光華号 – Wikipedia

光華号(こうかごう)は中華民国(台湾)台湾鉄路管理局が西部幹線で運行していた優等列車。自強号登場前の最速列車であった。なお、廃止されたが、台東線で活躍中のDR2700型が光華号名義で運行する場合がある。しかし、LED表示機器に「光華号」という車種表示は無いので「観光号」で代用する。 東部幹線(台東線)の同名の列車は台東線光華号を参照。 1966年10月31日、世界銀行の借款により新規購入したDR2700型気動車で台北-高雄間の半直達特快車として光華号を運行開始した。海線経由の列車は途中停車駅が台南駅のみで4時間45分で走った(高雄7時20分発車,台南7時57分発車,台北12時05分到着)。これは電化前の台湾で地上最速の乗り物であった。初期のある列車では台鉄弁当が提供されていた(1970年の経済日報による。2002列車は食事付きであり、18元の値段が乗車券の金額に含まれていた。)最初の乗車券の価格は台北から台中が71元、台北から台南が138元5角、台北から高雄が158元、台南から高雄が20元であった。 命名[編集] 台鉄はDR2700型投入に際して愛称を一般公募した。1966年3月1日から15日までに集まった総応募数1,915票には鉄道のない金門県や澎湖県からの応募も少なくなかった[1](p28)。 872もの命名案から一次選考で30案が選出され、二次選考で10案に絞り込まれた。最終的に第6代台鉄局長だった林則彬が「光華号」を選定し、8月10日にテレビ放送で発表された[1](p28)。 また、応募参加者には抽選で景品が贈呈された。1等賞は賞金1,000ニュー台湾ドル(NT$)、2等賞は賞金600NT$、3等賞は300NT$で他にも台北高雄間の往復乗車券が進呈されている[1](p28)。 重大事故[編集] 1966年11月4日:光華号は最初の事故を起こした。場所は台北市宝慶路交差で1名の通行人が死亡した。 1973年11月6日:2003次がトラックと衝突して乗客1名死亡、四十余名が負傷した。この事故を機にその場所は立体交差化された。それが今の嘉義市博愛陸橋である。 1976年7月21日:2001次がトラックと衝突して乗客1名が死亡した。 1978年5月13日:2002次がトラックと衝突して乗客31名が負傷した。 1979年1月22日:3086次がトラックと衝突して運転士と車掌が殉職した。 縦貫線光華号時刻表[編集] 時刻表中の(着)を除き出発時刻 下行 1966年10月31日改訂 車種の山光華は山線経由、海光華は海線経由 車種 車次

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プチトエトワール – Wikipedia

プチトエトワール (Petite Etoile) は、イギリス産の競走馬、繁殖牝馬。 競走馬時代[編集] プチトエトワールは1958年5月末に競走馬としてデビューした。このレースは2頭立てで、対戦相手のクライス(後に短距離路線で活躍)に8馬身の 着差をつけられて敗れた。その後8月まで3戦し2勝を収めた後歩様に異常が見られるようになったため、陣営は年内の出走を見合せた。 1959年、プチトエトワールはイギリスのクラシック前哨戦の一つであるフリーハンデキャップステークスでレースに復帰。このレースを優勝すると、3番人気で臨んだ1000ギニーも優勝した。続いてイギリスクラシック牝馬三冠第2戦のオークスに出走。レース前には血統の面から距離が長すぎることが懸念されたが、レースでは4番手から直線で抜け出し2着馬に3馬身の着差をつけて優勝。イギリスクラシック牝馬二冠を達成した。なお、このレースでのプチトエトワールの走破タイムは前々日に行われたダービーステークスの優勝馬パーシアのタイムを上回るものであった。 オークス優勝後、プチトエトワールはサセックスステークスに出走。この時のレース振りは後方を追走しゴール手前約300mの地点でスパートをかけ優勝するというもので、「他の馬を小バカにしたような」ものであったといわれる。この後プチトエトワールはイギリスクラシック牝馬三冠馬のかかったセントレジャーステークスには出走せず、ヨークシャーオークスとチャンピオンステークスに出走し、いずれも優勝した。6戦全勝でシーズンを終えたプチトエトワールは、ジョッキークラブが発表した1959年の3歳フリーハンデで、牡馬を含む全3歳馬でもっとも高い133ポンドという評価を受けた。 1960年は緒戦のビクトリアワイルドステークスを優勝した後、コロネーションカップに出走。同世代のダービーステークス優勝馬パーシアとの対戦に注目が集まったが、競馬記者が表現に苦労するほどの快勝といわれるレース振りで勝利を収めた。続いてキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに出走。序盤は後方に待機し直線でスパートをかける従来通りの戦法をとったがアグレッサーに1/2馬身及ばず2着に敗れた。この敗戦により1958年から続いていたプチトエトワールの連勝は9でストップし、その原因について競馬メディアは、意図的に後方に待機しスパートをかけるタイミングが遅れた主戦騎手レスター・ピゴットの騎乗にあると非難した。一方調教師のマーレスは敗因について、そもそもスタミナが不足していたと述べた。 プチトエトワールは1961年も現役を続行したが、当時イギリスで流行していた馬インフルエンザに罹患し、一度は引退が決定した。しかし引退は撤回され、緒戦のコロネーションステークスを優勝。さらに続くコロネーションカップではプリティーポリー、ザホワイトナイトに続き史上3頭目となる連覇を達成した。その後プチトエトワールは4戦して2勝2着2回という成績を収め、この年のシーズンを限りに引退した。最後のレースとなったキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでは前年批判を浴びた後方待機策ではなく2番手を進むという戦法がとられたがレース終盤に伸びを欠いた。 繁殖牝馬時代[編集] 繁殖牝馬としてのプチトエトワールは不受胎や死産が続き、生まれた産駒も目立つ成績を上げることができなかった。しかし死後の2008年、7戦7勝で同年の凱旋門賞を制した牝馬ザルカヴァの5代母として注目を集めた。 参考文献[編集] 原田俊治『世界の名馬』 サラブレッド血統センター、1970年 外部リンク[編集]

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東京都立狛江高等学校 – Wikipedia

東京都立狛江高等学校(とうきょうとりつ こまえこうとうがっこう)は、東京都狛江市元和泉三丁目に所在する都立高等学校。 1972年(昭和47年)設立。それまで狛江市内に都立高校がなかったことから、1960年代より狛江市長や市議会に市内に高校設立の陳情や要望が多く寄せられ、開設の運びとなった。 基礎データ[編集] 設置課程[編集] 交通[編集] 校章[編集] イチョウ(公孫樹)をモチーフにしたもの。本校正門付近のイチョウ並木は、学校建設当時、建設予定地の池の周りに植えられていたものである。 校歌[編集] 1974年(昭和49年)5月制定。作詞は国文学者坊城俊民、作曲は英文学者で元武蔵大学教授の田崎篤次郎。 歌詞には、万葉集の中に狛江市近辺のこととして「多摩川に曝す手作さらさらに 何そこの児のここだ愛しき」と詠われていることを踏まえ、「高麗人(こまびと)の伝へし技を受け継ぎてあづま乙女は布さらしけり」という反歌が挿まれている。 このコンビによる校歌としては他に、「都立九中・二十四中合併記念校歌」(東京都立第九中學校(現在の東京都立北園高等学校)第二校歌)、「上板橋第二中学校校歌」などがある。 1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)の間、東京都立第九中學校において、坊城は国語科の、田崎は英語科の教師として教鞭を執っていた。 毎年25名程度の長期留学生を受け入れたり、20年間以上オーストラリアの高校との交換留学を実施するなど国際理解教育に力を入れている。また、東京外国語大学の留学生との交流活動をおこなっているほか、2009年から、国際理解教育の一環として海外への修学旅行(2009年は韓国)を実施している。中国語などの第二外国語を学ぶことができる。 土曜日授業や勉強合宿の実施、受験対策の講習・補習も多く取り組んでいて、大学進学にも力を入れている。 学校行事[編集] 公孫樹(こうそんじゅ)祭 毎年9月に開催される文化祭。 運動部[編集]

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ロビン・ロペス – Wikipedia

ロビン・バイロン・ロペス(Robin Byron Lopez,1988年4月1日 – )はアメリカ合衆国カリフォルニア州ノースハリウッド出身のバスケットボール選手。NBAのオーランド・マジックに所属している。一卵性双生児の兄ブルック・ロペスもNBA選手である。 生い立ち[編集] ロビンと兄のブルックはキューバ人の父、ヘリベルト・ロペスは野球のキューバ代表選手、アメリカ人の母、デボラ・レドフォードは水泳のアメリカ代表候補にも選ばれたというスポーツ一家で育った。しかし父のヘリベルトは彼らが5歳の頃に出奔しており、以来2人とは会っていない。祖父がバスケット選手だった影響を受けて、バスケットボールを始める。 高校はブルックと共にサン・ワーキン記念高校でプレイし、3年生時にはアディダススーパースターキャンプ・アンダークラスのオールスターゲームではMVPを獲得。最終学年にはマクドナルドとパレード誌選出のオールアメリカンチームに選ばれた。 高校卒業後はブルックと共にスタンフォード大学に進学し、双子のビッグマンとして注目を集めるようになる。1年目のシーズンにロビンは7.5得点5.5リバウンド2.4ブロックを記録。シーズン通算73ブロックは同校のルーキー新記録となり、また史上2番目の記録でもあった。2年目のシーズンには10.2得点5.7リバウンド2.3ブロックを記録し、オールPac-10とPac-10のディフェンシブチームに選ばれた。ロビンとブルックに牽引され、同校はNCAAトーナメントのSweet16まで勝ち上がった。 大学では2シーズンだけプレイし、ブルックと共に2008年のNBAドラフトにアーリーエントリーした。 NBAキャリア[編集] フェニックス・サンズ[編集] ドラフトではフェニックス・サンズから全体15位指名を受けた。ブルックはニュージャージー・ネッツから10位指名を受け、一卵性双生児が同じ年に共に1巡目指名された初めての例として話題になった。 ニューオーリンズ・ホーネッツ[編集] 2012年7月27日、サイン・アンド・トレードでニューオーリンズ・ホーネッツに移籍。 ポートランド・トレイルブレイザーズ[編集] 2013年7月10日、ポートランド・トレイルブレイザーズに移籍。 ニューヨーク・ニックス[編集] 2015年7月3日、ニューヨーク・ニックスと4年5400万ドルで契約した。 シカゴ・ブルズ[編集]

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クーズ郡 (オレゴン州) – Wikipedia

クーズ郡(英: Coos County)は、アメリカ合衆国オレゴン州にある郡の一つ。2000年の時点における人口は62,779人だった。郡名はかつて同地域で生活を営んでいた先住民族の名に由来する。アムクワ郡、ジャクソン郡の西部から分離して成立した。郡庁所在地はコキールである。 クーズ Coos という名称の由来ははっきりしていない。ルイス・クラーク探検隊はCook-koo-ooseと記した。初期の地図や文献を見ると、Kowes、Cowes、Coose、Koosなどの表記が用いられている。 この地は1828年に調査が行われたが、入植は1853年にクーズベイ・カンパニーがエンパイアシティ(現在のクーズベイの一部)を設立したのが最初である。 1853年12月22日、準州議会の法令によりクーズ郡がアムクワ郡とジャクソン郡から分離する形で成立した。1855年にはカリー郡がクーズ郡の南部地域から分離して成立する。当初、クーズ郡の郡庁はエンパイアシティに置かれた。1895年に準州議会が郡民に新たに郡庁所在地決定の許可を下すと、翌1896年に住民投票が行われ、郡庁がコキールに移転することになった。 準州議会は1854年にクーズベイからジャクソンヴィルまでの、1857年にはローズバーグまでの荷馬車道建設の許可を下した。 19世紀、クーズ郡には金の鉱床があったため多くの人々が移住してきた。1890年から1910年にかけて、大量の石炭が郡内で採掘され、カリフォルニア州へ輸出された。オレゴン州で油田が発見されると、石炭産業は衰退し、1950年には石炭の採掘が打ち止めになってしまう。1938年から天然ガスを求めて炭田の調査が行われていたが、2003年にテキサス州に本拠を置くCDXガス社が2つの試掘井を掘削する計画であることを明らかにした。 ローズバーグとクーズベイを結ぶ天然ガス・パイプラインの建設計画が1999年、オレゴン州の2400万米ドルの支援により2700万ドルという高額の地方債が住民投票で承認されたことを受けて提案された。パイプラインの建設工事は2003年6月に開始され、翌2004年に完成を迎えた。 今日、クーズ郡の経済は林産物、観光、漁業、農業が大半を占めている。また、クーズ郡の今までの木材産業中心の経済に代わり、サービス産業が台頭してきている。バンドンの北方でクーズベイの南方に所在するバンドン・デューンズ・ゴルフ・リゾートは観光客やゴルファー達を世界中から集めている。ボーティング、畜産業、広葉樹マートルウッドによる製造業、造船、船の修理、クランベリー栽培なども同郡の経済で重要な位置を占めている。鉄鉱の豊かな鉱床は未開発であり、開発が待たれている。 クーズ郡には幾つかの港湾地区がある(1909年設立のポート・オブ・クーズベイ、1912年設立のポート・オブ・コキール・リバー、1913年設立のポート・オブ・バンドン)。クーズ湾(クーズベイ)はサンフランシスコ湾とピュージェット湾の間では最良の自然港湾であるとされ、ポート・オブ・クーズベイは、運送船による生の木材輸出が中断される2005年末まで、世界最大の林産物船荷業者であった。 人口動態[編集] 以下は2000年の国勢調査[1]による人口統計データである。 人口: 62,779人 世帯数: 26,213世帯 家族数:

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ブレズニク – Wikipedia

座標: 北緯42度44分 東経22度53分 / 北緯42.733度 東経22.883度 / 42.733; 22.883 ブレズニク Брезник ブルガリア内のブレズニクの位置 ブレズニク(ブルガリア語:Брезник / Breznik[1])はブルガリア西部の村、およびそれを中心とした基礎自治体。ペルニク州に属する。ブルガリアの首都・ソフィアからは50キロメートルにあり、付近にはバンキャやペルニクがある。 ブレズニクが初めて文献に現れるのは11世紀のイサイア物語およびブルガリア外典年代記における「БР(Ѣ)ЗНИКЪ」である。ブレズニクは当時から既に町であった。その後町は15世紀から19世紀にかけてたびたび記録に現れ、町が連続的に存在していたことを示唆している。その名前はカバの森を意味しており、カバを意味するブルガリア語「бреза / breza」に由来している。チェコの地名ブジェズニーク(Březník)と語源を同じくしている[2]。 ブレズニクにちなむもの[編集] 南極大陸、サウス・シェトランド諸島・グリニッジ島のブレズニク高地(Breznik

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京急700形電車 (初代) – Wikipedia

京急700形電車(けいきゅう700がたでんしゃ)、及び730形電車は1956年(昭和31年)に登場した京浜急行電鉄の特急形車両で、同社初の高性能電車でもある。両形は1966年(昭和41年)に600形 (2代) に編入され、1986年(昭和61年)までに全車廃車された。 戦後初の2扉セミクロスシート車として製造されたデハ500形同様、2扉セミクロスシート車とされ、京浜急行電鉄初のカルダン駆動による高性能電車として設計された。 全電動車方式であり、当時各社で採用されはじめていた全金属製準張殻構造車体を採用して軽量化を実現、デハ500形より5.5tほど軽量化された。 車体・台車を東急車輛製造と川崎車輌、電装品を東洋電機製造と三菱電機がそれぞれ担当し、東洋製電装品を搭載するデハ700形・デハ750形が各11両、三菱電機製電装品を搭載するデハ730形・デハ780形が各9両、合計40両が1958年(昭和33年)まで製造された。 デハ700・730形が浦賀寄り、デハ750・780形が品川寄りに連結され、それぞれ700-750・730-780で搭載機器を集約分散するMM’方式により2両1ユニットを構成する。電装品メーカーは異なるがユニット単位で相互の併結が可能なように各機器の仕様が定められており、実際にも混用された。 デハ600形への改番、半数の中間車化、冷房改造を経て快速特急など優等列車中心に使用されたが、2000形の登場により1984年(昭和59年)から1986年(昭和61年)にかけて全車廃車され、6両が高松琴平電気鉄道に譲渡された。 特記のない限り、以下の文中では各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で代表する。「1000形」は1959年(昭和34年)登場の1000形(初代)をさす。 車体長17,500 mm、車体幅2,700 mmの全金属製準張殻構造車体を備える。 構造面ではデハ420形までの車両で窓の上下に露出していたウィンドウヘッダーおよびウィンドウシルと呼ばれる補強帯が外板の内側に隠されたこと、鋼板プレス構造であった客用扉が平坦な構造に変更されたこと、さらに雨樋位置が屋根上部に移設されて外板の幕板部が屋根の肩の部分まで引き上げられた、いわゆる張り上げ屋根構造とされたことで、全体的に平滑な外観が実現している。 窓配置はデハ500形のd1 (1) D5D (1) 1(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)を基本とするが、戸袋窓を扉間に置くように変更してd1D (1) 5

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北陸朝廷 – Wikipedia

北陸朝廷(ほくりくちょうてい)は、南北朝時代に南朝方武将の擁立や僭称により北陸に存在したと考えられる朝廷のことである。 建武の新政は後醍醐天皇の情熱にもかかわらず、わずか3年で破綻。遂には光明天皇を奉ずる足利尊氏と新田義貞らに奉じられて比叡山に籠もる後醍醐天皇が睨み合う一触即発の状況となった。この事態に足利尊氏は後醍醐天皇側に和議を申し入れ、後醍醐天皇もこれに応じて比叡山を下り京都へ戻った。時に延元元年/建武3年10月10日(ユリウス暦1336年11月13日)のことだった。 『太平記』巻17「立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事」によれば、その前日、後醍醐天皇は新田義貞に勅して恒良親王を奉じて北国へ下るよう命じた。その理由はこうである――「朕京都へ出なば、義貞却て朝敵の名を得つと覚る間、春宮に天子の位を譲て、同北国へ下し奉べし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕に不替此君を取立進すべし」。また同書では「九日は事騒き受禅の儀、還幸の装に日暮ぬ」としていて、同日、受禅の儀(皇位を譲り受けるための儀式)が行われたことを記している。これについて瀧川政次郎は『日本歴史解禁』で「「金甌無缺の国体」を護持せんとした明治の歴史家達は、この事実を否定せんとして太平記の措信すべからざるをことを強調したが(略)叡山で受禅があつたといふ太平記の記事は事実で、恒良親王が天皇として北陸に君臨せられたことは、終にこれを否認することができない」としている。また、これを踏まえ「一時は南朝・北朝・北陸朝の三朝が国内に鼎立してゐたのである」ともしている[注釈 1]。 瀧川が『太平記』の記事は事実であるとする根拠に挙げているのは白河結城家に伝わる「白河文書」と加賀前田家に伝わる「得江文書」である。「白河文書」に見える白河結城氏2代当主・結城宗広に下された御書(「北陸朝廷の歴史資料「白河文書」」参照)には「越前国鶴賀の津に行幸ある所也」(原漢文)とあり、その打止めには「天気如此悉之以状」とあって、これが「全く綸旨の体」をなしていること。また「得江文書」には「白鹿二年」という私年号を用いた文書[注釈 2]があることを挙げ、これらを根拠に「恒良親王が天皇として北陸に君臨せられたことは、終にこれを否認することができない」と結論付けている。 自称天皇の一人・三浦芳聖は、尊良親王と、その継承者守永親王が北陸朝廷の天皇であり、自らがその子孫である[4]と述べている。 北陸朝廷の歴史資料「白河文書」[編集] 北陸朝廷の裏付け史料とされる「白河文書」は白河結城氏の家伝文書で「白河結城家文書」ともいう[5][6]。延元元年(1336年)11月12日付けの「尊氏直義以下逆徒追討の事」という表題で「結城上野入道館」(結城宗弘)あてに味方に馳せ参ずるように督促した綸旨で「左中将」(新田義貞)の名前で通達されている。  尊氏直義以下逆徒追討の事 先度被下綸旨了去月十日所有臨幸越前国鶴賀津也相 催一族不廻時刻馳参可令誅伐彼輩於恩賞者可依請 者天気如此悉之以状 延元元年十一月十二日                左中将在判   結城上野入道館 本文を書き下し文・口語文にすると、それぞれ次のようになる。 先度綸旨を下されおわんぬ。去月十日越前国鶴賀津に臨幸ある所なり。一族を相催し、時刻を廻らさず馳せ参じ、かの輩を誅伐せしむべし。恩賞においては請いによるべし。天気かくのごとし。これを悉せ、以て状す。 さきごろ綸旨を下された。先月十日、越前国の敦賀港(金ヶ崎城)に臨幸中である。一族を相催し時間をかけず(すぐに)馳せ参じ、かの輩(尊氏直義以下逆徒)を誅伐させなさい。恩賞は望みどおり与える。天皇のお気持ちはこのようである。このようにしなさい。以上、通達する。 延元2年(1337年)2月9日には、同じく「結城上野入道館」あてに味方に馳せ参ずるように督促した綸旨が、「右衛門督」(脇屋義助)の名前で通達されている。

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マグリブ – Wikipedia

この項目では、北アフリカの地域名について説明しています。イスラム教の日没後の祈りについては「マグリブ礼拝」をご覧ください。 マグリブを表す地域 マグリブ(Maghreb、アラビア語: المغرب‎ al-Maghrib)は、アラビア語で「沈む」「日没する」という意味の動詞「غرب」に場所を表す「م」を冠するもので、「日が没すること、没するところ」を原義とする語。フランス語・英語ではマグレブと言うが、日本語でもマグレブが頻繁に用いられる。「西方」の意味を持ち、地域名としても用いられる。また、ムスリム(イスラム教徒)の義務である一日五回の礼拝(サラート)のうちの一つである日没時の礼拝を指す言葉でもある。ここでは、地域名としてのマグリブについて記す。 地域名としてのマグリブ[編集] 地域名としてのマグリブは、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわちモロッコ、アルジェリア、チュニジア、西サハラの北アフリカ北西部に位置するアラブ諸国を指し、場合によってはリビアやモーリタニアも含められる。 イスラム教とともにアラブ人が入ってくるまでは、ベルベル人の居住する地域であった。現在も多数派となったアラブ人に混じってベルベル人が残っている。 1989年にマグリブ5か国は、ヨーロッパ連合にならって経済統合を促進するためにマグリブ連合を結成したが、アルジェリア情勢の不安定などから地域統合を進めることができず、連合としての活動はあまり見られない。 なお、モロッコのアラビア語による通称は定冠詞入りのアル・マグリブ(المغرب、al-Maghrib)である。正式な国名はアル=マムラカ・アル=マグリビーヤ(المملكة المغربية、al-Mamlaka al-Maghribiya, マグリビーヤはマグリブの形容詞形)といい、直訳すれば「マグリブ(日の没する地)の王国」という意味である。 食文化[編集] 代表的な食べ物にクスクスとバスティラとタジン鍋がある。主にクミン、ターメリック、サフラン、シナモンなどの香辛料を用い、味付けは香り高くマイルドだが、チュニジアではハリッサという唐辛子のペーストもよく使われる。イスラム教の教義に従って豚肉を食べることはまずない。イスラム教では酒を飲むことが禁止されているが、宗主国であったフランスの影響で、ロゼワインを多く産出する。ノンアルコール飲料の中では、ミントと砂糖を入れた緑茶はとても人気がある。モロッコ料理は特に美食で名高い。 著名なマグリブ出身者[編集] 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、マグリブに関連するカテゴリがあります。

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林ももこ – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “林ももこ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年12月) 林 ももこ(はやし ももこ、11月24日 – )は、日本の歌手、シンガーソングライター、作詞家、作曲家。M*cube、キュア・レインボーズのメンバー。楽曲提供の際は「林桃子」名義での活動もある。 3歳の時に美空ひばりの映画を両親に見せられ、「東京キッド」を人生最初に覚えることとなる。 小学生時代からさまざまなオーディションを受けながら各雑誌の読者モデルなどを経て、「やりたいのは歌だ!」と自身の方向性を見出す。 2005年、「はいじ」名義でWonder-holicで活動。2006年、「林桃子」名義で作詞家として中森明菜へ「紅夜 -beniyo-」を提供する。 2009年1月、Wonder-holicとしての活動停止。2月、「林桃子」名義で、テレビアニメ『フレッシュプリキュア!』の主題歌「You make

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