Month: June 2019

河瀬断魚 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年5月) 河瀬 断魚(かわせ だんぎょ、昭和4年(1929年)8月14日 – 平成22年(2010年)10月25日)は、島根県平田市(現:出雲市)出身の日本の書家。本名は、河瀬喜重(かわせきじゅう)で、雅号を断魚としていた。昭和の三筆の一人と称されている手島右卿に師事。実弟には、考古学者で広島大学名誉教授の河瀬正利が存在したが2008年6月に病気の為兄より先に他界している。 日本の漢字書家一覧 父:亀市(かめいち) 母:シエノ(しえの) 長女:キミコ(きみこ) 長男:生後直ぐ他界の為に無名 次男:寿三郎(じゅさぶろう) 三男:喜重(きじゅう) 四男:正利(まさとし) 妻:富代(とみよ) 長女:弘子(ひろこ) 次女:法子(のりこ) 島根県平田市(現:出雲市)に河瀬家の三男として生まれる。長男は生後間も無く亡くなり、次男寿三郎も戦時中に戦死している。三男である喜重も通信兵として戦争に出兵したが幸いにして無事生還し次男寿三郎に代わり河瀬家の跡取となる。 幼少期は生前からは想像も付かない程の活発な腕白少年であった。大変厳しい性格だが、それ以上に情が非常に厚い性格でもあり、その人柄からか幅広い人脈からも多く支持され、意外にもその厳格な喋り口調が愛され、好んで話を聞く者もあった。 自分の行き方として生涯何より大事にしていたのは家族・自分のことよりも弟子を大切に思う気持ちであり、自分の弟子達の活躍を耳にする度に眼を赤くし自分のことの様に大変喜んでいた。

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ヤン・ニェメツ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ヤン・ニェメツ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年5月) ヤン・ニェメツ(-ニェメッツとも、Jan Němec、1936年7月12日 プラハ – 2016年3月18日)は、チェコの映画監督であり、そのもっとも重要な作品は1960年代からのものである。映画史家ピーター・ヘイムズは、「チェコ・ヌーヴェルヴァーグのアンファン・テリブル(enfant terrible of the Czech New Wave)」[1]と表現した。

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ジェリー・ローリングス – Wikipedia

ジェリー・ローリングスJerry Rawlings ガーナ共和国第四共和政初代 大統領 任期 1993年1月7日 – 2001年1月7日 副大統領 Kow Nkensen Arkaah(1993-1997)ジョン・アッタ・ミルズ(1997-2001) ガーナ共和国第10代 国家元首 任期 1981年12月31日 – 1993年1月7日 ガーナ共和国第8代 国家元首

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褚遂良 – Wikipedia

褚 遂良(ちょ すいりょう、596年 – 658年)は、唐代の政治家・書家。初唐の三大家の一人。字は登善。河南県公から河南郡公に封ぜられたため褚河南と呼ばれることもある。太宗に仕えて諫言をよくし、後の高宗の教育にもあたった。しかし武則天を皇后に立てることに反対したために左遷された。 褚亮の子として生まれた。杭州銭唐県の出身。本貫は河南郡陽翟県。617年、薛挙が自立すると、その下で通事舎人をつとめた。618年、父とともに唐に降り、秦王府(太宗即位前の幕府)の鎧曹参軍(武器の管理役)となった。636年、秘書郎から起居郎となり、また虞世南が死去したことで魏徴の推薦により書道顧問となった。644年、諫議大夫から黄門侍郎へと進み、太宗に深く信頼された。太宗の後継問題に際しては李治(後の高宗)を推薦して、皇太子となった李治の傅役を任された。 649年、太宗が死去するに際しては高宗を補弼するよう遺詔を賜り、どのような事があっても死刑は免ずると言う権利を得た。高宗即位後、高宗の信頼も受けて中書令から尚書右僕射へと累進し、長孫無忌・李勣・于志寧と共に重鎮となっていた。しかし、655年に高宗が武照(武則天)を皇后に立てることを建議し、褚遂良は強硬に反対したが、武則天と高宗により押し切られた。このことにより武則天の恨みを買い、死刑に処されかけたが、遺詔により死刑は免ぜられた。その代わりとして潭州都督、桂州都督と左遷され、最終的に愛州(現在のベトナム中部、タインホア省)にまで流され、そこで死去した。 子に褚彦甫・褚彦沖がいたが、ともに愛州に流されて殺害された。705年に褚遂良の一家は名誉回復されて、爵位を戻された。 書風(「褚法」)[編集] 六朝期から発展しつつあった楷書を高度に完成させた南派の虞世南・北派の欧陽詢の書風の特徴を吸収・融合しながら、それを乗り越えて独自の書風(「褚法」)を確立した。特に晩年の『雁塔聖教序』は楷書における最高傑作の一つとされ、後の痩金体につながるなど後世に多大な影響を与えた。一般に力強さが特徴的な北派に属するといわれるが、結体は扁平で安定感のある南派の性質を併せ持っており、従来からの帰属論争はあまり重要性を持たないように思われる。また王羲之の真書鑑定職務についており、その書をよく学んだと思われる。40代における『伊闕仏龕碑』や『孟法師碑』には隷書の運筆法が見られ、そして線は細いながらも勁嶮・剛強と評される一方で、50代における『房玄齢碑』や『雁塔聖教序』では躍動的で流麗な作風に一変した。 遂良の書は結体閑雅で悠揚迫らず、変化の多様と情趣の豊かな点では初唐の三大家の中でも最も優れている[1]。 現在残っている褚遂良の作品は次の4つで、いずれも楷書体である。 根拠に乏しいが、褚遂良の作品だといわれているものは主に次の通りである。 伊闕仏龕碑[編集] 貞観15年(641年)、遂良45歳の時の楷書である。伊闕とは洛陽の南方にある龍門のことで、その石窟の賓陽洞(ひんようどう)の南の外壁に刻された摩崖碑がこれである。碑文の内容は太宗の四男の魏王李泰が生母の長孫皇后の追善のために、新たに石窟を造営したことを記したものであるが、損傷が甚だしく、今日では紀年の文字は見られない。しかし、宋の欧陽脩の『集古録跋尾』に記述されているところによって、岑文本(しんぶんぽん)の撰文、褚遂良の書、貞観15年の建碑であることがわかっている。篆額は「伊闕佛龕之碑」、碑文は各行51字、行数は近拓本では32〜33行である。字の大きさは4cmあり、彼の書碑の中では最も大きいものである[1][2]。 孟法師碑[編集] 建碑は貞観16年(642年)。碑文は岑文本の撰文で、碑は孟法師(542年 – 638年)が生涯住持した至徳観という女道士の寺院に建碑された。しかし、原石は北宋末の頃、東隣の国子監に移され、その後いつの間にか失われたという。そのため拓本は少なく、その中で唐拓孤本が、清の道光年間、江西の李宗瀚の収蔵であったが、今は日本の三井文庫蔵となっている。 碑文によると孟法師は江夏(湖北省)安陸の人で、俗名を孟静素という女道士である。隋の文帝(楊堅)に招かれ、公卿以下、帰依する者が多かったといわれる。遂良のこの書には欧陽詢、虞世南を合して新生面を開こうとする努力が見られ、のちの『雁塔聖教序』を生む母胎をなしている[1]。

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ダ・ヴィンチ・恐山 – Wikipedia

ダ・ヴィンチ・おそれざん ダ・ヴィンチ・恐山 生誕 (1993-05-10) 1993年5月10日(28歳)[1] 別名 品田遊、有実泊 職業 小説家、漫画家、漫画原作者、ライター、編集者 活動期間 2009年 – 雇用者 バーグハンバーグバーグ 団体 コルク(品田遊名義) ダ・ヴィンチ・恐山(ダ・ヴィンチ・おそれざん、1993年[2]5月10日[3] – )は、日本の小説家、漫画家、漫画原作者、ライター、編集者。東京都出身。別名は品田遊(しなだゆう)、有実泊(ありみとまる)。 2009年12月にツイッターのアカウントを取りネット上での活動をはじめる。それ以前のネットでの表現活動はなかったという[4]。「ダ・ヴィンチ・恐山」のペンネームは小学生のころに漫画のペンネームとして使っていたもの[4]。一つのツイート内でひとつ面白いことを述べるネタツイートで人気を集め、素性をいっさい明かさないまま1年ほどでフォロワー8000人超、ふぁぼ(いいね)数8万を超える有名アカウント(所謂アルファツイッタラー)となる[5](フォロワー数は2021年8月現在約13万人)。

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津野常 – Wikipedia

津野 常(つの じょう[1]、1848年7月12日(嘉永元年6月12日[2])- 1902年(明治35年)7月18日[3])は、幕末の高鍋藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員、宮崎県会議長。 日向国児湯郡上江村(高鍋県、美々津県、宮崎県、鹿児島県を経て宮崎県[3]児湯郡上江村[2]、現高鍋町[4])で生まれる。藩校・明倫堂で漢学を修め[2][3][4]、稽古所で剣術、柔術を錬磨した[2]。その後、美々津県英式楽隊を講習して高鍋藩楽隊長に就任し[2][3][4]、さらに同藩民政局出仕を務めた[2][3][4]。廃藩置県後、美々津県、宮崎県、鹿児島県で勤務した[2][4]。 1881年(明治14年)3月、鹿児島県会議員に選出され[5]、分県運動に加わり[5]、1883年(明治16年)7月、宮崎県会議員に選出され[5]、同常置委員、同副議長、同議長を務めた[2][3][4]。自由民権運動に加わり、大同団結運動を推進した[2]。 また実業界では、宮崎県農工銀行監査役、宮崎新報社長、高鍋蚕業改良会社社長、高鍋製糸取締役などを務めた[3][4]。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(宮崎県第1区、無所属)で初当選し[2][6]、次の第6回総選挙でも再選され[2][6]、衆議院議員に連続2期在任した[3]。議員在任中の1902年7月に死去した[7]。 国政選挙歴[編集] ^ 『激動の日本政治史(下巻)』1925頁。 ^ a b c d e f g h

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羊羹 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “羊羹” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年2月) 水羊羹(右)と葛饅頭(左) 羊羹(ようかん)は、一般には小豆を主体とした餡を型(羊羹舟)に流し込み寒天で固めた和菓子である。 寒天の添加量が多くしっかりとした固さの煉羊羹(ねりようかん)と、寒天が少なく柔らかい水羊羹(みずようかん)がある。また、寒天で固めるのではなく、小麦粉や葛粉を加えて蒸し固める製法もあり、これは蒸し羊羹と呼ばれる。単に「羊羹」と称した場合は煉羊羹を指すことがある。 煉羊羹は糖度が高いため保存性が高く、適切な状態で保存すれば常温で1年以上の長期保存が可能なものが多い[2]。この特徴を生かして非常食、保存食としても販売されているものもある[3]。また、糖度が高く、少量でも高カロリーであり、体内ですぐにエネルギーに変換されることから、スポーツの補給食としても注目されている。 中国大陸での羊羹[編集] もともとは中国大陸の料理で、読んで字のごとく羊の羹(あつもの)[注釈 1]、つまりは羊の肉を煮たスープの類であった[5]。南北朝時代に北魏の捕虜になった毛脩之が「羊羹」を作ったところ太武帝が喜んだという記事が宋書に見えるが、これは本来の意味の羊のスープであったと思われる[6]。 鎌倉時代から室町時代に、禅僧によって日本に伝えられたが、禅宗では肉食が戒律(五戒)により禁じられているため、精進料理として羊肉の代わりに小豆や小麦粉、葛粉などを用いたものが、日本における羊羹の原型になったとされる。 中世の羊羹[編集] 日本の文献における「羊羹」の初出は室町時代前期(1300年代後半)に書かれた『庭訓往来』の「点心」の記事とされる。タケノコ入りと考えられる「箏(笋)羊羹」と、砂糖入りと考えられる「砂糖羊羹」の記載がある。当時の羊羹は汁とともに食べるものであった。1504年頃の武家の作法書『食物服用之巻』を見ると、羊羹の膳で汁と具が別々になっており、その後酒宴での料理の一品、そして菓子へと変化していく中で汁が添えられなくなっていったと考えられる。 御成の献立にも羊羹が登場する。御成の献立記録を江戸時代に写した『膳部方記録』を見ると、このときの羊羹の材料には生豆(小豆と考えられる)の粉、小麦粉、葛粉をこねたものが使われており、山芋や胡桃などを入れて蒸すと記載されている。砂糖や汁の有無については記載がない。

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アイ国 – Wikipedia

本来の表記は「毐国」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。 毐国 毐国 毐国(あいこく)は、中国戦国時代の末期に存在した国家(紀元前239年 – 紀元前238年)。嫪毐が建国し[1]、翌年に秦に対して反乱(嫪毐の乱)を起こすが[2]、相国の昌文君・昌平君により鎮圧され[3]、滅亡した。領土は嫪毐の封地であった河西太原である。 建国した嫪毐は巨根で知られ、宴会の余興として自らの一物を軸に馬車の車輪を回して見せたという。その特長ゆえに、秦の宰相呂不韋に見出された。 呂不韋は秦王政の母の趙姫(太后)と長年不倫関係を続けていたが、淫乱な太后を老年に差し掛かった彼が満足させることは難しくなり、同時にその関係は非常に危険なことであった。そこで関係を清算したがっていた呂不韋は、自身の身代わりとして彼を後宮に送り込んだ。王以外の男性で後宮に出入りできるのは、男性器を切除した宦官のみであり、巨根が売り物の嫪毐が性器を切除しないまま後宮に入れるにあたり、髭を抜き取るなどして宦官のような容貌に変えさせ、さらに宮刑を執行されたという記録をでっちあげるなどの裏工作をした。 呂不韋の思惑通り、嫪毐は後宮に入って太后の寵愛を受け、2人の息子を儲けた。やがて、太后の後ろ盾をもとに次第に権勢を握った。 紀元前239年、始皇帝の弟の成蟜が反乱を起こし、鎮圧された[4]。その後に嫪毐は長信侯に封じられた[1]。嫪毐は河西太原を毐国と宣言し、独立した[1]。 しかし、房事での出世は周囲の評判が悪く、密告により政に知られることになって、内偵により太后との密通が露見した。 嫪毐は御璽及び太后の印璽を盗み出して、兵を集めて反乱を起こそうとした[2]。しかし、既にそれに備えていた政の命を受けた相国である昌平君と昌文君によって、咸陽で返り討ちに会った[3]。嫪毐は逃亡したものの、捕らえられて車裂きの刑に処され、その一族や太后との間のふたりの息子もことごとく処刑された[3]。この時点で毐国は滅亡した。 注釈[編集] 引用[編集] ^ a b c 『史記』秦始皇本紀:嫪毐封為長信侯。予之山陽地,令毐居之。宮室車馬衣服苑囿馳猟恣毐。事無小大皆決於毐。又以河西太原更為毐国。 ^

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AT&Tモビリティ – Wikipedia

AT&Tモビリティ 設立 2001年  AT&Tモビリティ (AT&T Mobility LLC) は、アメリカ合衆国の加入者数第2位の携帯電話事業者。AT&T Inc.の完全子会社で、旧社名はシンギュラー・ワイヤレス(Cingular Wireless, LLC、en:Cingular Wireless)。本社所在地は、ジョージア州アトランタ。2019年9月末現在、1億6230万人[1]の加入者を擁する。 シンギュラーワイヤレスは、2001年に、SBCコミュニケーションズ(旧アメリテック+旧サウスウェスタンベル+旧パシフィック・テレシス)とベルサウスという地域ベル電話会社(RBOC)が、それぞれの携帯電話子会社群を合併させて成立した。この為、全国ネットワークではない、内部にGSMとD-AMPS(IS-136)という2つの互換性のない第二世代携帯電話ネットワークを抱えるという、携帯電話事業者としては、かなり深刻な問題を抱えての発足であった。その後、GSMへのネットワーク転換を進めるとともに、空白区解消の最終策として、2004年に、巨費を投じて、AT&Tワイヤレスを買収した。 シンギュラー・ワイヤレス発足時の株主構成は、SBCコミュニケーションズが60パーセント、ベルサウスが40パーセントだった。2005年には、親会社のひとつであるSBCコミュニケーションズは、旧AT&T(AT&T Corp.)を買収して自社名をAT&T Inc.に改称。2006年には、新AT&Tはもうひとつの親会社であるベルサウスを吸収合併したためシンギュラーはAT&Tの完全子会社となった。AT&Tへのブランド統一のためにシンギュラーのブランド名は消滅することになり、携帯電話部門は、AT&Tモビリティを名乗ることになった。 AT&Tモビリティはまた、シンギュラーからの伝統を引き継いで、積極的に料金繰り越しサービスを実施する携帯電話事業者としても知られている。 歴史[編集] AT&Tモビリティ前身のシンギュラー・ワイヤレス(en:Cingular Wireless)は2001年にSBCコミュニケーションズとベルサウスとの合弁企業として、当時11社あった両者傘下の地域携帯電話会社が合併して設立された。設立当時は、ベライゾン・ワイヤレスにつぐ、全米2位の規模の携帯電話事業者であった。

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大河内正質 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “大河内正質” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年6月) 松平 正質(まつだいら まさただ)または大河内 正質(おおこうち まさただ、弘化元年4月11日(1844年5月27日) – 明治34年(1901年)6月2日(グレゴリオ暦))は、幕末の上総国大多喜藩の第9代(最後)の藩主。奏者番・若年寄・老中格。大河内松平宗家11代。 越前国鯖江藩主間部詮勝の五男。正室は松平正和の娘・鋲子。子は大河内正敏(長男)、大河内正倫(次男)、娘(小西某室)。官位は豊前守。 文久2年(1862年)11月18日、先代藩主松平正和の婿養子として家督を継ぐ。同年12月16日、従五位下・備前守に叙任する。後に弾正忠に改める。元治元年(1864年)7月8日、奏者番に就任する。慶応2年(1866年)8月8日、若年寄に就任する。同年10月21日、幕府から京都在住を命じられて、4000両を賜る。慶応3年(1867年)12月15日、老中格となる。 慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いでは総督として旧幕府軍を指揮するものの、敗北する。その折には敵兵の頬肉をあぶって酒の肴にしたという話が伝わっている[1][注釈 1][注釈

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