Month: January 2020

藤本タツキ – Wikipedia

藤本 タツキ(ふじもと タツキ、1992年〈平成4年〉10月10日[4] – )は、日本の漫画家。秋田県にかほ市出身。秋田県立仁賀保高等学校、東北芸術工科大学美術科洋画コース卒[5]。 幼少期からよく絵を描いていた[6]。高校1~2年頃よりウェブコミック投稿サイト「新都社」に長門は俺名義でウェブコミックをアップしていた。後に石田スイやONEから単行本の帯に寄稿されたのは、同じ新都社出身の縁であると藤本は考えている[7]。美大を目指していたが、地元には美大の予備校が無かったので、高齢者が通う絵画教室の隅で油絵を書いていた。AO入試で油絵学科に進学したが、油絵を描いてても絵が上手くならないと、図書館でひたすらクロッキーを描いた[6]。 大学卒業後は暫く職が無く、『ジャンプSQ』(集英社)に作品を投稿していた[6]。新人漫画家になりたてのころは思いついたものを即ネームにして、多いときは毎日1本ずつ担当編集者に送っていたという[8]。読切『恋は盲目』で2013年11月期(審査員:許斐剛)クラウン新人漫画賞佳作を受賞し、2014年に『ジャンプSQ.19』(集英社)Vol.13に掲載される[9]。『SQ』で『ファイアパンチ』の連載企画が落ちると、担当編集者・林士平が『少年ジャンプ+』(集英社)に企画を持ち込み、連載が決定した。これにともない藤本も東京都へ移り住む[6]。 2016年 – 2018年にかけて『少年ジャンプ+』で『ファイアパンチ』を連載すると衝撃的な展開などでインターネットを中心に注目を集めた[9][10]。 『少年ジャンプ+』の人気作家が連載終了後に『週刊少年ジャンプ』(集英社)へ移籍する流れが見られる中[11]、藤本も『週刊少年ジャンプ』2019年1号より『チェンソーマン』の連載を開始した[2]。 2021年10月4日、読み切り作品を収録した初の短編集『17-21』を発売。同年11月4日には短編集第2弾となる『22-26』が発売[12]。 宝島社が年1回発行している漫画紹介ムック『このマンガがすごい!』では2021(2020年発表)で『チェンソーマン』が、2022(2021年発表)で読み切り作品『ルックバック』がオトコ編1位を獲得している。オトコ編における同一作者の2年連続受賞は藤本が初めてである[13]。 子どものころはジャンプ作品は読まず、父親が買ってきた『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)作品の『グラップラー刃牙』(板垣恵介)・『浦安鉄筋家族』(浜岡賢次)や『月刊少年ジャンプ』(集英社)・『ジャンプSQ』作品の『CLAYMORE』(八木教広)・『ドラゴンドライブ』(佐倉ケンイチ)・『自由人HERO』(柴田亜美)[14]などを読んでいた。『ジャンプSQ』に作品を投稿したのもそれが理由だったという[7]。 中学生の頃から、脳内で雑誌を作り、面白くない作品を打ち切って定期的に入れ替えつつ、自分で考えた漫画を約7本同時に連載していた。連載が最終回を迎えたときに、自分で感動して涙が出そうになったが、授業中なのでこらえたこともあったという[8]。新人漫画家時代にも依然として約5本の作品を脳内で連載しており、中には単行本15巻ほどの分量で完結した作品もあった[15]。 自分の作品は「世間受けしないぞ」と意識しているが、それが逆に受けているのかもしれないとしている。また、自分の作品は「ひと通り漫画読んで飽きた人が読んでいる気がする」と語っている(2018年時点)[6]。 読切のネームを描くときは怒りを原動力にしている。ただし冷静になると「俺に学がないのがダメなんだな」と思ってしまうので、ネームはすぐに担当編集者に送るようにしている[6]。 好きで何回も繰り返し見ているアニメ作品として『涼宮ハルヒの憂鬱』、『氷菓』、『おじゃる丸』、『日常』、『かみちゅ!』、『クレヨンしんちゃん』、ピクサー作品、ディズニー作品、ジブリ作品を挙げている[16]。 クエンティン・タランティーノ監督作品など[10]、様々な映画作品から受けた影響について公言している[10]。好きなアクション映画は『ザ・レイド』や北野武監督作品[7]、韓国映画『チェイサー』の影響を受けている[6]。また、白石晃士監督のホラー作品『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』シリーズから受けた影響についても公言している[7]。

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マタ・ハリ – Wikipedia

この項目では、オランダ人の踊り子について説明しています。日本のアミューズメント施設の運営企業については「マタハリー」を、その他の用法については「マタ・ハリ (曖昧さ回避)」をご覧ください。 マタ・ハリ(Mata Hari)ことマルハレータ・ヘールトロイダ・ゼレ(Margaretha Geertruida Zelle、1876年8月7日 – 1917年10月15日)は、フランスのパリを中心に活躍したオランダのダンサー、ストリッパー。 マタ・ハリは元はダンサーとしての芸名だったが、第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランス軍に捕らえられ、有罪判決を受けて処刑された[1]ことで、後世に女スパイの代名詞的存在となった[2]。ただし、彼女のスパイとしての活動については不明確な部分が多い。 オランダフリースラント州・レーワルデンにて、アムステルダム生まれのアーダム・ゼレ(1840年10月2日 – 1910年3月10日)と、フリースラント出身の母アンチェ・ファン・デル・ムーレンの間にて、4人兄弟の長女として生まれる[3]。後世に知られる東洋風の芸名である「マタ・ハリ」とは裏腹に、マレー系などの東洋系の血を引く祖先はいないとされている。父が石油産業への投資の成功や人気帽子店を経営していたことにより、一家は贅沢な暮らしができるほど裕福であった[4]。唯一の娘ということもありマルハレータは父から溺愛され、何不自由無い生活を送り、13歳まで上級学校に通えた[5]。 しかし、マルハレータの父が石油株投資に失敗すると事態は一変する。損失を借金で補填すると、その借金は雪だるま式に増えていき、1889年ついに破産。その後両親は離婚し、マルハレータを含め子供達はそれぞれ別の親戚の元へ引き取られる。母は1891年に亡くなった[4][5]。父はアムステルダムにて、1893年2月9日にスサンナ・カタリーナ(Susanna Catharina ten Hoove, 1844年3月11日 – 1913年12月1日)と再婚した。 一家は離散し、マルハレータは自分の後見人であるHeer

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水落露石 – Wikipedia

水落 露石(みずおち ろせき、1872年4月18日(明治5年3月11日) – 1919年(大正8年)4月10日)は、大阪府出身の日本の俳人。本名は義一、のちに庄兵衛。別号に聴蛙亭。 目次 1 経歴 2 句集・著作 3 脚注 3.1 出典 4 参考文献 5 関連項目 6 外部リンク

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井上正康 – Wikipedia

井上 正康(いのうえ まさやす、1945年 – )は、日本の医学者、大阪市立大学医学部名誉教授。 1945年(昭和20年)、広島県生まれ。1970年(昭和45年)、岡山大学医学部卒業。1974年(昭和49年)岡山大学大学院医学研究科修了(病理学・医学博士)[1]。大学院生時代には妹尾左知丸教授よりワクチンの研究をすすめられている。病原体の抗原構造を生きた状態に保ちながら死菌化することで安全なワクチンを生成できるものと考え、大阪大学医学部に内地留学し、研究に取り組んでいる[2]。また、大学院の最後にインド・ペルシャ湾航路のの船医を勤めることで、世界の7割以上の人間が感染症でなくなっていることを知り、感染症学に興味を抱くようになった[3]。 卒業後、「分子病理学」という分子レベルから病気のメカニズムや原因を調べる総合ジャンルを提唱し、その研究のため、熊本大学で生化学から、有機合成、分子生物学まですべて履修し直している。のち渡米し、肝臓病学と栄養学を学び[3]、アルベルト・アインシュタイン医学校客員準教授、タフツ大学医学部の客員教授(分子生理学)、帰国して熊本大学医学部助教授(生化学)を歴任。1992年(平成4年)には大阪市立大学医学部分子病態学教室教授に就任している[1]。2011年(平成23年)3月に定年退職し、翌月に東日本大震災の被災地を訪問し、感染症対策を行っている[4]。同年、大阪市立大学医学部名誉教授兼特任教授(脳科学)、宮城大学理事・副学長を兼任。2013年(平成25年)健康科学研究所所長(産業医学)、大人の学校・現代適塾塾長に就任。さらに、2015年(平成27年)、株式会社キリン堂ホールディングズ取締役、2019年(平成29年)、腸内フローラ移植臨床研究会評議員FMTクリニック院長を兼任している[1]。 欧米で多く死者を出した新型コロナウイルスが、日本では少ない死者数で収まっている理由として、現在、新型コロナの変異株が6000種以上誕生しており、通常はウイルスは変異を繰り返しながら弱毒化して人類との共存を模索しているからであると述べている(例外としてSARS・MERSをあげている)。政府や専門家は世界と日本での発症事例を細かく観察しつつ、危険になったら素早い対応ができる科学的体制を築き上げることが重要だとし、国民もインフォデミックによる過剰対応せずに、正しく恐れることが大切だと述べている[5]。 ニュース速報における感染者数とはPCR検査における陽性者数にほかならないと述べている。PCR検査で判明することはウイルスの遺伝子(RNA)の断片があるかないかであって、あれば陽性、なければ陰性となるだけで、断片が発見されたとしてもウイルスの量や感染力の有無(死骸であるかどうか)は不明である。ウイルスは体内や細胞内に侵入して初めて感染者になる。ただ、PCR検査自体は実験室で適切に活用すれば有力であり、潜伏期間の短いインフルエンザやSARS・MERSなどの強毒性ウイルスに対しては有効的なツールであるが、新型コロナのように潜伏期間が4日から2週間のような長い期間に及ぶウイルスには、検査を行うと感度が低すぎて偽陰性が大量に出てしまうため、あまり役立たない、新型コロナウイルスの感染者数の8割が無症状なのは感染力は強いが、毒性は低いため、混乱の源となるPCR検査を拡大使用するのは無意味であると主張している[6]。 「人類初の遺伝子ワクチン」はコロナへの恐怖感から長期的な影響を検証しないまま接種が始まり、有効性と安全性が2023年5月まで不明な第4相臨床試験中の実験試藥として人体実験をしている段階であると主張し、ウイルスの変異株の誕生の繰り返しにより、現在のワクチンでは新たな変異株を制圧できぬとしている。また、コロナワクチンについて、以下の観点から接種すべきか否かを問うている。 新型コロナの本質は血栓症である。 スパイクタンパク質が血栓を作る毒物である(Circulation Reseaarch & 米国ソーク研究所)。 ワクチン接種後の早期死亡の多数は、血栓や血管病態、循環器系障害である。 mRNAワクチンは肝臓や脾臓、骨髄に加えて、副腎や卵巣などにも集積する(ファイザー社資料)。 抗スパイク抗体の血中半減期は約36日で寿命が短いため、予防効果は数ヶ月で終わり、再感染予防効果は極めて低い。 DNAワクチンは体内で半永久的に作用し続ける。 以上の観点から、多くの医師がこれらの事実を知らず、接種の判断は個人の責任としているの欺瞞であり、短期間に重症副反応や死者が劇的に増加している薬を、リスクが皆無の子供や生殖世代に接種することの問題性を訴え、接種後にひどい自覚症状があったら、ただちに肺のCT画像と血中のDダイマーを検査依頼し、不幸にも死亡した場合には、家族が「病理解剖」を依頼することを勧めている[2][7]。 今回の新型コロナに対してはマスクの効果は限定的であり、ポストコロナ時代には「ステイ・クローズ」をし、場の空気に支配された人間関係を回復し、日本社会の再構築を望んでいる[5]。

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伊号第五百六潜水艦 – Wikipedia

伊号第五百六潜水艦(いごうだいごひゃくろくせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦。 もともとはドイツ海軍のIXD1型UボートU-195である。就役は1942年9月5日で、大西洋において哨戒任務を行い、商船2隻、計14,391トンを撃沈し、商船1隻、6,797トンに損傷を与えた[1]。1944年10月からは東南アジア及び太平洋で大日本帝国海軍とともに任務をこなすようになったが、1945年5月8日にドイツが連合国に降伏したため帝国海軍が接収し、第102工作部で整備され7月15日に艦籍に入って伊号第五百六潜水艦となり、第二南遣艦隊に編入された。 艦長以下日本人乗員は潜水艦要員の不足により配置されず、ドイツ船員が当たった。入籍が戦争末期であったために活躍することなくスラバヤで終戦を迎える。9月、インドネシア人民治安軍に鹵獲されたが、すぐにイギリス軍により奪還された。11月30日、伊506は除籍された。1946年(昭和21年)2月16日、 南緯06度50分 東経114度42分 / 南緯6.833度 東経114.700度 / -6.833; 114.700のバリ海でイギリス軍により海没処分された[2]。 ^ U-195 at uboat.net 2010年10月20日閲覧。 ^ 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年、366頁。 表

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みずほリース – Wikipedia

みずほリース株式会社(英文名称:Mizuho Leasing Company, Limited)は、東京都港区に本社を置く業界大手総合リース会社で、みずほフィナンシャルグループの持分法適用関連会社。 丸紅と提携。 1969年(昭和44年)12月 – 日本興業銀行が中心となり株式会社パシフィックリースを設立。 1981年(昭和56年)11月 – 興銀リース株式会社に商号変更。 2004年(平成16年)10月 – 東証2部に上場。 2005年(平成17年)9月 – 東証1部に指定替え。 2015年(平成27年) 4月 –

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アシュバートン男爵 – Wikipedia

アシュバートン男爵(第1期)ダニング家の紋章 アシュバートン男爵(英: Baron Ashburton)は、イギリスの男爵位。 2度創設されており、1782年にジョン・ダニングがグレートブリテン貴族として叙されたのが最初の創設である。ダニング家が絶えた後の1835年に銀行家財閥ベアリング家のアレクサンダー・ベアリングが連合王国貴族として叙されたのが2度目の創設である。以降その男系男子によって現在まで世襲されており、2020年現在の保有者は第8代アシュバートン男爵マーク・ベアリングである。 ダニング家[編集] ホイッグ党所属の庶民院議員ジョン・ダニング(1731–1783)が1782年3月27日にグレートブリテン貴族「カウンティ・オブ・デヴォンにおけるアシュバートンのアシュバートン男爵(Baron Ashburton of Ashburton in the county of Devon)」に叙されたのが最初の創設である。彼は王権拡大を狙うジョージ3世に抵抗し、1763年にウィルクス運動を支持したり、1780年4月に「国王の影響力が増大してきた。現在も増大中であり、削減されなければならない」という決議案を出したことなどで知られる[1]。 初代男爵の死後、生存している唯一の息子であるリチャード・ダニング(英語版)(1782–1823)が第2代男爵位を継承したが、彼は子供を残さなかったため、彼の死とともに第1期アシュバートン男爵位は廃絶した[2]。 ベアリング家[編集] 第2期は、初代アシュバートン男爵(第1期)ジョン・ダニングの妻エリザベスの甥にあたるアレクサンダー・ベアリング(1774–1848)が1835年4月10日に連合王国貴族「カウンティ・オブ・デヴォンにおけるアシュバートンのアシュバートン男爵(Baron Ashburton, of

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ネックレス多項式 – Wikipedia

組合せ数学において、ネックレス多項式 (necklace polynomial) あるいは(モロー (Moreau) の)ネックレス数え上げ関数 (necklace-counting function) は、以下の式が成り立つような α の多項式 M (α, n) である。 αn=∑d∣ndM(α,d).{displaystyle alpha ^{n}=sum _{d,mid ,n}d,M(alpha

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欧州統合 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “欧州統合” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年7月) 欧州統合(おうしゅうとうごう)とは、ヨーロッパの全部または一部の国による政治的、法的、経済的、あるいは社会的、文化的な統合の経緯。現代において欧州統合はおもに欧州連合や欧州評議会を通じて進められている。 ヨーロッパ諸国の統合構想を最初に示したのはリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーであり、1923年には Pan-Europa と題した声明文を起草している[1]。クーデンホーフ=カレルギーの構想はアリスティード・ブリアンに影響を与え、1929年9月8日に国際連盟でヨーロッパの統合に賛成する演説を行い、1930年には当時のフランス政府に対して Memorandum sur l’organisation d’un régime d’Union Fédérale

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ザルブ – Wikipedia

この項目では、中世の都市について説明しています。ペルシア音楽の打楽器については「トンバク」をご覧ください。 ザルブの位置(現トラフテムィリウ) ザルブ(ロシア語: Заруб)は12 – 13世紀のキエフ・ルーシの都市である。都市は現存せず、帝政ロシア期のキエフ県カネフ郡のザルビンツィ村[1]、現在のウクライナ・チェルカースィ州カニウ地区(ru)のトラフテムィリウ村(ru)内に位置していたとされている。 年代記上の初出は1096年の項であり、ドニエプル川右岸に建設されたこと、またその周囲はザルブ浅瀬と呼ばれたことが記されている[2]。また、1096年(トルベジュ川の戦い)、1146年、1151年、1156年に、ザルブにおけるルーシの公(クニャージ)の軍事行動が記されている[3]。後に、モンゴルのルーシ侵攻によって破壊された。 『原初年代記』を元に編纂された『ラヴレンチー年代記』、『イパーチー年代記』は、ザルブがキエフの南、またヴィテチェフ(現ウクライナ・ヴィタチウ)の南にあったことを記している。 ザルブの位置について、帝政ロシア期には以下のような見解が述べられた[1]。歴史学者ニコライ・カラムジンは、16世紀の公式地図[注 1]を元に、ザルブは帝政ロシア期のキエフ県(ru)カネフ郡のザルビンツィ村であると指摘した。それに対し、帝政ロシア期の文献学者イズマイル・スレズネフスキー(ru)は、ザルブはトルベジュ川の河口にあったと持論を述べた。一方、帝政ロシア期の歴史学者ニコライ・ザクレフスキー(ru)は、キエフから60ベルスタの位置の、スモレンスク県(ru)のザルブ(カラムジンはここを根拠なくザルビノと改名していた)が、キエフ・ルーシ期の都市ザルブであると述べた。 以降の時代では、19世紀後半の考古学者ニコライ・ベリャシェフスキー(ru)、P.レベジンチェフらが、ニコライ・カラムジンの述べたザルビンツィをかつてのザルブとする説を支持した。1948年 – 1949年にM.カルゲルが、ザルビンツィ付近で11 – 12世紀の2つの石造りの教会施設の跡地、フレスコ画、タイルによるモザイク画を発見した[3]。 ザルビンツィ村は改称され、現在の行政区画でいえばトラフテムィリウ村(ru)に含まれている。なお、この地域からは、早期鉄器時代の遺跡も発見されており、ザルビンツィ文化と名づけられている[4]。 注釈 出典 ^ a

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