Month: November 2019

教会税 – Wikipedia

この項目では、近現代の西欧における国家と教会における制度について説明しています。収入の十分の一を献じる西欧中世等における制度については「十分の一税」をご覧ください。 教会税(きょうかいぜい、ドイツ語: Kirchensteuer, デンマーク語: Kirkeskat, 英語: Church tax, or ecclesiastical Taxation)は、公に認められた法人たるキリスト教の教会が、国家の承認により、教会の経費を賄うために教会員に対して一律に課する税金[1]。 教会税制度のある国[編集] 現代においては、アイスランド[2]、オーストリア[3]、スイス[4]、スウェーデン[5]、デンマーク[6]、ドイツ[7]、フィンランド[8]などの諸国がこうした制度を保持している。 ドイツにおいては、18・19世紀に教会財産が世俗権力に没収されたり、領主の教会に対する関係が消滅したりしたことで、教会財産ないし領主に頼って維持されてきた教会は、存続のための新たな方策を模索した。カトリック教会はコンコルダートにより、ドイツ福音主義教会(EKD) は国の強制力と共同し、教会員たる住民全てに税を課すこととなった[1]。ドイツでは、カトリック教会、福音主義、復古カトリック教会信徒、ユダヤ教徒であると登録したドイツ市民は、所得税の8%から9%にあたる教会税を課されている[9][10]。 2008年12月に、ドイツキリスト教民主同盟と自由民主党の議員らが、「クリスマスイブのミサは教会税を納めている人のみに参列を認めるべき」と発言して論議を呼んだ[11][12]。背景には教会税を避けるために、教会を離脱したと税務事務所に申告する者が相次いでいる問題がある[10]。 2012年9月20日にローマ教皇庁の承認の下、ドイツ・カトリック司教協議会は、教会税を納入しない信徒は秘跡を受けられず、教会の諸活動に参加出来ない、という指令・司牧書簡を発表した。ドイツのカトリック教会において、教会税収入は50億ユーロ(約5200億円)にのぼる[10]。 なお、プロテスタント(ルター派)であるが教会税制度を利用せず、その信徒も教会税を納めることも無いバーデン福音ルター派教会のような例外もある[13][14]。 外部リンク[編集] ウィキメディア・コモンズには、教会税に関連するカテゴリがあります。

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ドラゴンクエストヒーローズII 双子の王と予言の終わり – Wikipedia

『ドラゴンクエストヒーローズII 双子の王と予言の終わり』(ドラゴンクエストヒーローズツー ふたごのおうとよげんのおわり)は、スクウェア・エニックスより2016年5月27日に発売されたアクションRPG。 対応機種はPlayStation 3、PlayStation 4、PlayStation Vitaの3機種。 前作との同時収録となるNintendo Switch版『ドラゴンクエストヒーローズI・II for Nintendo Switch』(ドラゴンクエストヒーローズワン・ツー フォー ニンテンドースイッチ)は、2017年3月3日にSwitchのローンチタイトルとして発売された。 ドラクエシリーズ版のアクションRPGである『ドラゴンクエストヒーローズ 闇竜と世界樹の城』の好評を受けて制作されるシリーズ第2作で、ドラゴンクエスト30周年の記念作品である[6]。 ヒーローズ1作目の続編ではなく、世界設定・主人公・ストーリーは一新される。また、前作で要望の高かったマルチプレイにも対応し、通信時は最大4人でのプレイが可能となる[7]。異なる機種間での通信プレイ(クロスプレイ)にも対応。PS3、PS4、PSVitaの3機種で発売されるが、クロスセーブに対応しており、外出先ではPSVitaでプレイし、帰宅してPS4でその続きを遊ぶといったことが可能。また、前作や『ドラゴンクエストビルダーズ アレフガルドを復活せよ』とも連動特典もあるほか、前作同様にクエストやキャラクターの無料ダウンロードコンテンツも配信する[8]。連動特典は当初は同じ機種のセーブデータが必要だったが、後に最新版アップデートを適用する事によって異なる機種間でも受け取れる事が決定した[9]。 2015年の4月1日に『ドラゴンクエストヒーローズ』の公式サイトにて電撃発表され、2015年7月27日発売の週刊少年ジャンプにて正式タイトルが発表された。 その後、2016年1月13日に開催された「ドラゴンクエスト30周年プロジェクト発表会」において、30周年記念タイトルとしてシリーズ第1作目と同じ5月27日に発売予定であることが発表、発売を記念して「ドラゴンクエスト30周年記念モンスターコイン」3枚とゲームソフトが「冒険の書」パッケージに収納された限定パッケージも発売された。

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フランツ・フォン・テック – Wikipedia

フランツ・フォン・テック (Herzog Franz Paul Karl Ludwig Alexander von Teck, 1837年8月28日 – 1900年1月21日)は、初代テック公。現英国女王エリザベス2世の曽祖父にあたる。 ヴュルテンベルク公子アレクサンダーとハンガリー貴族出身の妻レーデイ・クラウディアの長男として、エッセケ(現クロアチアの都市オシエク)で生まれた。父はヴュルテンベルク王フリードリヒ1世の甥にあたるが、クラウディアとは貴賤結婚であったため、生まれた子供たちには王位継承権がなかった。母がホーエンシュタイン伯爵夫人の称号をオーストリア皇帝フェルディナント1世から授かり、幼いフランツはホーエンシュタイン姓を名乗った。1863年にテック侯(Fürst von Teck)、1871年にテック公(Herzog von Teck)となった。 父アレクサンダー同様、フランツはオーストリア軍に入隊し、普墺戦争時には大尉まで昇進した。1866年に除隊し、のち1882年エジプト遠征時には大佐として将軍ウルズリー卿のスタッフとなった。 両親の貴賤結婚の結果として、フランツには受け継ぐ領地も資産もなく、当時のヨーロッパ王族と比較しても少ない収入でやりくりしていかなければならなかった。この逼迫した経済状態が、彼の花嫁選びに影響を及ぼした。フランツは、富裕な王家の一員となるような結婚で出世を目指し、ケンブリッジ公アドルファスの娘で4歳年上のメアリー・アデレードと結婚した。 メアリー・アデレードはイギリス王ジョージ3世の孫娘にあたり、血筋も資産も申し分なかった。一方で「ふとっちょのメアリー」というあだ名のとおりの腰回りで知られていて、当時既に30代になっており、結婚相手の選択の余地が少なかった。1866年6月12日、ロンドン西部で2人は結婚した。夫妻は4人の子供をもうけた。

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延安府 – Wikipedia

延安府(えんあんふ)は、中国にかつて存在した府。宋代から民国初年にかけて、現在の陝西省延安市一帯に設置された。 1089年(元祐4年)、北宋により延州が延安府に昇格した。延安府は永興軍路に属し、膚施・延川・延長・門山・臨真・甘泉・敷政の7県を管轄した[1]。 金のとき、延安府は鄜延路に属し、膚施・延川・延長・門山・臨真・甘泉・敷政の7県と永平・万安・徳安・招安・永安の5寨と安定・安寨の2堡と楽盤鎮を管轄した[2]。 元により延安府は延安路と改められた。延安路は陝西等処行中書省に属し、直属の膚施・安塞・甘泉・安定・保安・宜川・延川・延長の8県と鄜州に属する洛川・中部・宜君の3県と綏徳州に属する青澗・米脂の2県と葭州に属する呉堡・神木・府谷の3県、合わせて8県3州州領8県を管轄した[3]。 1369年(洪武2年)、明により延安路は延安府と改められた。延安府は陝西省に属し、直属の膚施・安塞・甘泉・安定・保安・宜川・延川・延長・青澗の9県と鄜州に属する洛川・中部・宜君の3県と綏徳州に属する米脂県と葭州に属する呉堡・神木・府谷の3県、合わせて3州16県を管轄した[4]。 清のとき、延安府は陝西省に属し、膚施・安塞・甘泉・安定・保安・宜川・延川・延長・定辺・靖辺の10県を管轄した[5]。 1913年、中華民国により延安府は廃止された。 ^ 『宋史』地理志三 ^ 『金史』地理志下 ^ 『元史』地理志三 ^ 『明史』地理志三 ^ 『清史稿』地理志十 表 話 編

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瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年7月) 瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件(しんようそうりょうじかんきたちょうせんじんぼうめいしゃかけこみじけん)は、中華人民共和国瀋陽市に置かれている在瀋陽日本国総領事館に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)からの亡命者(金高哲一家など5人)が侵入・救助を謀った事件。 2002年5月8日、金高哲一家など5人の亡命者は日本国総領事館に駆け込みを画策、失敗し中国人民武装警察部隊に取り押さえられた[1]。その際、総領事館の敷地内に無断で足を踏み入れていたこと、逮捕された亡命者が北朝鮮へと送還される可能性があったこと、日本国内の中華人民共和国大使館および駐中特命全権大使・阿南惟茂の事件への対応(事件発生直前、亡命者が大使館に入ってきた場合は追い返すよう指示を出していた[2])を巡り批判、問題が発生した。 「拉致被害者、北朝鮮脱出者の人権と救命のための市民連帯」などを始めとするNGOによって、事件の始終がビデオカメラで撮影された。 日本総領事館の敷地に入った中国武装警察官に対し、応対に出た副領事の宮下謙が、亡命者の取り押さえおよび敷地立ち入りへの抗議を行わず、武装警官の帽子を拾うなど友好的な態度に出た映像が、日本のテレビ局により報道され、日本と大韓民国における批判を呼んだ。 事件が発生した翌日の5月9日夜、抗議に訪れた阿南大使に対し、中国外務省の外務次官補・劉古昌は問題の武装警官が日本総領事館立ち入り許可を得ていないとの前提で対応していたことが後に判明した。劉外務次官補は、火災など緊急の場合においては同意を必要としない、との領事関係に関するウィーン条約第31条第2項を論拠に挙げている。 その後中国政府は「同意は存在した」と主張を変更。訪中した、現地調査チームトップの外務省小野正昭官房領事移住部長が、羅田広中華人民共和国外交部領事司司長と面会し、日本側職員は中国人民武装警察部隊の警官が瀋陽総領事館に入り亡命者を連行することに同意していないとの日本側調査内容を説明したのに対し、羅司長は、中国側の調査結果と食い違うとし、副領事の同意を得ていたなどとする反論を行った。日本側外務省が情報を小出しにして事態の沈静化を図る。 事件前日の5月7日に、中国北方航空6136便放火墜落事件が発生しており、領事はこの墜落事件に遭遇した日本人のために大連市に出張しており、不在であったことも背景として挙げられる。 5月23日に、韓国への亡命が認められた[3]。その後、金高哲は日本での講演に際して、北朝鮮における体制、事件の際の領事館の対応、日本の一部マスメディアなどを批判している。 北朝鮮と同盟関係にある中華人民共和国は、この事態を重く見て、今後同様なことが起こらないよう、領事館の廻りを中国人民解放軍により厳重警備し、城壁・堀を構築するなど対応を強めている。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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インドの伝統音楽 – Wikipedia

インドの伝統音楽(शास्त्रीय संगीत)の発祥は、最古の文書でヒンドゥー伝承のひとつヴェーダに見ることができる。 4巻のヴェーダのひとつ『サーマ・ヴェーダ』に音楽のことが詳細に記載されている。 概要・流派[編集] インドの伝統音楽が世界的に認識された理由としては、ラヴィ・シャンカールがウッドストック・フェスティヴァルでシタールを演奏したことが大きかった。1960年代後半のヒッピー・ムーブメントや、ラヴィ・シャンカールらの影響を受け、ジョージ・ハリスンらビートルズのメンバーのインド訪問や、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが「黒くぬれ」でシタールを演奏するなどの現象が見られ、インド音楽に注目が集まった。インドの伝統音楽には二つの主流があり、ひとつは北インド発祥のヒンドゥスターニー音楽と、南インド発祥のカーナティック音楽(カルナータカ音楽)である。 カーナティック音楽(カルナータカ音楽)[編集] カーナティック音楽はほとんどが即興であるという点でヒンドゥスターニー音楽に似ているが、より理論に影響されており、厳密な規則を持っているところが異なる。また、楽器よりも声楽を重視する。 主なテーマはデーヴィー崇拝、ラーマ崇拝、神殿の描写や愛国的な歌である。 現存の演奏家でもっとも知られているのは、Mangalampalli Balamuralikrishna, T V Sankaranarayanan, Madurai T N Seshagopalan および K J

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フランソワ・ルイ・ド・ロレーヌ – Wikipedia

フランソワ・ルイ・ド・ロレーヌ(François-Louis de Lorraine, 1623年 – 1694年6月27日)は、ブルボン朝時代フランスの大貴族家門ギーズ家の一員。アルクール伯、リウー伯、ロシュフォール伯及びモンロール伯、モーベック侯爵及びオーベナ男爵(comte d’Harcourt, de Rieux, Rochefort et Montlaur, marquis de Maubec et baron d’Aubenas)。 エルブフ公シャルル2世とアンリ4世王の庶出の娘カトリーヌ・アンリエット・ド・ブルボンの間の三男。当初はリウー伯と称した。フロンドの乱ではコンデ公ルイ2世、オルレアン公ガストンらフロンド派諸侯の与党として活動した[1]。乱の最中の1652年7月31日、オルレアン公の居館での諸侯会合の際、ターラント公との上席権争いを起こし、ターラント公に肩入れしたコンデ公を殴打したことから、王族に対する暴行の嫌疑でバスティーユ牢獄に収監された[2]。2か月後の9月25日、一族の長ロレーヌ公ニコラ2世のフランス当局への働きかけで釈放され、コンデ公に謝罪して事なきを得た[3]。1666年、叔父アンリの死に伴いアルクール伯爵領を相続し、以後アルクール伯と称した。 1645年7月パレ・ロワイヤルで、アルフォンス・ドルナーノ(フランス語版)元帥の孫娘、ジャン=バティスト・ドルナーノ(フランス語版)元帥の姪で相続人のモンロール女伯・モーベック女侯アンヌ・ドルナーノと結婚、間に6子をもうけた。

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国鉄タキ20600形貨車 – Wikipedia

国鉄タキ20600形貨車(こくてつタキ20600がたかしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)及び1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化後は日本貨物鉄道(JR貨物)に在籍した私有貨車(タンク車)である。 本形式と同一の専用種別であるタキ9400形、及び本形式と同一の経歴を持つタキ20800形についても本項目で解説する。 タキ20600形[編集] タキ20600形は1971年(昭和46年)3月20日に日立製作所にて1両(タキ20600)のみが製作された脂肪酸専用35t 積タンク車である。 所有者は日本石油輸送であり東高島駅を常備駅として運用された。その後常備駅は郡山駅へ移動した。 タンク体材質は積荷の純度保持のためステンレス鋼製で35系に属し、保温のために150mm厚のウレタンを断熱材として巻きキセ(外板)を装備した。 荷役方式はタンク上部の液入管又はタンク体下部にある吐出管からの積み込み、吐出管からの下出し方式である。 1979年(昭和54年)10月に制定された化成品分類番号では、90(有害性物質、危険性度合3(小))が標記された。 全長は14,100mm、全幅は2,720mm、全高は3,870mm、台車中心間距離は10,000mm、自重は18.9t、換算両数は積車5.5、空車1.8である。台車はベッテンドルフ式のTR41Cであった。 晩年には専用種別が臨時でラテックスに変更になり運用された。 1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化時にはJR貨物に継承され、1995年(平成7年)度末時点では健在であったが、2000年(平成12年)6月に廃車となり同時に形式消滅となった。 タキ9400形[編集] タキ9400形は1962年(昭和37年)7月18日に富士重工業にて1両(タキ9400)が、1966年(昭和41年)8月3日に富士重工業と汽車製造にて1両ずつ(タキ9401, タキ9402)が製作された脂肪酸専用30t 積タンク車である。 落成時の所有者は全車花王石鹸であり酒田港駅を常備駅として運用された。その後所有者は1980年(昭和55年)8月13日に日本石油輸送へ名義変更された。 タンク体材質は積荷の純度保持のためステンレス鋼製で、ドーム付きの直胴タイプであり、保温のための断熱方法はグラスウール方式であった。 荷役方式はタンク上部のマンホールからの上入れ、吐出管からの下出し方式である。 1979年(昭和54年)10月に制定された化成品分類番号では、90(有害性物質、危険性度合3(小))が標記された。

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病理診断科 – Wikipedia

病理診断科(びょうりしんだんか)は、病理診断を行う標榜診療科である。 病理診断科の診療科としての業務は細胞診断、病理組織診断、術中迅速病理診断などである。また病理医には手術検討会や剖検を含む各種症例検討会での役割も期待されている。医療機能評価や地域がん診療連携拠点病院指定等では病理診断科の有無が評価対象となっており、病理診断科の標榜は医療機関を格付ける一つの要素となっている。 平成26年からは診療報酬算定において病理診断管理加算1に関する施設基準として「(1)病理診断科を標榜している保険医療機関であること。」が明示された[1]。 2008年4月1日から政令(平成20年2月27日官報 号外第36号 11-12頁 政令第36号)で定められたもっとも新しい標榜診療科のひとつである。政令改正前は病理診断科を外部に広告することはできず、院内の支援系部門として病理科や病理検査科という名称も使われていた。 医科診療報酬点数表でも第3部第2節病理学的検査は第13部に移り名称も病理診断に変更された。医療費の内容の分かる領収証では病理診断の欄が用意された。 病理診断科は診療科であるので患者が希望する場合[2]は病理診断を担当した病理医に直接意見を聞くことも可能である。 日本医師会の調査[3]では病理診断科医師数の不足が明らかとなっている。診療科別の最低必要な医師数(現状との比較)では、病理診断科は3.77であり、医師不足についてマスコミがしばしば取り上げる婦人科の2.91よりも病理医の不足は深刻である。 病理診断科を担う病理専門医が増えにくかった理由は病理診断が病理学的検査として衛生検査所に外注されてきたこと、病理科が患者を直接診療しないことを理由に標榜診療科として認められなかったこと、病理診断料診療所等での病理診断について診療報酬が算定できないこと、などである。2007年時点で病理専門医は2000名に満たない。また後継病理医が少なく病理専門医の平均年齢は50歳を超えているという。病理専門医の多くが医学部病理学教室で基礎研究に従事しながら病理診断を学んだため臨床医よりは研究者としての意識が強い傾向にある。職業は研究者で、病理診断は副業となる。 病理診断は、旧来は病理学的検査に位置づけられていた。検体検査として外注できる病理学的検査と医行為である病理診断とが混同されていた。そのため医療機関経営者等からみて、検体検査としてできる限り安価に外注することが医療機関経営上の要請となっていた。このため病理診断科を持たない医療機関が少なくない。 厚生労働省が2年毎に実施している医師・歯科医師・薬剤師調査で用いる医師届出票において、従事する診療科名等に「病理」が掲載されたのは平成18年(2006年)からであり、平成20年に「病理診断科」となり現在に至っている。 2008年からは医療機関は病理診断科を標榜(保健所へ病理診断科を届出)できるようになった。また医行為としての病理学的検査は病理診断と呼ばれるようになり、臨床検査技師等に関する法律にある病理学的検査とは区別されるようになった。病理診断科で病理医は病理診断のみならず術中迅速診断や症例検討会等なども担当している。迅速病理診断等の医療内容を広告できるようになった。しかし病理医不足のた病理診断科を標榜できない医療機関が多く、この場合はこれまで通りに、病理学的検査として検査センター等に外注せざるを得ない。 病理診断科医師不足は地域医療における病理診断科の位置づけ、病理診断診療報酬、後継病理医育成などから検討すべき緊急課題である。行政のあり方とともに病理学会等の関連団体に病理研究や病理診断の戦略も問われている[4][5]。 平成25年日本病理学会から「診療機関における「病理診断科」の名称使用のお願い」[6]が公表された。「病理診断科」を標榜している病院は、国立大学附属病院・関連施設では約19%、公立大学附属病院・関連施設では約22%にとどまっているという。この資料では、保健所への届出が不要な病理診断科の内部標榜(機能標榜)についても言及しており、内部標榜や外部標榜にかかわらず「病理診断科」名称使用のお願いが記されている。 平成26年の診療報酬算定においては、病理診断管理加算1に関する施設基準として「(1)病理診断科を標榜している保険医療機関であること。」が明示された。施設基準での病理診断科標榜は保健所に標榜科名を届出るいわゆる外部標榜である。 保険点数取扱いにおいても「病理診断科」標榜が強調されたことから、病理診断科を外部標榜する医療施設は増加していくと考えられる。しかし、2013年9月1日現在の病理専門医数[7]は2232名(退職者を含む)であり、近年増加傾向にあるとはいえ病理医の絶対数がきわめて不足している。病理専門医が非常勤勤務する場合でも病理診断科を標榜することは可能であるが、地域がん診療連携拠点病院新指針では病理に携わる医師の常勤が必須となった影響を受け、非常勤病理医招聘をあきらめる医療機関が散見されるようになった。 医療機関に病理医が常勤している場合、約半数は一人病理医(病理診断管理加算1)である。2名以上の病理医が常勤する病理診断管理加算2に比して、職業性ストレスが大きいことが知られている。複数病理医を比較した場合、一人病理医の場合は「バーンアウトに陥っている状態」または「臨床的にうつ状態」と判定された者が 23.2% いたとの報告[8]がある。かつて産科で検討されたように、たとえば複数病理医が共同して、当該地域の病理診断を担当できるような施策等を検討する必要がある。

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