ウヤル – Wikipedia

ウヤル(モンゴル語: Uyar, 中国語: 吾也而, 大定3年(1163年) – 憲宗8年9月6日(1258年10月4日))とは、モンゴル帝国に仕えた千人隊長の一人。『元史』などの漢文史料では吾也而(wúyĕér)、『集史』などのペルシア語史料ではウーヤール・ワーンシー/اویار وانشی(Ūyār Wānshī)と記される。ワーンシー(Wānshī)とは漢語「元帥」の音訳であり、実際に『集史』と同一の史料源を持つ『聖武親征録』では「烏葉児元帥」と表記されている。

『元史』の列伝によるとウヤルはモンゴル部サルジウト氏(珊竹氏)の出身であり、父のトルグチャル(図魯華察)は武勇なことで知られていたという。ウヤルは1206年のモンゴル帝国建国の後、カラヒタイ(契丹)兵を率いてチンギス・カンに帰順し、千人隊長に任ぜられた。チンギス・カンの金国侵攻に従軍したウヤルは1210年、金の東京路(現在の遼陽方面)攻略に功績を挙げた。1214年には太師ムカリを司令官とする北京攻略軍に所属し[1]、金将の撻魯や趙守玉といった有力者を討ち取るという功績を挙げた[2]

1215年、ムカリ率いる北京方面軍は北京に迫ると金の守将銀青が20万の軍勢を率いて戦いを挑んだが、モンゴル軍はこれを破って8万人余りを討ち取った。続いて北京を包囲すると城内のキタイ(契丹)兵が銀青を殺して寅答虎を指導者とし、モンゴル軍に投降した。ムカリは北京の攻略に手間取ったことに怒り城内を皆殺しにしようとしたが、蕭エセンが諫めたために取りやめ、寅答虎に北京城を任せると同時にウヤルが軍を率いて北京に駐屯することとなった[3]。1216年には溜石山の攻略に携わり、また錦州で叛乱を起こした張致を討伐する功績を挙げた[4]。また、翌1217年には興州監軍の重児が叛乱を起こし、ウヤルが討伐に赴いたところ、戦闘中にウヤルの軍馬が射倒されたため配下の軍勢は怒り奮闘し、反乱軍を大いに破ったという[5]

同1217年8月、ジャライル部の太師ムカリは太師・国王に封ぜられ、中央アジアのホラズム・シャー朝に遠征に向かうチンギス・カンに代わって東アジア方面軍を率いることとなった。ムカリ率いる「左翼軍」にはジャライル部・コンギラト部・イキレス部・マングト部・ウルウト部から成る「左手の五投下」とウヤル率いるキタイ(契丹)兵、耶律禿花率いるジュルチ(女真)兵が所属しており、これ以後ウヤルはムカリの指揮下で金朝との戦いに臨むこととなる[6][7]

1221年には延安の攻略中に右股に矢を受けたものの力戦して勝利を収め、葭州・鄜州を攻略して金梟将張鉄槍を捕らえた。1222年には鳳翔及びその属州を攻略し、1223年に入るとチンギス・カン最後の遠征となる西夏遠征に従軍した[8]

オゴデイ・カアンの治世[編集]

1229年、オゴデイ・カアンが即位するとウヤルはサリクタイとともにタンマチを率いて遼東へ遠征することを命じられた。これ以後、ウヤルは遼東及び高麗の征服に従事することとなる。1231年、サルタイとともにウヤルは高麗に侵攻し、受・開・龍・宣・泰・葭といった諸城を攻略したため、モンゴル軍を恐れた高麗は講和を求め、これに対しウヤルは「高麗より質子を出すならば侵攻を留めるだろう」と回答した。1241年、高麗は永寧公王綧を質子としてオゴデイ・カアンの下に派遣したため、オゴデイ・カアンは大いに喜び、ウヤルを北京・東京・広寧・蓋州・平州・泰州・開元府七路の征行兵馬都元帥とし、ウヤルは虎符を帯びた[9]

モンケ・カアンの治世[編集]

1251年、モンケ・カアンが即位するとウヤルは東夷の事情についてモンケより質問を受け、そこでウヤルは「臣は老いたりといえどもまだ軍を率いて敵国を下すことができます。まして東夷のような小勢力ならなおさらです」と答えた。また、モンケ・カアンが酒はどれだけ飲むかと問うたところ、ウヤルは「カアンより賜った分だけ」と答えた。そこでウヤルはたまたま側に居た駙馬都尉と飲み比べをし、モンケ・カアンはその様子を見て大いに笑い、錦衣の名馬を与えたが、その後にわかにウヤルは病であると言って帰還した。

1257年、ウヤルは再び朝廷を訪れたがモンケ・カアンはその高齢を憐れみ、「チンギス・カンの時代より今に至るまで働き、過ちのない者はもはや卿のみである」と語った。そこでモンケ・カアンはウヤルに厚く下賜品を与え、その子供アタカイ(阿海)に都元帥の職を授けた。

翌1258年10月3日(旧暦九月辛亥/5日)、隕石が音を立てて落ち、それを見たウヤルは「私は死ぬだろう」と語り、その翌日にウヤルは亡くなった。享年は96歳であった[10]

子は4人おり、最も有名であったのが霅礼で、オゴデイ・カアンの時代に北京等路ダルガチの職を授けられた。クビライ・カアンの即位後には改めて昭勇大将軍・河間路総管の職を授けられている。また、孫のクンドカイ・ヘザネチはアリク・ブケ家のメリク・テムルに仕えている[11]

  • ウヤル元帥(Uyar,吾也而/اویار وانشیŪyār Wānshī)
    • アタカイ(Ataqai,阿海/اتاقیAtāqai)
      • クンドカイ・ヘザネチ(Qundqai,/قندقای خزینه چیQundqāī Khīzanechī)
  1. ^ 蓮見1988,26頁
  2. ^ 『元史』巻120列伝7,「吾也而、珊竹氏、状貌甚偉、腰大十囲。父曰図魯華察、以武勇称。太祖五年、吾也而与折不那演克金東京、有功。九年、従太師木華黎取北京、領兵為先駆、下之。捷聞、授金紫光禄大夫・北京総管都元帥。留撫其人、綏懐有方、自京以南、相継来降。時金将撻魯、以恵州漁河口為隘、有衆数万、図復北疆。吾也而以鋭兵千人撃摧其鋒、殺数千人、獲其旗鼓羊馬、斬撻魯於軍中。有趙守玉者、拠興州、吾也而討平之」
  3. ^ 『元史』巻119列伝6,「[太祖十年]乙亥、裨将蕭也先以計平定東京。進攻北京、金守将銀青率衆二十万拒花道逆戦、敗之、斬首八万餘級。城中食尽、契丹軍斬関来降、進軍逼之、其下殺銀青、推寅答虎為帥、遂挙城降。木華黎怒其降緩、欲坑之、蕭也先曰『北京為遼西重鎮、既降而坑之、後豈有降者乎』、従之。奏寅答虎留守北京、以吾也而権兵馬都元帥鎮之」
  4. ^ 『元史』巻119列伝6,「丙子、致陥興中府。七月、進兵臨興中。先遣吾也而等攻溜石山、諭之曰『今若急攻、賊必遣兵来援、我断其帰路、致可擒也』」
  5. ^ 『元史』巻120列伝7,「十一年、張致以錦州叛、又攻破之。木華黎大喜、以馬十匹・甲五事賞其功。十二年、興州監軍重児以兵叛、吾也而往征之、賊軍射殺所乗馬、軍士憤怒、奮戈衝撃、大破賊軍」
  6. ^ 『元史』巻119列伝6,「丁丑八月、詔封太師・国王・都行省承制行事、賜誓券・黄金印曰『子孫伝国、世世不絶』。分弘吉剌・亦乞列思・兀魯兀・忙兀等十軍・及吾也而契丹・蕃・漢等軍、並属麾下」
  7. ^ 『聖武親征録』「戊寅、封木華黎為国王、率王孤部万騎・火朱勒部千騎・兀魯部四千騎・忙兀部将木哥漢答千騎・弘吉剌部按赤那顔三千騎・亦乞剌部孛徒二千騎・答剌児部及帯孫等二千騎・同北京諸部烏葉児元帥・禿花元帥所将漢兵、及答剌児所将契丹兵、南伐金国」
  8. ^ 『元史』巻120列伝7,「十五年、従征山東、大戦東平、馳赴陥陣、生挾二将以還。木華黎壮之、以功上聞。十六年、従征延安、矢中右股、力戦破之。俄又取葭・鄜二州、擒金梟将張鉄槍以献。十七年,克鳳翔及所属州郡。十八年、従帝親征河西、明年下之。詔賜吾也而馬五匹、甲一事。二十年、従木華黎囲益都。越二年、下三十餘城」
  9. ^ 『元史』巻120列伝7,「太宗元年、入覲。命与撒里答火児赤征遼東、下之。三年、又与撒里答征高麗、下受・開・龍・宣・泰・葭等十餘城。高麗懼、請和。吾也而諭之曰『若能以子為質、当休兵』。十三年、遣其子綧従吾也而来朝。帝大悦、厚加賜予、俾充北京・東京・広寧・蓋州・平州・泰州・開元府七路征行兵馬都元帥、佩虎符」
  10. ^ 『元史』巻120列伝7,「憲宗元年、召問東夷事、対曰『臣雖老、倘藉威霊、指麾三軍、敵国猶可克、況東夷小醜乎』。帝壮其言、問飲酒幾何、対曰『唯所賜』。時有一駙馬都尉在側、素以酒称、命与之角飲。帝大笑、賜錦衣名馬。俄謝病帰。七年、復来朝、帝憫其老、謂曰『自太祖時效労至今者、独卿無愆』。賜賚甚厚、以都元帥授其中子阿海。八年秋九月辛亥夜中、星隕帳前、光数丈、有声。吾也而曰『吾死矣』。明日卒。年九十六」
  11. ^ 志茂2013,519頁

参考文献[編集]

  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 蓮見節「『集史』左翼軍の構成と木華黎左翼軍の編制問題」『中央大学アジア史研究』第12号、1988年
  • 『元史』巻120列伝7
  • 『新元史』巻130列伝27
  • 『蒙兀児史記』巻38列伝20