Month: August 2021

アクト・オン! – Wikipedia

『アクト・オン!』(ACT ON!)は、神矢みのるによる日本の漫画。『月刊少年ブラッド』(ソフトバンククリエイティブ)において2006年7月号から11月号まで連載し、同誌の休刊後にウェブコミック配信サイト『FlexComixブラッド』で2007年1月号から8月号まで連載された。高等学校のクラブ活動を通じて、ロボット競技で活躍する主人公たちを描いた作品である。 漫画の題材としてメカニックやホビーを得意とする神矢が『プラレス3四郎』『FM戦士SUMOキッズ』『プラレスラーVAN』に続いて描いた第4弾ともいうべき作品である[1]。架空のロボット競技を題材にしていた『プラレス3四郎』『プラレスラーVAN』などに対し、本作は現実のロボット競技「ROBO-ONE」など、実在するロボット技術がそのままを描かれている[2]。これは神矢がROBO-ONE大会にゲストとして招かれ、同大会に魅せられたことがきっかけである[3]。 主軸の学園漫画と並行し、ROBO-ONEや実在のロボットの情報を読者を伝える狙いもあり、作中で登場する二足歩行ロボット「アクティオン」には、第11回ROBO-ONE優勝機である「ヨコヅナグレート不知火二代目」のデザインが取り入れられている[4]。また製作にはROBO-ONE委員会、近藤科学、ハイテックマルチプレックスジャパン、ベストテクノロジーといったロボット関連の団体・企業が協力しており、各企業の「KHR-1」「ROBONOVA-I」「バイオロイド」といった実在のロボットも作中に登場している。しかし物語進行の都合上、実在のロボットは主役を引き立てるための敵役や悪役として描かざるを得ず、その点は神矢が単行本最終巻において謝罪の1文を載せている[5]。 また、前作『プラレスラーVAN』が兵器産業などの登場により物語の展開が肥大したことに対し、本作はあくまで学校のクラブ活動の物語に徹しており、より現実に近い物語であることも特徴である[1][2]。 掲載メディアの都合などの理由によりクライマックス時点で打ち切りとなったが[1]、作中に登場する架空のロボット競技大会「ニソコン」(全国二足歩行ロボット競技会)は、連載終了後に東京理科大学サイエンスフェア学生企画によるイベント「みらい研究室~科学へのトビラ~」で開催された二足歩行ロボット競技会「ニソコン」のモチーフにもなった。作中での「ニソコン」の会場が「みらい研究室」の存在する日本科学未来館に酷似していることと、主人公たちの通う学校の名称が「神楽坂学園」、東京理科大学の所在地が神楽坂であることが理由であり、作中の競技内容の一部が現実の競技内容にも取り入れられている[6]。 あらすじ[編集] 神楽坂学園高等学校・機械工学部(機工部)は、かつてはロボット開発の名門であった。しかし現在は過去の栄光を失って無名校に成り下がり、校内は不良のたまり場、機工部もはみ出し者の集団と化していた。しかし新1年生の樹 香苗の入部を機に、常に前向きな香苗、独力でロボット「アクティオン」を製作する目方 直起らに触発され、部員たちは次第に一丸となってゆく。 紆余曲折を経て、機工部は全国の名門校の集うロボット競技大会「ニソコン」に出場。1回戦、2回戦を突破し、準決勝へ進出する。しかし強豪校との戦いにより、アクティオンのダメージは甚大。しかも次の試合相手は前大会優勝校、機械工学の名門中の名門、白銀台学院。誰の目にも神楽坂の敗北は明らかだが、機工部は夢を捨てることなく試合に挑む。準決勝の試合開始をもって物語は終る。 登場人物[編集] 樹 香苗(いつき かな) 神楽坂校の新1年生。神楽坂が名門だった頃に機工部で活躍した兄に憧れ、その夢を引き継ぐべく機工部に入部する。常に夢を失わない性格で、その情熱は次第に周囲に影響を与えてゆく。 駆動 亜久斗(くどう あくと) 機工部部員。「ミスター体育会系」と仇名されるほどの運動能力の持ち主で、あまり細かいことを考えずに動物的な勘のみで行動する。暇潰しと称して居候同然に機工部に籍を置いていたが、香苗や直起の影響で次第にロボット競技の魅力にのめり込んでゆく。

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無効 – Wikipedia

無効(むこう)とは、法律行為や意思表示があったものの、その有効要件を満たさないため最初から効果を生じない状態をいう。 無効な法律行為とは、法律行為の外形はあるものの、そこから法律的な効果が生じないものをいう[1]。 取消しとの差異[編集] 無効と類似の概念としてよく比較されるのが取消しであり、以下の点で無効と異なるとされる[2]。 意思表示の必要性・主張適格者 無効は当然に効力を生じないのに対し、取消しは効力が一応生じている法律行為につき法律で認められた取消権者が取消すことによって行為時に遡って効力を失うことになる点で異なる。無効は原則として誰からでも誰に対しても主張できる[1]。 時間の経過 無効は原則として何時でも主張できる[1]。無効な法律行為は時間が経過しても法律上の効果を生じることはないが、取り消すことができる法律行為は取消権が時効期間や除斥期間にかかって消滅すると取り消すことができなくなる。 追認による効果 無効と取消しは追認による効果も異なる。無効な行為は追認によってもその効力を生じないが、当事者がその行為の無効であることを知って追認をしたときには新たな行為をしたものとみなされて追認時から効力を生じることになる(民法119条)。これに対して、取り消すことができる行為は、法律で認められた追認権者が追認したときは法律行為の時から確定的に有効なものであったことになり以後は取り消すことができなくなる(民法122条)。 特定の法律行為を無効にするか取り消すことができるとするかは立法政策の問題である[3]。通常、無効とされるのは、客観的・社会的理由から個人の意思を問題にすることなく、その法律行為の内容を裁判所によって実現することを否定すべき場合である[3]。 一個の法律行為が無効の要件も取消しの要件も満たすときは、原則としてどちらを主張することもできる[3]。 このほか無効と類似の概念として、撤回、解除、解約などがあるが、それぞれの概念については各項目を参照。 無効の人的範囲の制限[編集] 無効を第三者に対しても対抗できるかどうかは無効行為の態様ごとに異なり、取引の安全を害することがあっても無効の趣旨を貫徹すべきか、第三者の取引の安全の保護を優先して第三者に対しては無効を対抗できないとするかによる[4]。 無効の主張権者の制限[編集] ローマ法では無効は裁判で宣言すれば足りると考えられていた[5]。そのためローマ法やフランス法には取消しの概念が生じず、誰からでも主張できる絶対的無効と相手方や第三者からは主張できない相対的無効が存在した[5]。一方、ドイツでは形成権の概念が発見され、絶対的無効は無効、相対的無効は取消しに整理された[5]。日本では明治時代の立法過誤により錯誤を無効と規定したため無効と取消しを区別する立法でありながら相対的無効も存在する状態になっていたが、2017年の民法改正で錯誤が取消しに改正されたことで解消された(ただし意思無能力無効については論点が残されている)[5]。#絶対的無効・相対的無効・取消的無効を参照。 一部無効[編集] 無効の効果に関する理論の一つ。法律行為の内容の一部に無効原因がある時に法律行為全体が無効になるか、無効原因がある部分のみ無効になるかが問題になる。 日本法における無効[編集]

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アオミオカタニシ – Wikipedia

アオミオカタニシ(青身陸田螺、学名:Leptopoma nitidum)は、ヤマタニシ科に分類される陸生貝類の一種。 南西諸島(奄美群島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島)及び台湾、パプアニューギニアの各地に分布する。しかし奄美群島(奄美大島、徳之島、与論島)では絶滅したと考えられている[1]。 生息環境・生態[編集] 主に石灰岩地域の森林内に生息するが、公園や農地周辺等の人の生活の近い場所でも確認することができる。樹上性の巻貝で、樹木の幹肌や葉の裏、ゲットウやクワズイモ等の草本に付着している。冬季には林床のリター(落葉・落枝)内で生活する。餌は樹皮につくコケなど。 その名の通り透き通るような緑色(青色)をしており、他の陸生貝類(カタツムリ)と見分けがつきやすい。この緑色は殻ではなく本体(外套膜)の色で、殻は白色を呈した半透明である[2]。そのため死殻(死骸)の色は乳白色であるので注意が必要である。 殻口部。蓋がついている。 雌雄異体で、大きさは殻高15mm前後、殻径15mm前後。殻は薄く、形状は丸みを帯びた円錐形で殻頂は尖る。殻口は円形で、縁は外に反り返り、蓋を持つ。この蓋を持つことも一般的なカタツムリ類との大きな違いである。この蓋はカタツムリの中身が出た際には後方に開く。また、カタツムリの多くが触角を2対もち、その先端に眼をつけるのに対し、本種は触角が1対で、眼もその基部につける[3]。 人間との関係[編集] 沖縄方言ではオールーチンナンというが、オールーは青い、チンナンはカタツムリという意味である[4]。 美しい色をしているため、野生個体が採集され、ペットとして飼育されることがある。 保全状態評価[編集] 準絶滅危惧(NT)(環境省レッドリスト) – 2007年公表の新レッドリストから掲載されている[5]。 鹿児島県版レッドデータブック – 絶滅 沖縄県ではよく観察することができるが、鹿児島県では近年沖縄県からの偶発的な持ち込みによる個体しか確認されておらず絶滅したと考えられている[1]。 また、沖縄県でも公園など人の生活場所に近い生息地では下草の除去などにより土壌環境の悪化、人による採集、アフリカマイマイ等の移入種との競合やコウガイビルの仲間等の外来捕食者の影響が懸念されている。

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ハンス=テオドール・シュミット – Wikipedia

ハンス=テオドール・シュミット(1947年4月) ハンス・ヘルマン・テオドール・シュミット(Hans Hermann Theodor Schmidt, 1899年12月25日 – 1951年7月7日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦中、親衛隊(SS)の隊員としてブーヘンヴァルト強制収容所の所長副官などを務めた。最終階級は親衛隊大尉。 1899年、ヘクスターに生を受ける。1917年から1918年まで第一次世界大戦に従軍し、敗戦後はフライコールに参加した。1919年から1920年まで共和国軍で兵役に付く。除隊後は商業について学び、オランダやベルギーで働いた[1]。 1932年、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチ党)に入党すると共に親衛隊(SS)に入隊した。その後、彼は武装親衛隊に所属を移し、1940年からはヒンツァートSS特別収容所、1941年11月以降はブーヘンヴァルト強制収容所に勤務する。1942年4月、看守大隊(Wachbataillon)の副官に就任。同年9月、カール・オットー・コッホの後任としてヘルマン・ピスター(ドイツ語版)が新所長に就任した際に所長副官に抜擢され、1945年4月の収容所解放まで務めた。ピスターはシュミットがヒンツァート収容所に勤務していた頃の上官であった。1944年、親衛隊大尉に昇進。1945年5月、シュミットは他の収容所職員らと共にアメリカ陸軍によって逮捕された。 敗戦後、シュミットは1947年4月11日にダッハウ裁判(ドイツ語版)の一部として開かれたブーヘンヴァルト主要裁判(ドイツ語版)の中で裁かれた。シュミット以外の被告には、フルダ=ヴェラ親衛隊及び警察高級指導者だったヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモント、ブーヘンヴァルト収容所長ヘルマン・ピスターなどがいた。所長副官の職にあったシュミットは1942年から1945年までの期間における収容所の運営および看守の指揮に責任があったとされ、1947年8月14日には絞首刑による死刑判決が下された。 1951年1月31日、死刑反対運動の高まりを受けてシュミットへの死刑判決もアメリカ欧州軍総司令官トーマス・T・ハンディ(英語版)将軍による審査を受けた。この運動によって11人の死刑囚が刑務所での服役に減刑されていた。しかし、ハンディは声明の中でシュミットについて所長ピスターの不在時には収容所における事実上の最高指揮官を務めるほどの上級幹部であり、また収容所における暴力に積極的に関与していたのだと述べた。さらにハンディは首撃ち室(Genickschussanlage, 身体計測室に偽装された銃殺刑の執行室)における殺人について次のように述べた。 ハンス・シュミットは確かにブーヘンヴァルトで3年間ほど副官を務めていた。[…]その間、彼は全ての囚人の処刑に関する責任があった。コマンド99(ドイツ語版)として知られる特殊部隊を使い、数百人もの戦争捕虜を殺害した。それらの処刑は厩舎を病院薬局のように改装した部屋で行われた。犠牲者らは何の疑いもなく壁際の身長測定器に立たされたが、壁に隠されていた空気銃で頭を撃ちぬかれたのだ。時には1度に30人以上がこの方法で殺害された。また、その他にもシュミットは収容所の火葬場で、囚人を壁のフックに吊るしてゆっくりと絞殺したこともある。私はこの男に慈悲を与えるだけの理由を見つけられない[2]。 1951年6月7日、ハンス=テオドール・シュミットはランツベルク戦犯収容所にて絞首刑に処された。 ^ Harry Stein, Gedenkstätte

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月刊コミックバンチ – Wikipedia

『月刊コミックバンチ』(げっかんコミックバンチ)は、新潮社が編集・発行している日本の月刊漫画雑誌。2011年1月21日創刊。コアミックスの編集、新潮社の発行で2010年8月まで発行されていた『週刊コミックバンチ』の後継雑誌のひとつとして創刊し、2018年に『月刊コミック@バンチ』から『月刊コミックバンチ』に変更。本誌の創刊に際しては、外部の編集プロダクションでなく新潮社に編集部が置かれている。漫画とは別に1ページ、作者のエッセイや後書きなどを自由に描ける「MY PAGE」が必ず1作品ごとにある。単行本は「コミックバンチ」時代から引き続き、BUNCH COMICSレーベルで発行される。 増刊として、『ゴーゴーバンチ』が2013年10月に創刊。季刊として発行される。 2018年3月20日発売の2018年5月号で『月刊コミック@バンチ』が最終号となり[2]、同年4月20日発売の6月号から『月刊コミックバンチ』として新創刊[3]。 くらげバンチ[編集] 2013年から「シビれるマンガ大集合!」と題し、ウェブコミックサイト『くらげバンチ』を立ち上げ。毎週金曜更新、完全無料。 マスコットデザインは鈴木志保。主に新人育成を目的とし、「ゆっくりリラックス、でもけっこう刺激的」[4]である意図から、『くらげバンチ』と命名された。 人気作はBUNCH COMICSより順次単行本化もされている。 連載作品[編集] 月刊コミックバンチ[編集] 2022年5月号(2022年3月19日発売)現在。 Artiste(さもえど太郎)、2016年11月号 – 応天の門(灰原薬)2013年12月号 – オオカミ部下くんとヒツジ上司さん(清水しの)、2020年11月号 – 怪獣自衛隊(井上淳哉)、2020年7月号

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慈照寺 (甲斐市) – Wikipedia

慈照寺(じしょうじ)は、山梨県甲斐市に所在する寺院。曹洞宗で山号は有富山、本尊は釈迦如来。持照寺、別称に西山禅林(西山慈照寺)。 立地と地理的・歴史的沿革[編集] 所在する甲斐市竜王は市中部に位置する。巨摩郡西山郷に比定される。境内は赤坂台地南面に立地して富士山と対面し、山号はこのことに因む。赤坂台には古墳時代の群集墳である赤坂台古墳群が分布している。中世には甲斐市竜王を中心に篠原荘が存在し、西山郷のほかに輿石郷が所在した。 慈照寺の創建[編集] 正確な創建年代は不明。『甲斐国社記・寺記』に拠れば室町時代の延徳元年(1489年)の創建と伝わるが、これは曹洞宗寺院に改修された時期で、これ以前から前身の真言宗寺院・法城寺が存在していたという[1]。 慶応4年の由緒書に拠れば、延徳元年に真翁宗見が入山し、曹洞宗寺院に改宗したという。『広厳大通禅師譫語集』『昭和再版妙亀譫語集』によれば、真翁宗見は武蔵国足立郡の岡部氏の一族であるという[2]。慈照寺開山となる前は武蔵国小山田郷(東京都町田市)の大泉寺で修行し、甲斐の竜華院で桂節宗昌について修行していたという[3]。 いっぽう、『寺記』や慶応4年(1868年)由緒書に拠れば、開祖は甲斐武田氏家臣である「諸角昌清(豊後守)」[4]とされる。「昌清」は『甲斐国志』では実名を「虎定」としているが双方とも誤りであることが指摘され、確実な実名は「虎光」とされる[3]。また、姓についても「両角(室住)」が確実とされる[3]。『寺記』によれば虎光は武田信昌の六男とされ真翁宗見の実弟とする説があるが[4]、誤伝である可能性が指摘される[2]。 『寺記』によれば虎光は永禄4年(1561年)の川中島の戦いで戦死したと伝わる。 慈照寺には正保4年(1647年)鋳造の梵鐘が伝来している。この梵鐘銘文には「甲州巨摩郡志麻荘西山郷龍王村」と記される。「志麻荘(志摩荘)」は12世紀後半までに松尾社領として成立した荘園で、『甲斐国志』によれば荘域は甲府市山宮町・甲斐市牛久付近を北限に赤坂台地東麓の甲斐市中下条・大下条・名取、長塚、甲府市長松寺町、金竹町一帯を含む。 永禄8年(1565年)までには信玄堤の築造が行われ、龍王河原宿の成立に伴い慈照寺の所在する「西山郷」は消滅する。このため梵鐘銘文の「志麻荘」は寺の本来の所属を示し、寺の所在する「西山郷」は志摩荘西限に位置していると考えられている[5]。 近世初頭の慈照寺[編集] 天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による武田領侵攻で、武田氏は滅亡する。同年4月の信長禁制(慈照寺文書)では、織田氏によって特権を保障されている[6]。同年6月2日には本能寺の変により信長が横死し、甲斐国は「天正壬午の乱」を経て徳川家康が領する。慈照寺文書には天正11年(1583年)4月の徳川家康寺領安堵状写が伝存しており、寺領は縮小したものの徳川氏による庇護を得ている[6]。また、天正13年(1585年)・天正16年(1588年)の徳川家奉行人棟役免許手形も残されており、この段階では徳川氏が武田氏の施政方針を継承し、門前百姓の棟別役免除が行われていたことが確認される[7]。 その後、天正17年(1589年)に徳川氏は奉行・伊奈忠次(熊蔵)に命じて甲斐国内の寺社領縮小を断行し、伊奈忠次判物(慈照寺文書)では嶋下方・志田(甲斐市志田)などの寺領が除かれ堀之内分のみが寺領として安堵され、以来これが固定された[8]。天正18年(1590年)には徳川家康が関東へ移封され、甲斐は羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長の豊臣系大名が配置される。豊臣系大名時代には甲斐国内の検地が行われ、慈照寺文書では文禄3年の浅野忠吉(「忠吉」は長政の初名、右近大輔)寺領安堵状が残されており、寺領が若干増加している[9]。 江戸時代の慈照寺[編集] 慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が再び甲斐を領する。徳川氏は甲斐国内の総検地を実施し、慶長8年(1603年)の徳川家奉行人棟役免許手形では天正17年時と同規模の寺領が最終的に確定され、寺領石高8石余・境内免除地1523坪が決定された[9]。歴代将軍の朱印状11点は明治維新期に鎮撫府へ提出され、寺には預状11通が現存しているほか、朱印状を保管した御朱印箱も残されている[10]。 また、慶長17年(1612年)には甲斐国内の曹洞宗寺院の寺格が定められ、広厳院と慈照寺末寺の大泉寺(甲府市古府中)が僧録司に定められ、常法幢本寺格として広厳院・大泉寺のほか永昌院・龍華院、南明寺・興因寺・伝嗣院の七ヶ寺が定められている[11]。慈照寺はこれに含まれておらず、同時期には寺勢が衰えていたとも考えられている[12]。 慶長16年の徳川氏代官寺地免許手形に拠れば、慶長10年に竜王村から分村して成立した竜王新町の検地に際して「末寺信慶寺分」が記載されている[13]。信慶寺は慈照寺七世・良室宗慶が隠居所として開いた寺であったが、檀家が少なく明治10年に慈照寺と合寺したという[13]。なお、竜王新町では甲州街道(信州往還)沿いで、慶長11年(1606年)あるいは元和元年(1615年)に浄土宗寺院の正念寺が創建されている。 江戸時代には十世・量岫長応が中興祖師と位置づけられている。量岫長応は寛永9年(1632年)に入寺し、法堂再建・山門新築、過去帳の整備、末寺の開山などを行った[14]。量岫長応の諸事業は十一世・界翁関刹、十二世・徳翁長喜にも継承され、徳翁長喜は五百羅漢像の勧進造立、涅槃図、歴代祖師像の修理など、什物の充実を行っている[15]。十世から十二世までの諸事業には甲府勤番士で竜王村在住の有力檀家・渡辺善兵衛が尽力し、渡辺家は中興開山と位置づけられており、境内には同家の墓所も存在する[16]。 近現代の慈照寺[編集] 慶応4年(1868年)3月、明治新政府は神仏分離令を発し、廃仏毀釈運動が起こる。慈照寺境内にも鎮守である富士浅間神社・稲荷社・諏訪社などが合祀されていたが、特に大きな影響は見られない[17]。幕末期の住職は二十八世・大翁遊仙で、慶応4年7月には新政府に由緒書を提出している[18]。明治初期には山梨県内の曹洞宗寺院においても末寺の統合・檀家の吸収が行われ、寺院数は減少する[18]。明治28年の由緒書に拠れば、明治10年に慈照寺は内務省に対して規模縮小願を地出し、一部の堂宇・回廊を破却する[18]。

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地球軌道ランデブー – Wikipedia

地球軌道ランデブー(ちきゅうきどうランデブー、英語: Earth orbit rendezvous (EOR))は、月への往復の人間の飛行を行うための方法であり、宇宙ランデブーを使用して、低軌道で月に向けてのビークルのコンポーネントを組み立て、場合によっては燃料を供給する[1]。1960年代と1970年代のNASAのアポロ計画の月軌道ランデブー(LOR)を支持して検討されたが、最終的に却下された。主な理由は、LORが地球軌道から海への着水への帰還と、月面へのソフトランディングの両方を行うのに十分な大きさの宇宙船を必要としないためである[2]。30年後、プログラムが2010年10月のキャンセル(英語版)されるまで、コンステレーション計画に使用される予定であった[3]。 ジェミニとアジェナ標的機[編集] アジェナ標的機(ATV)は、NASAジェミニ計画で地球軌道ランデブーをテストするために使用された。1965年に、ジェミニ6号とジェミニ7号は、軌道上でランデブーしたが、アジェナは打上げは失敗した。1966年3月16日に、ジェミニ8号は、アジェナとのドッキングに成功。アジェナ-ジェミニランデブーは、ドッキングされた軌道操作(ジェミニ10号とジェミニ11号)、放棄されたジェミニ8号ATV(ジェミニ10号)の検査、宇宙遊泳(ジェミニ12号)など、後のジェミニ計画の打ち上げでも他の目的を達成した[4]。 アポロ月面着陸ミッションを地球軌道上で組み立てるのに必要な10回のC-1打ち上げを示す1961年のスケッチ。 アポロのEOR提案は、サターンVの半分のサイズの一連の小さなロケットを使用して、宇宙船のさまざまなコンポーネントを配置し、地球の周りの軌道で月に行き、軌道に組み立てることで構成されていた。アジェナ標的機とのドッキングを含むジェミニ計画の実験は、このプログラムの実現可能性(英語版)をテストするために部分的に設計された。 最終的に、NASAはアポロ計画に月軌道ランデブーを採用した。サターンVは、アポロコマンドと月モジュールの両方を同時に低軌道に持ち上げ、その後、サターンVの第3ステージが再び発射され(弾道飛行)、両方の宇宙船は月に送られる[5]。 コンステレーション[編集] このモードは、アレスVロケットの低軌道に打ち上げられる地球離脱ステージ(EDS)およびアルタイル(LSAM)としてコンステレーション計画のために復活した。EDSとアレスは、別々に発射されたオリオン(CEV)によって達成され、低軌道に打ち上ると、3つは月に移動し、オリオン/アルタイルの組み合わせで月軌道ランデブー飛行パターンで飛行を行う。 ^ “LOW EARTH ORBIT RENDEZVOUS STRATEGY FOR LUNAR

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