外に、上記のダイヤコンペやスギノテクノなど、単体の部品(パーツ)メーカーが未だ多数存在している。これらの部品メーカーは普及品での完成車への部品供給よりも高級あるいは専門のニッチ領域を対象としていることも多い。これらのパーツをロードバイクに組み込むことも可能である。自転車競技のトップ選手の中にもスポンサー企業から無償供給されたコンポーネントではなく、自費購入の楕円形のギヤ板などを使用することがある。 シマノ[編集] 日本のメーカーである。1980年代から頭角を現し、マウンテンバイクの急速な進歩によって現在では世界的なメーカーとなった。マウンテンバイクの部品ではほぼ独占に近い存在で、1990年代からはロードバイクの部品でほぼ独占状態だったカンパニョーロと競合するようになり、現在では少なくとも日本国内での売り上げにおいてカンパニョーロを完全に追い越している。とくに「STI」の開発によりカンパニョーロより一歩抜きん出た存在となった(現在はカンパニョーロも追従)。高品質・低価格であることから、発売されている完成車の多くはシマノのパーツを(一部だけでも)採用していることが多い。最上位機種の「デュラエース」はロードレースからトライアスロンまで、幅広く利用できる。 ロードバイク[編集] マウンテンバイク[編集] カンパニョーロ[編集] イタリアの老舗メーカー。日本語ユーザでは略して「カンパ」、英語でも略して「Campy(キャンピー)」と表されることが多い。車輪の脱着を容易にする「クイックリリース」を発明した会社。戦後から変速機でリードを取り、現在でもコンポーネントを製造している。1980年代に低迷していた時期もあったが、いまだに自転車競技では絶対に欠かすことのできない存在で、ツール・ド・フランスなどの世界各国のレースで使用されている。特に最高級コンポーネント「レコード」は長年のレースでの実績を背景としたブランドにおいて突出した存在である。現在の傾向としてはチタンやカーボンなど多くの新素材を積極的に採用することによって、変速性能面で優位に立つシマノに重量で対抗している。カンパニョーロはマウンテンバイクの部品も一時期製作していたが、現在ではロードバイクの部品のみである。2017年のコンポーネントのブランドは以下の通りである。 スーパーレコード (Super

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