Month: March 2021

東郡 – Wikipedia

東郡(とう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から隋代にかけて、現在の河南省濮陽市および山東省聊城市にまたがる地域に設置された。 紀元前242年(始皇5年)、秦の将軍蒙驁が魏を攻撃し、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽など20城を攻め落とすと、東郡が置かれた[1]。 紀元前196年(高帝11年)、皇子劉恢が彭越に代わって梁王に封じられ、梁国に東郡が加えられた[2]。紀元前181年(呂后7年)、梁王劉恢が趙王となり、呂王呂産が梁王となった。紀元前180年(呂后8年)、呂産が殺害されると、梁国は廃止されて、再び東郡が置かれた[3]。東郡は兗州に属し、濮陽・観・聊城・頓丘・発干・范・茌平・東武陽・博平・黎・清・東阿・離狐・臨邑・利苗・須昌・寿良・楽昌・陽平・白馬・南燕・廩丘の22県を管轄した。前漢末に40万1297戸、165万9028人があった[4]。 王莽のとき、治亭郡と改称された[5]。 後漢が建てられると、東郡の称にもどされた。東郡は濮陽・燕・白馬・頓丘・東阿・東武陽・范・臨邑・博平・聊城・発干・楽平・陽平・衛国・穀城の15県を管轄した[6]。 277年(西晋の咸寧3年)、皇子司馬允が濮陽王に封じられ、濮陽国が立てられた[7]。濮陽国は濮陽・廩丘・白馬・鄄城の4県を管轄した[8]。 南朝宋のとき、南徐州に属する南濮陽郡があり、廩丘・楡次の2県を管轄した[9]。 北魏のとき、東郡が再び置かれた。東郡は兗州に属し、滑台城に郡治が置かれ、東燕・平昌・白馬・涼城・酸棗・長垣・長楽の7県を管轄した[10]。 589年(隋の開皇9年)、杞州が置かれた。596年(開皇16年)、滑州と改称された。606年(大業2年)、兗州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、兗州は東郡と改称された。東郡は白馬・霊昌・衛南・濮陽・封丘・匡城・胙城・韋城・離狐の9県を管轄した[11]。 618年(武徳元年)、唐が郡制を廃止すると、東郡は滑州と改称され、東郡の呼称は姿を消した[12]。 ^ 『史記』秦始皇本紀 ^ 『漢書』高帝紀下 ^ 『漢書』高后紀 ^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、293-294頁。 ^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、293頁。

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加藤七郎 – Wikipedia

加藤七郎 加藤 七郎(かとう しちろう、1889年(明治22年)9月11日[1] – 1944年(昭和19年)8月23日[2][3])は、昭和時代戦前の政治家。実業家。衆議院議員。静岡県会議長。 静岡県、のちの浜松市上池川町(現浜松市中区布橋一丁目)出身[1][4]。旧制浜松中学校中退[4]。 浜松市会議員、静岡県会議員、同副議長、同議長[4]、浜松市茶業組合長、静岡県茶業組合連合常議員、全国茶業組合中央会議員、日本紅茶、東亜製茶各監査役、東海精機重工業社長、遠州鉱物工業組合理事長を歴任した[2]。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選[2]。在任中に死去した[2][3]。 [脚注の使い方] ^ a b 衆議院事務局 1942, 16頁. ^ a b c

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リンパ球減少症 – Wikipedia

リンパ球減少症[1](リンパきゅうげんしょうしょう、Lymphocytopenia,Lymphopenia)[2]は、血液中のリンパ球が異常に少なくなっている状態を指す。リンパ球は、免疫系で重要な働きをする白血球の一種である。反対に、リンパ球が過剰な状態を指すのがリンパ球増多症である。 リンパ球減少症は、すべての種類の血球の総数が減少している汎血球減少症の一部として存在する場合がある。 リンパ球減少症は、減少しているリンパ球の種類により、さらに分類される場合がある。3種類のリンパ球が全て減少している場合には、特に限定せずリンパ球減少症と呼称される。 T細胞減少症 T細胞数が過少であるが、他のリンパ球数は正常である。T細胞の欠乏は細胞性免疫不全症状(英語版)として現れる。特発性CD4+リンパ球減少症(英語版)(ICL)は、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)感染(AIDSを含む)や化学療法等の既知の免疫不全状態が無いにも拘わらず、CD4+T細胞数が300/μL以下となる非常に稀な疾患群である[3]。 B細胞減少症 B細胞数が過少であるが、他のリンパ球数は正常である。B細胞減少症は、体液性免疫不全(英語版)の原因となり、その症状が現れる。これは、通常、免疫系を抑制する薬剤によって惹起される[要出典]。 NK細胞減少症 ナチュラルキラー細胞数が過少であるが、他のリンパ球数は正常である。これは非常に稀なケースである[要出典]。 原発性[編集] 原発性(遺伝性)リンパ球減少症の原因疾患として、下記のものが挙げられる[1]。 続発性[編集] 続発性(一過性)リンパ球減少症の最も一般的な原因は、風邪等の直近の感染症である。 一過性リンパ球減少症は、コルチコステロイドの使用、HIV等のウイルス、細菌、真菌の感染、栄養失調、全身性エリテマトーデス[4]、強いストレス[5]、激しいまたは長時間の運動(コルチゾールの放出による)[6]、関節リウマチ、サルコイドーシス[7]、多発性硬化症[8]、および医原病(他の医療行為によって引き起こされる)と関連している。細胞障害性薬剤や免疫抑制剤などを用いた多くの種類の化学療法によっても頻繁に見られる。また、白血病や進行ホジキン病など[9][10]、骨髄に転移した悪性腫瘍でもリンパ球減少症が発生する。 他の原因としては、インフルエンザAウイルスH1N1亜型(およびその他のインフルエンザAウイルス亜型)の感染があり、単球症(英語版)を伴う事が多い[11]。H1N1は、スペイン風邪、2009年のインフルエンザパンデミック、2016年のブラジルにおけるインフルエンザの流行の原因となった[12]。重症急性呼吸器症候群(SARS)もまた、リンパ球減少症の原因となった[13]。更に、2020年1月29日までに中国の武漢でCOVID-19が確認された患者の内、83.2%が入院時にリンパ球減少症であった[14]。 原発事故や医療用の全身照射(英語版)等の大量の放射線は、リンパ球減少症を引き起こす可能性がある。 リンパ球減少症は、全血球算定(英語版)でリンパ球数が年齢に応じた基準値よりも低い(例えば、成人では1.0×109/L以下)場合に診断される[要出典]。 原発性[編集] 続発性[編集] 基礎疾患の治療

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橋本夢道 – Wikipedia

橋本 夢道(はしもと むどう、1903年(明治36年)4月11日 – 1974年(昭和49年)10月9日)は、徳島県出身の俳人。本名橋本淳一。自由律の俳人として知られ、プロレタリア俳句運動の中心人物の一人として活動した。 徳島県名東郡北井上村(現在の板野郡藍住町)の小作農に生まれ、小塚尋常小学校[1]卒業後、藍玉問屋の奥村商店に丁稚として奉公。14歳のとき深川の東京支店に抜擢される。このころ市立図書館に通い、休日を利用して書物を濫読、『萬朝報』に載っていた荻原井泉水の句に惹かれ句作を試みる[2]。1922年より自由律俳句誌「層雲」に投句、井泉水に師事する[3]。 1929年、俳句を通じて知った荻田静子と結婚。しかし奥村商店は自由恋愛を禁じており、またこのころ栗林一石路らとともにプロレタリア俳句運動に関わったこともあって商店から解雇される[2]。1931年、俳人横山林二の世話で銀座の輸入雑貨店「ウィステリア」に就職。1937年、銀座の甘味処「月ヶ瀬」創業に参画、戦後は同役員となる[4]。同年、一石路、小沢武二らとともにプロレタリア俳句誌「旗」を創刊。その後「プロレタリア俳句」「La俳句」「俳句の友」と改題するが発禁となる。1934年、一石路らとともに「俳句生活」を創刊、編集を担当。1941年、新興俳句弾圧事件に連座、2年の間拘留される。戦後は1946年の新俳句人連盟創立に参加。1957年には石原沙人らと「秋刀魚」を創刊し40号まで出した。1974年、71歳で没。没後、1975年に句集『無類の妻』により第7回多喜二・百合子賞を受賞した[3]。 代表作に、獄中の句「うごけば、寒い」、終戦時の句「無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」などがあり、反骨精神に根差しながらもユーモアや明るさを持つ句を詠んだ。俳句について「農民が生産しながら歌っている稗搗歌、米搗歌、俚謡、俗曲のように共同に生きつらぬく文学でありたい」(『無礼なる妻』あとがき)と述べ、庶民詩としての俳句を志した[3]。1981年、徳島県鳴門市に「母の渦子の渦鳴門故郷の渦」句碑が建てられた。 次女、浩佳の夫は元朝日新聞記者でジャーナリストの殿岡駿星[5]。夢道ゆかりの月島に「橋本夢道資料室」および「夢道サロン」を開いている。また洋画家で徳島県文化賞を受賞した佐野比呂志は甥にあたる(夢道の姉の長男)[6]。 あんみつの発案[編集] 夢道はあんみつの発案者であるとも云われている。1937年、甘味処「月ヶ瀬」創業に参画した夢道は、同じ銀座の汁粉店「若松」の人気に着目し、大きなガラスの器に盛ったあんみつを呼び物として考案し好評を得たという。「みつまめをギリシャの神は知らざりき」「君知るやこのみつまめの伝説を」といった句を店のコピーとして作り、電通に依頼してポスターにし電車の中吊り広告に用いた[2][4]。 ^ 殿岡駿星 『橋本夢道物語』 勝どき書房、2010年、16頁。 ^ a b c 福田和也

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ふれあいスタジオ お隣さんお向かいさん – Wikipedia

『ふれあいスタジオ お隣さんお向かいさん』(ふれあいスタジオおとなりさんおむかいさん)は、東海ラジオ放送で放送されていた平日午前帯のラジオワイド番組。 放送時間は月曜日〜金曜日 11:00〜12:00。1977年4月4日開始、1982年4月2日終了。 それまで1時間以上のワイド番組が無かった平日午前11時台に新設された、1時間のワイド番組。家庭の主婦向けの番組で[1]、「都市化が進んで主婦たちが否応なく孤独感を強いられる昨今、そのような現実に着目し、電波を通じで近所付き合いの良さを復活させる」というのがこの番組の狙いで[2]、リスナーが電話出演するコーナーを設けたのは「家の中に閉じこもりがちで、他人とのふれあいを忘れがちな主婦たちに電話口に出てもらって喋るチャンスを作る」というのが番組の要であると当時の編成部は話している[2]。 1982年4月改編を以って本番組のパーソナリティの伊藤春雄が朝ワイド『さん!さん!モーニング』のパーソナリティに異動することになったため終了。そして後番組がそれまで『さん!さん!モーニング』のパーソナリティだった天野鎮雄の出演の『アマチンのラジオにおまかせ』となったため結果的に枠を交換する形となり、アシスタントの前川徳子はその『アマチン』のアシスタントとして引き続きこの時間に出演した。 主なコーナー[編集] ちびっこ発言 かあちゃんどうする 街中で子供の転身爛漫な発言を収録して放送し、その反応をその子供の母親に電話できいていた[1]。この企画は日本民間放送連盟賞の娯楽番組部門にて優秀賞を受賞した[1]。 私の結婚記念日[1] リスナー電話出演のコーナー 我が家の自慢[2] 家の記念日[2] 家の宿六(やどろく)[2] ミュージックプレゼント[3] ポケット歌謡[3] みんなでコーラス[3] ^ a

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渋谷区立幡代小学校 – Wikipedia

渋谷区立幡代小学校(しぶやくりつ はたしろ しょうがっこう)は、東京都渋谷区初台一丁目にある公立小学校。初台一丁目の住宅地に所在する。 学校は京王新線と都営地下鉄新宿線の初台駅の西方向に程近く位置し、初台駅南口(甲州街道の南側)から西に進むと、学校の校庭と校舎が目に入る。南、東、西側の三方は公道に面した住宅街で、正門は南側に通用門は北側にある。 経緯 幡代小学校は、渋谷区内の小学校でも3番目に歴史が古く、1882年(明治15年)代々木村幡ヶ谷村連合村立幡代小学校として設立された。創設期の水上忠蔵は忘れられない存在で、水上忠蔵没後の1912年(明治45年)渋谷区幡ヶ谷一丁目にある清岸寺境内に「水上忠蔵」追慕碑が建立された。戦後の学制改革によって、東京都渋谷区幡代小学校に校名変更した。2000年(平成12年)に地方自治法改正により東京都の冠を取り、渋谷区立幡代小学校と校名変更した。 幡代の由来は、1889年(明治22年)に、代々木と幡ヶ谷の二つの村が合併して「代々幡村」が出来、人口が少ない幡ヶ谷には、人口が多い代々木に対して何かと不満があった。もめることもあり、代々木の住人の源内さんという人が、抜き身の槍を持ち馬に乗って幡ヶ谷に押しかけたなどの話もあった。結局、住人たちの話し合いで、村の名前では代々木の地名を先にして「代々幡」としたが、小学校の名前では幡ヶ谷を先にして「幡代」にした。 年表[1] 1882年(明治15年)2月2日 – 代々木村幡ヶ谷村連合村立幡代小学校として設立された。 1900年(明治33年) – 小学校令が公布され、尋常小学校は4年制に、高等小学校は2年制になった。 1923年(大正9年) – 幡代尋常高等小学校の分校として笹塚に、幡代尋常高等小学校笹塚分教場が設立された。 1941年(昭和16年) – 国民学校令施行により東京府東京市幡代国民学校となる。

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ミスター・ロンリー (映画) – Wikipedia

ミスター・ロンリー Mister Lonely 監督 ハーモニー・コリン 脚本 ハーモニー・コリンアヴィ・コーリン 製作 ナージャ・ロメイン 製作総指揮 ピーター・ワトソン 出演者 ディエゴ・ルナサマンサ・モートン 音楽 ジェイソン・スペースマンサン・シティ・ガールズ 撮影 マルセル・ザイスキンド 編集 ポール・ザッカーヴァルディス・オスカードゥティル 配給

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デレック・ハーパー – Wikipedia

デレック・リカルド・ハーパー (Derek Ricardo Harper, 1961年10月13日 – ) は、アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手。ジョージア州エルバートン出身。イリノイ大学を経てNBAでポイントガードとしてダラス・マーベリックス、ニューヨーク・ニックス、オーランド・マジック、ロサンゼルス・レイカーズなどで合計16シーズンをプレイした。 大学時代[編集] 中学、高校課程をフロリダ州のウェストパームビーチで終え、イリノイ大学のバスケットボールチームで3シーズンをプレイ。1982-1983年のシーズン中は1試合平均15.4ポイントをマークし、1983年にはオールビッグ・テン・カンファレンスの1軍メンバーに選ばれた。同年オールアメリカンチームの2軍メンバーに選抜される。1981年と1982年にもオールビッグ・テン・カンファレンスの名誉選手に選ばれている。大学時代は1試合平均4.7アシストをマークし、1981-1982年のシーズンにはビッグ・テン・カンファレンストップのアシスト数をマークした。 1983年のNBAドラフトでダラス・マーベリックスに11位指名を受け、プロ最初の10シーズンはマーベリックスで過ごした。この間1試合平均15ポイントと6.1アシストを記録。1984年にはプレーオフの対レーカーズ戦で試合終了間際に同点なのを忘れ、ドリブルで時間稼ぎをしたため試合を延長戦へと引き延ばしてしまった。しかし2年後の1986年のプレーオフでは対レイカーズ戦では試合を決めるショットを放ちリベンジを果たした。1993-1994年のシーズン途中にニューヨーク・ニックスへトレードされ、負傷したドック・リバースの穴を埋めた。結局マーベリックスはその年13勝69敗と大きく負け越し、ニックスは1994年のリーグ制覇まで後1勝まで攻め寄った。 その後ハーパーは1996年までニックスでプレイし、翌年再びマーベリックスへと移籍した。1997年からはオーランド・マジックとロサンゼルス・レイカーズで1シーズンずつ過ごした後1999年に引退。実はレイカーズはハーパーをデトロイト・ピストンズへとトレードしていたのだが、ハーパーはピストンズのユニフォームを着る事無く引退を選択した。 NBAの公式戦1199試合出場の記録は歴代21位である(2004年-2005年シーズン現在)。また引退時には歴代11位のスティール数と17位のアシスト数の記録を保持していた。このような成績を残しながらNBAオールスターゲームの出場メンバーに一度も選ばれなかった事から「オールスター未出場最高の選手」という苦々しい称号を持つ。 現在は家族と共にダラスに住み、ダラス・マーベリックスの地域放送の解説者として活躍中。また2005年よりローカル放送のニュース番組のスポーツキャスターとしても働いている。 2018年1月7日、背番号「12」がマーベリックスの永久欠番となる[1]。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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宮入恭平 – Wikipedia

宮入 恭平(みやいり きょうへい、1968年2月7日[1] – )は、日本の社会学者[2]。おもにポピュラー音楽を中心に、カルチュラル・スタディーズの観点からポピュラー文化研究を行なっている[2]。 中学1年生からギターを始め、やがてミュージシャンを目指すようになる[3]。 1994年、東京経済大学経営学部卒業[1]。後に30歳になってからハワイ大学へ留学し[3]、2003年に卒業[1]。帰国後、東京経済大学大学院に学び、修士課程を修了し[3]、2008年に博士課程を単位取得退学した[1]。 研究者を目指して以降も音楽活動を続けており[4]、商品化された音源はないが、ライブハウスへの出演を継続的に行なっている[5]。 おもな著書[編集] 単著[編集] ライブハウス文化論、青弓社(青弓社ライブラリー)、2008年 J-POP文化論、彩流社(フィギュール彩)、2015年 ライブカルチャーの教科書:音楽から読み解く現代社会、2019年 共著[編集] (佐藤生実との共著)ライブシーンよ、どこへいく:ライブカルチャーとポピュラー音楽、青弓社、2011年 編著[編集] (渡辺潤との共編著)「文化系」学生のレポート・卒論術、青弓社、2013年 発表会文化論:アマチュアの表現活動を問う、青弓社(青弓社ライブラリー)、2015年 訳書[編集] ^

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