Month: October 2017

ボリバル・フエルテ – Wikipedia

ボリバル・フエルテ(bolívar fuerte)はかつて流通していたベネズエラの通貨である。2008年1月1日よりそれまでのボリーバルに代わって流通が始まった。しかし、ハイパーインフレーションが起きたため、2018年8月20日に10万ボリバル・フエルテを1ボリバル・ソベラノにするデノミネーションを実施した。 2007年3月にベネズエラ政府はボリーバルから1000分の1のデノミネーションを行うと発表し、名称をボリバル・フエルテ(強いボリバルの意)とした。当時のボリーバルはウゴ・チャベス大統領が行ったボリバル革命による政情不安から高いインフレーションが続いていた為、このデノミネーションで経済的混乱を抑える狙いがあった。 2008年の流通開始地点の公式レートは1ドル2.15ボリバルであったが、同時期の闇レートが1ドル6ボリバル前後と既に乖離が見られた。2010年代に入ると、原油価格の下落や政府の反米政策による諸外国との関係悪化もあり、国内経済が疲弊し闇レートが1ドル50〜100ボリバルまで下落。2016年になると1ドル1000ボリバルにまでレートが悪化した。2008年から2016年までのインフレ率は、2,000%を越えるハイパーインフレーションとなった。だがハイパーインフレーションを否定する政府は公式レートを闇レートから大幅に乖離した1ドル10ボリバルに固定し、外貨建てでの電子決済時に決済額が非常に高額になるケースが発生した。 そんな中2016年12月、ウゴ・チャベスの後任であるニコラス・マドゥロ大統領は、新たに500〜20000ボリバルの高額紙幣を発行することを発表した。マドゥロ大統領はその数日後に「米国と結託した犯罪組織が海外に大量の100ボリバル札を流出させ、ベネズエラ経済を攻撃している[注釈 1]」として、72時間を期限に100ボリバル紙幣を廃止し[1]、同額面の硬貨に入れ替えると発表、同時に国境封鎖を行った。 この突然の決定に国内で動揺が広がり、国内の銀行や周辺国の両替所で大規模なパニックが発生した。交換期限日になっても新紙幣はおろか新硬貨も届かず、銀行に集まった人だかりの一部が反政府デモを起こし、価値が消滅した大量のボリバル・フエルテ紙幣が周辺の道路に投げ捨てられるなど混乱を極めた。 その後もハイパーインフレーションは続き、2018年には8万%のインフレ率を記録し、イラン・リヤルに並ぶ世界で最も価値の低い通貨となった。ベネズエラ中央銀行はドルとの固定レートを廃止し、元々政府が存在を否定してきた闇レートを公式のレートとして同期させる事となった。 2018年の通貨切り替え[編集] 2018年8月21日、ニコラス・マドゥロ大統領は、悪化の一歩をたどるハイパーインフレーションに歯止めをかけるため、10万分の1の大規模なデノミネーションを実施した。名称はボリバル・ソベラノ[2]。 硬貨・紙幣[編集] 2008年から2016年までの通貨[編集] 硬貨[編集] 1・5・10・12½・25・50センティモ・1ボリバルの硬貨が発行されていたが、ハイパーインフレーションの進行によって補助通貨は有名無実化した。センティモ硬貨は表面に額面、裏面にはベネズエラの国章が描かれている。1ボリバル硬貨はバイメタル貨で表面にシモン・ボリバルの肖像、裏面に額面とベネズエラの国章が描かれている。 紙幣[編集] 2008年に流通が始まった紙幣は、2・5・10・20・50・100ボリバル。表面にはベネズエラの独立に深く関わった人物、裏面にはベネズエラゆかりの野生動物とベネズエラの国立公園が描かれている。 2010年代に進行したハイパーインフレーションによってボリバル・フエルテの価値は急落し、20ボリバル以下の少額紙幣の流通機会はなくなっていった[3]。 2017年初頭には最高額紙幣である100ボリバルの価値が僅か数円程度にまで下落していた。この頃からベネズエラの人々は価値が下がり続けるボリバルを捨て、コロンビアに行きアメリカ合衆国ドルやコロンビア・ペソ等に両替してボリバルの代わりに使用し始めていた。 2016年から2018年までの通貨[編集] 硬貨[編集]

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イオナ・ニキチェンコ – Wikipedia

ソビエト連邦の政治家 イオナ・チモフェーエヴィチ・ニキチェンコ Иона Тимофеевич Никитченко 写真中央がニキチェンコ 生年月日 (1895-06-28) 1895年6月28日 出生地 ロシア帝国 ドン軍管州トゥスルコフ(ロシア語版) 没年月日 (1967-04-22) 1967年4月22日(71歳没) 死没地 ソビエト連邦 ロシア連邦共和国モスクワ 出身校 モスクワ大学

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ルッジェーロ (架空の人物) – Wikipedia

ルッジェーロ(Ruggero)はイタリアの叙事詩『狂えるオルランド』の登場人物。エステ家の始祖とも言える存在で、オルランドと並び物語の主人公として活躍。未完に終わったマッテーオ・マリーア・ボイアルドの『恋するオルランド』にも登場している。 ヘクトールの子孫[1]であるレッジョ・ディ・カラブリア(Reggio Calabria)の騎士と、アフリカ王アグラマンテの娘との間に生まれる。母が妊娠中、父は陰謀に巻き込まれ殺されてしまったためルッジェーロと双子の妹・マルフィーザは魔法使いのアトランテに扶養された。なお、マルフィーザは7歳のときに生き別れたため(38歌14節)、成人するまであってはいない。 後に、イスラム軍とシャルルマーニュの戦争のさい、出身を知らずに従軍。キリスト教徒と戦うのだが、そこでシャルルマーニュの姪・ブラダマンテと恋に落ちる。しかし、敵同士であること、養父アトランテの執拗な妨害にあうが、最終的にルッジェーロとブラダマンテは結ばれ、彼らの子孫がエステ家となる。これは、やはりヘクトルの血を受け継ぐクレルモン家のブラダマンテとルッジェーロが結ばれ、ヘクトルの血筋が結びつくことでエステ家ができた、という設定にすることでエステ家を賛美するもの。なお、アトランテが必死でルッジェーロの恋愛を邪魔したのは、ルッジェーロがキリスト教の洗礼を受けた場合、裏切りに合い殺される運命を予知していたためである。 物語中、ルッジェーロは様々な冒険をするのだが、ヒッポグリフに騎乗し、魔法の盾でオルクと呼ばれる海の怪物を退治する物語が有名(第10歌)。これはヒッポグリフをペガサスに、魔法の盾をゴルゴーンの首に置き換えるとギリシア神話、ペルセウスの冒険とほとんど重なる。ただ、オチは強烈で、せっかく助けた姫がルッジェーロの所持していた魔法の指輪を盗んで逃走するという一種のパロディになっている。なお、オルクの皮が厚すぎて刃物を通さなかったため、ルッジェーロ自身はオルクを殺すことはできていない[2]。 物語はルッジェーロがブルガリアの王となり、ブラダマンテの結婚で幕が下りる。だが、その7年後、マガンツァ家のピナベル[3]、ベルトラルージの殺したという濡れ衣を着せられ、暗殺されてしまう運命にあるが、その仇はブラダマンテ・マルフィーザにより討たれると予言されている(第41歌60節~67節)。 後世への影響[編集] また、ルッジェーロが魔女・アルチーナ(『オッデュッセイアー』のキルケーに相当する人物)のもとで飼い殺しにあっていたこと、そしてこれからの脱出の物語はオペラの題材としてよく使われている。例えば、フランチェスカ・カッチーニが『ルッジェーロの救出』(La liberazione di Ruggiero)を、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが『アルチーナ』を発表している。 ^ 一般に、『イリアス』などはヘクトルの息子・アステュアナクスはネオプトレモスにより殺害されたとするのが普通だが、トロイア落城のさいに死亡したのは影武者という設定になっている。なお、イタリアはトロイアの残党・アイネイアスが建国した国とされるため、トロイアの武将・ヘクトルの人気は高い。 ^ 退治されなかったオルクは、第11歌において通りすがったオルランドが殺害している。 ^ 『ローランの歌』にも登場する悪役。『狂えるオルランド』では彼の死因が異なる。

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アレキザンダー・アガシー・メダル – Wikipedia

アレキザンダー・アガシー・メダル(Alexander Agassiz Medal)は、米国科学アカデミーが海洋科学に関する貢献に授与する賞。 スコットランドの海洋学者であるジョン・マレーにより、彼の友人であるアレキザンダー・アガシーを記念して、1911年に創設された。 1913年: Johan Hjort 1918年: アルベール1世 (Albert I, Prince of Monaco) 1920年: Charles D. Sigsbee 1924年: オットー・ペテルソン

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サイム・ダービーFC – Wikipedia

サイム・ダービーFC 原語表記 Sime Darby Football Club 愛称 The Giant Killers[1] 創設 2010年1月22日 (12年前) (2010-01-22) 所属リーグ マレーシア・プレミアリーグ 所属ディビジョン スーパーリーグ12位(降格)(2015) ホームスタジアム マイリス・プルバンダラン・スラヤン・スタジアム 収容人数

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グルジアの夢=民主グルジア – Wikipedia

グルジアの夢=民主グルジア(グルジア語: ქართული ოცნება – დემოკრატიული საქართველო カルトゥリ・オツネバ=デモクラティウリ・サカルトヴェロ)はジョージア国(グルジア)の政党。2012年4月19日、実業家出身の政治家ビジナ・イヴァニシヴィリにより設立された[3]。国名変更からジョージアの夢=民主ジョージアともされる。 政党連合「グルジアの夢」の中心政党として南オセチア紛争を引き起こしたミヘイル・サアカシュヴィリの統一国民運動を破り、長らく与党の地位にあった同党を追い落として政権交代を達成した。 党は大衆運動「グルジアの夢」から発展したもので、2011年12月にグルジア出身の実業家ビジナ・イヴァニシヴィリによって立ち上げられた。党の結成協議時、イヴァニシヴィリはまだ正式な市民権を取得していなかった為、弁護士のマナナ・コバキーゼ(英語版)が暫定的に、グルジアの夢=民主グルジアの名目上の党首に選ばれた。また、政治家のソザル・スバリ(英語版)、元外交官のテド・ジャパリッゼ(英語版)、チェス王者ズラブ・アズマパラシヴィリ(英語版)、安全保障問題評論家イラクリ・セシチシヴィリ、作家のグラム・オディシャリア、そして有名なサッカー選手カハ・カラーゼ等、党には複数の著名人が参加していた[4][5]。 2012年の議会選挙において、党は統一国民運動 (UMN) の支配に挑戦し、これに成功した[4]。この選挙では他の野党6党との連合により、54.97%の票、85議席を獲得して勝利した[3]。与党UMNは40.34%であった。ミヘイル・サアカシュヴィリ大統領は党の敗北を認め、新政府を組織するための憲法上の手続きを支持することを誓約した[6]。 2013年11月24日、創設者イヴァニシヴィリが政界より勇退した事から内務大臣イラクリ・ガリバシヴィリが第2代党首に選ばれ、首相職も継承した。若干30歳で大臣を務める若手政治家の抜擢であったが、国民からの人気に乏しく党勢が低迷した為、副首相ギオルギ・クヴィリカシヴィリが第3代党首となった。 2016年10月8日、ミヘイル・サアカシュヴィリ元大統領のウクライナへの亡命と国籍取得後に行われた総選挙でグルジアの夢=民主グルジアはさらに30議席を獲得し、全体議席の約8割に達する115議席となった[7]。2020年10月31日の総選挙では比例代表で61議席を獲得し勝利宣言を行ったが野党勢力は選挙不正があったと主張し[8][9]、11月21日の第2回目投票をボイコットしたこともあり残りの17議席をすべて獲得、全体でも合計90議席を獲得した[10]。 政党連合「グルジアの夢」[編集] イヴァニシヴィリのグルジアの夢=民主グルジアを中心としたグルジアの夢連合は、初めは彩なイデオロギー志向を持つ6つの政党により構成された[11][12]。この中には、市場主義的かつ親西側的なリベラルや、外国人嫌悪を掲げる過激なナショナリスト、2003年バラ革命で失脚したかつてのシェワルナゼ政権の代表者たちを含んでいた[13]。連合の名前は、イヴァニシヴィリの息子、ベラのラップソングに感化されたものである[14][15]。 構成政党(2016年)[編集] 記事に合わせ、党名の「Georgia」はグルジアとして記載する。 かつての構成政党[編集] 選挙結果[編集]

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八戸聖ウルスラ学院中学校・高等学校 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “八戸聖ウルスラ学院中学校・高等学校” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年2月) 八戸聖ウルスラ学院中学校・高等学校(はちのへせいウルスラがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、青森県八戸市田面木字上野平にある私立中学校・高等学校。カトリック系ミッションスクールである。 宮城県仙台市に所在する聖ウルスラ学院英智小学校・中学校・高等学校は本校の姉妹校である。 なお、宮崎県延岡市の学校法人聖心ウルスラ学園とは直接の関係はない。 以前は小学校が併設されていたが、生徒数の減少を理由に廃止された。 設置学科・コース[編集] 普通科 総合選択コース 私大・短大系 情報ビジネス系 福祉・保育系 特別進学コース

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アリン – Wikipedia

アリン(아린、Arin、1999年6月18日 – )は、韓国の歌手、モデル、女優[1]。WMエンターテインメント所属の女性アイドルグループ、OH MY GIRL、OH MY GIRL BANHANAのメンバーでサブボーカル、リードダンサー担当[2]。 2015年4月20日、OH MY GIRLのメンバーとしてデビュー[3][4] 。同年4月21日にSBS MTVのThe Showでデビューシングルを初めて披露[5][6]。2018年4月2日、OH MY GIRLのサブユニット「OH MY GIRL BANHANA」のメンバーとしてデビュー[7]。2018年12月28日、「あなたのキス」をRed Velvetのイェリ、LOVELYZのケイ、GFRIENDのユジュ、TWICEのダヒョン、(G)I-DLEのウギと一緒に披露。2019年3月29日、The

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浅岡肇 – Wikipedia

日本初となる自社製トゥールビヨンムーブメントを搭載した腕時計(2009年発表) 浅岡 肇(あさおか はじめ、1965年 – )は、日本の時計師、プロダクトデザイナー。独立時計師アカデミー(AHCI)所属。東京時計精密株式会社創業者。東京藝術大学デザイン科卒業。神奈川県茅ヶ崎市出身[1]。 高級腕時計を革新的な方法で作る日本人初の独立時計師で、日本初となる自社製トゥールビヨンムーブメントを搭載した腕時計を発表した[2][3][4]。 浅岡自身の名を関したHAJIME ASAOKA Tokyo Japanの時計は、浅岡自身のアトリエでデザインからほぼすべての部品製造、組み立てにいたるすべての工程が行われる。年間製造本数は数本であり、顧客には王室や世界的な時計コレクターが名を連ねる[5][6][7]。 1990年、東京藝術大学デザイン科卒業。その後、プロダクトデザイナーとしてキャリアを歩んだ[8]。1990年代半ばに腕時計セレクトショップTiCTACの依頼によりModernicaとコラボレーションした時計をデザイン。浅岡初の腕時計のデザインであった[9]。また、グラフィックデザイナーとしても活動し、ダンヒルなど多くの大手ブランドの広告のグラフィックを手がけた[10]。 2005年、独学で時計製造を学んだ後、時計製作を開始[11]。 2009年、日本で初めて自社製ムーブメントにトゥールビヨンを搭載した腕時計を発表(画像参照)、雑誌BRUTUSに掲載される[12]。 2011年、2009年に発表したトゥールビヨン腕時計を改良し、時針・分針をセンターに配置したTourbillon#1を銀座・和光で発売(当時税込価格682万5000円[13][14])。このTourbillon#1の一般発売を以て、日本初の独立時計師として活動を開始した[15]。 2012年、村上隆とのコラボレーションモデルである Hajime Asaoka × Takashi

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