Month: April 2020

伊佐二久 – Wikipedia

伊佐 二久(いさ つぐひさ、1922年(大正11年)9月20日[1] – )は、日本の陸軍軍人、医師、医学者、著作家。太平洋戦争に従軍した後に医師となり、国際協力事業団にも参加するなどして各国の医療事情を調査した。筆名としては伊佐 三休(いさ さんきゅう)の名も用いている[1]。 1922年、福岡県小倉市に生まれる[1][2]。幼くして朝鮮の龍山に渡り、6歳まで同地で過ごした[1]。福岡県甘木小学校、久留米市金丸小学校を経た後、中学明善校(福岡県立明善高等学校の前身の1つ)1年を修了する[1]。1936年(昭和11年)に広島陸軍幼年学校へ入学(第40期)、1938年(昭和13年)には陸軍予科士官学校へと進み(第55期)、翌年には歩兵第26聯隊へ士官候補生隊付として配属され、満州国・チチハル駐屯並びにソ満国境のハンダガイの守備に従事した[1][3]。1941年(昭和16年)に陸軍士官学校を卒業する[1][3]。 卒業後は歩兵第26聯隊で勤務し、小隊長、聯隊旗手、機関銃中隊長を務めた[1][3]。アッツ島の戦いでは守備隊救出の為に輸送船に乗り込んだが、海軍の意を受けた大本営により救出命令は撤回された[4]。小樽市の港湾警備を経た後、1943年(昭和18年)から翌年にかけて北千島幌筵島守備に従事した[1][4]。1944年(昭和19年)、陸軍予科士官学校区聯長に転属し陸軍大尉となったが、翌年終戦を迎え予備役編入となった[1]。 戦後は日雇い労働者や会社員を務めた後、1951年(昭和26年)に熊本大学(熊大)医学部へと入学する[1][3]。同大学を1957年(昭和32年)に卒業し、翌1958年(昭和33年)から熊本大学医学部附属病院(熊大病院)の第2外科へ入局、国立療養所豊福園、沖縄大浜病院、熊本逓信病院等に勤務した[1]。1964年(昭和39年)には熊本大学助手となり、文部教官を経て医学博士を取得、熊大病院では中央手術部へと移り麻酔業務を受け持つ麻酔科へ勤務した[1][5]。翌1965年(昭和40年)には熊大助教授、熊大病院中央手術部副部長へと昇進している[1]。 1969年(昭和44年)、文部省在外研究員としてアメリカへ国費留学し翌年に帰国する[1]。1973年(昭和48年)に熊大病院中央手術部部長となり、1975年(昭和50年)には健康保険八代総合病院院長に就任した[1]。1983年(昭和58年)には毎年開催されていた海外医療事情視察団の団長に就任し、欧米各国の医療事情を視察してその報告書の編集に関わった[1][6]。1988年(昭和63年)から1991年(平成3年)にかけて国際協力事業団のカイロ大学小児病院プロジェクトのチームリーダーとしてエジプトに在住した[1][7]。 帰国後の1991年から1996年(平成8年)にかけて川浦町立病院長、1996年から1998年(平成10年)にかけて茜会昭和病院顧問を務めた。また、この期間には中国へ10回の出張を重ね、1996年にインドネシアへ緊急病院を視察、パレスチナのガザ地区へは医療協力として赴き、マケドニアの医療調査も行っている[1]。その後も海外での調査活動を続け、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、イギリス、スイスの老體施設の視察なども行った[1]。1998年からは熊本リハビリテーション病院で顧問兼麻酔科部長に奉職、2017年(平成29年)の95歳まで現役の医師であった[8]。過去の自身の戦争体験や医療体験及び見聞を基として、著作の刊行や新聞などへの寄稿、講演を行って多方面に亘り活動している[1][2][3][9][10]。 人物・逸話[編集] 熊本大学には乗馬クラブが有り代々麻酔科の教員がその部長を務めていた。伊佐もまた教職時代に同部長を務めている[5]。 2002年に発刊された著作『ウソのようなホントの話 : 追想の昭和初期史から現代医療事情まで』には、参議院議員も務めた医師の大浜方栄による推薦文が掲載されている[11]。 クライン孝子とはヴオイガート立子を介して多年に亘り親交があるという[2]。 2017年に発刊された『麻酔科医が解決した殺人事件』は伊佐の医療体験を基とした小説で、95才にして初めての推理小説作家となった[8]。 主な著作[編集] 伊佐二久名義[編集]

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豊和M55G – Wikipedia

豊和M55G(ほうわM55G)とは、豊和工業が開発した民生用ガスライフルである。ホーワ55Gの通称でも知られる。 豊和工業では第二次世界大戦後、自衛隊に供給する自動小銃やアサルトライフルの生産や、民間向けのボルトアクションライフルの生産を手掛けていたが、1970年代以降は銃身後退式半自動散弾銃を生産していたフジ精機を傘下に収め、ガス圧式半自動散弾銃の供給を開始するなど、日本国内の狩猟銃市場に販売を拡大していた。 M55Gはそうした時代背景の中、1975年(昭和50年)にCo2ガスを利用する連発式空気銃として登場した。当時の日本の空気銃市場では、戦前よりドイツ・ダイアナ[要曖昧さ回避]社から輸入されていた中折れ単発スプリング式空気銃や、日本国内の競合社である兵林館やシャープ・ライフル(後のシャープ・チバ)などが手掛ける後装単発ポンプ式空気銃などが販売されていたが、射撃前に中折れによるコッキングや、レバーを用いた複数回のポンピングが必須で構造上連発機構の内蔵も難しいといった欠点が存在した。M55Gは1本で15発程度発射可能な二酸化炭素ボンベを先台内部に最大2本内蔵する構造となっており、機関部後部より遊戯銃と類似したスプリング式の管状弾倉により最大5発のペレット (空気銃)(英語版)を装填することで、ポンピングなどの予備作業無しに複数発の弾丸を素早く連続で発射可能であった。口径は4.5mmまたは5.5mmが選択できた。豊和はM55Gの為に専用Co2ガスボンベを石井銃砲店を通じて販売し、日本国内に空気銃用ペレットを供給していたライオン印空気銃弾と共同で、M55G専用ペレットであるライオン印・ジェット弾を開発した[1]。 次弾の装填方式はボルトアクションを採用し、同時期にシャープ・ライフル社が開発したポンプアクション方式のCO2ガスライフルであるシャープ・GR-75や、茨城県の銃器メーカー、太洋銃機が開発した太洋銃機・グランドスラム[2]等と共に、極めて画期的な方式の空気銃として日本の空気銃市場にて三つ巴の競争を繰り広げた。しかし、発射には必ずCO2ガスボンベが必要でランニングコストが高価になりやすく、後に登場したプリチャージ式空気銃と比較して破壊力や飛距離で劣るようになった事、環境中に二酸化炭素を放出すること、日本の狩猟シーズンである冬季には気化熱によりボンベが冷えてしまいガス圧力(威力・飛距離)が低下しやすい事などが嫌忌され、2016年現在ではM55Gの新銃の販売は終了している。 M55Gは同時期に販売されていた民間向け大口径装薬ライフルの豊和ゴールデンベアや豊和M300等と同じく、チークピース付きのクルミ材銃床が装備され、細部の意匠や仕上げも前述の装薬ライフルを兄弟分とするように、当時の空気銃としては過剰品質気味なものが奢られていた為、現在でもその外見を愛好し所持を続ける者も少なくないとされる。専用ガスボンベなどの補修部品の販売も豊和の国内代理店である石井銃砲店を通じて継続されているが、社外のカスタム部品としてプリチャージ式(PCP方式)に改造するキットも販売されている。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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クラウチ・エンドの怪 – Wikipedia

『クラウチ・エンドの怪』(クラウチ・エンドのかい、原題:英: Crouch End)は、アメリカ合衆国のホラー小説家スティーヴン・キングによる短編ホラー小説。クトゥルフ神話の1つ。 クラウチ・エンドの街は、ロンドン北に実在しており、その街を舞台としている。 作者夫妻がクラウチ・エンド在住の友人作家ピーター・ストラウブ宅に招待されたときに道に迷った経験が、本作のインスピレーションとなった。 アーカム・ハウス社からの依頼に応える形で執筆され[1]、1980年の単行本に掲載された。この単行本は、日本では1983年に国書刊行会から『真ク・リトル・リトル神話大系6vol.1』『同6vol.2』として邦訳刊行された。1993年に短編集に収録され、2000年に邦訳版『ナイトメアズ&ドリームスケープス2 ヘッド・ダウン』が文藝春秋から刊行された。キングが再録に際して加筆訂正を加えているため、翻訳した国書初期版と文春改稿版では細部が異なる。 実写ドラマ化され、『スティーヴン・キング 8つの悪夢』の第2話に位置づけられている。 東雅夫は「モダン・ホラーの大御所キングが、アーカム・ハウスからの依頼に応えて、独自のスタイルで神話大系に本格挑戦した意欲作。異界との境界線にある街の不気味な雰囲気が、他所者の視点から見事に描きだされている」と解説している[1]。 キングはラヴクラフトから影響を受けたことを幾度となく公言しているが、明確なクトゥルフ神話を書いたことはほとんどなく、過去最も意識して書いたであろう作品と分析されている[2]。 作品内容[編集] 1974年8月19日、ロンドン片隅のクラウチ・エンドの派出所(警察署)[注 1]に、一人の女性が駆け込んできたシーンから始まる。ドリス・フリーマンが自分たちの身に起こった出来事をファーナム巡査たちに証言し、ファーナムとドリス2人の視点が交互に切り替わるという構成をとっている。 フリーマン夫妻は、クラウチ・エンドに住む友人宅へと向かうが、道に迷ってしまう。民家の芝生に空いた穴から呻き声が聞こえ、夫は助けに向かうが、穴の中で何者かと争い、恐慌をきたして飛び出してくる。さまよう2人を、恐怖がじわじわと取り囲み、ついに夫は姿を消す。取り残された妻が見たものは、地の底から蠢き出る触手と、闇の中の巨眼。ヴェター巡査は、クラウチ・エンドを、異次元との防壁が薄い場所と説く。クラウチ・エンド派出所の奥のファイル(未処理の事件簿)には、常軌を逸した信用しがたい話の記録が幾つも保管されている。 あらすじA[編集] アメリカの弁護士フリーマン夫妻は、休暇旅行でロンドンを訪れる。夫妻は、クラウチ・エンド地区に住む友人から夕食に招待され、子供2人をホテルのベビーシッターに預けて出かける。しかしロニーは、タクシーに乗ろうとしたとき、友人の住所を記したメモを紛失してしまったことに気づく。すると運転手は、まずクラウチ・エンドまで乗せて行き、電話ボックスで住所を調べて、そこから目的地に向かえばよいと助言する。車中でドリスは新聞販売店前の「地底の惨劇 六十名遭難」[注 2][注 3]という妙な記載の看板に目をとられ、言いようのない不安に駆られる。降ろしてもらい、電話ボックスで住所を調べ終わると、タクシーがいなくなっていた。近くには片眼の猫と2人の子供たち。ロニーは子供たちに尋ねるも、「くたばっちまえ、アメ公!」と突き放される。2人は徒歩で友人宅に向かうことにする。 ヒルフィールド・アヴェニューの家並みを通る途中で、生け垣から低い呻き声が聞こえ、2人は足を止める。民家の庭で、芝生の一部が欠けて露出し「どこか人の形に似た」穴から、煙が渦巻くように立ち上っている。ロニーは、誰かがケガをしているのだろうかと、垣を通り抜けて敷地内へと入っていき、悲鳴を上げる。残されたドリスが、生け垣の向こうから格闘する物音を聞いて動転していると、ロニーが飛び出してくる。スーツは裂け、あちこちに黒いものがいっぱいに散って流れ、さっきの芝生にあいた穴と同じように煙を立てている。ロニーの顔からは血の気が失われており、声を荒げてドリスに走れと叫ぶ。混乱したドリスが生け垣に目をやると、何かが動いており、黒いものがぴちゃぴちゃと音を立てている。恐怖に竦みあがったドリスの腕を、ロニーは強引に腕を掴み、2人はひたすらに逃げる。ロニーは粘着物が付着した上着を脱ぎ捨てる。

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マス – Wikipedia

マス(鱒、鮅[1])は、サケ目サケ科に属し日本語名に「マス」がつく魚、または日本で一般にサケ類(サケ(通称でシロザケ、いわゆる鮭)、ベニザケ、キングサーモンなど)と呼ばれる魚以外のサケ科の魚をまとめた総称。マス、トラウト共にサケ類の陸封型の魚、及び降海する前の型の魚を指すことが多い。主に、イワナ、ヤマメ、アマゴ、ニジマス、ブラウントラウトなどがマス類、トラウト類など呼ばれる。 塩コショウでグリルした状態のトラウトサーモン タイヘイヨウサケ属、タイセイヨウサケ属、イワナ属、コクチマス属、イトウ属などの魚を包括する。一般的に「鱒」がよく使われるが、古い文献では、「鮅」も使われている。 サケとマスの境界が厳密でないため、国により区分方法が異なる。たとえば英語圏でキングサーモンはサケに区分されるが、日本では同じ魚をマスノスケと呼ぶほか、サクラマス、サツキマス、ニジマスをマスとして区分している。英語では、サケがSalmon、マスがTroutに対応している。単にtroutというと淡水産を意味し、海産のものはsalmon troutと呼ばれるが、シートラウト(Sea trout、ブラウントラウトの降海型、Salmo trutta morpha trutta)という例外もある。(⇒ サケ類#サケとマス) 北半球の高緯度地域に自然分布し、最高水温が20℃以下の河川や池沼(淡水)で産卵し稚魚の一部が降海し海洋で生活する生活様式をもつ。南半球では、放流によりオーストラリア、ニュージーランド、チリなどに分布する。ほとんどの種が重要な食用種で、毒性がなく独特のうまみがあるため身や卵を様々に加工調理し利用されている。 サケ目サケ科以外の魚種であるニベ科ナガニベ属には、スポッティドシートラウト(Spotted sea trout)と呼ばれる。 焼き物 マスの一覧[編集] アメマス(イワナ) サクラマス(ヤマメ) タイセイヨウサケ属 Salmo

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ジャッキー・オリバー – Wikipedia

キース・ジャック・”ジャッキー”・オリバー(Keith Jack “Jackie” Oliver, 1942年8月14日 – )は、イギリスの元レーシングドライバー、チームオーナー。エセックス州チャドウェル・ヒース出身。彼はレーシングドライバーであると共に、アロウズの創立者の一人としてよく知られる。レーシングドライバーとして彼はル・マン24時間レースとカンナム・チャンピオンシップの両方のタイトルを獲得した。 レーサーとしての経歴[編集] レース経歴を1961年から始め、初めはイギリスのクラブサルーンレースでミニをドライブした。続いてロータス・エランによるGTレースにステップアップ、何度か上位入賞し、その後フォーミュラ3で苦戦、彼の速さはメカニカルトラブルでしばしば無駄となった。 それにもかかわらず、1967年に彼はチーム・ロータスのフォーミュラ2チームに移籍、ドイツグランプリでグランプリデビュー、F2クラス優勝、総合で5位という成績を上げた。1968年にはコーリン・チャップマンによってF1チームに引き上げられ、ジム・クラーク死去後のロータスF1のシートを得た。彼の契約はF2マシンのドライブは含まれていなかった。ハーツ・アンド・エセックス・エアロクラブの運営責任者であったトニー・ラドリンとの議論で、クラブのカラーで車を走らせるという取引が行われた。ロータスは車両とメカニックを供給し、ラドリンはチームマネージャーを務めた。F2チームの車両は完全なロータス仕様ではなかったが、運営は総じてうまく行った。年末にチームはアルゼンチン・テンポラーダの4レースに招待される。ハーツ・アンド・エセックスチームはシリーズランキング3位となる。F1のシーズンは苦戦し、オリバーはゴールのため苦闘した。イギリスグランプリではエンジントラブルでリタイアするまでトップを走行し、シーズンで完走したのは2度、彼の最高位は最終戦メキシコグランプリでの3位であった。 ヨッヘン・リントが1969年ロータスと契約し、オリバーはBRMに移籍した。彼はBRMでの2年間を失意の内に過ごすこととなり、それは事実上、彼のグランプリキャリアを終わらせる原因となった。2年間で完走は4回のみで、ポイントを得たのは1969年メキシコグランプリでの6位と1970年オーストリアグランプリの5位のみであった。しかしながら彼は1970年シーズン、レース・オブ・チャンピオンズでは首位を走行してジャッキー・スチュワートを抑え、オランダグランプリやイギリスグランプリでは3位を走行して激しいバトルを繰り広げた。オリバーはオーストリアで5位に入ったが、彼がこのレースで優勝しなければならなかったと考えたチームのボス、ルー・スタンリーはこれを期待外れな結果ととらえ、その後良い車はチームメイトのペドロ・ロドリゲスに与えられた。しかしながらオリバーはその後イタリアグランプリでもレースをリードして見せた。スタンリーはオリバーについて「良いけれども、彼が考えるほどには全然良くはなかった。」と語っている[1]。BRMでのレースの大半はリタイアで終わった。メインスポンサーのヤードレーは彼が解雇されたのを知って驚き、失望した。ジャッキー・スチュワートはオリバーを大変良いグランプリ[2]およびカンナムドライバーであると判断している。[要出典] 彼の時期における耐久レースでの最高成績はジャッキー・イクスとともにドライブしたジョン・ワイアーのガルフ・フォード・GT40による、1969年のセブリング12時間レースとル・マン24時間レースでの優勝と、ペドロ・ロドリゲスと組んで優勝した1971年のモンツァ1000kmレースである。 1969年、彼はカンナムにオートコーストからデビューし[3]、続いて ドン・ニコルズのシャドウから出走した。1971年、彼は再びF1にフル参戦しマクラーレンのサードカーを走らせた。1972年はシャドウからカンナムへの参戦に集中し、F1はイギリスグランプリにBRMからスポット参戦、リタイアに終わった。 1973年にシャドウはF1に参入し、オリバーはチームリーダーに指名された。シャドウ・DN1は難しいマシンであり、彼の活躍の機会はメカニカルトラブルで失われた。しかしながら、カナダでは好走し、多くがオリバーがこのレースで実際には優勝したと考えている。しかしレースでは、にわか雨のため多くのピットストップが発生し、さらにオーガナイザーが極めて不適当な形でペースカーを導入したことでラップチャートは混乱した。結果オリバーは3位に入賞したと認定されることとなり、これがこのシーズンで獲得した唯一のポイントとなった。 1974年はカンナムのタイトル獲得のために集中する。彼はその後シャドウの経営にも関わるようになっていたが、フォーミュラ5000にも3シーズン参戦し、1977年にはF1にもスポット参戦、レース・オブ・チャンピオンズでは5位に入賞、スウェーデングランプリでは9位となった。 アロウズ[編集] 1977年の終わりに彼はシャドウを離れ、企業家のフランコ・アンブロジオ、デザイナーのトニー・サウスゲートとアラン・リース、エンジニアのデイブ・ウォスとともにアロウズを設立する。ドライバーはシャドウでの走りを評価し若手のリカルド・パトレーゼを引き抜いた。 アロウズはF1史上最長の未勝利記録を持ち、F1参戦開始から382戦に出走して1勝も挙げられなかった。しかしながら、チームは常に中位以上の競争力を持つマシンを提供し、フロントランナーにはなれなかったものの、しばしば有能な若いドライバーに活躍の場を与えた。創設時に起用したパトレーゼをはじめ、ティエリー・ブーツェン、ゲルハルト・ベルガー、マルク・スレール、マーティン・ドネリーらはF1経歴の初期にアロウズをドライブし成長していった。 1990年、オリバーはチームの株式の大半をフットワーク・コーポレーションに売却した。以後も彼はチームディレクターとしてピット内で指揮を執り続けたが、フットワーク社は1993年に金融トラブルでF1から撤退。オリバーは再びチームを手に入れたが、F1のハイテク化により膨大な参戦資金が必要な時代になると活動資金が足りず1996年にトム・ウォーキンショー率いるTWRに再び株式の大半を売却した。オリバーは1999年までチームに留まったが、その後残った株式を全て売却してアロウズから手を引いた。

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沢光幸夫 – Wikipedia

沢光 幸夫(さわひかり ゆきお、1941年6月18日 – )は、北海道常呂郡佐呂間村(現・同郡佐呂間町)出身で、時津風部屋に所属した大相撲力士。最高位は東小結(1964年7月場所)。本名は沢向 幸夫(さわむかい ゆきお)。大相撲の黄金時代のひとつである「柏鵬時代」の中期に、幕内力士として活躍した。現役時代の体格は173cm、105kg。得意手は右四つ、突っ張り、寄り[1]。 本名は上記の通りだが、一時期だけ「梅村 幸夫(うめむら~)」と名乗っていた事もある[1]。 来歴・人物[編集] 実家は農家。憧れの力士は、同じ北海道出身の前頭・双ッ龍であった。彼が巡業で札幌市内を訪れた際に入門を志願し許され、その所属部屋である時津風部屋に入門。1956年9月場所にて、15歳で初土俵を踏んだ[1]。同期の初土俵には後の横綱・大鵬の他、大関・清國や前頭の大心、同・玉嵐らがいる。 初土俵の場所では前相撲のみ取り、次の場所では新序に昇格して3勝1敗と、好成績を収めた。そのため、翌年3月場所では序ノ口を飛び越して、序二段に付け出された。 幕下にいた1960年3月頃廃業を決心し、親方に内緒で部屋を飛び出し、大阪で旋盤工の仕事をしていた事があった(結局1ヵ月ほどで翻意し、東京に戻っている)。その後、1962年1月場所で新十両に昇進。1963年9月場所では十両優勝を果たし、翌11月場所、22歳で入幕した。同場所では10勝を挙げ、敢闘賞を受賞している[1]。 強烈な突っ張り、右を差しての寄りを武器に闘志満々の相撲を見せた[1]。 幕内4場所目となった1964年5月場所では、東前頭4枚目の地位で8勝7敗と勝ち越した。成績は平凡なものであったが、優勝した横綱・栃ノ海を破った一番が評価されて殊勲賞を受賞し、番付運にも恵まれて翌7月場所では幕内5場所目にして早くも三役(小結)昇進を果たした。しかし、2勝13敗と大きく負け越して三役経験は結局、この1場所だけに終わっている[1]。 翌9月場所も5勝10敗と負け越し、11月場所では幕尻まで下がり初日から休場。結局、同場所を最後に、23歳5ヵ月という若さで廃業してしまった。まだ幕内の地位にあったため、彼の廃業は突然であるという見方がされている[1]。 廃業後は、京都府内で相撲料理の店などを営んだ。 主な戦績[編集] 通算成績:251勝210敗24休 勝率.544

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マイケル・ラッセル – Wikipedia

マイケル・ラッセル Michael Russel マイケル・ラッセル 基本情報 フルネーム Michael Craig Russel 国籍 アメリカ合衆国 出身地 同・ミシガン州デトロイト 居住地 同・テキサス州ヒューストン 生年月日 (1978-05-01) 1978年5月1日(43歳) 身長 173cm

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Indexed Sequential Access Method – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “Indexed Sequential Access Method” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年3月) Indexed Sequential Access Method (索引付き順次アクセス方式、さくいんつきじゅんじあくせすほうしき、一般にISAM)とは高速にアクセスが可能なデータの格納方法 (ファイル編成法) の一つである。1つ以上のキーによってレコードをシーケンシャルまたはランダムに取得できる。キーフィールドのインデックスは、インデックスファイル内の必要なファイルレコードの高速検索を実現するために維持される。元々はIBMでメインフレーム用に開発されたものだが、今日では関係データベース管理システム (RDBMS、関係データベース)

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大槌中継局 – Wikipedia

大槌中継局(おおつちちゅうけいきょく)は、岩手県上閉伊郡大槌町に置かれているテレビとFM放送の中継局である。なお、ここでは同町内に置かれている大槌桜木テレビ中継局についても記述する。 大槌テレビ・FM中継局[編集] デジタルテレビ放送[編集] アナログテレビ放送[編集] チャンネル番号 放送局名 空中線電力 ERP 偏波面 放送対象地域 放送区域内世帯数 運用開始日 4 NHK盛岡総合 映像3W/音声750mW 映像3.8W/音声940mW 水平偏波 岩手県 4689世帯[8] 1965年8月30日[9]

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