Month: July 2022

嘉長 – Wikipedia

嘉長(かちょう、生没年不明)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての金工師(鋳物師)、七宝師。 伊予松山(愛媛県)の生まれの金工で、姓は不詳。豊臣秀吉の招により上洛し、京都堀川油小路に住した[1]。 七宝の技法(七宝流しの法)を心得ており、秀吉によって建立される建築の金具などの制作に当たったといわれるが、その生涯について記録に残るものは乏しい。 一説によれば、小堀遠州が秀吉の輩下であったころ嘉長を知り、自らの勝色縅鎧(おどしよろい)金具の七宝を手がけさせたと伝えられる[2]。また、遠州に登用され、現在も見ることができる桂離宮の金物類を製作したと伝えられる。伝承では同時期に建立された、大徳寺や曼殊院などの引手や釘隠も嘉長の作といわれる。 嘉長と同時期の七宝師に平田道仁がおり、同じく京都に居住していたことから嘉長と同一人物視する説も見られるが、その技法に隔たりがあるとともに、史料上もこれを明らかにはしがたい[3]。たとえば、「藤堂家茶道記録」なる史料の中には、「金物は嘉長、惣銀の金物活透し」と記載があり、この史料に年記は無いが五代将軍徳川綱吉の母である桂昌院(1624~1705)、伊勢藤堂家の御用商人であった藤村庸軒(1613~1699)、初代山本春正の子で姓を春正と改めた蒔絵師(1641~1707)の三人が同時に関係していることから、金物師嘉長は実在した人物であると同時に、十六世紀中~後期にかけて活躍した人物と推定する説がある[4]。 このような記録と、長期に渡る桂離宮の造営期間などを鑑みると、実際に金物が取り付けられた時期などにもよるが、嘉長もまた、道仁のように子孫や弟子により数世代にわたって名乗られたやも知れない。 いずれにせよ、大徳寺、曼殊院、修学院離宮、西本願寺、二条城、その他、今も残る飾金具を見れば、この頃の御殿や神社仏閣の造営のため、嘉長のような金工が京都の内外から集められたのは間違いないことであろう。 なお、明治27年に発行された、横井時冬著『工芸鏡』では、嘉長は「鋳物工」として、平田道仁は「七宝工」として別々の項に記載されている。ただし、その技法についてはどちらも「七宝流しの法」としており、平田派と同じ七宝工として記載の梶常吉の技法については「七宝焼」としている。 桂離宮に代表される京都の寺社・離宮の金物等が嘉長の作として伝えられている。たとえば、小西本「桂御別業之記」によると、新御殿の水仙形釘隠や月字形襖引手などについて「嘉長作 其頃彫物名人ト伝」とある。また横井時冬の調べでも、「桂御別業之記補註」「大沢氏筆記」をもとに、以下の金物(七宝含む)が嘉長の作と特定されている[5]。 桂離宮 新御殿 長押釘隠し(水仙形) 桂離宮 新御殿 一の間/二の間 襖引手(月字形) 桂離宮 楽器の間 杉戸引手(市女笠形) 桂離宮 月波楼 襖引手(手機の杼形) 桂離宮 松琴亭 戸袋引手(結紐形) 桂離宮 松琴亭 二の間 戸袋引手 「栄螺文七宝引手」(有線七宝) 桂離宮 笑意軒 中の間 襖引手(櫂形) 堀川油小路[編集] 嘉長が住んでいたという堀川油小路という呼び名は現在の地図上などでは使われていないことから、「どの地点を指すのか定かではない」とする意見が見られる。しかし、京都に住んでおれば(かつてはメインストリートであった)油小路通と堀川通が交わるところを思い浮かべるのが自然に見える。現在、この地点の大部分がJR京都線、山陰本線、嵯峨野線などの線路になっているためか、一筋北に上る堀川塩小路の誤りではないかという意見も見られるが、いずれにせよこの付近であるのだから、同時期の他の七宝師の所在地と比べても、記載の地点がどこを指すのかは概ね明らかである。むしろ、様々な伝承の正確性そのものを問題にすべきであろう。 ^ 横井時冬「工芸鏡」嘉長の解説より

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デニス・フォンヴィージン – Wikipedia

デニス・イヴァーノヴィチ・フォンヴィージン (ロシア語: Дени́с Ива́нович Фонви́зин, 「フォンヴィージン」という姓はドイツ語の姓「フォン・ヴァンゼン」(ドイツ語: von Wiesen)より; 1745年4月14日(ユリウス暦 4月3日) – 1792年12月12日(ユリウス暦 12月1日)) は、ロシア演劇啓蒙期の劇作家であり、戯曲は現在でも上演されている。主な作品は同時代のロシア貴族をあざける風刺喜劇『旅団長』『親がかり』の2作。 リヴォニア系ドイツ人貴族の家庭でモスクワに生まれた。モスクワ大学で教育を受け、非常に早い時期から執筆や翻訳を始めた。彼は、政府官庁に務め、エカチェリーナ2世治世下における偉大な貴族の1人の伯爵ニキータ・パーニンの秘書になる。パーニンの庇護のゆえ、フォンヴィージンは逮捕を恐れることなく批評的な戯曲を書くことができ、そして、1760年代後半、有名な喜劇『旅団長』 ≪Бригадир≫を初めて発表した。 資産家だった彼は文学や知的世界で有名になっていったが、常にプロの著作家というよりかは芸術の愛好家であった。1777年から1778年にかけて海外を旅する、その主たる目的にはモンペリエにある医学部の探求にあった。彼は「フランスからの手紙」で旅路を記す — 当時の散文体における最も高雅で代表例といえる内の一書である、またエカチェリーナ2世の治世期におけるロシア人エリートらによるフランス文学趣味へと完全に依存している中において、反フランス的なナショナリズムで最も際立った書である。 1782年にフォンヴィージンの第2作目にして至上の喜劇『親がかり(未成年)』 ≪Недоросль≫を発表、明確にロシアの戯曲家として最重要な人物に分類される。晩年、繰り返される苦しみ、そして健康のために海外旅行をして過ごした。1792年にサンクトペテルブルクで死去。

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フライデーナイトファンキン – Wikipedia

このページ名「フライデーナイトファンキン」は暫定的なものです。議論はノートを参照してください。(2022年1月) 『フライデーナイトファンキン』(Friday Night Funkin’)は、オープンソース[1]のドネーションウェアリズムゲーム。略称は「FNF」。このゲームは、Newgroundsの4人のユーザーのチームによって開発され、『Dance Dance Revolution』や『パラッパラッパー』に似たプレイスタイルを持ち、2000年代初頭から半ばにかけて人気を博したFlashゲームに近い雰囲気をしている[2][3]。 主人公の少年「Boyfriend」がヒロインの「Girlfriend」をめぐって数々の敵キャラクターとラップバトルを繰り広げるリズムゲームで、画面下から次々と流れてくる上下左右の矢印型ノーツをWASDキーまたは矢印キーを使ってタイミングよく入力する方式になっている[注 1]。曲は、初めに敵キャラクターがワンフレーズを歌った後、プレイヤーがそのフレーズと同じキー入力をミラーする形で進行していく。キー入力を成功させるたびに自分側の緑のゲージが敵キャラクターの赤いゲージを押していき、ミスすると逆に押し返されていく。敵キャラクターにゲージを完全に押し返されないまま曲を終了するとクリアとなるが、自分のゲージが完全に押され切ってしまうと強制的に曲が終了し、ゲームオーバーとなる。 ゲームモードは、同じキャラクター(一部例外あり)と3曲[注 2]続けて音楽バトルをする「Story Mode」と、好きな曲を選んで遊べる「Free play」がある。どちらのモードも、Easy、Normal、Hardの3つから難易度を選択できる。Story ModeはWeek1からWeek7まであり、各Weekごとに登場する敵キャラクターが異なる。 また、オープンソースという性質上、Modコミュニティが非常に盛んであることも本作の特徴である。Mod配信プラットフォームGameBananaでは1200件以上の作品が投稿されており、中には160万回以上ダウンロードされている作品も存在する。[4] 2021年4月のアップデートでFriday Night Funkin’: The Full Ass

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オシロスコープ – Wikipedia

オシロスコープ (英: oscilloscope) とは、電気的な振動(=oscillation オシレーション)をスクリーンに表示する装置である[1]。 文献によっては、オッシロスコープという表記も見られる。 オシロスコープはオシログラフの一種であり、電位(電位差)の周期的変化を波形(2次元のグラフ)として画面上に表示するものである。 通常、画面表示の水平軸は時間を表し、垂直軸は電圧を表し、周期的な信号の表示に適している。 もともとは陰極線管を用いて表示するタイプがきわめて一般的であったが、近年は様々な表示方式がある。 高周波信号まで観測できるものが一般的であり、波形の分析、高速現象の観測、過渡現象の観測など、電気計測の様々な分野で用いられている。 ブラウン管オシロスコープ[編集] ブラウン管オシロスコープ (Tektronix 475A) ブラウン管オシロスコープは最も古くからあるタイプのオシロスコープであり、「ブラウン管オシログラフ」「陰極線管オシログラフ」などとも呼ばれ、まれに略して「ブラウン管」とも。また近年ではデジタル式のオシロスコープと区別する意味で「アナログオシロスコープ」とも呼ばれる。 構成要素 ブラウン管オシロスコープは、ブラウン管、垂直増幅器、時間軸発生器、水平増幅器、電源から構成される。 オシロスコープのブラウン管 ブラウン管オシロスコープが現在の形となる前、ブラウン管はすでに測定器として使われていた。オシロスコープのブラウン管も、白黒テレビ受像機のものと同じように真空のガラス容器で作られ、平らな面には蛍光物質が塗られている[注 1]。

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