早波 (駆逐艦) – Wikipedia

艦歴
計画 1942年度(マル急計画)
起工 1942年1月15日
進水 1942年12月19日[1]
就役 1943年7月31日竣工
その後 1944年6月7日戦没
除籍 1944年8月10日
性能諸元
排水量 基準:2,077t
公試:2,520t
全長 119.3m
全幅 10.8m
吃水 3.76m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式タービン2基2軸 52,000hp
最大速力 35.0kt
航続距離 18ktで5,000浬
燃料 重油:600トン
乗員 225名
武装(新造時) 50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 II×2
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(九三式魚雷16本)
爆雷×18乃至36

早波(はやなみ)は[2]、大日本帝国海軍の駆逐艦。

一等駆逐艦早波は夕雲型駆逐艦の12番艦。舞鶴海軍工廠で建造され、1943年(昭和18年)7月末に竣工した。第十一水雷戦隊で訓練をおこなったあと[6][7]、8月20日附で新編された第32駆逐隊に所属する[注釈 1][8]

10月中旬に丁三号輸送部隊としてトラック泊地進出後、第二水雷戦隊各艦と共に行動する。11月上旬には重巡洋艦部隊(第二艦隊司令長官栗田健男中将)と共にラバウルに進出するが、ラバウル空襲に遭遇して32駆僚艦涼波を喪失した。
トラック泊地帰投後、早波はクェゼリン環礁、パラオ、サイパン、ボルネオ諸島方面への輸送作戦や船団護衛任務に従事した[12]

1944年(昭和19年)1月中旬、軽巡能代等と共に空母瑞鳳と雲鷹[注釈 2]を護衛して内地へ帰投した[12][13]
本艦は横須賀海軍工廠で修理を行う[12][14]
2月中旬以降、重巡高雄を護衛してパラオに進出する[15][16]。その後は、訓練や船団護衛任務に従事した[14][17]
6月7日、タウイタウイ泊地周辺で米潜水艦ハーダーに撃沈された駆逐艦水無月の捜索および対潜掃蕩中、早波もハーダーの雷撃により撃沈された[20]

建造経緯[編集]

早波は、1942年度(マル急計画)仮称第340号艦として1942年(昭和17年)1月15日、舞鶴海軍工廠で起工[21][22]。舞鶴海軍工廠は本艦をふくめ夕雲型6隻(夕雲、巻波、早波、浜波、沖波、早霜)の建造を担当した。
7月10日、建造中の駆逐艦(第340号艦)は『早波(はやなみ)』と命名される[2]。同日附で夕雲型駆逐艦に類別[32]。7月18日、舞鶴で島風型駆逐艦島風が進水した[33]
12月19日、早波は進水した[35]。同日附で、制式に舞鶴鎮守府籍となる[36]

1943年(昭和18年)6月25日、日本海軍は駆逐艦複数隻(卯月、曙、海風)艦長等を歴任した清水逸郎中佐(海軍兵学校第51期生)[37]を早波艤装員長に任命する[38]
6月28日、舞鶴海軍工廠の早波艤装員事務所は事務を開始する[39]

7月31日、早波は竣工した[40]。清水中佐(早波艤装員長)は制式に早波駆逐艦長となる[41]。主要初代幹部は、水雷長金井利夫大尉、航海長玉木博大尉、機関長花田茂美大尉、砲術長大片幸司中尉、軍医長神田豊(軍医中尉)[41]
同日、艤装員事務所を撤去[42]。舞鶴海軍工廠は秋月型駆逐艦や松型駆逐艦の建造と並行して、夕雲型3隻(早波《7月31日竣工》、浜波《10月15日竣工》、沖波《12月10日竣工》)を立て続けに完成させることになった。

昭和18年中盤の行動[編集]

早波の竣工と同日(7月31日)、藤永田造船所で夕雲型駆逐艦の11番艦藤波(藤波艦長松崎辰治中佐[41]。海兵52期[47])も竣工した。
早波と藤波は、訓練部隊の第十一水雷戦隊[50](司令官木村進少将・海軍兵学校40期)に編入された[6][7]
内南洋部隊編入中の第6駆逐隊を除き[51][52]、第十一水雷戦隊(軽巡洋艦龍田[53]〔旗艦〕、駆逐艦霞〈9月1日附で第9駆逐隊に編入〉[52]、若月〈8月15日附で第61駆逐隊編入〉[54]、涼波〈浦賀船渠建造艦、7月27日編入〉[56]、早波、藤波、響〈8月中旬、内地帰投〉[57][58])は日本本土で訓練に従事した[59][60]

8月17日、主力部隊(戦艦〈大和[61]、長門[62]、扶桑[63]〉、空母大鷹[65]、巡洋艦〈愛宕[66]、高雄[67]、能代[68]〉、駆逐艦部隊〈涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風〉)は呉を出撃、トラックに向かう[69][70]
第十一水雷戦隊(早波、涼波、藤波、霞)は、主力部隊航路前方の哨戒に従事した[71]

8月20日、日本海軍は夕雲型駆逐艦3隻(涼波、早波、藤波)により第32駆逐隊を編成する[8][73]
初代第32駆司令は、白露型駆逐艦夕立初代艦長[74]や陽炎型駆逐艦時津風初代艦長[75]等を歴任した中原義一郎大佐(海軍兵学校48期)[76][77](中原大佐は、7月8日まで第24駆逐隊司令)[78]

8月21日、駆逐艦4隻(響〔旗艦〕、涼波、藤波、早波)は扶桑型戦艦山城(当時、砲術学校練習艦として使用。横須賀在泊)[79]の内海西部回航を護衛することになった[81]。十一水戦は、島風型駆逐艦島風(第二水雷戦隊所属)の訓練に協力しつつ[83]、横須賀に移動した[84][85][60]
8月26日[79]、5隻(山城〔第11水雷戦隊旗艦〕[86]、響、涼波、藤波、早波)は横須賀を出発[87][88]。翌日、瀬戸内海に到着した[89][90]
その後も、第十一水雷戦隊各艦は訓練を実施した[91][92][93]

9月30日付で、第32駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期)[94][95]に編入される[52][96]
引き続き第十一水雷戦隊の指揮を受けた[97]
また10月1日附で第32駆逐隊に夕雲型駆逐艦玉波(藤永田造船所建造。玉波駆逐艦長青木久治中佐、海兵50期)[100]が編入され、同隊は夕雲型4隻(涼波、藤波、早波、玉波)を揃えた[101][102]。ただし玉波は空母隼鷹等を護衛しており、32駆本隊とは別行動である[103]

9月下旬、連合艦隊は戦艦山城、航空戦艦伊勢および第十一水雷戦隊により丁三号輸送部隊を編成した[104][105]
これは、日本陸軍甲支隊(支隊長は山中萬次郎大佐、歩兵第107聯隊長)の一部をカロリン諸島のポナペ島へ輸送する任務である。甲支隊の輸送は二回にわけて行われることになり、丁三号輸送部隊は第二次輸送であった。

10月15日、丁三号輸送部隊(山城[79]〔第十一水雷戦隊旗艦〕、伊勢[112]、龍田[53]、第32駆逐隊〈早波、涼波、藤波〉)は、佐伯および豊後水道を出撃する[114][115]
10月20日、トラック諸島に到着した[116][117]。戦艦搭載の物件を、各艦と輸送船4隻に移載する[114][118]
第十一水雷戦隊(龍田〔旗艦〕、早波、涼波、藤波)は三回次にわたり[120]、ポナペ輸送(ポンペイ島)を実施した[121][122]
10月28日、丁三号輸送部隊は解散した[114]。同日附で第32駆逐隊は第二水雷戦隊に復帰する[123][105]。遊撃部隊警戒隊所属[124]。第十一水雷戦隊(龍田[53]、山城[79]、伊勢[112])は空母隼鷹や雲鷹等と共に内地へ戻っていった。

昭和18年下旬の行動[編集]

1943年(昭和18年)10月31日〜11月1日、連合軍はブーゲンビル島のタロキナ岬に上陸を開始、ブーゲンビル島の戦いが始まる[129]。連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、まず第一航空戦隊航空戦力を南東方面に投入し、つづいてトラック泊地の主力艦艇も南東方面に投入することを決定した[130]
11月3日午前7時45分、第二艦隊司令長官栗田健男中将(愛宕座乗)指揮下の重巡洋艦部隊(第四戦隊〈愛宕、高雄、摩耶、鳥海〉、第七戦隊〈鈴谷、最上〉、第八戦隊〈筑摩〉)、第二水雷戦隊(軽巡洋艦〈能代〉、第32駆逐隊〈玉波、涼波、早波、藤波〉)はトラック泊地を出撃した[132][133]
航行中の4日午前、航行不能となったタンカー日章丸の救援に鳥海と涼波を分離する。11月5日午前6時頃、栗田長官指揮下の遊撃部隊はラバウルに到着した[132]

同日午前7時、空母2隻(サラトガ、プリンストン)を基幹とするアメリカ機動部隊(第38任務部隊)はラバウル在泊艦艇に対する空襲を敢行する[136]
栗田艦隊の重巡部隊は各艦とも損害をうける[136]。南東方面艦隊長官草鹿任一中将は栗田艦隊(ラバウル進出中の鳥海を含む)のトラック泊地帰投を下令した[139]。航行不能の摩耶を除く重巡各艦は、11月7日―8日にかけてトラック泊地に戻った(空襲に到る経緯と損害詳細は当該記事を参照)[139]

栗田艦隊が去ったあと、南東方面部隊は第十戦隊(司令官大杉守一少将)・第二水雷戦隊・第三水雷戦隊の残存艦によりブーゲンビル島タロキナ岬に日本陸軍(第17師団の一部)を輸送、逆上陸を敢行することになった[141]
同作戦は、支援部隊(指揮官第十戦隊司令官、第一支援隊〈阿賀野、若月、風雲、浦風〉、第二支援隊〈能代、早波、長波〉)、挺身輸送部隊(指揮官香川清登第31駆逐隊司令、警戒隊〈大波、巻波〉、輸送隊〈天霧、文月、卯月、夕凪〉)により実施された[143]
輸送部隊は11月7日0007にタロキナ泊地着後、午前1時迄に揚陸を完了[141]。同日1000、ラバウルに帰投した[141]
またブカ島輸送を終えた3隻(夕張、水無月、時雨)も同港に到着した[141][143]

11月11日早朝、第50.3任務部隊(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)の増援を受けた米軍機動部隊は、第2回目のラバウル空襲を敢行した[145]
この空襲で軽巡阿賀野(第十戦隊旗艦)が魚雷命中により艦尾を喪失[146]。二水戦からは、駆逐艦涼波(第32駆逐隊)が沈没する[145]。また駆逐艦長波(第31駆逐隊)が大破した。
他数隻に軽微な被害があった[145]

南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)の下令によりラバウル在泊艦艇(巡洋艦〈能代、阿賀野、摩耶〉、潜水母艦〈長鯨〉、駆逐艦〈浦風、若月、風雲、早波、藤波、五月雨〉)[152][153]はトラック泊地に撤退することになった。
11月12日、先行してラバウルを出発した阿賀野と浦風をアメリカ潜水艦スキャンプが襲撃、被雷した阿賀野は航行不能となった。二水戦3隻(能代、早波、藤波)は摩耶護衛を中断、十戦隊2隻(阿賀野〈航行不能〉、浦風〈臨時十戦隊旗艦〉)の救援に従事する[68]。能代は阿賀野の曳航を開始した[68][159]。またトラック泊地より軽巡長良[160]および秋月型駆逐艦初月と涼月が派遣されて順次合流、阿賀野護衛部隊(能代、長良、浦風、早波、藤波、初月、涼月)となった。途中で能代の曳索が切れたため、長良が阿賀野曳航を担当する[160]。11月15日夜、阿賀野はトラック泊地に到着した。

涼波の沈没により第32駆逐隊は3隻編制となったが[163][164]、12月15日附で夕雲型駆逐艦浜波(舞鶴海軍工廠建造艦)(浜波艦長本倉正義中佐。 海兵51期[37])を編入し、定数4隻(早波、藤波、玉波、浜波)を回復した[166][167]

11月中旬以降、連合軍はガルヴァニック作戦を発動、米軍機動部隊によるギルバート諸島への空襲と上陸作戦が始まった(マキンの戦い、タラワの戦い)。連合艦隊は米軍機動部隊との決戦に備え「Z作戦用意」を下令する。ポナペ島配備の甲支隊約2000名を、ギルバート諸島へ逆上陸させようという作戦である。第四艦隊司令長官を指揮官とするタラワ増援部隊が編成され、第二水雷戦隊も同部隊に組み込まれた。第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦鳥海)を指揮官とする支援部隊は、直率の主隊(第四戦隊〈鳥海〉、第七戦隊〈鈴谷、熊野〉、第八戦隊〈筑摩〉)、警戒隊(二水戦旗艦〈能代〉、第32駆逐隊〈早波、藤波〉、第61駆逐隊〈涼月、初月〉、第17駆逐隊〈浜風〉)という区分であった。
主隊と警戒隊は11月24日にトラック泊地を出撃、26日ルオットを経由、続いて鳥海と二水戦のみクェゼリン環礁に進出した。だが、タラワ守備隊とマキン守備隊は玉砕し、同方面への逆上陸作戦は実施されなかった。
続いて二水戦は、イミエジ(ジャルート環礁)、ウォッジェ環礁方面への緊急輸送作戦に参加した[183][184]
洋上ではギルバート諸島沖航空戦が生起したが、結局ギルバート諸島方面への増援輸送は中止となった。12月3日、遊撃部隊はルオットを出発する[189]
12月5日、遊撃部隊はトラック泊地に帰投した(藤波はサイパン方面輸送作戦のため分離、別行動)[189][190]

12月11日、早波はタンカー「日本丸」を護衛してトラック泊地を出発、パラオへむかう[192][193]
12月14日、早波と日本丸はパラオ到着[195]
同日、タンカー玄洋丸護衛のためパラオを出撃(翌日合流)[196][197]
途中で駆逐艦雷(第6駆逐隊)と護衛任務を引き継ぎ、早波はパラオに戻った(17日到着)[189][198][199]

早波が船団護衛任務従事中の12月15日、第二水雷戦隊司令官高間完少将は第十一水雷戦隊司令官へ転任[200][201]。後任の二水戦司令官は、早川幹夫少将(当時、戦艦長門艦長)となる[200][201]

12月20日、早波はパラオを出発した[202]。洋上で駆逐艦島風(第二水雷戦隊)より健洋丸の護衛任務を引き継ぐ[203][204](島風はトラック泊地へ帰投)[205]
12月22日、早波と健洋丸はパラオに到着[206][207]
12月23日、本艦は油槽船3隻(石廊、日本丸、健洋丸)を護衛してパラオを出発[189][208]。25日まで護衛したあと、26日にパラオへ戻った[189][209]
12月28日、パラオを出発[210][211]。翌日、日栄丸船団と合同して吹雪型駆逐艦天霧(第三水雷戦隊)より護衛任務を引き継いだ[189][212]

昭和19年上旬の行動[編集]

1944年(昭和19年)1月2日、早波以下日栄丸船団は第102号哨戒艇(元アメリカ駆逐艦スチュワート)と合流した[12][213]
第102号哨戒艇は日栄丸船団(日栄丸、旭東丸)を護衛してバリクパパンへ向かい、早波は富士山丸船団(富士山丸、神国丸、あけぼの丸)を護衛してトラックに向かう[213][12]
1月3日、富士山丸船団から分離した早波と「あけぼの丸」はパラオに回航(1月4日到着)[214][215]
同時期、バリクパパンからパラオを経てトラックへと向かう国洋丸(国洋汽船、10,026トン)、日本丸(山下汽船、9,971トン)および健洋丸(国洋汽船、10,024トン)からなる輸送船団を第102号哨戒艇と共に護衛する任務に就くため、第32駆逐隊司令指揮下の2隻(早波、島風)は1月11日にパラオを出撃する[12][216][217]
船団に第7駆逐隊(曙、漣)が加わる予定であった[218]
1月12日、早波と島風は第102号哨戒艇と合同、船団護衛任務をひきつぐ[219][220]
この船団をガードフィッシュ(USS Guardfish, SS-217)、アルバコア(USS Albacore, SS-218)、スキャンプ (USS Scamp, SS-277)で構成されたウルフパックが狙っていた。

1月14日正午頃[222][223]、アルバコア[20]の雷撃によって漣が沈没した。
続いて早波と島風が護衛していた日本丸と健洋丸も、日本丸はスキャンプの雷撃[227]、健洋丸はガードフィッシュの雷撃[228]により、それぞれ沈没した。
早波と島風は敵潜水艦の制圧に向かったが[230]、結果的に逃走を許している。
その後、島風はパラオへ帰投した[231][232]
早波は生き残った国洋丸と駆逐艦曙(第7駆逐隊)、同じく救援に来た駆逐艦春雨(第27駆逐隊)と共にトラックへ向かった(1月17日到着)[233][234][235]
だが本艦は日本軍の艦上爆撃機に誤爆されて小型爆弾が命中、軽微の被害を受けた[236]

1月18日[214]、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将指揮下の横須賀回航部隊(軽巡〈能代〉[68]、空母〈瑞鳳、雲鷹〉、駆逐艦〈早波、若葉、初霜〉)はトラック泊地を出発した(軽巡五十鈴と駆逐艦初春は先行して出発)[13][238]
1月19日、同航していた空母雲鷹がアメリカ潜水艦ハダックの雷撃で損傷している[239]
早川少将は瑞鳳と若葉を横須賀に先行させ[13]、能代隊(能代[68]、雲鷹、早波、初霜)は1月20日サイパンに到着した[238]。早波と初霜は対潜掃蕩と警戒に従事した[12]
翌日、能代と早波は雲鷹隊(雲鷹、初霜、海風《救難のためトラック泊地より到着》)を残してサイパンを出発する[13][241]。1月24日、能代[68]と早波[14]は横須賀に帰投した[242]。修理と整備を行う[243][244]

2月5日、早波の修理は完了した[15]
2月14日、早川少将は第二水雷戦隊旗艦を能代(横須賀で修理中)[241][244]から高雄型重巡洋艦高雄(第四戦隊)に変更した[245][246]
2月15日、高雄と早波は横須賀を出撃、20日パラオに到着した[67][247]。パラオ到着後[16][248]、第二水雷戦隊旗艦は高雄型重巡鳥海となった[249]
2月23日、トラック島空襲(2月17日-18日)によりトラック泊地から脱出した水上機母艦秋津洲救援のため、早波はパラオを出撃した[15]。24日、秋津洲と合同し、翌日2隻(秋津洲、早波)はパラオに到着した[15][251]。その後、早波はタンカー国洋丸の護衛に従事した[14]

4月中旬、早波はリンガ泊地に進出した[14][252]。能代は既にリンガ泊地に進出していた[68][241]
4月15日、第32駆逐隊司令は中原義一郎大佐から折田常雄大佐[注釈 3]に交代した[253][254]。中原大佐は5月8日附で軽巡長良艦長となるが[255]、8月7日の長良沈没時[160]に戦死した(海軍中将へ特進)[256][257]

沈没[編集]

1944年(昭和19年)5月中旬、第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将・海兵37期)、第二艦隊(司令長官栗田健男中将・海兵38期)の大部分はリンガ泊地からタウイタウイに進出し[260]。また内地で修理や練成を行っていた艦も順次タウイタウイ泊地に進出、「あ」号作戦計画実施に向け訓練をおこなう[260]。だが米軍潜水艦の行動が活発化し、航空部隊の訓練すら自由に出来ない状況になった[262]。また駆逐艦をあらゆる任務に投入して酷使した結果、日米海軍の駆逐艦不足は深刻な事態に陥り、「艦隊の作戦行動すら危うい」状況となった[264]

6月7日[14]、早波は米潜水艦攻撃に向かったまま行方不明となった睦月型駆逐艦水無月(第22駆逐隊)の捜索と対潜掃討に従事していた[266][267]。この時、タウイタウイ近海ではサミュエル・D・ディーレイ艦長指揮下のアメリカ潜水艦ハーダーが哨戒を行っていた。ハーダーは前日(6月6日)にシブツ海峡でタンカー船団を発見して攻撃し、水無月を撃沈している。
折からのスコールを抜けたハーダーは、航空機を発見して潜航[270]。一時間後、ハーダーは潜望鏡で吹雪型駆逐艦、すなわち早波を発見した[270]。ハーダーは戦闘配置を令し、様子を伺うと早波は真一文字に潜望鏡めがけて突進してくる。11時34分、ハーダーは600メートル足らずの距離で早波の真正面めがけて5秒おきに魚雷を3本発射。そのうちの2本が命中し、早波は艦後部を先にして沈没した。第一戦隊司令官宇垣纏中将(戦艦大和座乗)は陣中日誌「戦藻録」に水無月と早波の喪失を以下のように記録している[266][267]

昨夜二三四五頃驅逐艦水無月は興川丸護衛中敵浮上潜水艦攻撃に向ひ、反撃に會し消息不明なり。本朝來飛行機捜索を行ひ驅逐艦を派出す。一二三〇早波基點(タウイタウイ)の二〇三度四五浬に於て被雷轟沈、生存者四十五名(士官は航海長のみ)の悲運に會へり。錨地南方にて驅逐艦の亡失之にて三隻に及ぶ。敵潜は近來何か特種の方策を執りあるか、攻撃後一向に撃破し得ざるは全く残念なり。
次官次長連名にて五月中の潜水艦に因る船舶の亡失は廿一萬餘屯に及び、前途寒心に堪へずとして、一般の傾向を示して注意する處あり。對策に就て根本的に考直すの要あるに非ずや。 — 宇垣纒、戦藻録 338ページ

第32駆逐隊司令折田常雄大佐(海軍少将へ進級)[272][273]と早波艦長清水逸郎中佐(海軍大佐へ進級)[274]以下253名が戦死し、45名が救助された[266]。ハーダーの戦闘報告では、発見されてから撃沈までわずか9分から12分の出来事だったと記している[275]
6月上旬の日本海軍は、潜水艦の襲撃により駆逐艦4隻(水無月、早波、風雲、谷風)を立て続けに喪失することになった。
当時の第二艦隊参謀長小柳冨次少将は、第一機動艦隊の大前参謀から第二艦隊に「駆逐艦がやられるので、敵潜が出現しても駆逐艦を派遣しないでくれ」との申し入れがあったと回想している[264]

8月10日、早波は夕雲型駆逐艦[279]
第32駆逐隊[280]
帝国駆逐艦籍[281]のそれぞれより除籍された。

歴代艦長[編集]

艤装員長
  1. 清水逸郎 中佐:1943年6月25日[38] – 1943年7月31日[41]
駆逐艦長
  1. 清水逸郎 中佐:1943年7月31日[41] – 1944年6月7日 戦死、同日付任海軍大佐[274]、以後6月10日まで駆逐艦長の発令無し。
  2. 千本木十三四 中佐:1944年6月10日[282] – 1944年6月15日[283]

参考文献[編集]

  • 池田清『重巡摩耶 元乗組員が綴る栄光の軌跡』学習研究社〈学研M文庫〉、2002年1月(原著1986年)。ISBN 4-05-901110-X。
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。
  • 大井篤「第6章 崩れ去る夏の陣(昭和19年6月から同年8月まで)」『海上護衛戦』株式会社KADOKAWA〈角川文庫〉、2014年5月(原著1953年)。ISBN 978-4-04-101598-8。
  • 岡本孝太郎『舞廠造機部の昭和史』文芸社、2014年5月。ISBN 978-4-286-14246-3。
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。
  • 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
    • (255-342頁)戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後
  • 須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す ソロモン海の火柱』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年1月(原著1956年)。ISBN 978-4-7698-2630-9。
  • 福田幸弘『連合艦隊 ― サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年7月(原著1983年)。
  • 淵田美津雄・奥宮正武『機動部隊』朝日ソノラマ〈新装版戦記文庫〉、1992年12月。
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』第96巻、朝雲新聞社、1976年8月。
  • 『写真 日本の軍艦 戦艦 I 大和・武蔵 長門・陸奥 扶桑・山城 伊勢・日向』第1巻、雑誌『丸』編集部/編、光人社、1989年7月。ISBN 4-7698-0451-2。
  • 『写真 日本の軍艦 重巡 II 高雄・愛宕 鳥海・摩耶 古鷹・加古 青葉・衣笠』第6巻、雑誌『丸』編集部/編、光人社、1990年1月。ISBN 4-7698-0456-3。
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  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
  • 山本平弥ほか『秋月型駆逐艦 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6。
    • (220-229頁)戦史研究家伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』
  • 歴史群像編集部編『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡』第19巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1998年8月。ISBN 4-05-601918-5。
    • (85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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注釈[編集]

  1. ^ 新編当初の第32駆逐隊は、早波、涼波、藤波。のちに玉波(昭和18年10月1日編入)と浜波(昭和18年12月15日編入)を加えた。
  2. ^ 内地帰投中の雲鷹は、昭和19年1月19日に米潜水艦の雷撃で損傷、サイパン島に残った。
  3. ^ 折田は、秋月型駆逐艦照月が昭和17年12月12日に沈没した時の、照月駆逐艦長。

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]