テオドラ・アンゲリナ – Wikipedia
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テオドラ・アンゲリナ Theodora Angelina |
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ブルガリア皇后 オーストリア公妃 |
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出生 |
1180/85年 東ローマ帝国、コンスタンティノープル |
死去 |
1246年6月22日/23日 |
配偶者 | ワラキア=ブルガリア帝国皇帝イヴァンコ |
ドブロミル | |
オーストリア公レオポルト6世 | |
子女 |
マルガレーテ アグネス レオポルト ハインリヒ ゲルトルート フリードリヒ2世 コンスタンツェ |
父親 | イサキオス・コムネノス |
母親 | アンナ・アンゲリナ |
テオドラ・アンゲリナ(Theodora Angelina, 生没年不詳)は、バーベンベルク家のオーストリア公レオポルト6世の妻。イサキオス・コムネノス(東ローマ帝国マヌエル1世コムネノスの甥の子)と皇女アンナ・アンゲリナ(皇帝アレクシオス3世アンゲロスの子)の唯一の子。
1197年、ワラキア=ブルガリア帝国第2代皇帝イヴァンコ(イヴァン・アセン1世を殺して即位)と結婚。東ローマ帝国に恭順の意を表明し、アレクシオスの名まで賜っていたイヴァンコは1198年にすぐさま反旗を翻し、父イサキオスは、夫の属するワラキア=ブルガリアの捕虜となって死んだ。将軍マヌエル・ヴァタツェスは彼を捕らえ、テオドラは夫と離婚した。
1200年頃、彼女はワラキア=ブルガリアの指導者であるドブロミル(将軍マヌエルの義理の息子)の3人目の妻となっていた。
後に第4回十字軍のもたらした東ローマ帝国の崩壊のさなか、テオドラはレオポルト6世と結婚した。2人には7子が生まれた。
- マルガレーテ(1204年 – 1266年) – ローマ王ハインリヒ(7世)(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の長男)と結婚、死後にボヘミア王オタカル2世と再婚。
- アグネス(1205年 – 1226年) – ザクセン公アルブレヒト1世妃
- レオポルト(1207年 – 1216年)
- ハインリヒ(1208年 – 1228年) – テューリンゲン方伯ヘルマン1世の娘アグネスと結婚し、1女ゲルトルートをもうける。ゲルトルートはバーデン辺境伯ヘルマン6世と結婚、死別後にキエフ大公ダヌィーロの息子ロマンと再婚、フリードリヒ2世の死後、バーベンベルク家の女子相続人となる。
- ゲルトルート(1210年 – 1241年) – テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペ妃
- フリードリヒ2世(1211年 – 1246年) – オーストリア公
- コンスタンツェ(1212年 – 1243年) – マイセン辺境伯ハインリヒ3世妃
参考文献[編集]
関連項目[編集]
- コムネノス王朝
- 第二次ブルガリア帝国
- バーベンベルク家
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