Month: October 2021

あーくしゅ – Wikipedia

『あーくしゅ』は、1989年にウルフチームから発売されたコンピュータゲーム。 『マイコンBASICマガジン』(電波新聞社)のウルフチームの広告ページ「WOLF GAMERS」で連載していた同名の4コマ漫画をベースとしたアドベンチャーゲームであり[1]、パッケージや広告では「アークス番外編」と銘打っている。タイトル画面には「陽炎の時代を越えて」と副題のように書かれているが、これは鈴木(G)健一(新免G之進)がグラフィックの一部として書いたもので、正式なタイトルではない[2]。 本作はじぇだ(ジェダ・チャフ)とピクト(ピクト・ピヨント)の二人組が次元に発生した穴を修復するべく、三本の聖剣と各次元に点在するCDを集めるために冒険を繰り広げる内容となっており、二人のキャラクターの使い分けが謎解きに関わる。 登場キャラクターは『アークス』および『アークスII』のパーティーキャラクターがメインとなる。そこに、『ファイナルゾーン』『夢幻戦士ヴァリス』『YAKSA』『ミッドガルツ』『ガウディ』など、日本テレネット時代を含めたウルフチーム作品のキャラクターが多くゲスト出演している。 物語には映画、小説、漫画、アニメなどのパロディがふんだんに盛り込まれている。BGMは、原典のゲームで使われた音楽をコミカルにアレンジしたものが使用されている。 4コマ漫画[編集] 原作の4コマ漫画『あーくしゅ』は、当初は『アークス』のスタッフである林弘樹[3]によって描かれていたが、スタッフの入れ替わりにより作者が変わって連載が続いた。ゲームの『あーくしゅ』は、(G)[注釈 1]が描いた『あーくしゅ2』以降を原作とする[注釈 2]。ゲームの各キャラクターの性格や口調は4コマ漫画そのままであるが、言い方を変えれば原典のゲームとは全く異なる。 登場キャラクター[編集] 主人公[編集] じぇだ(ジェダ・チャフ) 本作の主人公の一人で、ボケ役。 ピクト(ピクト・ピヨント) 本作の主人公の一人で、突っ込み役。 はじめの時代[編集] おじさん(『アークス』) 金竜リグ・ヴェーダ(『アークス』など) DOSバーガー(ワープ空間)[編集]

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田宮緑子 – Wikipedia

田宮緑子(たみや りこ)は、日本の紅茶研究家。宝塚教養学校校長。女優。吉本興業文化部所属。愛称「グリン子先生」、旧芸名:片山理子 目次 1 来歴 2 出演番組 3 映画 4 演じた女優 5 脚注 5.1 出典 6 外部リンク 大阪府堺市出身。 1981年4月にデビュー、吉本新喜劇に入団[1]してマドンナ役で活動。 1980年代後半に芸能界を引退後に、東洋英和女学院大学への入学と卒業後にロンドンへ留学した[2]

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オイゲン・マインドル – Wikipedia

オイゲン・マインドル(Eugen Meindl、1892年7月16日 – 1951年1月27日)は、第2次世界大戦時のドイツ空軍の降下猟兵部隊の将軍である。 オイゲン・マインドルはドナウエッシンゲンで生まれた。彼は1912年7月27日から砲兵隊で軍役に就いた。第1次世界大戦では小隊指揮官、後に中隊指揮官になりその後第67砲兵連隊付の副官、第52軍団の砲兵指揮官の副官を務めた。 マインドルは陸軍で様々な砲兵部隊に勤務した。1924年8月1日に大尉に昇進し、1926年9月14日に国防省に配属され少佐に昇進するまでの10年間をそこで過ごした。 1939年11月10日にマインドル中佐はグラーツの第112山岳砲兵連隊の指揮官に任命された。大佐の時に彼は「マインドル・グループ」を率い、ナルヴィクで初めてのパラシュート降下を行った。マインドルの空軍への転籍は1940年11月28日であったが、彼は降下猟兵のマインドル突撃連隊を8月9日から指揮していた。 クレタ島への空挺攻撃のメルクール作戦でマインドルはプラタニアス(Platanias)橋近郊に降下し胸に銃創を負った。エドガー・シュテンツラー(en:Edgar Stentzler)少佐がヘルマン=ベルンハルト・ラムケ大佐の到着まで連隊の指揮を執った。 1942年2月26日にマインドル少将は東部戦線で新たに編成されたマインドル戦闘群の指揮官になり、9月26日に第XII航空挺進軍団(後の第I降下猟兵軍団)の指揮を引き継いだ。 マインドルは東部戦線の冬季の戦闘で名を上げ国防軍軍報(Wehrmachtbericht)にも名前が載り、1943年11月5日に第II降下猟兵軍団の指揮官に昇進した。マインドルに率いられた第II降下猟兵軍団は西部戦線で連合国軍の大陸侵攻の最前線で、後にクレーヴェやライヒスヴァルト(Reichswald)で戦った。マインドルの軍団はゴッホ(Goch)やヴェーゼル(Wesel)橋頭堡で華々しく戦った。マインドルは捕虜になり1947年9月29日まで収容された。 オイゲン・マインドルは1951年1月27日にミュンヘンで死去した。 参考文献[編集] Berger, Florian, Mit Eichenlaub und Schwertern. Die

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大渓駅 – Wikipedia

大渓駅(だいけいえき)は台湾宜蘭県頭城鎮にある台湾鉄路管理局(台鉄)宜蘭線の駅。招呼駅で区間車のみが停車する。台鉄では数少ない硬券の切符を販売していた(2017年8月まで)。 1920年12月10日 – 開業(当時の表記は「大溪停車場」)[1]。 1997年3月21日 – 簡易駅に降格[2]。 1998年8月1日 – 管理駅が大里から亀山に変更[3]。 2017年9月1日 – 招呼駅に降格、硬券販売を含め窓口を閉鎖[4]。 相対式ホーム2面2線の地上駅である。 下り蘇澳方面は第1ホーム、上り八堵方面は第2ホームで、両者は跨線橋で結ばれている。 北宜直線鉄道の接続駅となる計画が持ち上がっており、それに伴う大改築を施す予定である。 利用状況[編集] -2000年 年 年間

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細尾真孝 – Wikipedia

細尾 真孝(ほそお まさたか、1978年 – )は、日本の実業家。株式会社細尾 代表取締役社長[1]。元禄元年(1688年)から続く西陣織の老舗、細尾12代目[2]。MITメディアラボ  ディレクターズフェロー[3]、一般社団法人GO ON 代表理事、株式会社ポーラ・オルビス ホールディングス 外部技術顧問[4]。 目次 1 来歴 2 著書 3 出典 4 外部リンク

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ブルーム (エリック・ジョンソンのアルバム) – Wikipedia

『ブルーム』(Bloom)は、アメリカ合衆国のギタリスト、エリック・ジョンソンが2005年に発表したスタジオ・アルバム。前作『スーヴェニール』は、当初はジョンソンの公式サイト限定で発売され、一般流通による純粋な新作スタジオ・アルバムとしては『ヴィーナス・アイル』(1996年)以来9年ぶりとなる[1]。 アルバム全体が「Prelude」、「Courante」、「Allemande」の3部に分かれた構成となっている[2]。16曲中6曲でジョンソンがリード・ボーカルも兼任しており、そのうち「ユア・スウィート・アイズ」にはショーン・コルヴィンがゲスト参加した[3]。「トリビュート・トゥ・ジェリー・リード」では、当時ジョンソンと同じくフェイヴァード・ネイションズ(英語版)に所属していたエイドリアン・レッグ(英語版)を迎えて、カントリー的なギター・デュオを披露している[3]。 反響・評価[編集] 母国アメリカでは、総合アルバム・チャートのBillboard 200入りは果たせなかったが、『ビルボード』のインディペンデント・アルバム・チャートでは22位に達した[4]。 第48回グラミー賞では最優秀ポップ・インストゥルメンタル・アルバム賞にノミネートされた[5]。Greg Pratoはオールミュージックにおいて5点満点中3.5点を付け「1980年代後半から1990年代初頭のギター・ヒーローの殆どは、1秒間にどれほど多くの音を紡ぎだせるかを重視していたが、ジョンソンは例外的に、ギターが肉声の如くメロディを送り出していくような曲作りを行ってきた」「生々しく武骨なサウンドや、即興性の強い音楽を好む人々には向いていない。しかし熱心なファンは、彼が今回もピッキング、音色、そして恐ろしいほど流暢な演奏といった、自身のトレードマークを見事に提示した作品を届けてくれたと感じるだろう」と評している[2]。 特記なき楽曲はエリック・ジョンソン作。 Prelude[編集] ブルーム – Bloom – 3:10 サマー・ジャム – Summer Jam – 2:11

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月日磐 – Wikipedia

月日磐の位置(奈良県) 月日磐(つきひいわ)は奈良県奈良市春日野町にある景勝地(石)である。 春日山遊歩道の北起点より東に数百m入ったところに、案内の石碑がある。 その地点から右(南)に吉城川(水谷川)水面近くまで降り、川に沿って少し遡上すると、古い堰が見えるのでそこより左岸に渡る。 左岸をさらに遡上すると少し高段に古い灯籠が見え、灯籠の下付近の流れの中に苔むした石があり、これを月日磐と呼ぶ。 流れ側に日と三日月を模した陰刻が施されている[脚注 1]が、彫られた時期などはわからない。 氷室神社縁起[編集] 和銅3年(710年)7月22日、後の氷室神社の前身となる氷神を、春日の三笠山麓を流れる水谷川上流、月日磐に祀った(下津岩根宮)との記録が残っている[脚注 2]。 吉城川氷室、春日氷室、水谷氷室、高橋氷室等とも称され、『大和志料』では延喜式神名帳に見られる添上郡の高橋神社にこの地を比定している[1]。 この地の氷室に厳冬期に結氷させた氷を貯め置き、夏に平城宮へ献氷させたという[1]。 和銅4年(711年)6月1日以降、毎年勅祭として献氷祭が恒例となっていたが、平安期には臨時祭となり衰退した[1]。 貞観2年(860年)、今の氷室神社の地へ遷ったと伝わる[2][1]。 その他の記録[編集] 天平勝宝8年(756年)の東大寺山界四至図(正倉院蔵)には、この付近に「氷池」「神地」と記され、また『興福寺流記』所収の『天平記』には、興福寺の寺域東限は氷室の西垣にあたると記されている[1]。 ギャラリー[編集] 月日磐を案内する石碑 月日磐に至る道中の堰 月日磐そばに佇む古い灯篭

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高橋克実 – Wikipedia

高橋 克実(たかはし かつみ、1961年4月1日 – )は、日本の俳優、タレント、司会者。愛称は「カッツミー」。 新潟県三条市出身。シス・カンパニー所属。 嗜好・交友関係[編集] 婚姻について[編集] 2001年1月15日にゲスト出演した関西テレビ『快傑えみちゃんねる』において、妻(女優・兎本有紀[注 1])と離婚して1年ほど経ったことを明かしている。 2004年12月に、日本国外でのロケに出かけている際に自宅に泥棒が入り、パソコンなどが被害に遭った。同時に妻と離婚していたことも報道されている。前妻とは別れてはいるが仲は悪くなく、前述の盗難被害の際には高橋が海外ロケをしている最中だったことから、当人の代理として警察に盗難の被害届を出したという。 2011年2月16日、かねてより交際が報道されていた当時35歳の一般人女性と同年1月に再婚したことを事務所を通じ、FAXで報告した[2]。 2012年4月9日、夫人が妊娠4ヶ月目に入り、同年10月に出産予定であることを所属事務所を通じて発表、51歳にして初めて子を持つことを明らかにした[3]。 2012年9月26日、前日午後1時47分に長男が誕生したことを事務所の公式サイトで発表し、その際に「髪の毛も生えています」とのコメントを添えた[4]。 2015年6月19日に放送された、自ら司会を務める情報番組『直撃LIVE グッディ!』内で、5月に第2子となる女児が誕生していたことを明らかにした[5]。 その他[編集] 下積み生活が長く『ショムニ』に出演する38歳までアルバイトで生計を立てていたという苦労人。 神奈川県相模原市のアパートに住んでいた頃はビニール本配達の仕事を月収3万でしていた。他にラブホテルの車庫入れ係、ディスコの黒服、レンタルビデオ店の店長など、数々のアルバイトを経験しているが、中でも最も長く続けたのは、野立て看板を立てる仕事であった[6]。 2010年2月27日放送の『トリビアの泉』の特番にて高橋が自らトリビアを投稿し、自身が『ピタゴラ装置』のギネス世界記録を持っていることを明かした。しかし、確認VTRにおいて高橋は実際はギネス記録に挑戦していたグループの現場にたまたま居合わせただけだったことが発覚した。

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小児経 – Wikipedia

小児経(繁体字: 小兒經、簡体字: 小儿经、拼音: xiǎoérjīng、注音符号:ㄒㄧㄠˇㄦˊㄐㄧㄥ、小児経本字で書き:شِيَوْ عَر دٍ)は、アラビア文字を組み合わせて、中国語(主に蘭銀官話、中原官話及び東北官話)の発音を表す非公式の表音文字である。小児錦(小兒錦 / 小儿锦、xiǎorjǐn)、小経(小經 / 小经、xiǎojīng)、消経(消經 / 消经、xiāojīng)とも称される。主に中国国内のイスラム教徒である回族、トンシャン族(東郷族)、サラール族(撒拉族)の子弟に対するコーラン教育に使用した。小児経は中国語音を表記した文字(中国語表音法)としては古いものに分類される。 小児経の文字は他のアラビア語系と同様に右から左に書かれる。しかし長母音以外の母音表記を重視しないアラビア語と異なり、全ての母音を明確に表記する傾向があり、これはウイグル語と同様の特徴を有している。これは中国語が母音を重視する傾向が強い影響とあると考えられる。これに対し声調の表記は存在していない。 小児経は規則化された標準的な文字システムが確立していないばかりか、統一された名称も存在していない。標題で使用している「小児経」というのは陝東、山西、河北、河南、山東、北京、天津及び東北地区で一般的に使用されている名称であり、「小経」或いは「消経」と簡称されている。これに対し寧夏、甘粛、内蒙古、青海及び中国北西部では小児錦と称され、「小錦」と簡称されている。またトンシャン族は東郷文或いは回回文と、サラール族では撒拉文と称され[1]、また中央アジアのカザフスタン、キルギスタンなどに居住しているドンガン人(回族)の間では1928年にラテン文字が導入される以前、小児経に類似した文字を使用しており、回文と称されていた。 華北一帯では一般に小児経は中国語でピンインや注音が導入される以前、教育を行なう際の漢字の音を表す一種の道具とみなされており、それが小児経の名称の由来になったと考えられている。小児錦は小児経が転訛したものであり、本来「経(經 / 经、jīng)」という字音であるが、中国北西部では韻尾のngとnの区別がなく、また、上声を高平調で発音するため、「錦(錦 / 锦、jǐn)」になったものと考えられている。 7世紀中葉、イスラム教が当時唐朝であった中国に流入し、それに伴いアラビア語やペルシャ語を母語とする民族が流入した。それから1世紀ほどの時間の経過を経てそれらの民族は唐人との間で混血が進み現在の回族の祖先を形成していった。イスラム教ではクルアーンの翻訳を禁じており、イスラム教徒はアラビア語でクルアーンを読むことが求められたため、幼少期よりモスクなどでアラビア語やクルアーンを学ぶことが習慣となった。当時イスラム勢力が強かった北西部では漢字に対する理解が一般に進んでおらず、コーラン学習の過程で習得したアラビア文字を利用して中国語を表記するようになった。現在小児経の最も古い用例としては西安の清真寺(モスク)に残る碑文であり、アラビア語でクルアーン経典が記されると同時に石碑下部に小児経により碑文と清真寺建立に寄付をした人物名が記されている。碑文にはイスラム暦740年、即ち1339年7月9日から翌年6月26日の間に記されたことが判明している。

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ピエール・ロシュ – Wikipedia

ピエール・ロシュとして知られる、ピエール・アンリ・フェルディナン・マシニョン(Pierre Roche 、本名: Pierre Henry Ferdinand Massignon 、1855年8月2日 – 1922年1月18日)はフランスの彫刻家、画家、版画家、工芸家である。公園などの公共施設の彫刻を制作したことで知られる。宗教学者,イスラム学者のルイ・マシニョンの父親である。 パリで薬剤師の息子に生まれた。母方の祖父の名前、ピエール・ロシュで芸術活動をした。薬学を学んだ後、1873年に私立の美術学校、アカデミー・ジュリアンに入学し、アルフレッド・ロルのスタジオで1787年まで絵を学んだ。1884年から1889年まで、パリのサロンに作品を出展した。 彫刻家、ジュール・ダルーのスタジオで彫刻を学び始め1888年にダルーに勧められて、ジョルジュ・ダントンの記念像の制作コンペティションに参加した。その後、リュクサンブール公園に設置された『努力(L’Effort)』(別名『アルフェイオス川の流れを変えるヘラクレス』)[1]やブリニョール=ガリエラ広場の噴水などの公共施設の彫刻作品の依頼を受け制作した。 一方、版画家としては1896年に美術文芸雑誌、「ラ・プリュム(La Plume)」の展覧会、サロン・デ・サンで多くのポスターを展示した[2] 。「Gyspograph」と呼ばれる石膏を使った版画の手法も試みた[3].。工芸家としても活動した。 1910年にレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受勲した[4]。 ブリニョール=ガリエラ広場の噴水 アンリ・フキエ(Henry Fouquier)の墓標 Mélusine

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