Month: March 2022

ザ・クイーン・イズ・デッド – Wikipedia

ザ・クイーン・イズ・デッド(The Queen Is Dead)は、イギリスのロックバンド、ザ・スミスの3枚目のアルバムである。1986年6月16日にイギリス国内でラフ・トレードが発売した。アメリカにおいてはサイアー・レコードが1986年6月23日に発売した。アルバムはイギリスのチャートにおいて2位まで、Billboard 200では70位まで上昇し、1990年の後半にRIAAからゴールド認定を受けた。 アルバムができるまでと録音[編集] ギタリストのジョニー・マーは1985年前半にイギリスで行われたザ・スミスのライブ中、後に『ザ・クイーン・イズ・デッド』の一部となる曲を書いていた。サウンドチェック中にベーシストのアンディ・ルーク、ドラマーのマイク・ジョイスと共にアレンジを決めた[1]。1985年9月に発売したシングル、「心に茨を持つ少年」(後に『ザ・クイーン・イズ・デッド』に多少のリミックスを施されて収録した)を発売してから、ザ・スミスは3枚目のアルバムを録音することにした。マーはアルバムをボーカルのモリッシーと共にプロデュースし、エンジニアのスティーヴン・ストリートと共に作業した。スティーヴンはバンドの前作、『ミート・イズ・マーダー』でも同じ役割を担っている。スティーヴンはスタジオでの雰囲気は良好だったと回想している。 グループは「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」と「サム・ガールズ」をロンドン北東部にあるRAKスタジオで録音した。ツアーを少し行った後に、グループはアルバムの大部分をサリー州ファーナムにあるJacobsスタジオで1985年から1986年にかけて録音し、ミックスしている[2]。 『ザ・クイーン・イズ・デッド』は半年後の1986年6月にお目見えし、5月にシングル「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」が先行した。アルバムから切られた唯一のシングルである。バンドは「ゼア・イズ・ア・ライト」をシングルとして発売することを勧められていたが、ジョニー・マーはローリング・ストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」の線に沿った強烈なシングルを望んでいると話していた。ザ・スミスが活動停止状態から戻ってきた事を発表するためである。予想されていたよりも上手くいかず、イギリスのチャートで26位止まりであった。 アルバムの評価[編集] ローリング・ストーン誌は、アルバムに5つ星を付けている。リビュアーのマーク・コールマンはモリッシーのユーモアセンスや「セメタリー・ゲート」での歌唱をハイライトに挙げている[3]。 ピッチフォーク・メディアは、1980年代アルバムのベスト6に位置づけた。2000年、モジョは「ゼア・イズ・ア・ライト」をオールタイム・ベスト100ソングの25位とした。そのころ、VH2ではトップ500インディーチャートでトップとなっていた。2006年には、『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌が『ザ・クイーン・イズ・デッド』を2番目に重要なイギリスのアルバムに挙げた[4]。2006年、Q誌は「80年代アルバムのベスト40」でこのアルバムを3位にランクインさせた[5]。『ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・グレイテスト・アルバム500』では113位にランクイン[6]。また、2013年10月23日付の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌で選出された「オールタイム・グレイテスト・アルバム500」では1位に輝いた[7]。 「ゼア・イズ・ライト」はアルバムからのシングル候補であったが、「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」の支持が上回った。(1986年後半7インチシングルとしてフランスのみで発売した)1992年には遅れて発売した。スミスの再発をプロモートする目的でワーナーが出したシングルの一つとして実現した。 「セメタリー・ゲイツ」はモリッシーの大好きなシェラ・デラニーやエリザベス・スマートといった作家の書いた文を不正使用していると指弾した評論家へ向けての直接の反応である。オスカー・ワイルドも盗作で訴えられたことがあるのだが、モリッシーにとっての守護聖人だと歌詞の中で表している。そのワイルドからの引用、”Talent borrows, genius steals”がアルバム最初のシングル、「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」のレコード外周に刻まれている。 アルバム最初の曲「ザ・クイーン・イズ・デッド」はブライアン・フォーブスによる1962年の映画、「The L-Shaped Room」からのサウンドバイトで始まる。モリッシーが60年代のイギリス映画に魅了された例であり、映画はシシリー・コートニージー、パトリシア・フェニックス(1985年のシングル「シェイクスピアズ・シスター」で既にカバーに使われていた)が出演している。映画からはフランスに住んでいるホームシックのイングランド人のグループが「Take

Continue reading

トム・ローリン – Wikipedia

トーマス・ロバート・ローリン(Thomas Robert Laughlin, 1931年8月10日 – 2013年12月12日)は、アメリカ合衆国の俳優。映画監督。 ミネソタ州ミネアポリスで生まれ、ウィスコンシン州ミルウォーキーで育つ[1][2]。ウィスコンシン大学マディソン校、次いでマーケット大学で学ぶが、どちらでもフットボールをしていた[3]。その後更にサウスダコタ大学に移り、ラジオ・アクティングや監督を学ぶ[4]。 1955年から1965年までテレビドラマや映画に出演し、1960年に自身が監督および脚本を務めたThe Proper Timeを公開する。その後、ビリー・ジャックシリーズを製作し、T.C.フランクという名前で監督を、フランク・クリスティーナという名前で脚本を書く。 五社英雄監督の時代劇『御用金』(1969年)をリメイクした1975年の西部劇映画『マスター・ガンファイター(The Master Gunfighter)』の脚本および主演を務めた(息子の名前「フランク・ローリン」で監督も務めている)。 2013年12月12日、カリフォルニア州サウザンドオークスの自宅で死去した[5]。82歳没。 政治活動[編集] 2004年のアメリカ合衆国の大統領予備選挙に共和党から立候補した[6]が、敗退。イラク戦争に反対している[7][8]。 ^ Skalitzky, Lori (1986年10月10日).

Continue reading

ヨーク・ミンスター – Wikipedia

ヨーク・ミンスター西側 ミンスター聖歌隊席 ヨーク・ミンスターまたはヨーク大聖堂 (York Minster、正式名称:ヨークの聖ペトロ首府主教座聖堂、The Cathedral and Metropolitan Church of St Peter in York)は、イギリス、ヨークにあるイングランド国教会の大聖堂。イングランド国教会ではカンタベリー大主教に次ぐ高位聖職者ヨーク大主教が管理する、ヨーク主教座が置かれている[1]。運営はヨーク・ミンスター主席司祭が行っている。 華飾式のイングランド・ゴシック様式の本堂には、幅の広い身廊、参事会場、垂直様式の聖堂東側と合唱隊席、イングランド・ゴシック様式の北側、南の翼廊がある。本堂には1338年につくられた西側窓が、東側のレディー・チャペルには大東側窓が(1408年完成。中世のステンドグラス窓としては世界最大級)がある。北の翼廊には五人姉妹の窓(Five sisters Window)と呼ばれる高さ16mのランセット窓(en:Lancet Window、幅が狭く高さのある窓)が並ぶ。南翼廊にはバラ窓がある。現在の姿になったのは1472年である。北ヨーロッパではケルン大聖堂に並ぶ最大級の聖堂建築物で、寸法は長さ160m、幅68m、高さ72mである。 3世紀からヨークにはキリスト教徒がいたことが確認されている。627年、ノーサンブリア王エドウィンの洗礼式用に木造の教会が建てられた。637年、ノーサンブリア王オズワルドによって木造教会が完成し、彼は建物を聖ペトロへ捧げた。しかしすぐに改修が繰り返され、8世紀には付属の学校と図書館がつくられた。670年、聖ウィルフリッドがヨーク大司教となる。741年、教会は火事で焼け落ちた。教会とその周辺地域は、10世紀まで幾度もの異民族侵攻に悩まされることになる。この時代、ヨーク大司教はベネディクト会出身者から輩出されていた。 1075年、デーン人の侵攻で大聖堂は破壊され、1080年から再建が始まった。ノルマン様式建築であったこの大聖堂は、1137年の火災で損傷した。ゴシック様式による大聖堂建設が始まったのは12世紀半ばであった。大聖堂が現在の形となったのは、聖化された1472年であった。

Continue reading

大スペースシャトル展 – Wikipedia

大スペースシャトル展(だいスペースシャトルてん)は、日米協会主催で1983年から1984年にかけて日本で開催された、宇宙開発に関する催し物である。キャッチコピーは「シャトルがくる、世界初のスペース博」。 1983年6月からのべ11ヶ月に渡って東京・大阪・名古屋(三重県桑名市[1] )の3会場で開催された、アメリカ合衆国の宇宙開発に関する博覧会である。 当時はNASA設立25周年であり、NASAの全面的な協力を得て実現した。実際にスペースシャトル計画で用いられたスペースシャトルオービタの実物大モックアップが展示され[2]、月の石や宇宙服、宇宙船用パラシュートなども展示された。日本国内ではこの時初めて実物大のスペースシャトルを見た人が多く、日本において宇宙開発に関する理解を深めるのに貢献した。1983年6月23日に東京会場で行われた開会式には日系三世の宇宙飛行士であるエリソン・オニヅカがNASA代表として来日し、記念スピーチを行っている[3][4]。 会場に設けられた売店では宇宙食[5]や記念メダル、無重力ボールペン[6]等が販売された。会場で販売された当展のパンフレット、『SPACE AGE BOOK』は、NASAの25年に渡る歴史の解説とともに、アメリカの宇宙開発史と歴代の宇宙船を解説しており、学術専門書以外の書籍としては、当時日本で一般的に入手できるものとしては非常に高い資料性を持つものとなっていた。 パスファインダー号[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “大スペースシャトル展” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年11月) 合衆国宇宙ロケットセンターで展示されているパスファインダー(2000年代初頭の撮影) 当展で展示された実物大のシャトル、「パスファインダー」(展示名称は「スペースシャトルオービター098実験機「パスファインダー号」(改修機))は、実際にスペースシャトル計画のために製作された実物大モックアップが、当展のためにNASAの協力を得て特別に提供されたものである。 このモックアップは、地上において乗組員の訓練やオービターの移動手順の確認等の際に実際のオービターを用いることなく行えるように製作されたもので、外形サイズのみが再現された、宇宙船としての機能はまったくないものだが、形状および各部の寸法、重量は実際のオービターと同一に造られている。使用後は倉庫に保管されていたが、当展の主催企業がNASAより購入し、展示にあたり、アメリカの航空宇宙関連企業、テレダイン・テクノロジーズ(英語版)によって、グラスファイバーや各種金属素材を用いて、外観を極力実物のオービターに近づけた形に改装された[7][8]。

Continue reading

片恋いの月 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2019年6月) 片恋いの月 ジャンル 時間が大変なことになっちゃうふつうの学園モノAVG[1] 対応機種 Windows 98SE/Me/2000/XP[2] 開発元 すたじお緑茶[2] 発売元 すたじお緑茶[2] キャラクターデザイン うさみょ[2] シナリオ 時野つばき、氷雨こうじ、板上しんじゅー[2] オープニングテーマ refrain moon[3] エンディングテーマ tomorrow[3]

Continue reading

大気汚染注意報 – Wikipedia

大気汚染注意報(たいきおせんちゅういほう)とは、大気中の大気汚染物質の濃度が増加して一定のレベルに達した場合に、都道府県が発令する情報。光化学オキシダント濃度の増加時(光化学スモッグの発生時)に発表される光化学スモッグ警報(こうかがく-けいほう)や光化学スモッグ注意報(こうかがく-ちゅういほう)などもこの1種。光化学オキシダントのほか、硫黄酸化物、二酸化窒素、一酸化炭素、浮遊粒子状物質(SPM)の合計5種が対象。 法的根拠と同時にとられる措置[編集] 大気汚染防止法第23条、同法施行令第11条などによって規定されている。大気汚染防止法第23条では「大気の汚染が著しくなり、人の健康又は生活環境に係る被害が生ずるおそれがある場合」として「政令(=同法施行令)で定める場合に該当する事態が発生したとき」に「その事態を一般に周知させる」としている。要するに、大気汚染が深刻化して高い濃度が観測されたとき、注意報などを発表して一般市民に知らせるということである。 同法施行令別表第5には、大気汚染物質別に「注意報」「重大緊急時警報」の基準となる濃度が示されており、各都道府県でこの基準を使用している。また、多くの都道府県では注意報と重大緊急時警報の中間レベルにあたる「警報」などを設定して独自に情報のレベルを決めている。 同法同条では、このような情報の発表時、ばい煙や揮発性有機化合物を排出している者(事業者、乗用車の使用者・運転者など)に排出制限などの自主的な行動をとってもらうよう協力を求められるとしている。また、気象状況などにより汚染が急激に悪化して、健康への悪影響が懸念されるときには、排出制限などの強制力のある措置を命じることができるほか、各都道府県の公安委員会に道路交通法(4条、110条2)に基づく交通規制を要請できるとしている。これに加え、各都道府県では大気汚染緊急時措置として詳細な行動を定めている。 測定手法[編集] 注意報などの発令基準値は、硫黄酸化物、二酸化窒素、一酸化炭素、光化学オキシダントの場合、測定装置により得られた各物質の、大気中含有率の1時間平均値(単位はppm)を使用する。ただし、硫黄酸化物は一部48時間平均値も使用している。また、浮遊粒子状物質の場合、大気中における単位容量あたりの重量の1時間平均値(単位はミリグラム毎立方メートル(mg/m3))を使用する。 大気汚染物質の濃度の測定装置は、環境省や自治体などが各都道府県にまんべんなく数か所~数十か所設置している。各都道府県は、都道府県内をいくつかの地域に分けて、地域ごとに警報・注意報などを発令しており、各地域内に1か所以上は測定装置があるようになっている。 物質別の基準値と警報の区分[編集] 硫黄酸化物[編集] 硫黄酸化物の多くは二酸化硫黄(亜硫酸ガス)であるため、硫黄酸化物を二酸化硫黄と言い換えることも多い。 硫黄酸化物注意報 名称:注意報 基準:0.200ppm以上の状態が3時間以上継続。または、0.300ppm以上の状態が2時間以上継続。あるいは、0.500ppm以上の場合。もしくは、48時間平均値が0.150ppm以上の場合。 硫黄酸化物重大警報 名称:重大警報、重大緊急警報 基準:0.500ppm以上の状態が3時間継続。または、0.700ppm以上の状態が2時間以上継続。 二酸化硫黄の環境基準は1時間値0.1ppm以下である。また、日平均値0.04ppm以下という基準もある。 一酸化炭素[編集] 一酸化炭素注意報

Continue reading

瀬戸内クルージング – Wikipedia

株式会社瀬戸内クルージング(せとうちクルージング)は、広島県尾道市に事務所を置く日本の旅客船を運航する海運会社である。 本記事では瀬戸内クルージングの母体となっている個人事業主の「瀬戸内中央観光汽船」も合わせて触れる。 瀬戸内中央観光汽船は1898年(明治31年)創業。笠岡市本土と同市に属する離島・北木島を結ぶフェリー航路を運航している。本航路は保有する船名「金風呂丸」で呼ばれることが多いとされる。岡山県日生港-香川県大部港(小豆島)でフェリー航路を運航している瀬戸内観光汽船とは別事業者であり双方に関係はない。 瀬戸内クルージングは従来瀬戸内中央観光汽船が手がけていた尾道と生口島(瀬戸田)を結ぶ瀬戸田航路、また鞆の浦(福山市)の観光航路を運航している。従来尾道航路と笠岡航路の両方を「瀬戸内クルージング」としていたが、2019年(平成31年/令和元年)に双方を分離、笠岡航路は「瀬戸内中央観光汽船」、尾道航路は「瀬戸内クルージング」としている。 瀬戸内中央観光汽船 1898年(明治31年) – 人と荷物を運ぶ船舶として創業 1902年(明治35年) – 郵便物委託事業 昭和24年 海上運送法施行 1949年(昭和24年) – 同年10月10日中国第314号一般旅客定期航路事業の免許を受け岡山県笠岡市~同市笠岡諸島北木島間、金風呂~笠岡航路運航開始 1970年(昭和45年)2月 – 金風呂~笠岡航路へフェリー導入 1999年(平成11年)3月24日

Continue reading

シーダート (ミサイル) – Wikipedia

シーダートは、イギリスの艦隊防空ミサイル・システム。システム区分はGWS.30。 第二次世界大戦末ごろより、イギリス海軍はフリゲート用の誘導ミサイルの開発に着手していた。今後増大が予想される対艦ミサイル脅威には艦対空ミサイルでなければ対処できないと見積もられたことから、このミサイルは、航空機だけでなく、対艦ミサイル防御(ASMD)も想定したものとされていた。当初はBEN、1946年にはロングショット、1947年にはポップシー(Popsy)と、順次に計画が改訂されていった。しかし当時、軍需省のミサイル開発部門は、シースラグなど、既に着手されていた開発計画で忙殺されており、余力がなかったため、1948年9月には幕僚要求事項から削除された。 ポップシーのかわりに、70口径76mm連装砲によるDACR(direct action close range)による対艦ミサイル防御も検討されたものの、やはり性能的に不十分であった。このため、小規模な作業グループが組織されて検討が継続され、1949年4月1日にはポップシーの有効性を裏付ける答申がなされた。しかし依然として国内で開発できる見込みが立たなかったことから、アメリカ合衆国との共同開発が志向され、1950年7月には調査団が派米された。英米共同開発としてのモップシー(Mopsy)は、アメリカ海軍では結局採用されなかったものの、ターターに影響を与えたという説もある。またマサチューセッツ工科大学がAAM-N-5ミーティア向けに開発していたナロービーム連続波誘導装置の技術供与を受けられたのは大きな収穫であった。 その後、シースラグの開発が一段落したのを受けて、再びイギリス単独での計画として、1954年にはポップシーを引き継ぐかたちでオレンジネル(Orange Nell)がスタートした。1956年に正式な幕僚要求事項(GD 45)が策定されたのち、計画はしばらく停滞気味だったが、1958年の艦隊要件委員会の提言で、ミサイル非装備のフリゲートは10年以内に陳腐化するとの見通しが示されたことから、再び加速されることになった。アメリカのターターの導入も検討されたものの、将来発展性の不安と高価さから棄却され、1960年より、小型艦用誘導兵器(Small Ship Guided Weapon, SIGS)の計画が着手された。この計画では、ブリストル社のCF 299ミサイルと、同社のレイピアを発展させたPT 428ミサイルが検討され、前者が採択された。1962年にはシーダートと改称し、1967年11月より生産に入った。 停泊中の「リヴァプール」。射撃指揮レーダーのレドームが外されている。   ミサイルの誘導方式はセミアクティブ・レーダー・ホーミング(SARH)を採用した。ミサイル側のアンテナとしては、一般的なパラボラアンテナではなく、アメリカのタロスと同様に、ポリロッド・アンテナ4本をエアインテーク周囲に配置する方式とした。また艦上の火器管制レーダーとしては909型が搭載された。 エンジンとしては、ブースターとしては固体燃料ロケット、サステナーとしてはラムジェットを搭載した。速度は、低高度で2,500 ft/s (760 m/s)、高高度では2,900 ft/s

Continue reading

ウンディーネ (小説) – Wikipedia

『ウンディーネ』(Undine)は、1811年に発表されたフリードリヒ・フーケの中編小説。水の精霊ウンディーネと騎士フルトブラントとの恋と、その悲劇的な結末を描く幻想譚である。ゲーテから賞賛を受けたのを始め作者の生前から広く読まれ、多くの絵画、舞台、音楽などの題材となった。 フケーはこの物語の典拠としてパラケルススによる古文献を挙げており、またパラケルススが取り上げているシュタウフェンベルクのニンフの物語[注 1]も着想のもとになったと考えられる[1]。 あらすじ[編集] とある人里離れた岬で老いた漁師が釣りをしていると、不吉なものが棲むと言われる森を通り抜けて騎士フルトブラントが現れ、一晩の宿を求める。フルトブラントは、老夫婦の家で、養子である不思議な少女ウンディーネと出会いたちまち恋に落ちる。次の日から大水が起ってフルトブラントは漁師の家を出られなくなるが、その滞在の間にウンディーネとの仲を深めていき、ついに彼女と結婚することが決まる。結婚翌日の床でウンディーネは、自分の正体は水の精であり、大水やその間の不思議な出来事も自分の仕業だったと打ち明けるが、フルトブラントは変らぬ愛を誓い、ウンディーネを妻として町へ連れ帰る。 町ではもともとフルトブラントのことを慕っていた貴婦人ベルタンダが彼を待っていた。フルトブラントがウンディーネを連れて帰ったことで彼女は失望するものの、ウンディーネとは気が合い打ち解けた仲となる。しかしベルタルダの霊名日に、祝いの席でベルタルダの本当の両親があの老いた漁師の夫妻であることを明かすと、ウンディーネの案に違ってベルタルダは激昂し、訪れた老夫妻に罵声を浴びせてしまう。この出来事からフルトブラントたちはいたたまれなくなり、上の振る舞いから育ての親からも生みの親からも勘当されてしまったベルタルダとともに自分の城に引きこもってしまう。 リングシュテッテンの城で生活するうち、フルトブラントの心は次第にベルタルダのほうへ傾いていく。ウンディーネはベルタルダの窮地を救うことで一時フルトブラントの情愛を取り戻すが、その後3人でウィーン旅行に行った際、ウンディーネの存在がもとで水の精から様々な悪戯を仕掛けられ、ついにフルトブラントは「水の上でウンディーネを叱ってはいけない」という精霊界の掟を破ってしまう。ウンディーネは掟に従い、嘆きながらフルトブラントのもとを去り水の中へ帰っていく。 ウンディーネを失ったフルトブラントは悲しみに暮れるが、やがてベルタルダへの愛がよみがえり彼女との再婚を決意するに至る。夢に現れて必死に懇願するウンディーネの努力もむなしく、フルトブラントはベルタルダと婚礼の式を挙げてしまい、ウンディーネは精霊界の掟に従いフルトブラントの命を奪わなければならなくなる。花嫁の閨(寝屋)に向かおうとするフルトブラントの前に白衣の女が不意に現れるが、それがウンディーネで、フルトブラントは彼女と口付けを交わしながらその腕の中で息絶える。 派生作品[編集] この節の加筆が望まれています。 文学[編集] オペラ[編集] バレエ[編集] 日本語訳[編集] 『アンデイン』(家庭読物刊行会『世界少年文学名作集 第10巻』所収 藤沢周次訳、1920年) 『水妖記(ウンディーネ)』(柴田治三郎訳 岩波文庫、1938年) 『美しき水の精の物語』(矢崎源九郎訳

Continue reading

ザウテルヘビ – Wikipedia

ザウテルヘビ 分類 学名 Amphiesma sauteri(Boulenger, 1909) 和名 ザウテルヘビ 英名 Kosempo keelbackSauter’s water snake ザウテルヘビ(Amphiesma sauteri)は、ユウダ科ヒバカリ属に分類されるヘビ。 中華人民共和国(広東省、江西省、四川省、福建省、広西チワン族自治区)、ベトナム北部[1] 中華人民共和国(台湾)[1] 模式標本の産地(模式産地)は甲仙埔(現台湾高雄市甲仙区)で、英名Kosempoの由来になっている[1]。 最大全長76センチメートル[1]。胴体中央部の斜めに列になった背面の鱗の数(体列鱗数)は15[1]。総排出口までの腹面にある幅の広い鱗の数(腹板数)は約130[1]。総排出口から後部の鱗の数(尾下板数)は左右に78ずつ[1]。体色は茶褐色や赤褐色で、黒い斑点が入る[1]。体側面には赤い斑点が1列に並ぶ[1]。腹面の鱗(腹板)は薄黄色で、両端に黒褐色の斑紋が入る[1]。口角から頸部にかけて白い斑紋が入る[1]。虹彩は橙色[1]。 孵化直後の幼蛇は全長10センチメートル[1]。

Continue reading