フメゲイ – Wikipedia

フメゲイ(モンゴル語: Hümegei、生没年不詳)とは、大元ウルスに仕えた官僚の一人。

『元史』における漢字表記は旭邁傑(xùmàijié)で、「フメゲイ(Hümegei)」とは「臭」を意味するモンゴル語に由来する人名[1]

1260年代、帝位継承戦争に勝利して即位したクビライは自らの支配する領域(大元ウルス)をヒタイ(旧金朝領)・タングート(旧西夏領)・モンゴル高原本土の大きく三つに分けて自らの3人の息子(チンキム・マンガラ・ノムガン)に統治を委ね、これら3大領域を大元ウルスの基本形とした。モンゴル高原本土の統治者の地位はノムガンに子がいなかったことからチンキムの子のカマラに移り、更にその息子のイェスン・テムルに継承された。フメゲイはこの晋王(ジノン)イェスン・テムルに仕える僚臣の一人であった。

1310年代、大元ウルスの朝廷では皇太后ダギとその寵臣のテムデルが国政を壟断しており、これに不満を抱いて即位したゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)は両者が亡くなるとその取り巻きを弾圧したため恨みを買い、テクシらを注進とするカアン暗殺計画が進められた。テクシがゲゲーン・カアンの後継者候補として目をつけたのがイェスン・テムルで、テクシはカアン暗殺に先立って使者をイェスン・テムルの下に派遣し次期カアンに擁立する意思を伝えた[2]。この時、使者のオロスはイェスン・テムルに仕えるダウラト・シャーにのみ面会して「汝(ダウラト・シャー)とマスウードのみカアン暗殺・イェスン・テムル擁立計画を知り、フメゲイにはこれを知らせるな」と伝えており、フメゲイはイェスン・テムル配下の中でもダウラト・シャーと対立する立場にあったことが窺える。

8月4日、南坡の変でゲゲーン・カアンが暗殺されると、以前からの予定通りイェスン・テムルはケルレン川河畔のクリルタイによって即位を表明した。即位の翌日にイェスン・テムルは朝廷の新人事を発表したが、この時フメゲイは宣政院使とされた[4]。この時、他に任命された人物はテクシら暗殺の実行犯かダウラト・シャーら擁立計画に協力した人物ばかりであったため、これらの計画に関与していないフメゲイはイェスン・テムル自身の抜擢によって任命されたのではないかと見られる。しかし、イェスン・テムルはテクシら暗殺実行犯の言いなりになるつもりはなく、同年10月にフメゲイを中書右丞相(中書省の長)に任命して大都に派遣し、テクシら暗殺実行犯及びその家族の処刑・家産の没収を行わせた[5]。また、これと同時にフメゲイはテクシが率いていたアスト軍団の統轄も委ねられている[6]

同年12月には諸王マイヌ(買奴)がゲゲーン・カアン暗殺実行犯の処罰に連座することを恐れて自らの潜邸に逃れていることが問題となった。フメゲイらは議論して宗戚(チンギス・カンの一族)の中で逆賊を討伐でき朝廷に忠義を尽くせる者はマイヌをおいて他になく、むしろ封賞を加えて厚遇すべきであると進言し、フメゲイの意見を容れたイェスン・テムルは泰寧県の5000戸をマイヌに与えて泰寧王に封じた[7]。その数日後には「南坡の変」以来、多くの逆賊を討伐してきた功績によりフメゲイには金10錠・銀30錠・鈔7000錠が与えられた[8]

翌1324年、泰定元年と改元されたものの、大元ウルス内では天災が続き国内は不安定化した。これを受けてウバイドゥッラー・張珪・楊廷玉らがカアンに辞意を表明し、右丞相フメゲイと左丞相ダウラト・シャーも「災害の責任は自らにあって諸臣にはない」とカアンに上奏する事態に陥った。イェスン・テムル・カアンはこれを受けて「もし皆が責任を取って辞去したとすれば、国家の大事を朕は誰と協議すればよいのか」と述べて大臣の辞任を留めた[9]。また、この頃には呉淞江の改修に携わっている[10]

1325年(泰定2年)、フメゲイは財政不足を理由に厩馬の軽減、衛士の縮小、諸王への濫賜の節減を上奏し、イェスン・テムル・カアンはこれに従った[12]。また、同年には飢饉を理由に上都の皇后の居所の修繕取りやめを進言し、これも採用されている[13]。泰定2年中にフメゲイは右丞相の地位を退き、タシュ・テムルに地位を譲った。

フメゲイは『元史』に列伝がないが、『新元史』巻204列伝101に立伝されている。『新元史』の編者柯劭忞はカアン暗殺犯を処刑し、先朝の法度を守り比較的安定した治世を築いたフメゲイを「賢相」として評価している。

  1. ^ 「旭邁傑」という人名については、早くからポール・ペリオが『元朝秘史』第152節に用例のある「忽蔑該(Hümegei)」が原語ではないかと指摘していた。また、松川節はカラコルム出土の「嶺北省右丞郎中総管収糧記」碑のウイグル文字文に記されるÜmekei Ning-ongが『元史』に言及のある「寧王旭滅該(ココチュ寧王の一族)」のウイグル文字表記であると指摘し、「Hümegei」が人名にも用いられていることを立証している(ウイグル文字は中期モンゴル語の語頭のhを表記しない)(松川節 1997, p. 94-95)
  2. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[至治三年]八月二日、晋王猟於禿剌之地、鉄失密遣斡羅思来告曰『我与哈散・也先鉄木児・失禿児謀已定、事成、推立王為皇帝』。又命斡羅思以其事告倒剌沙、且言『汝与馬速忽知之、勿令旭邁傑得聞也』。於是王命囚斡羅思、遣別烈迷失等赴上都、以逆謀告、未至。癸亥、英宗南還、駐蹕南坡。是夕、鉄失等矯殺拜住、英宗遂遇弑於幄殿。諸王按梯不花及也先鉄木児奉皇帝璽綬、北迎帝於鎮所」
  3. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[至治三年九月]甲午、以内史倒剌沙為中書平章政事、乃馬台為中書右丞、鉄失知枢密院事、馬思忽同知枢密院事、孛羅為宣徽院使、旭邁傑為宣政院使」
  4. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[至治三年冬十月]甲子、遣使至大都、以即位告天地・宗廟・社稷、誅逆賊也先鉄木児・完者・鎖南・禿満等於行在所。以旭邁傑為中書右丞相、陝西行中書左丞相禿忽魯・通政院使紐沢並為御史大夫、速速為御史中丞。遣旭邁傑・紐沢誅逆賊鉄失・失禿児・赤斤鉄木児・脱火赤・章台等於大都、並戮其子孫、籍入家産」
  5. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「癸未、以旭邁傑兼阿速衛達魯花赤」
  6. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[至治三年十二月]丙戌、旭邁傑言『近也先鉄木児之変、諸王買奴逃赴潜邸、願効死力、且言不除元凶、則陛下美名不著、天下後世何従而知。上契聖衷、嘗蒙奨諭。今臣等議、宗戚之中、能自抜逆党、尽忠朝廷者、惟有買奴、請加封賞、以示激勧』。遂以泰寧県五千戸封買奴為泰寧王」
  7. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[至治三年十二月]丁亥、議賞討逆功、賜旭邁傑金十錠・銀三十錠・鈔七千錠、倒剌沙為中書左丞相、知枢密院事馬某沙・御史大夫紐沢・宣政院使鎖禿並加授光禄大夫、仍賜金・銀・鈔有差」
  8. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定元年五月]壬辰、御史台臣禿忽魯・紐沢以御史言『災異屡見、宰相宜避位以応天変、可否仰自聖裁。顧惟臣等為陛下耳目、有徇私違法者、不能糾察、慢官失守、宜先退避以授賢能』。帝曰『御史所言、其失在朕、卿等何必遽爾』。禿忽魯又言『臣已老病、恐誤大事、乞先退』。於是中書省臣兀伯都剌・張珪・楊廷玉皆抗疏乞罷。丞相旭邁傑・倒剌沙言『比者災異、陛下以憂天下為心、反躬自責、謹遵祖宗聖訓、修徳慎行、勅臣等各勤乃職、手詔至大都、居守省臣皆引罪自劾。臣等為左右相、才下識昏、当国大任、無所襄山、以致災異、罪在臣等、所当退黜、諸臣何罪』。帝曰『卿若皆辞避而去、国家大事、朕孰与図之。宜各相諭、以勉乃職』」
  9. ^ 『元史』巻65河渠志2,「至泰定元年十月十九日、右丞相旭邁傑等奏『江浙省言、呉淞江等処河道壅塞、宜為疏滌、仍立閘以節水勢。計用四万餘人、今歳十二月為始、至正月終、六十日可畢、用二万餘人、二年可畢。其丁夫於旁郡諸色戸内均差、依練湖例、給傭直糧食、行省・行台・廉訪司並有司官同提調。臣等議、此事官民両便、宜従其請。若丁夫有餘、止令一年畢。命脱歓答剌罕諸臣同提調、専委左丞朶児只班及前都水任少監董役』。得旨、移文行省、準擬疏治。江浙省下各路発夫入役、至二年閏正月四日工畢」
  10. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定二年五月]丙子、旭邁傑等以国用不足、請減厩馬、汰衛士、及節諸王濫賜、従之」
  11. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定二年十一月]庚戌、旭邁傑以歳饑請罷皇后上都営繕、従之」

参考文献[編集]