Month: April 2022

草薙剣盗難事件 – Wikipedia

神宮の伝承では、草薙剣を盗み出した僧道行はこの門を通ったという。 草薙剣盗難事件(くさなぎのつるぎとうなんじけん)は、飛鳥時代の天智天皇7年(668年)に発生した、草薙剣(天叢雲剣)の盗難事件。 日本書紀[編集] 事件は、『日本書紀』(養老4年(720年)成立)において簡潔に記載されている。同書天智天皇7年(668年)是歳条によると、沙門(僧の意)の道行が草薙剣を盗み、新羅に向かって逃げた。しかしその途中で風雨に遭ったため、道行は迷って帰ってきたという。同書では道行の素性に関する記載はなく、その後の道行の経緯も記されていない。 草薙剣のその後については、事件18年後の朱鳥元年(686年)6月10日条に記述がある。同条によると、天武天皇が病を得た際に占いで草薙剣による祟りだと見なされたため、剣を尾張国の熱田社(現・愛知県名古屋市の熱田神宮)に送り置いたという。 是の歳に、沙門道行、草薙剣を盗み、新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあひて、芒迷(まと)ひて帰る。 — 『日本書紀』天智天皇7年是歳条[2] 戊寅に、天皇の病を占ふに、草薙剣に祟れり。即日(そのひ)に、尾張国の熱田社に送り置く。 — 『日本書紀』朱鳥元年6月戊寅条[3] 熱田太神宮縁記[編集] 熱田神宮側の文献として、鎌倉時代初期頃の成立[注 1]になる『尾張国熱田太神宮縁記』では、道行を新羅僧として説話を記載する(素性を新羅僧とするのは、一説に『日本書紀』の記述の拡大解釈[2])。 それによると、道行は熱田社から神剣(草薙剣)を盗み出し本国に渡ろうとしたが、伊勢国において神剣は独りでに抜け出して熱田社に還った。道行は再び盗んで摂津国より出港したが、海難のため難波に漂着した。道行は神剣を投げ捨て逃げようとしたが、神剣がどうにも身から離れず、ついに自首して死罪に処せられたという。 そして朱鳥元年(686年)6月10日、天武天皇の病が神剣の祟りと見なされ、神剣は熱田社に移されたとしている。 その他[編集] 大同2年(807年)の成立になる『古語拾遺』では、簡潔ながら、外賊が草薙剣を盗み逃げたが境を出ることが出来なかったと事件について触れている。 草薙神剣者。尤是天璽。自二日本武尊催旋之年一。留任二尾張熱田社一。外賊偸逃。不レ能レ出レ境。 — 『古語拾遺』[6] 草薙剣関連年表 年月日

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岡山県第5区 – Wikipedia

岡山県第5区(おかやまけんだい5く)は、日本の衆議院議員総選挙における選挙区。1994年(平成6年)の公職選挙法改正で設置。 2013年(平成25年)公職選挙法改正以降の区域は以下のようである[1][2][3]。 1994年(平成6年)公職選挙法改正から2013年の小選挙区改定までの区域は以下のようである[4]。 中選挙区時の旧岡山2区のうち笠岡市、井原市、総社市、高梁市、新見市、都窪郡山手村・清音村、浅口郡、小田郡、後月郡、吉備郡、上房郡、川上郡、阿哲郡が選挙区域となった。その後、市町村合併があったため現在の選挙区域は笠岡市、井原市、総社市、高梁市、新見市、真庭市(旧北房町域)、倉敷市(旧船穂町・真備町域)、浅口市、浅口郡、小田郡、加賀郡吉備中央町(旧賀陽町域)となっている。 小選挙区比例代表導入時に旧2区選出の自由民主党所属議員には、加藤六月、橋本龍太郎、村田吉隆がいたが、加藤は離党し新進党に移ったため、橋本は地盤が重なる(橋本は総社市、村田は井笠地区が地盤)5区を村田に譲り、自身は加藤と対峙する4区から出馬した。 加藤六月の娘婿に当たる加藤勝信が地元、5区からの出馬を強く希望しており、六月の引退直後に行われた2000年の総選挙では民主党の公認候補として5区から出馬を試みていたものの、直前で自民党の比例代表に鞍替えしている。 また2005年の総選挙では5区からの出馬を自民党に熱望した。しかし同選挙区からは当時、国家公安委員長村田吉隆が既に立候補を表明していたため党本部は比例から出馬するよう説得した。しかし本人はこの説得を固辞し、無所属による岡山5区からの立候補を表明。自民への票が二分になるのを恐れた党本部は急遽、仲裁に乗り出しコスタリカ方式による出馬で決着させた。 第45回衆議院議員総選挙では、加藤が5区より立候補するため村田は比例に回り、結果は加藤が初当選し、民主党は花咲宏基が比例復活した事により小選挙区制導入後初めての議席を獲得した。 第46回衆議院議員総選挙以降は加藤の横綱相撲が続いており、野党は誰一人比例復活ができない状況となっている。 第50回衆議院議員総選挙では岡山県内の選挙区が5から4に削減される見通しで当選挙区は廃止となる予定。 小選挙区選出議員[編集] 選挙結果[編集] 時の内閣:第1次岸田内閣 解散日:2021年10月14日 公示日:2021年10月19日当日有権者数:26万2936人 最終投票率:54.33%(前回比:1.82%) (全国投票率:55.93%(2.25%)) 樽井は国民民主党公認で比例中国ブロック単独で立候補したが落選。 時の内閣:第3次安倍第3次改造内閣 解散日:2017年9月28日 公示日:2017年10月10日当日有権者数:27万4649人 最終投票率:52.51%(前回比:1.61%)

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大分麦焼酎 – Wikipedia

大分麦焼酎(おおいたむぎじょうちゅう)は、大分県酒造組合の地域団体商標(登録商標第5027126号)。原料がこうじを含めて麦100%で、大分県で瓶詰・出荷される麦焼酎に使用できる商標である。 戦前[編集] 大分県では、江戸時代に「粕取焼酎」が製造されていたが、これは清酒粕を発酵させたものにもみ殻を混ぜ、セイロで蒸してアルコール分を抽出したものであった。明治時代の中頃になると、製造技術の進歩にともない、白糠や穀物を原料とした焼酎が製造されるようになった[1]。 麦焼酎の開発とブーム[編集] 1951年に麦の統制が撤廃されると、麦こうじの開発が始められた[1]。そして、米こうじが一般的であったなか、1973年に主原料が大麦で、こうじも麦こうじの麦100%の焼酎が二階堂酒造から発売された[2][3]。 二階堂酒造および三和酒類がイオン交換濾過法の技術を駆使した麦焼酎を開発し、それが東京などで受け入れられた[4]。結果、大分の麦焼酎は徐々に日本中で知られるようになった。元来、清酒文化圏であった大分では、1975年に当時の大分県知事立木勝が県産品愛用運動の重点項目として豊後特産麦焼酎を取り上げたことで麦焼酎が広まった[5]。1979年に当時の大分県知事平松守彦が提唱した一村一品運動とも連動して、日本全国でブームが巻き起った[6][1]。 現状[編集] 2003年頃からの本格焼酎ブームにおいては、芋焼酎を中心に材料や製法にこだわった焼酎が人気を集めたが、イオン交換濾過法や減圧蒸留を用いた大手の製品が中心の大分麦焼酎が大きく注目を集めることはなかった。近年では、小規模な大分麦焼酎のメーカーには、常圧蒸留・無濾過の商品を出すところも増えてきており、大分麦焼酎と一口に言うもののさまざまな特徴を持った多様な商品群が登場し、幅が広がってきている。大分県の出荷量の多数を占める三和酒類・二階堂酒造の両社が本格焼酎ブームが起こる前と比較して出荷量を減らす一方で、他の小規模蔵が出荷量を増やしていることから、消費者のニーズも減圧・イオン交換濾過の麦焼酎から常圧・低濾過の麦焼酎へシフトしていることが判る[7]。 2007年1月には、大分県酒造組合が申請した「大分麦焼酎」が地域団体商標(地域ブランド)として登録された[8]。2007年6月には「大分むぎ焼酎」も地域団体商標として登録されている[9][10]。 大分麦焼酎の製造元とブランド[編集] 三和酒類 – 宇佐市。“下町のナポレオン”のキャッチコピーで有名な「いいちこ」の製造元。大分県のメーカーで焼酎乙類出荷量第1位[7]。 二階堂酒造 – 日出町。「大分むぎ焼酎二階堂」の製造元で、「吉四六」も造られている。大分県のメーカーで焼酎乙類出荷量第2位[7]。 老松酒造 – 日田市。「閻魔」の製造元。大分県のメーカーで焼酎乙類出荷量第3位[7]。 八鹿酒造

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ピョートル・コシェヴォーイ – Wikipedia

ピョートル・キリーロヴィチ・コシェヴォーイ(ロシア語:Пётр Кириллович Кошевой, 1904年12月21日 – 1976年8月30日)は、ソ連の軍人。ソ連邦元帥。ソ連邦英雄(2度)。 ピョートル・コシェボーイ(肖像) ウクライナのアレクサンドリヤ市出身。ウクライナ人。1920年から赤軍に入隊し、ロシア内戦に従軍。1927年に騎兵学校、1939年にM.V.フルンゼ名称軍事アカデミーを卒業。 独ソ戦時、1941年11月から第65狙撃師団長となり、チフヴィン作戦に参加。1942年7月から第24親衛狙撃師団長(ヴォルホフ、スターリングラード、南部戦線)。1943年8月から第63狙撃軍団長(第4ウクライナ戦線)となり、クリミアの解放に参加。1944年4月16日、セヴァストポリ奪取の功績に対して、ソ連邦英雄の称号とレーニン勲章が授与された。 1944年5月から第71狙撃軍団長(第3ウクライナ戦線)となり、白ロシアとバルト諸国の占領に参加。1945年1月から第36親衛狙撃軍団長となり、東プロシア作戦、ケーニヒスベルクの奪取に参加。1945年4月19日、ケーニヒスベルク奪取の功績に対して、2つ目のソ連邦英雄称号を授与された。 戦後、軍団長、軍司令官を歴任。1948年、参謀本部軍事アカデミー附属高等学術課程を修了。1957年~1960年、シベリア軍管区司令官、1960年~1965年、キエフ軍管区司令官。1965年~1969年、駐独ソビエト軍集団総司令官。1969年からソ連国防省監察総監。 退役後、モスクワに居住し、1976年8月30日に死去。モスクワに埋葬。 ソ連邦英雄(2度)。レーニン勲章5個、十月革命勲章、赤旗勲章3個、一等ボグダン・フメリニツキー勲章、二等スヴォーロフ勲章、二等クトゥーゾフ勲章2個を受賞。 故郷のアレクサンドリヤ市には銅像が立てられ、広場と通りに名前が付けられた。

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福原尚虎 – Wikipedia

福原 尚虎(ふくはら たかとら、1968年2月18日 – )は、秋田県大仙市(出生時は大曲市)出身のDJ、ラジオパーソナリティ。 大曲で生まれ育った福原は幼いころからラジオをよく聴く少年だったという。夢中になって聴いていたのがKTWR。当初は95年デビューの「こども探検隊」の隊長役でこれもまたFMヨコハマの企画であった。99年JFN系全国ネットの番組では前述の「理想とするロックDJスタイル」を求められて抜擢される。当時のプロデューサー曰く「リスナーに悪態をつきまくる最狂最悪のDJ」。反響がすさまじい分、大量の誹謗中傷も寄せられたという。他方でFMヨコハマでは多くのアーティストをストリートで見続けた。可能性を感じれば追いかけ、番組に反映させていくなどしていった。この功績が認められ2007年の民間放送連盟・ラジオエンターテイメント部門優秀賞を受賞。これはFMヨコハマにおいても開局以来の快挙であるという[1] 秋田県大仙市の コミュニティFM局FMはなびにて開局準備時にアドバイザーとして関わったのち、パーソナリティを務め、2018年時点で放送局長を担当。 現在の出演番組[編集] ラジオ[編集] 過去の出演番組[編集] テレビ[編集] ラジオ[編集] ^ 「FM YOKOHAMA STATION BREAK vol.3」より。

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大杉君枝 – Wikipedia

大杉 君枝(おおすぎ きみえ、旧姓:鈴木、1963年7月4日 – 2007年2月2日)は、日本テレビの元アナウンサーである。 来歴・人物[編集] 東京都杉並区出身。姉はジャズシンガーの鈴木陽子。光塩女子学院中等科・高等科卒業。立教大学社会学部卒業後、1987年に日本テレビに入社。同期アナウンサーは保坂昌宏。 大学生時代、実家が漏電で火事になり、父親が焼死している。 1997年11月に不動産業を経営している男性と結婚したが、2002年2月に離婚。2003年8月に広告代理店電通に勤務する10歳年下の男性と再婚。仕事でも夫の姓である「大杉」姓に変更。不妊治療の末、2006年10月に43歳で第1子となる男児を出産。 育児休業中の2007年2月2日、東京都渋谷区の自宅マンションから転落し、死亡した。遺書らしきものが残されており、痛みに耐えかねての自殺と見られる[1]。出産後に全身の疼痛を伴う原因不明の病気である線維筋痛症を発症していた[2]。 出演番組[編集] テレビ[編集] ラジオ[編集] 上記のほか、日テレNEWS24の気象情報の自動音声と提供スポンサーの声も担当していた(本人の逝去後、新音声への入れ替えまで、当該気象情報はナレーション無しであったが、気象情報の自動音声と提供スポンサーの声は、後輩の杉上佐智枝アナウンサーが引き継いだ)。 新春スポーツスペシャル箱根駅伝では1997年の第73回大会のみ、小涌園前での実況を担当したことがある。1987年の同番組放送開始以来、放送センター、移動中継車、各中継所を含め、女性アナウンサーが実況を担当するのは後にも先にもこの時が唯一である(選手へのインタビューでは女性アナウンサーが担当したこともある)。 模倣犯(2002年、東宝) – アナウンサー 役 関連項目[編集]

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岩佐なを – Wikipedia

岩佐なを(いわさ なを、男性、1954年6月18日[1] – )は日本の詩人、画家(主に、版画、ドローイング)。本名は岩佐直人。 日本書票協会、日本現代詩人会、日本文藝家協会、日本ペンクラブ会員。 東京都杉並区荻窪に生まれ、神奈川県横浜市港北区日吉で育つ。神奈川県立港北高等学校を経て、早稲田大学卒業。早稲田大学図書館司書として勤務しながら、創作活動を行う。詩誌「時計店」「生き事」「歴程」同人。 銅版画で蔵書票(エクスリブリス)を多数創作。ドローイングや版画で、本や雑誌の挿画・装幀を手がける。季刊「嗜み」(文藝春秋)の山崎正和の連載エッセイに挿画を掲載した。小川洋子の『完璧な病室』(福武書店、1989年)の装幀、装画。紺野美沙子の『M Misojiのひとりごと』(世界文化社、1992年)の装幀、装画。『中原中也詩集』(角川春樹事務所、1998年)、詩誌「歴程」「現代詩手帖」の挿画。佐藤一郎の『哲学的冒険』(丸善、2002年)、佐佐木幸綱編集の短歌雑誌「心の花」(竹柏会)の表紙画(2015年-22年)。新藤凉子、河津聖恵、三角みづ紀による連詩集『悪母島の魔術師』(思潮社、2013年:第51回藤村記念歴程賞)の表紙画、扉絵、挿画を描いた。 1978年から79年にかけて、雑誌「ユリイカ」投稿欄の常連入選者であった(当時の選者は長谷川龍生)。 1995年、詩集『霊岸』で、第45回H氏賞を受賞。2013年、詩集『海町』で、第24回富田砕花賞を受賞。2016年、銅版画家・詩人としての全業績に対して第54回藤村記念歴程賞を授賞される。 画業では、1984年、第6回新宿住友ビル版画ミニアチュールコンクール(池田満寿夫、岡田隆彦、田村文雄、永井一正、室伏哲郎選:「版画芸術」46号参考)でグランプリを受賞。海外の蔵書票(エクスリブリス)、小版画のコンクール、展覧会等に多数参加。1991年、チェコスロバキア蔵書票コンクールで協会長特別賞を受賞。2022年、第1回極小版画コンテストで文房堂賞を受賞。1980年より2002年まで年1回1月末に、竹川画廊(銀座)で定期的に個展を開催した。ギャラリーオキュルス(高輪)ギャラリーまぁる(恵比寿)アユミギャラリー(神楽坂)檜画廊(神保町)等に於いてもグループ展や企画展示に多く参加している。 一方ではプロボクシングおよび競艇ファンとしても知られ、詩人仲間の渡邊十絲子と共に競艇同人誌『確定!!』(1-19号, 1997-2003)を作っていたこともある[2]。ヨネクラボクシングジムの閉鎖が決定した2017年まで長期にわたって後援会に所属していた。 詩集[編集] 『能筆少女』(私家版1978) 『蝉魔』(紫陽社1980) 『姉の力』(カタ工房1981) 『夢の環』(七月堂1983) 『狐乃狸草子』(七月堂 1987)

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亀有警察署 – Wikipedia

亀有警察署(かめありけいさつしょ)は、警視庁が管轄する警察署の一つである。第七方面本部所属。 葛飾区の北側を管轄している。 署員数およそ380名、識別章所属表示はTE。 東京都葛飾区新宿四丁目22番19号 管轄区域[編集] 葛飾区のうち、以下の町丁を管轄。特記のないものはその町丁の全域を管轄。 金町地域 水元地域 新宿地域 新宿一・二・三・四・五・六丁目 高砂六・七・八丁目(高砂一・二・三・四・五丁目は葛飾警察署の管轄) 亀青地域 青戸二丁目(1から3・7番を除く)、三丁目の一部(1から19番)、四・五・六・七・八丁目(青戸二丁目1から3・7番と、前記以外の青戸三丁目は葛飾警察署の管轄) 白鳥一・二・三・四丁目 亀有一・二・三・四・五丁目 西亀有一・二・三・四丁目 南綾瀬地域 お花茶屋一・二・三丁目 東堀切一・二・三丁目 堀切五・六・七・八丁目(堀切一・二・三・四丁目は葛飾警察署の管轄)

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