Month: January 2021

北海道士別高等学校 – Wikipedia

北海道士別高等学校(ほっかいどう しべつこうとうがっこう)は、かつて北海道士別市南士別町にあった道立高等学校。1941年に高等女学校として開校し、後に道立高校となった。しかし少子化で生徒が減少し、閉校になった。 1941年に士別実科高等女学校として開校、1948年に道立に移管され、北海道立士別高等学校となった。 しかし少子化の影響で道教委は公立高校適正配置計画に定員削減を盛り込み[1]、1995年には一学級が減らされた[2]。市の検討委員会は2001年には市内3高の現状維持が適当としたものの[3]、2004年には「士別高校と士別商業高校は維持困難なら再編が望ましい」と結論を出した[4]。結局この2校は統合されることになり、士別高校は2008年3月31日をもって閉校となった。 2011年4月、道は道内の公共建築物の耐震化状況を発表、士別高校の校舎は解体予定とされた[5]。しかし解体工事の入札で最低価格が漏れた懸念があり[6][7]、入札が延期された[8]。 1941年(昭和16年) – 北海道士別実科高等女学校として開校 1943年(昭和18年) – 北海道士別高等女学校と改称 1948年(昭和23年) – 道立移管、北海道立士別高等学校と改称、男女共学化、上士別分校を開設 1950年(昭和25年) – 北海道士別高等学校と改称 1951年(昭和26年) – 剣淵分校を開設

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龜徳正之 – Wikipedia

龜徳 正之(きとく まさゆき、1916年3月3日 – 2014年3月5日)は日本の大蔵官僚。財務参事官、大臣官房長、国税庁長官などを歴任。 青森県生まれ[1]。1940年10月、高等試験行政科・外交科に合格。東京帝国大学法学部政治学科卒業後[2]、1941年 大蔵省に入省。主税局属[2]。1966年8月1日 財務参事官。1967年1月10日 大臣官房長。1968年6月7日より国税庁長官。1969年8月6日 退官。1970年1月 協栄生命保険副社長。1971年8月 同代表取締役社長。1986年7月 同代表取締役会長。1992年7月 同相談役。2014年3月5日 誤嚥性肺炎で死去[3]。 1940年10月:高等試験行政科・外交科に合格 1941年4月:大蔵省に入省。 1942年1月:退職 1942年1月:海軍主計中尉・海軍経理学校補修学生 1942年5月:羽黒乗組

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浅間 (コルベット) – Wikipedia

浅間(あさま)は、日本海軍の軍艦。 3檣バーク型のコルベット[3]。 艦名は群馬県と長野県境にある「浅間山」にちなんで名づけられた[1][10]。 1868年にフランスで竣工した[10]。 建造年は文献によって「1865年フランスで建造」[3]、 「1869年フランスハリスで建造」[2]、 「1869年進水」[5] など違いがある。 元はペルー船で艦名「イングランド」であったとも言われている[10]。 『帝国海軍機関史』によると明治元年(1868年頃)に元ペルー人の乗組で横浜港に来港、開拓使が買い入れ北海丸と命名された[6]。 1874年[編集] 1874年(明治7年) 4月14日、開拓使所属の北海丸は海軍省所属となった[13]。 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』によると、7月26日に日本海軍籍に編入された[10]。 7月26日、北海丸は提督府の管轄になり[14]、 7月29日に船番号は第19番[11]、 8月23日に艦位三等に決められた[15]。 10月20日、浅間と改名した[16][4]1887年(明治20年)までの正式名は浅間艦であるが、ここでは浅間で統一する。 浅間は3等艦とされた[3]。 1874年10月28日、浅間は艦隊に編入された[17][16][18]。

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フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ – Wikipedia

フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh, 1890年1月31日 – 1978年1月28日)は、オランダのエンジニア。画家フィンセント・ファン・ゴッホの弟テオの長男。ゴッホ美術館の設立に尽力し、ゴッホの手紙の編纂・出版も行った。 母ヨーに抱かれるフィンセント・ウィレム(1890年) 1890年、パリで、画商会社ブッソ・ヴァラドン商会(旧グーピル商会)に勤める父テオと母ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(ヨー)の間に長男として生まれた。[1]。 テオは長男が生まれると、当時サン=レミの精神病院に入院していた兄フィンセントに手紙で知らせ、名前を兄のフルネームであるフィンセント・ウィレムにしようと思うと伝えた。フィンセントはテオに「吉報を受け取って言葉で表せないほど嬉しい」という手紙を送っている。そして、甥のために『花咲くアーモンドの木の枝』を描いた[2]。この年の5月、フィンセントはサン=レミの精神病院を退院し、パリを訪れて絵を贈り、近郊の村オーヴェル=シュル=オワーズに向かった[3]。テオ一家がパリからオーヴェルを訪れる交流もあったものの、フィンセントは7月29日に自殺した。 1891年1月25日、1歳の誕生日を迎えるわずか6日前に父テオが病死。母ヨーは、幼いフィンセント・ウィレムと義兄の遺作約200点を抱えてオランダに移り、その年の春からアムステルダム近郊の村バッセム(英語版)に住み始めた[4]。1901年、ヨーが画家ヨハン・コーヘン・ホッスハルク(オランダ語版)と再婚し、一家は1903年にアムステルダムに移った[5]。 1907年、デルフト工科大学に入学して機械工学を学び、1914年、卒業した[6]。その後、フランス、アメリカ合衆国、日本などでエンジニアとして働いた。1920年初頭、オランダに戻り、学生時代からの友人Ernest Hijmansとともに、オランダで初めての経営コンサルタント会社を設立した。名前が同じ画家ゴッホとの混同を避けるため、甥であるフィンセント・ウィレムのことを「エンジニア(技師)」と呼んで区別することがある[1]。 1925年、母ヨーが亡くなり、フィンセントの絵、素描、手紙などを相続した。彼女はフィンセントの絵画作品だけでなく、その手紙を世に広めることを志し、1914年にテオ宛の書簡集を発行していたが、フィンセント・ウィレムはその使命も引き継いだ。1932年、テオからゴッホに宛てた手紙をまとめた書簡集を出版した[7]。さらに、第二次世界大戦後、テオ宛の書簡だけでなく、エミール・ベルナール、アントン・ファン・ラッパルトなどその他の人物との手紙のやり取りもまとめた完全版書簡集の出版を計画し、ゴッホ生誕100年に合わせて、1952年から1954年までの間に、オランダで全4巻の書簡集を出版した[8]。 1962年、オランダ政府の承認を得て、フィンセントのコレクションをゴッホ財団に移転した。その際、政府は美術館を建設し、コレクションを一般に公開することを引き受けた。それ以降、フィンセント・ウィレムは、美術館の計画・建設に尽力し、1973年6月3日、アムステルダムにゴッホ美術館が開館した[1][6]。 1977年には、ゴッホの手紙のファクシミリ版を出版した[8]。 母ヨーによる『フィンセント・ファン・ゴッホの思い出』(東京書籍、2020年)が訳・出版されている。 最初の妻Josina Wibautの間には、3男1女を儲けた。長男テオドールは大戦末期の1945年3月8日、ナチス・ドイツに対するレジスタンス行為を理由に逮捕・処刑された。二男ヨハンは、映画監督テオ・ファン・ゴッホの父である。再婚相手Nelly van

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まつざきしげるいろ – Wikipedia

この記事の主題はウィキペディアにおける独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。目安に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。出典検索?: “まつざきしげるいろ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年7月) この項目では色を扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。 まつざきしげるいろ(松崎しげる色)は、日焼けした肌の濃さでも知られる日本の歌手・俳優・タレントである松崎しげるの肌の色に合わせて作られた絵具の色[1]。英語表記は「Shigeru Matsuzaki」[2]。 フジテレビのバラエティ番組『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』において、視聴者から「日焼けした人の肌の色をうまく表現するには」という投稿が届いたことから[3]、「松崎しげるの肌の色を絵具で作る場合の割合は○色○%と○色○%」というトリビアの種が取り上げられた。 千葉大学情報画像工学科教授三宅洋一に参加してもらい、日本でもっともよく使われている絵具であるサクラクレパスの「マット水彩・12色絵の具」を用いて画家の下田義寛が松崎の肌の上に塗った絵具を分光放射輝度計で比較しながら、6時間をかけて「まつざきしげるいろ」が完成した[1]。 その際の比率は、黄色(#3) 25%:朱色(#18) 45%:緑(#29) 14%:白(#50) 16%で、他社製品でも誤差はありながらチューブから同じ太さで長さを朱色4.5cm、黄色2.5cm、白1.6cm、緑1.4cm出せば再現可能[1]。審査員長のタモリからの評価は、最高段階の「満開」を獲得した[1]。

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アメリカン・ビンテージ大修復!ビフォー&アフター – Wikipedia

アメリカン・ビンテージ大修復!ビフォー&アフター(原題:American Restoration)は、かつてヒストリーチャンネルで放送されていたアメリカ合衆国のリアリティ番組である。 ラスベガスを舞台に、修理職人リック・デールが修復したアイテムを紹介するリアリティ番組で、『アメリカお宝鑑定団ポーンスターズ』のスピンオフ番組にあたる。 依頼者が持ってくるものは、数週間で修復されるものもあれば、数ヶ月も要するものもある。 エピソード[編集] シーズン1[編集] 話数 日本版タイトル 1 ホパロング・キャシディの自転車 2 ランス・バートン邸の巨大な街灯 3 NASAのヘルメット 4 ケルビネーター社の冷蔵庫 5 ポップコーン・マシーン 6 ペプシ・クーラー

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音変化 – Wikipedia

音変化(おんへんか、英: sound change)とは、歴史言語学において、発音の時間的な変化である。 音変化は、一つの音素(一つの弁別的素性)の別の音素への置換(音素変化)、および、2つの音の統合や新しい音の産出など既存の音声の変化(音韻変化)からなる。音変化は環境的に調整されうる。つまり、変化は一部の音環境でのみ発生するが、他の環境では同じ音声が変化の影響を受けない。 「音の変化」という用語は、通時的な変化、つまり、言語の音システムの経時変化を指す。 一方、「交替」とは、同期して(隣接する音に応じて、個々の話者の言語内で)発生し、言語の基礎となるシステムを変更しない変更(たとえば、英語の-s)を指す。 複数は、bet [s]、bed [z]のように、どの音に続くかによって発音が異なる。これは音変化ではなく、交替である)。 ただし、「音変化」は、交替の歴史的な導入を指す場合がある(トスカーナ方言での母音後の/ k /など。かつては[k]はCarlo ‘のdi [k] arlo’のようであったが、現在は[h] di [h] arlo、他の位置で[k]と交替:con [k] arlo’with

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撃剣興行 – Wikipedia

撃剣興行(げっけんこうぎょう)は、明治初期に剣術の試合を見世物として行った興行である。剣術ないし剣道の歴史上、明治維新期という、あらゆる物事に対する毀誉褒貶が短期間に何度も極端に入れ替わった特殊な世相を背景に発生成立したもので、短期間ではあったがその技と文化の継承に影響した。 明治維新による改革(廃藩置県、秩禄処分、散髪脱刀令及び廃刀令)によって生活は困窮していった者がいた。特に西洋軍制の導入によって活躍の場を失った剣術指導を行っていた者は以前の職務を生活の糧に転じさせる術がなく深刻なものがあった。 これを憂えた旧江戸幕府の講武所剣術教授方(師範)であった榊原鍵吉は相撲興行を参考にして剣術を興行として、その木戸銭で収入を得させることを考案、東京府知事・大久保一翁もこれに賛同して、1873年(明治6年)4月[注釈 1]。から10日間、東京浅草の左衛門河岸(現在の浅草橋駅西方)にて初めての撃剣興行を行った。来客は満員御礼を超えた。 土俵のような試合場に、派手な衣装の選手が東西に分かれ、呼出、行司、見分役を設けた。薙刀や剣舞なども登場した。撃剣興行は物珍しさからブームになり、番付や錦絵も売り出された。 これに刺激された2代目斎藤弥九郎(斎藤新太郎)、千葉東一郎、千葉之胤、島村勇雄、渡辺楽之助など他の剣術家も争って撃剣会を結成し撃剣興行を催した。その数は東京府内で37か所に上り、名古屋、久留米、大阪など全国各地に広まった。 しかし、興行の乱立によって質が低下して、更に勝敗の判定が素人には分かりにくくブームは短期間で終わった。また、政治運動の演説会の人集めのために開かれる興行も現れたため、いくかの県で撃剣興行は禁止された。 1877年(明治10年)頃に復活し始めたが、1879年(明治12年)、警視庁に撃剣世話掛を創設され巡査の撃剣稽古が奨励されるようになると、撃剣興行の剣客たちは警察に登用された。実力のある剣客を警察に引き抜かれた撃剣会は興行的魅力が無くなった。このため、撃剣会はこの頃から団体で各地を廻りながら、その土地の警察署で稽古し、興行を行うといった一種の団体武者修行のようなものに変質していった[1]。 肯定的側面もあれば否定的側面もあり、その評価は難しい。否定的側面としては、「剣術の見世物化」として剣の道を低く見るという批判や、客寄せのための派手な動作や異様な掛声などが、その後の剣道に悪影響を及ぼしたとする見方がある。一方、肯定的側面としては、難しい時代において、剣術の命脈を保ったものと評価されている。 高野佐三郎は次のように評している。 榊原(鍵吉)など一口に悪く云うのは間違っている。彼は非常に剣道の衰微したのを憂えていた。明治9年廃刀令が出てから剣道は非常に衰微した。このときに始めて撃剣興行を始めたのです[注釈 2]。これは一概に悪口は言えないので、こうでもしなければ、或いは剣道が滅びてしまったかもしれません。榊原のやり方は実にうまいもので、人々の感興をそそったり、好奇心をひくような実にうまいやり方をやったものです。形をつかう所などは、真剣でもやりました。その後、当時の三島(通庸)警視総監が剣道の出来るものは、直ちに巡査に無条件で採用した[2]。 また、撃剣興行の悪影響を受けているとされる「引き上げ」について、済寧館における渡辺昇と海江田信義との異種試合を例として次のように評している。 有名な維新の志士渡辺昇子爵と海江田信義子爵との、4尺5寸の長竹刀に薙刀の対戦でありました。渡辺子爵は大上段に振りかぶり、薙刀を持った海江田子爵の籠手に、物の見事に打ちを入れて、立派に極まりました。そこで、当時の流行であった興行剣術の名残りとでも申しますか、片手を離して左手に竹刀を高くかかげ「籠手ー」と云って引き上げと云うのを行いました。ところが一方の海江田子爵はと見ると、満面朱をそそぎ、後を向いて引き上げて行く渡辺子爵の後を追うて行きます。そして、近付くや、矢庭に薙刀を振って、「ビンター」と叫ぶと同時に、渡辺子爵の横面をいやと云うほどたたきました。渡辺子爵はこの不意打ちには一驚を喫したのでしょう。「コラ、無礼するな」と大声一喝を酬いました。海江田子爵は、「何が無礼か。無礼はおはんじゃ。敵を斬って後を向くと云う法があるか。この海江田は腕の一本位では決して死にはせぬぞ」といいました。当時の海江田子爵は、沖縄県知事をやめて帰ったばかりのころであったから、あきれ返った渡辺子爵は、「さてさて、知事さんとはよいもんじゃ。わがまま出来てよいもんじゃ」といいました。これらは他の人たちがやったのなら困りますが、この辺の方々は、無理がなく、まことに余裕と洒落が横溢していて、いまでも当時が懐かしく思い出されます[3]。 注釈[編集] ^ 日付は4月6日、4月11日、4月15日、4月26日と4説ある。 ^ 正しくは明治6年である。 出典[編集]

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ヘンリー・サマセット (第7代ボーフォート公) – Wikipedia

第7代ボーフォート公爵ヘンリー・サマセット(英語: Henry Somerset, 7th Duke of Beaufort,KG、1792年2月5日 – 1853年11月17日)はイギリスの貴族、地主、政治家。出生から1803年まではグラモーガン伯爵を、1803年より自身が公位を継承する1835年まではウスター侯爵を儀礼称号としてそれぞれ用いた。 第6代ボーフォート公爵(英語版)とシャーロット・ルーソン=ゴア(Charlotte Leveson-Gower、1771年1月11日 – 1854年8月12日、初代スタッフォード侯爵の娘)との長男として生まれた[1][2]。庶民院議員グランヴィル・サマセット(英語版)は実弟にあたる[1]。 彼は軍人としての道を選び、1811年に第10王立軽騎兵連隊(英語版)付少尉に任官した[3]。 ハリエット・ウィルソンとのスキャンダル[編集] ハリエット・ウィルソン ヘンリーは尉官時代に第3代リンスター公爵から高級娼婦ハリエット・ウィルソン(英語版)を紹介されて一目惚れ、彼女にのめり込んだ[4]。彼はやがて結婚に応じないハリエットの自宅に入り浸って逢瀬を重ねるようになり、社交界から足が遠のいてしまい、時のプリンス・オブ・ウェールズの招待を断るほどであったという[註釈 1][4]。 事態を憂慮した父の6代公爵は息子をハリエットから引き離すため、半島戦争を指揮するウェリントン将軍の副官として赴任するよう説得、赴任中に公爵家から彼女へ手当を出すことを条件にヘンリーは副官を引き受けた[2][4][5]。しかし、公爵は赴任中にヘンリーと文通をしたことを理由にハリエットに対して支払を拒否、これに激怒した彼女は債務不履行で訴訟を起こしたほか、その行状を赤裸々に綴った暴露本『回想録(Memoirs of

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秋田県立横手高等学校 – Wikipedia

秋田県立横手高等学校(あきたけんりつよこてこうとうがっこう,英: Akita Prefectural Yokote High School)は、秋田県横手市睦成にある県立高等学校。略称は「横高(おうこう)」。 校舎は県南部横手盆地中央、旧羽州街道沿いに建ち、周辺には後三年の役終結の地「金沢の柵址」や「横手城址」などがある。 校歌・応援歌等[編集] 校歌 (詞:土井晩翠、曲:小松耕輔) 應援團歌 柔道部歌 競技部歌 武道部歌 庭球部歌 野球部歌 校章[編集] 雲居(雲形図 3ノ文字オモ暗示セリ) 雲の如く高く

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