プチトエトワール – Wikipedia

プチトエトワール (Petite Etoile) は、イギリス産の競走馬、繁殖牝馬。

競走馬時代[編集]

プチトエトワールは1958年5月末に競走馬としてデビューした。このレースは2頭立てで、対戦相手のクライス(後に短距離路線で活躍)に8馬身の
着差をつけられて敗れた。その後8月まで3戦し2勝を収めた後歩様に異常が見られるようになったため、陣営は年内の出走を見合せた。

1959年、プチトエトワールはイギリスのクラシック前哨戦の一つであるフリーハンデキャップステークスでレースに復帰。このレースを優勝すると、3番人気で臨んだ1000ギニーも優勝した。続いてイギリスクラシック牝馬三冠第2戦のオークスに出走。レース前には血統の面から距離が長すぎることが懸念されたが、レースでは4番手から直線で抜け出し2着馬に3馬身の着差をつけて優勝。イギリスクラシック牝馬二冠を達成した。なお、このレースでのプチトエトワールの走破タイムは前々日に行われたダービーステークスの優勝馬パーシアのタイムを上回るものであった。

オークス優勝後、プチトエトワールはサセックスステークスに出走。この時のレース振りは後方を追走しゴール手前約300mの地点でスパートをかけ優勝するというもので、「他の馬を小バカにしたような」ものであったといわれる。この後プチトエトワールはイギリスクラシック牝馬三冠馬のかかったセントレジャーステークスには出走せず、ヨークシャーオークスとチャンピオンステークスに出走し、いずれも優勝した。6戦全勝でシーズンを終えたプチトエトワールは、ジョッキークラブが発表した1959年の3歳フリーハンデで、牡馬を含む全3歳馬でもっとも高い133ポンドという評価を受けた。

1960年は緒戦のビクトリアワイルドステークスを優勝した後、コロネーションカップに出走。同世代のダービーステークス優勝馬パーシアとの対戦に注目が集まったが、競馬記者が表現に苦労するほどの快勝といわれるレース振りで勝利を収めた。続いてキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに出走。序盤は後方に待機し直線でスパートをかける従来通りの戦法をとったがアグレッサーに1/2馬身及ばず2着に敗れた。この敗戦により1958年から続いていたプチトエトワールの連勝は9でストップし、その原因について競馬メディアは、意図的に後方に待機しスパートをかけるタイミングが遅れた主戦騎手レスター・ピゴットの騎乗にあると非難した。一方調教師のマーレスは敗因について、そもそもスタミナが不足していたと述べた。

プチトエトワールは1961年も現役を続行したが、当時イギリスで流行していた馬インフルエンザに罹患し、一度は引退が決定した。しかし引退は撤回され、緒戦のコロネーションステークスを優勝。さらに続くコロネーションカップではプリティーポリー、ザホワイトナイトに続き史上3頭目となる連覇を達成した。その後プチトエトワールは4戦して2勝2着2回という成績を収め、この年のシーズンを限りに引退した。最後のレースとなったキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでは前年批判を浴びた後方待機策ではなく2番手を進むという戦法がとられたがレース終盤に伸びを欠いた。

繁殖牝馬時代[編集]

繁殖牝馬としてのプチトエトワールは不受胎や死産が続き、生まれた産駒も目立つ成績を上げることができなかった。しかし死後の2008年、7戦7勝で同年の凱旋門賞を制した牝馬ザルカヴァの5代母として注目を集めた。

参考文献[編集]

  • 原田俊治『世界の名馬』 サラブレッド血統センター、1970年

外部リンク[編集]