神子田正治 – Wikipedia

神子田 正治(みこだ まさはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣。備中庭瀬城主。通称は半右衛門、半左衛門、半左衛門尉。姓の漢字は、御子田(みこだ)とも表記する。

山鹿素行の『武家事紀』では、秀吉の創業期からの勇功の士として宮田光次、戸田勝隆、尾藤知宣と共に列記され、「神子田を第一とする」と評された。一方で『続武家閑談』によれば、武勇・軍学には優れていたが、己の武功を誇って秀吉を蔑み、悪口雑言で疎まれたともいう。

尾張国海西郡鯏浦の神子田肥前守の子[4]。織田信長が尾張国を統一した際に、父とともにその配下に入ったといわれる。永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いや永禄10年(1567年)までつづいた美濃国の斎藤氏攻めで功績を上げ、木下秀吉に請われて家臣となる。

秀吉の長浜城時代、天正元年(1573年)に近江国に250貫文の所領を与えられ、黄母衣衆となり、後に腰母衣衆に転じた。

中国攻めに従軍して三木城攻め(三木合戦)などで活躍。天正5年(1577年)、宮田光次、戸田勝隆、尾藤知宣と同時にそれぞれ播磨国で5,000石を加増された。このとき他の3人は馬の飼料ほどの加増しかなかったと不満で出奔を話し合っていたが、神子田は「智恵なしどもに五千ずつ下されたのは、よくよく武功があったせいであろう」と放言し、秀吉に余分な領地がないなかでも小知を与えられたのは武功ゆえであると逆に喜んだという。

天正10年(1582年)の本能寺の変後も秀吉に従い、山崎の戦いに参加、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは一軍を率いた。その後に備中庭瀬城主として1万2,000石に加増された。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいては日根野弘就らと共に二重堀砦の守備に入った。5月1日に羽柴軍の主力が美濃へと転進する際に、砦を捨てて日根野弘就・細川忠興・木村重茲・長谷川秀一らと羽柴軍の殿を務めて、追撃を仕掛けてきた織田信雄の軍と交戦した。

正治は、他隊が交戦中であったにも関わらず、その敗北を知らぬまま、手勢を放置して無断で先に離脱した。しかし個人で敵の首級を1つ挙げて帰還したので秀吉に感心されたところ、このようなことで感心されたのでは「諸将が、匹夫の勇にばかり心がけ、戦いで大利を得ることはできますまい」と主人に苦言を呈したため、秀吉は分を過ぎた発言であると激怒したが、正治は「大小の利をわきまえず、戦いだけで功を計るのは、闇将である。ともに謀るにたらず」と放言し、秀吉も正治は持ち場を放棄して逃げ去った臆病者であると罵った。正治は重ねて秀吉を闇将と誹って去ったため、行動の責任を問われて所領を没収された上で高野山に追放された。

天正13年(1585年)閏8月13日に朱印状が発せられて、高野山からも追放となり、妻子も連座することになって、これらを庇護することは固く禁止された。

このために諸国を放浪し、天正15年(1587年)に豊後国で自害したとも、九州征伐で陣にあった秀吉に帰参を哀願したが、許されずに切腹ないし打ち首を命じられたとも言う。死後、京都一条戻橋に梟首され、「臆病者」との高札が立てられた。

神子田肥後守の弟の子を、長門守といい、初名を采女。この長門守の弟を、八右衛門といい、堀秀政に仕えた。長門守の子を、萬見仙千代(一説に名を重元)といい、織田信長の小姓であった。仙千代は天正6年の有岡城攻めで討ち死にしている[10]

関連作品[編集]

小説
  • 火坂雅志:短編「幻の軍師」(文春文庫『壮心の夢』)に収録。

参考文献[編集]

関連項目[編集]