西武E851形電気機関車 – Wikipedia

西武E851形電気機関車(せいぶE851がたでんききかんしゃ)は、西武鉄道が1969年(昭和44年)の西武秩父線開業に際して新製した電気機関車である[2]。 私鉄各社の保有する電気機関車としては唯一動軸を6軸備える、いわゆる「F形電機[注釈 1]」で[3][5]、かつ外形寸法・自重・牽引力・定格出力と、いずれも私鉄最大級を誇った電気機関車である[3]。西武鉄道社内において「ジャンボ[5][6]」の愛称で呼称され、西武鉄道における貨物輸送が全廃となった1996年(平成8年)まで在籍した[7]。 本形式の製造は電気機器を三菱電機が、車体を三菱重工業がそれぞれ担当し[8]、三菱重工業三原製作所において組立が実施されたが[9]、これはセメント輸送の荷主が三菱鉱業セメント(現・三菱マテリアル)であり、同社との関係性から三菱グループの三菱電機・三菱重工業へ発注されたものとされる[3][9]。 導入の経緯[編集] 西武秩父線は、秩父方面への観光輸送のほか、沿線に所在する武甲山より産出される石灰石を原料として生産されたセメント輸送を目的として[10]、池袋線の終点であった吾野駅から西武秩父駅に至る延長18.9kmの路線として1967年(昭和42年)7月に着工、1969年(昭和44年)10月に開通した[10]。吾野 – 西武秩父間は全区間にわたって秩父山系を貫く形で経路が選定されたことから、当時の私鉄路線における最長山岳トンネルであった正丸トンネルを始めとしたトンネルと最急勾配35 ‰の勾配区間が各所に点在する山岳路線となり[10]、セメント輸送列車を牽引する電気機関車には、同区間を運転可能とする牽引力と、都市部区間において電車の運行ダイヤを妨げない高速性能の両立が要求された[11]。また西武秩父線は全区間単線で建設されたことから、列車本数設定に関する制約が複線路線と比較して厳しいため[11]、貨物列車については一列車あたりの輸送量を増やすことによって運行本数を少なくし、同時に輸送コストを抑制することも併せて求められた[11]。 しかし、当時西武鉄道が保有した電気機関車各形式は、いずれも小出力の旧型車であったことから重量列車を牽引するには性能不足が明らかであり[2][12][注釈 2]、牽引力・定格速度とも従来車とは一線を画す強力な電気機関車を新たに製造する必要性が生じた[2]。こうして設計・製造されたものがE851形電気機関車(以下「本形式」)である[2]。1969年(昭和44年)9月から同年10月にかけて、E851 – 854の4両が順次新製・導入された[14]。 最大で換算両数100両・牽引荷重1,000 tに達するセメント輸送列車を牽引するため、本形式は動軸を6軸備えるF形電機として設計され[3][9]、各部の設計は当時の日本国有鉄道(国鉄)における最新型のF形電機であったEF65形電機およびEF81形電機の仕様を概ね踏襲した[9][15]。本形式の形式称号「E851形」は、前記国鉄型電機2形式を設計の基本とした車両であることを意味して付与されたものである[9][15]。 車体中央部を主要機器を搭載する機器室とし[8]、前後妻面に運転台を備える全長16,500 mmの全鋼製箱型構体を有する[8]。前面に乗務員扉を持たない非貫通構造で、前面窓間柱を極力細く取った二枚窓設計とするなど、主要設計は国鉄EF65形0番台の仕様をほぼ踏襲したものとなっている[16]。 ただし、側面見付については側面中央部に2箇所設けられた機器室採光窓を真円形状としてアクセントとしたほか[3][16]、機器室通風口(エアフィルター)の形状が異なり[2]、前面窓直後の側面乗務員用開閉可能窓については前面窓と一体化した意匠とし[2]、同部分の後端部を側面採光窓と意匠を揃えて半円形状に処理するなど[3][12]、独自の設計思想が取り入れられた[2][3]。 外地を含む日本国内において車体側面に真円形状の窓(丸窓)を配したデザインを採用した電気機関車は、本形式のほか吉野鉄道が発注した電機51形電気機関車、小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)が発注した101形電気機関車、南満州鉄道が発注した3000形電気機関車の3例が存在するのみである[17][注釈 3]。また、戦後に製造された日本国内向けの電気機関車における丸窓の採用例は本形式が唯一である[3][17][注釈

Continue reading

半ズボン – Wikipedia

当時の半ズボンを着用した少年。 半ズボン(はんズボン)は、膝より丈の短いズボン[1](裾が5分丈未満)の総称である。類義語としてショートパンツ、ハーフパンツ、短パンなどがある。服飾業界でも、丈の長さや形態についての明確な定義は無い。 中世以来の欧州で着用されていた男性用の短いズボン→en:Breechesを参照 イギリス領バミューダ諸島での利用が知られる膝丈のズボン→バミューダショーツを参照 1960年代から使用され始めた女性用の非常に丈の短いズボン→ホットパンツを参照 子供用の1〜2分丈のズボン。日本では1950年頃から1990年頃まで男児用として一般的だった。 ここでは4について詳述する。 子供服としての位置付け[編集] 中世以前のヨーロッパには、服装による身分の区別はあったが、大人と子供の服装の特別な違いはなかった。(大人と子供の区別自体が明確ではなかった。)[2]。 大人と子供の服装による区別が始まったのは、身分制度の解体が始まった17世紀だった。当時の大人達は子供に大人とは異なる「可愛らしい」「元気なもの」という価値観をあてはめた[要出典]。1925年にハンガリーで発表された児童文学『ほんとうの空色』の終章では主人公の少年が半ズボンを卒業し、夢多き少年時代と別れを告げる場面がある。フィリップ・アリエスは、「<子供>の誕生-アンシャン・レジーム期の子供と家族生活」の中で「私たちはと言えば、今や遅くまで子供扱いされる恥ずかしさの象徴としての半ズボンを、実に長い間穿いていた。」とある。 永井荷風の「洋服論」には「ズボンは中学校に入り十五、六歳にいたるまで必(かならず)半ズボンなりき。(中略)長ズボンは小児の穿(うが)つべきものならずとて、予はいつも半ズボンなりしかば」とある。 イギリスの上流階級や貴族の習慣として、8歳ぐらいまでの男児には長ズボンを穿かせず、半ズボンを穿かせる風習がある[3]。 普及から衰退までの経緯[編集] 既製品としての半ズボンの普及が始まったのは、1950年頃である。当時は地位が高かった百貨店が、子供服として半ズボンの販売を開始し、都市部を中心に普段着として広まった[4]。 バブル期に、日本の子供ファッションは海外トレンドの影響を受けた。これらは丈長で出揃っており、日本のトレンドも追随することになった[5][出典無効]。1993年にファッショントレンドの変化に追随した衣料業界がハーフパンツを投入し、代わりに半ズボンの売場面積を縮小する動きがあった。[要出典] 中学校の制服[編集] 宇治市立東宇治中学校や中村学園三陽中学校、ドルトン東京学園中等部や文化学園大学杉並中学校、加東市立東条学園小中学校等の一部の中学校では、半ズボン(ハーフパンツ)も夏服のオプションとして存在する。[6][7][8][9] ドイツの伝統的な男児服[編集] ドイツにはレーダーホーゼン(en:Lederhosen)と呼ばれる民族服がある。これは皮製の膝丈ぐらいの半ズボンである。子供用のものは特に裾が短くなっている。昔のドイツでは男の子は16歳ぐらいまでこのようなレーダーホーゼンを着用していた。吊り紐や前面部の覆いが特徴的であるが、子供用のレーダーホーゼンには刺繍による装飾は無いのが普通である。今日でも、ドイツやフランスのボーイスカウトでは、正式な制服ではないものの、様々な形態のレーダーホーゼンが使用されている。レーダーホーゼンは1930年代から1970年代にかけてオーストリアの男児服としても着用された。現在ではビアガーデンやZeltfestなどイベントや特別な日に使用される。 ^

Continue reading

近鉄名古屋線 – Wikipedia

「名古屋線」はこの項目へ転送されています。名古屋鉄道(名鉄)の路線については「名鉄名古屋本線」をご覧ください。 停車場・施設・接続路線 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “近鉄名古屋線” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年8月) 名古屋線(なごやせん)は、三重県松阪市の伊勢中川駅から愛知県名古屋市中村区の近鉄名古屋駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。 近鉄の路線で唯一、愛知県に敷設されている。伊勢中川駅から近鉄大阪線や近鉄山田線に直通して名古屋と大阪や伊勢志摩を結ぶ特急列車が多数運行されている。また、名古屋市と三重県北中部の沿線都市(桑名・四日市・鈴鹿・津など)を中心とした地域輸送も担っており、名古屋への通勤・通学路線となっている。東海旅客鉄道(JR東海)の関西線(関西本線)と競合関係にあるが、競合区間において単線部分が多く存在するJR関西線に対して線路設備・運行本数・利便性などで当路線が優位に立っている。 中京大都市圏内の地域輸送を担うほか、近鉄大阪線・難波線を経由して大阪難波駅まで特急列車(名阪特急)が直通運転しており、名古屋都市圏と大阪都市圏とを結ぶ名阪の幹線鉄道として東海道新幹線に次ぐ存在となっている[2]。 なお、正式な起点は伊勢中川駅[* 2]だが、列車運行上は近鉄名古屋駅から伊勢中川駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りである。 2010年4月1日には、近鉄名古屋駅 – 伊勢中川駅間の全線で名古屋列車運行管理システム「KRONOS」(クロノス)が導入された[3]。 路線データ[編集]

Continue reading

篠原貴行 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “篠原貴行” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年7月) 篠原 貴行(しのはら たかゆき、1976年9月7日 – )は、福岡県福岡市東区出身[1]の元プロ野球選手(投手)、コーチ。2013年に横浜DeNAベイスターズで現役を引退し、2018年まで同球団で一軍投手コーチを務め、現在はスカウトを務めている。 来歴・人物[編集] プロ入り前[編集] 広島県広島市生まれ、福岡県福岡市育ち。幼少期よりぜんそくに悩まされ、小学4年生時より体力をつけるためにと両親が勧めた野球を始める。沖学園高校での甲子園出場経験は無く、入社した三菱重工長崎でも都市対抗野球や日本選手権など全国大会へ出場する機会が少なかった[2]。都市対抗野球では1997年に救援での登板経験がある[3]。実績は僅かながらも速球が知られ、地元の福岡ダイエーホークスを逆指名し、1997年ドラフト2位で入団[2]。 ダイエー・ソフトバンク時代[編集] ホークス時代の篠原(2009年) 細身の身体ながら、キレのある速球一本で打者を抑え込む投球で1年目から頭角を現し51試合に登板した。しかし、変化球が主にスライダーしかなく打たれ出すと止まらないのが課題だった。

Continue reading

伊予鉄道郡中線 – Wikipedia

停車場・施設・接続路線 郡中線(ぐんちゅうせん)は、愛媛県松山市の松山市駅から愛媛県伊予市の郡中港駅までを結ぶ伊予鉄道の鉄道路線である。 松山市中心部から南方向へと延び、そのベッドタウンである松前町や伊予市との輸送を担う。近年は、沿線の成長に合わせて利用客数が増加傾向にある[2][3]。 路線データ[編集] 沿線概要[編集] 松山市駅を発車した列車は南西に進路を取り、まもなく交差する国道56号(今治街道)を過ぎると、土橋駅に到着する。土橋にはかつて中央卸売市場が置かれていたが、移転をして久しい今日ではその活気を想起することは難しい。土橋を過ぎると進行方向右手に愛媛県道18号(途中から愛媛県道326号となる)と並走をしながら、住宅街の中を進む。JR予讃線、松山南環状線との立体交差を過ぎると土居田駅である。 続く余戸駅は、古くは(旧)余土村の中心であり、今でも松山市南西部の中心的な地域にあることから、駅西部とを結ぶ電車連絡バスが発着している。余戸を過ぎても列車は相変わらず住宅街の中を走るが、次の鎌田駅を過ぎて渡る重信川を越えると市街化調整区域へと入り一転して田園が広がる。なお、重信川は松山市と松前町の境界ともなっている。 岡田駅・古泉駅と列車はしばらく田園の中を走るが、古泉駅には大型商業施設(エミフルMASAKI)が2008年に隣接して開業しており、利用客が増加した。 車窓に再び住宅が目立つようになると、松前町の中心駅である松前駅に到着する。松前は漁業で栄えている町であり、昔は当路線の列車内でも松山まで魚介類を売りにいく当地の行商人の姿がよく見受けられた。また、鉄道唱歌でも歌われているように義農精神を今時に伝える作兵衛の墓が近く、駅付近には「義農通り」も走る。 次の地蔵町駅を過ぎると伊予市に入り、新川駅に到着する。付近には古くから開けた新川海水浴場があるが、郡中港駅近くに五色姫海浜公園が開園して以降はシーズン時でも閑散としている。 駅を出てすぐの新川を渡ると、商店街や大型商業施設などが見られる伊予市の中心街に入り、郡中駅と続く終点の郡中港駅へと至る。駅名となった郡中港は目と鼻の先にあるが、現在定期旅客航路は設けられていない。なお、予讃線の伊予市駅が道を挟んで近接しており、乗り換えが可能である。 運行形態[編集] 普通列車のみで、日中は15分間隔の運行によってフリークエントサービスを提供している。すべて線内折り返しで高浜線・横河原線との直通運転はない。松山市駅から終点郡中港駅までの所要時間は24分。ワンマン運転は行っていない。 平日ダイヤ朝の始発から午前9時前後までは、末端部の松前 – 郡中港間が約20分間隔の運行となっており、日中の運行本数より少なくなっている。なお、松山市 – 松前間には松山市発松前折り返し列車が土曜日を除く平日のみ2本運行される。この列車は臨時列車扱いであるが事実上、定期列車として運転されており、駅掲出分をはじめ、各種時刻表にも記載されている。20時台後半から22時30分の終電までは30分間隔で運転される。必要編成数は平日朝ダイヤにおいては5本、日中においては4本である。 編成両数は平日及び土曜日の朝は全列車が3両編成であり、その他の曜日及び時間帯では3000系使用列車のみ3両編成、それ以外は2両編成となる。また、松山まつり・後述の三津浜花火大会開催時や台風などの異常気象時は終日3両編成となる(古泉駅の正面に完成したエミフルMASAKIオープン時もおよそ2週間にわたり終日3両編成で運用された)。さらに、土曜夜市開催日は松山市駅21時発列車から終電まで3両編成で運行される(松山市駅到着後、2両編成は留置線に入り増結を済ませた3両編成と入れ替える)。 増結分の車両は運転台付きの電動車で、単体自走で車庫と松山市駅間を回送されるため、朝のラッシュ時間終了後、1両で回送される同車を見ることができる。

Continue reading

GUILTY GEAR – Wikipedia

この項目では、GUILTY GEARシリーズの最初の作品について説明しています。シリーズ全般の説明については「GUILTY GEARシリーズ」をご覧ください。 『GUILTY GEAR [the missing link]』(ギルティギア ザ・ミッシング・リンク)はアークシステムワークスから発売された2D対戦型格闘ゲーム。1998年5月14日にPlayStationで発売され、翌1999年9月22日には『GUILTY GEAR 復刻版』(ギルティギア ふっこくばん)と称した廉価版もリリースされた。 2007年5月31日から復刻版がゲームアーカイブスとしてPlayStation Portable・PlayStation 3・PlayStation Vita向けに税込600円でダウンロード販売されている。 GUILTY GEARの用語集内のシステムも参照 チャージキャンセルを使った永久コンボや、一撃必殺システムでの荒削りな面があるが、操作性や連続技のスピード感、独特なキャラクターや世界観などはこの頃から健在であり、口コミで評判は徐々に広まっていった。CPU戦の難易度が高く難易度設定もできないため、初心者にはハードルが高い。 開発初期はプリレンダCG(シリコングラフィックス)を使用した物を想定していた。なお、キャラクターに関しては予算の関係上、一部のキャラをスタッフが音声担当することになった。

Continue reading

讃岐牟礼駅 – Wikipedia

讃岐牟礼駅配線図 讃岐牟礼駅(さぬきむれえき)は、香川県高松市牟礼町大町にある四国旅客鉄道(JR四国)高徳線の駅である。駅番号はT20。 単式ホーム1面1線をもつ地上駅。駅舎やトイレはなく、無人駅となっている[3]。 利用状況[編集] 1日平均の乗車人員は以下の通り。 乗車人員推移 年度 1日平均人数 2008 258 2009 251 2010 239 2011 246 2012 241 2013 270

Continue reading

公立 – Wikipedia

「村立」はこの項目へ転送されています。宮古島で行われた分村については「村立て」をご覧ください。 公立(こうりつ)とは、地方公共団体によって設立・管理・運営される施設に冠される名称である。 公立の施設は公共性のある施設で、病院、学校、図書館、ホール、美術館、博物館、公園、住宅等、住民の福祉や生活に直接関係のある行政サービスの提供を目的とした施設である場合が多い。 設置主体によって都立(東京都)・府立(京都府、大阪府)・道立(北海道)・県立、また、市区町村では市立・町立・村立・区立(特別区)・組合立などと呼ばれる。なお、市立を口頭で読む際に私立(しりつ、わたくしりつ)と区別する必要がある場合は、「いちりつ」と発音されることが多い(市立学校など)。設置主体が複数の地方公共団体によるものの場合は、正式名称に「公立」の名を冠することがある。 公立の施設の運営には地方自治法が適用され、予算・決算、重大な改廃事項等については、議会の承認が必要となる。 職員の身分[編集] 公立の施設の管理者・職員は、原則として首長または地方公共団体の職員で、身分は公務員である(ただし、一般地方独立行政法人(非公務員型)や指定管理者制度等による運営、民間委託、下請け事業者等の職員は原則として公務員ではない)。 関連項目[編集]

Continue reading

清原元輔 – Wikipedia

清原 元輔(きよはら の もとすけ)は、平安時代中期の貴族・歌人。内蔵允・清原深養父の孫で[1]、下総守・清原春光の子[1][2]。官位は従五位上・肥後守。娘に清少納言がいる。三十六歌仙の一人。 村上朝の天暦5年(951年)正月に河内権少掾に任ぜられるが遙任であったらしく[3]、同年10月に勅撰和歌集撰集の命により、元輔は撰和歌所寄人に任ぜられ、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓読作業や『後撰和歌集』の編纂に当たった[4]。応和元年(961年)少監物に任ぜられると、翌応和2年(962年)中監物に昇格する。 大蔵少丞を経て、冷泉朝初頭の康保4年(967年)10月に民部卿・藤原在衡の申請によって民部少丞に転じ[5]、12月には民部大丞に昇格する。 円融朝初頭の安和2年(969年)62歳にして従五位下・河内権守に叙任された。天延2年(974年)周防守に任ぜられ遂に受領となるが、周防国は長門国・河内国とともに時として鋳銭司がおかれて貨幣の鋳造が行われることがあったが、この時もこの鋳銭事業が行われたらしく元輔は鋳銭長官も兼ねている[6]。また、周防守在任中に薬師寺の廓の造営を担当し[7]、その功労により天元3年(980年)従五位上に叙せられている[8]。 寛和2年(986年)79歳の高齢で肥後守に任ぜられ、再び受領として九州に赴く。元輔は上国である周防国の受領を一期勤め上げたことから、一定程度の経済基盤を築いたと想定されるが、子息の官途がはかばかしくなかったことから、清原家の家庭経済はそれほど裕福でなかった可能性があり、それが高齢での地方赴任に繋がったとも考えられる[8]。また、この任官は娘(清少納言)婿の橘則光の母で、花山天皇の乳母である右近が天皇に強力に推薦した結果と想定される[9]。 永祚2年(990年)6月に赴任5年目にして任地にて卒去。最終官位は従五位上行肥後守。享年83、当時としては非常に長命であった[4]。 熊本市の清原神社(北岡神社飛地境内)に、祭神として祀られている。 歌人としての評価[編集] 『後撰和歌集』を編纂した梨壺の五人のひとりとして、40代の村上朝から名声高く、歌人として特殊な地位を得ていた。藤原公任による『三十六歌仙』や、藤原定家の『百人一首』に選ばれるとともに、『拾遺和歌集』(49首)以下の勅撰和歌集に106首が入集するなど、『二十一代集』の著名作者として重視すべき歌人の地位にある[10]。 ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは 小倉百人一首の読み札に描かれた清原元輔の肖像 家集に『元輔集』がある。群書類従本156首、歌仙歌集本262首、前田家本192首があり、他人の作品や重複を除いて実数は510首にのぼる[11]。これらによると、元輔は当時の権力者の家に頻繁に出入りして、儀礼の具として製作した和歌が多く、これを準職業的なものとしていたらしい。特に、小野宮家の藤原実頼・頼忠・実資らに対するものは20首を越えている[10]。 元輔が歌人として高名だったことは、没後の一条朝における以下のような逸話から窺える。

Continue reading
after-content-x4