Month: April 2022

ジュリア・ファルネーゼ – Wikipedia

ジュリア・ファルネーゼ(Giulia Farnese、1474年 – 1524年3月23日)は、ローマ教皇アレクサンデル6世の愛妾の1人。「麗しのジュリア」を意味するジュリア・ラ・ベッラ(Giulia la bella)と呼ばれた。ロレンツォ・プッチは彼女を「最上の目の保養」と呼び、アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアは彼女について「暗い色をしたその黒い瞳は、丸みを帯びた顔に独特の情熱を与えている」と述べている。 ジュリアはイタリア、ラティウム地方のカニーノで、モンタルトの領主ピエルルイージ・ファルネーゼ(1435年 – 1487年)と、その妻ジョヴァンナ・カエターニの第3子長女として生まれた。母の実家カエターニ家は教皇ボニファティウス8世を輩出した古参の名門であった。ジュリアには4人の兄弟姉妹がおり、長兄のアレッサンドロ(後の教皇パウルス3世)は公証人だったが、後に教会に入って聖職者の道を歩んだ。次兄のバルトロメオは父の後を継いでモンタルトの領主となり、ロランダ・モナルデスキと結婚して子をもうけた。ジュリアのすぐ下の弟アンジェロもやはり領主で、レッラ・オルシーニと結婚して女系子孫を残した。一番下はジローラマという妹である。 1489年5月21日、15歳のジュリアはローマでオルシーノ・オルシーニと結婚した。オルシーノの母親アドリアーナ・デル・ミラは野心家で、教皇庁国務副長官ロドリーゴ・ボルジア枢機卿(後の教皇アレクサンデル6世)とは三又従兄妹の関係にあった。オルシーノは斜視で、全く自信のない男だったと言われる。伝記作家マリア・ベロンチによれば、アレクサンデル6世がいつジュリアに情熱を傾けて彼女を愛人にしたのかは、はっきりと分からないという。はっきり判ることは、アレクサンデルの遠縁である姑アドリアーナが、息子がバチカンにおいて高い地位を獲得できる好機とみて、嫁ジュリアの不倫に最終的に賛成していたということである。1493年11月までに、ジュリアはバチカンに隣接して建てられた新築の宮殿にアドリアーナ及び教皇の娘ルクレツィア・ボルジアと共に移住していた。この宮殿は教皇が身近な女性たちの許を頻繁に訪れられるように建てられたものである。教皇とジュリアの情事は広く巷間に知られてゴシップの種となり、ジュリアには「教皇の淫婦」や「キリストの花嫁」といった呼び名がついた。ジュリアとルクレツィアは親友になった。 またジュリアと教皇の愛人関係のおかげで長兄のアレッサンドロは枢機卿の地位を得た。このため詩人パスクイーノはファルネーゼ枢機卿を「スカートの枢機卿」と呼んだ。 ジュリアはラウラという娘を産んだ。ラウラの父親がオルシーノとアレクサンデル6世のどちらなのかは判然としない。マリア・ベロンチはジュリアが夫オルシーノと夫婦関係を保っていたという証拠の存在を信じている。事実がどうであれジュリアは生まれた娘の父親を教皇であると主張した(つまり婚外子だとした)が、これは将来娘の結婚をより有利なものにするためだったかも知れない。1494年、ジュリアは死の床についていた弟アンジェロをカポディモンテに見舞ったとき、教皇の怒りを買った。彼女は夫オルシーノの命令により弟の死後もローマから遠ざけられた。しかしオルシーノは最終的にはジュリアを呼び戻したい教皇による圧力に屈し、ジュリアは愛人の許に戻ることになった。この時フランス王シャルル8世によるイタリア侵攻が始まっており、旅の途中でジュリアはフランス軍の隊長イヴ・ダレールに捕えられた。ダレールは教皇に対し、身代金3000スクードを支払えばジュリアを無事にローマまで送り届ける、という要求を突きつけた。 ジュリアは1499年ないし1500年まで教皇の愛人であったが、この時期には年齢を重ね、教皇の寵愛を失ったように思われる。ベロンチは2人の関係がアドリアーナの友好的なとりなしによって終わったと考えている。夫オルシーノもこの時期に亡くなった。ジュリアはローマからそう遠くないカルボニャーノに移住した。この町はアレクサンデル6世がオルシーノに与えたものだった。教皇は3年後の1503年に死んだ。 ジュリアは1505年、娘ラウラの結婚式に出席するためローマを訪れた。ラウラはアレクサンデル6世の後を継いだ新教皇ユリウス2世の甥ニッコロ・デッラ・ローヴェレと結婚した。ジュリアは娘の結婚後も恋愛の情熱を冷ますことはなかった。名前の知られていない何人かの恋人をもち、寡婦となった翌年の1501年には、ナポリの下級貴族ジョヴァンニ・カペケ・ディ・ボッズートと再婚した。1506年、ジュリアはカルボニャーノの支配者となった。ジュリアは町の城塞に住まい、のちには町の城門に彼女の名前が刻まれた。町の年代記は、ジュリアが断固とした態度をとる精力的な統治者で、有能な行政手腕の持ち主だったと述べている。ジュリアは1522年までカルボニャーノにいたが、その後ローマに帰った。 ジュリアは1524年、兄アレッサンドロ枢機卿の邸宅で亡くなった。50歳だった。死因ははっきりしない。その10年後の1534年、アレッサンドロはパウルス3世としてローマ教皇の座を勝ちとった。ラウラとニッコロは3人の子をもうけ、オルシーニ家の財産を相続した。 参考文献[編集] Bellonci, Maria. The Life

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あるカタストロフ – Wikipedia

あるカタストロフ Une catastrophe 『戦艦ポチョムキン』(1925年)「オデッサ階段」の引用部分 監督 ジャン=リュック・ゴダール 脚本 ジャン=リュック・ゴダール 音楽 ロベルト・シューマン 編集 ジャン=リュック・ゴダール 配給 ウィーン国際映画祭 公開 2008年9月18日 上映時間 63秒 製作国 フランス オーストリア

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余韻 (来生たかおのアルバム) – Wikipedia

『余韻』(よいん)は、2008年にリリースされた来生たかおの23枚目のオリジナルアルバム(CD〈規格品番:ANOC-6151〉)である。 ※原則的に、来生たかおは“来生”に省略、来生えつこは“来生えつこ”と表記。 来生は前作『avantage』が最後のアルバムになるかも知れないと思っていたが、関係者からアルバム制作の誘いがあり、実現したことを明かしている[1]。来生は全曲書き下ろしのアルバム制作に自信を持てなかったが、『30th Anniversary X’mas Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』で幼少時の愛唱歌である「雨に咲く花」をカヴァーしたことがとっかかりとなり、他作曲家作品のカヴァーアルバムというアイディアが持ち上がった[1]。また、どうせならオリジナル曲も入れてはどうかという周辺の意見から、カヴァー曲・オリジナル曲で別々に1枚ずつ制作する案もあったが、最終的に7曲がオリジナル、6曲がカヴァーという形に落ち着き、有名・無名にこだわらず、あくまで来生がソングライターとして感銘を受けた楽曲や、幼少期から気に入っていた楽曲の中から、歌詞よりメロディーの良さで厳選された[2]。 編曲は矢倉銀(来生たかおの編曲時のペンネーム)と渡辺俊幸で行われている。来生がたまたま観ていたNHK総合『NHKスペシャル にっぽん家族の肖像』のテーマソングに感銘を受け、その作者である渡辺に自ら依頼したという。 ブックレットには“ニューアルバムによせて”と題された来生自身による各カヴァー曲の解説が掲載されており、ブックレットの題字・イラストは来生えつこの直筆によるものである。アルバムタイトルには、聴き終わった後に小津安二郎作品のような余韻が残るように、との思いが込められている。 なお、ブックレットには“プロデューサー”は明記されておらず、“エグゼクティブプロデューサー”として安西範康の名が記されている。 パッケージの体裁[編集] ディスクジャケット[編集] ジュエルケースにブックレットを挿入 帯のコピー[編集] オリジナル7曲に加え、初めてカバー曲にも挑戦した贅沢なアルバム。来生たかおがこれぞ昭和の名曲と自らセレクトした6曲を厳選収録。 リフレイン(1:03)

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レイルロードタイクーン – Wikipedia

レイルロードタイクーン(英: Railroad Tycoon)は、経営シミュレーションゲームであり、これまでに5つのバージョンが存在する。シド・マイヤーが設計したゲームであり、マイクロプローズから発売された。「タイクーン」と付いているが、同じマイクロプローズから発売されていた「タイクーン」の付くゲームとは関連性はない(トランスポートタイクーンなどはクリス・ソイヤーが設計)。 ゲームの目的[編集] ゲームの目的は鉄道会社を作って経営することで、線路を敷設したり、駅を建設したり、鉄道車両を購入したり、ダイヤを設定したりということをする。勝利するには、ある期間内に鉄道を構築しなければならない。 レイルロードタイクーン[編集] 1990年に発売されたオリジナル版である。会社の初期設定として、アメリカ西部・中西部・北東部、イングランド、(イングランド南部も含む)ヨーロッパから選ぶことができる。 プレイヤーは上述のように会社を経営しつつ、個々の車両の動きを調整し、付随する産業を育成する。ゲームには敵対する鉄道会社も登場する。 初期状態では100万ドルが与えられるが、半分は借金である。プレイヤーは額面50万ドルの債券を売ることで資金を追加でき、ゲーム内の経済状況によって債券の価格が変動する。 レイルロードタイクーン デラックス[編集] 1993年に発売された拡張版。新たな機能やグラフィックスが改善されていたにも関わらず、この版は性能が悪くあまり売れなかった。 基本的にはレイルロードタイクーンと同じゲームだが、グラフィックスがより高解像度になり、音響効果も追加されている。また、南アメリカとアフリカのマップが追加され、地域特有の貨物も追加された。蒸気機関車、列車強盗、それを捕まえる保安官が登場する時代設定も選べる。 このバージョンについてはシド・マイヤーは設計に関与していない。 レイルロードタイクーンII[編集] 1998年に発売された続編で、グラフィックスとゲームがより高度化している。PopTop Software がレイルロードタイクーンの名称の権利を取得後、同社が参加する Gathering of

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ニューマンアスレチックス – Wikipedia

「ニューマンアスレチックス」(Numan Athletics)はナムコ(後のバンダイナムコゲームス)より1993年に登場したアーケードゲーム。携帯アプリでも配信され[1]、2009年4月28日にはWiiのバーチャルコンソールアーケードで配信された[2][3]。 『ハイパーオリンピック』(コナミ)と同様のスポーツ大会ゲームで、3つのボタンを使用した8競技で記録を競う。プレイヤーの操作する選手が人間離れした能力を持つ超人(ニューマン)なのが特徴で、超人ならではの現実離れしたユニークな競技の数々が特色となっている。 それぞれの競技に設定されているNEED記録に達していない場合は次の競技に進めずその時点でゲームオーバーとなるが、コンティニューをすることでNEED記録の基準が下がる救済措置もある。 1995年には続編の『マッハブレイカーズ』が発売された。 キャラクター[編集] 今作には4名のプレイヤーキャラクターが登場するが、各キャラクターごとの性能差はない。また4人プレイ可能な筺体では各キャラクターの位置は固定となっている(2人プレイ筺体ではプレイヤーがキャラクターを任意で選択できる)。 シャロン・レアール(1P) 唯一の女性キャラクターでツインテールヘアの美少女。17歳[4]。青のハイレグレオタードにニーソックスを着用。フランス代表。『マッハブレイカーズ』にはエキシビジョンマッチの対戦相手として出演している。 ハリー・ポフィン(2P) 金髪でサングラスをかけたハンサムな青年。20歳[4]。アメリカ代表。 ナカムラ・マサエモン(3P) 侍をモチーフとしたクールな青年。26歳[4]。日本代表。なお漢字表記は「中村雅衛門」[4]。 ボンゴ・テンボ(4P) 筋肉質の巨漢。ケニア代表。36歳[4]。 カッコ内は競技の行われる場所。競技挑戦順に記載。 TURBO DASH/ターボダッシュ(アメリカ) いわゆる徒競走だが、先にスタートしたドラッグレース車を途中で追い越す超スピード。試技は1回で全員一斉に挑戦。 INTERCEPTOR/インターセプター(ロシア)

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稲田堤 – Wikipedia

稲田堤(いなだづつみ)は、神奈川県川崎市多摩区のJR東日本南武線稲田堤駅、京王電鉄相模原線京王稲田堤駅周辺を指す地域名。登戸や向ヶ丘遊園とともに多摩区を代表する街である。ひばりヶ丘、東小金井、飛田給とともに東京駅から約25km、新宿から約18kmに位置する。 町名としては同駅が所在する菅稲田堤(すげいなだづつみ)一 – 三丁目がある。 同地一帯は元旧橘樹郡稲田村大字菅(すげ)であった。1898年(明治31年)、日清戦争戦勝記念として、稲田村が多摩川右岸堤防に桜を植えて評判となり、桜の名所として稲田堤の呼び名が生じた。1927年(昭和2年)に2021年現在の稲田堤駅である南武鉄道線稲田堤停留場が開業して地域名として定着した。 稲田村は稲田町を経て1938年(昭和13年)に川崎市と合併した。同地域周辺は大字菅のままであったが、1984年(昭和59年)、住居表示実施により菅から分離し独立し、稲田堤駅を一丁目1-1として菅稲田堤の町名が誕生した。1971年(昭和46年)に開業した京王電鉄相模原線京王稲田堤駅は旧来の大字名を継承した菅四丁目1-1とされた。 旧橘樹郡稲田村大字菅の区域に含まれる現行町名は次のとおり。 菅一 – 六丁目 菅稲田堤一 – 三丁目 菅北浦一 – 五丁目 菅野戸呂 菅仙谷一 – 四丁目

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