Month: May 2021

作表機 – Wikipedia

作表機(さくひょうき、英語: Tabulating machine)は、会計機(Accounting machine)とも呼ばれて、データ処理を電子計算機に依るようになった以前に、パンチカードを使ったパンチカードシステムのみで処理した時期に、その最終工程で分類されたカードを読んで小計・総計を計算して作表し、結果を印刷する機械であった。ハーマン・ホレリスが発明し、1890年の米国国勢調査のデータ処理で初めて使用された。その後コンピュータが普及するまでデータ処理に広く使われた。 英語の「タビュレーティングマシン」(Tabulating machineまたはTabulator)は狭義では「作表機」(または会計機)であるが、カード穿孔機、カード検孔機、カード分類機、作表機など全体を製造・販売した会社が一般にタビュレーティング・マシン会社(米国会社、英国会社など)と呼ばれたため、英語で広義には「パンチカードシステム機器全体」を意味することもあって、まぎらわしいので広義ではユニット・レコード機器(Unit record equipment)という言葉がよく使われる。 1890年の国勢調査[編集] ホレリスのパンチカード 1880年の国勢調査は集計に7年を費やし、結果が出たときには既に時代遅れの数値と言わざるを得なかった。1880年から1890年にかけての移民などを原因とするアメリカ合衆国の急速な人口増加により、1890年の国勢調査は約13年かかると予測された。アメリカ合衆国憲法は国勢調査の数値を元に州ごとの課税配分と連邦議会の州ごとの定数を決定することを要求していたため、もっと素早く集計する方法が必要とされた。 この目的のため、1880年代末ごろ、パンチカードはホレリスにより発明された。発想の元は直接には、鉄道の切符において、車掌が切符に穴を開ける位置によって情報を付与していた(例えば、目的地、旅客の年齢など)ところからである。同様のものは機械制御用として以前から存在しており(例えば、オートマタ、ピアノロール、ジャカード織機など)たとえばピアノロールは「楽曲のデータ」を、ジャカード織機のそれは「布の柄のデータ」を記録しているものと見ることもできるが、それをデータ処理に利用したのがホレリスの発明と言える。ホレリスは紙が絶縁体として機能し、穴の開いたところだけ電気を通すことができると気づいた。当初紙テープを試してみたが、最終的にパンチカードに到達した[1](当初はホレリスカードと呼ばれていた)。 ホレリスは丸い穴を12行24桁の格子状に開けるパンチカードを採用した。彼の機械は継電器(とソレノイド)を使って機械式カウンタをインクリメントする。バネ付きの針金がカード読み取り機の上部に並んでいる。カードは水銀のプール群の上にセットされ、各プールはカード上の各穴の位置にある。針金をカードに押し付けると、穴のある位置では針金が水銀のプールに浸り、電気回路が形成される[2]。その結果がカウンター(計数器)に送られ、ベルを鳴らしてカードが読み取られたことを操作者に知らせるのである。 タビュレータには40個のカウンタがあり、それぞれ100個の目盛りがついたダイヤルでカウントを示す。ダイヤルには2本の針があり、1本はカウントアップするたびに動き、もう一本は前者が一周するごとにカウントアップする。そのため、カウンタは最大10,000までカウント可能である。カウンタにはパンチカードの特定の穴を対応させることができ、継電器による一種の論理回路を使って一連の穴の組み合わせをカウントさせることもできる。 例えば、既婚の女性をカウントするなどである[3]。またカード格納部が複数あって、読み取った情報に従って一箇所のカード格納部の蓋が開き、そこに読み取ったカードが落とし込まれるようになっていた[4]。 ホレリスの技法(カードとタビュレーティングマシンとキーパンチ機)は1890年の国勢調査で採用された[5]。カードには、年齢、住居種別、性別などの情報がコード化されて格納される。事務員は集められた情報をカード上にパンチすることができた。1890年の国勢調査は予定より数カ月早く18ヶ月で完了し、その期間内に二重チェックも行われた。予算より遥かに少ない金額で済んだ[6]。 その後の国勢調査とIBM[編集] この技術が会計や在庫管理に利用できることは明らかだった。ホレリスは1896年、タビュレーティング・マシン社 (Tabulating Machine

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竹山日向 – Wikipedia

竹山 日向 東京ヤクルトスワローズ #62 基本情報 国籍 日本 出身地 愛知県名古屋市 生年月日 (2003-11-02) 2003年11月2日(18歳) 身長体重 182 cm85 kg 選手情報 投球・打席 右投右打 ポジション 投手

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アラビア語キプロス方言 – Wikipedia

アラビア語キプロス方言(アラビアごキプロスほうげん、英: Cypriot Arabic)は、アラビア語の口語(アーンミーヤ)のひとつでキプロスの消滅の危機に瀕する言語である。キプロス・マロン派アラビア語(英: Cypriot Maronite Arabic)とも呼ばれる。キプロスのマロン派キリスト教徒によって話されている。かつては主にコルマキティス(英語版)に話者が存在したが、キプロス紛争により1974年にトルコ軍のキプロス侵攻(英語版)を受け、話者の大半が南に移動したり、分散して、この言語の衰退を招いた。伝統的にギリシャ語のキプロス方言との併用使用であったが2000年を前にして残っていたアラビア語キプロス方言話者は30歳を超えていた[3]。2011年時点でキプロス共和国が実効支配している南の領域において3656人のマロン派キリスト教徒がおり、900人くらいがアラビア語キプロス方言をある程度話せるが、第一言語とするものはいないという調査結果が出ている。 アラビア語の口語(アーンミーヤ)の方言地図 ^ Cypriot Maronite Arabic at Ethnologue (13th ed., 1996) 参考文献[編集] Public Foundation for

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堀内一弥 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “堀内一弥” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年1月) 堀内 一彌(ほりうち かずや、1912年10月1日 – 1972年4月11日)は日本の衛生学者[1]。 慶應義塾大学附属医学専門部教授(1945年9月-1949年3月)、大阪市立医科大学(現・大阪市立大学大学院医学系研究科)教授(1947年3月-1972年4月11日)。重金属による環境汚染、とりわけ鉛中毒を専門とした。衛生学の分野に科学的手法を取り入れた、公害対策の第一人者であった。 東京都出身。1937年慶應義塾大学医学部を卒業し、同年聖路加病院内科に勤務する。1938年に陸軍の召集を受け、軍曹として軍務に付く。1939年6月少尉に任官し、1940年12月中尉に昇進する。1941年4月に召集解除となり、5月に慶應義塾大学医学部衛生学教室助手に就任。しかし同年8月には再度の召集を受ける。その後1942年10月召集解除となるも、1944年10月には3度目の召集を受け、大尉となる。1945年3月傷疾により退役。 1945年9月に慶應義塾大学附属医学専門部教授に着任し、1946年11月慶應義塾大学医学部助教授を兼務する。1949年、大阪市立医科大学教授、同医学専門学校教授。専門学校廃止並びに大阪市立医科大学の名称変更により1955年より大阪市立大学医学部教授。1972年現職で死去。 重金属、塵肺などによる環境汚染[編集] 昭和30年代、公害が大きな社会問題となる。重金属(2-5)、塵肺などによる人体汚染、環境汚染の領域で、ケミカルな測定法、統計の専門家による解析など化学的手法を衛生学に導入し、正常人の確かなデータ確立とそれに対する比較より、公害対策、職業病予防原則を打ち立てた。特に鉛中毒(2-4)に関しては国際的なリーダーシップをとった。 妻は遠山郁三の4女であった。子供は長男彌太郎、次男正彌(遠山)(大阪大学医学部神経解剖学教授)。

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世にも奇妙な物語 秋の特別編 (2019年) – Wikipedia

『世にも奇妙な物語 秋の特別編』[注 1](よにもきみょうなものがたり あきのとくべつへん)は、2019年11月9日にフジテレビの「土曜プレミアム」で放送された『世にも奇妙な物語』の特別編。 あらすじ ある日、自宅で古川直美がスマホを開いていると、とあるショッピングサイトからお勧めの商品を宣伝する通知がされていたのだ。始めは素知らぬフリをしてやり過ごしていた直美だが、やがて何度も同じ謳い文句がされるようになり、とうとうその商品を購入することになってしまう。しかもそれは憧れの先輩である荒井敦のお気に入りの品であった。やがてそのショッピングサイトでお勧めの商品を購入するたびに、直美は周りから感謝されるようになる。それは荒井との関係にも表れ、荒井から話しかけられるようになると、使い道の分からない“鍋蓋”を購入してからデートに誘われるようになった。自分でも幸せになれるんだと喜ぶ直美だったが、ある日の夜、荒井が直美の同僚である手嶋由佳と仲良く歩いているところを目撃してしまう。 キャスト スタッフ 脚本 – 赤松新 編成企画 – 渡辺恒也、狩野雄太 プロデューサー – 植田泰史、水野綾子 演出 – 山内大典

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ベロモービル – Wikipedia

プラダンのフェアリングを被せた自家製ベロモービル ベロモービル(Velomobile)とは屋根付きの自転車である。競技用のものはストリームライナーと呼ばれる。 ベロモービルはリカンベントトライクをフェアリングで覆ったものが多い。搭乗者の頭が車体に覆われていない車種と全身が覆われるモデルがあるが、頭が覆われないモデルは視界や音を遮られず、運転者の体温を逃がすことができる。一方、全身が覆われる車種は搭乗者が雨に濡れず運転できるが、風防が曇ったり、凍結したりすることがある。多くの車種では日常的な利用での利便性や快適性を考慮して設計されており、幅の広いタイヤやフルサスペンション、荷物スペースなどを備えている。しかし重量が約30kgと重いため、上り坂では運転者の負担が大きい。この点を克服するため、電動アシストユニットが装備されたベロモービルが作られている。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ベロモービル” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年10月) ベロモービルは1930年代に生まれ、ミニカーとともに第二次世界大戦頃のヨーロッパで流行した。スウェーデンではFantomと呼ばれる設計の図面が売られて人気となり、実際に完成させた人は少数であったが、10万枚以上の設計図が売れた。経済の発展と共に動力付きの乗物が主流となり、ベロモービルは衰退していった。 1970年代には、タンデム型の2座席式で、鉄製のフレームにプラスティックのボディをかぶせたPPV(People Powered Vehicle)が生産されていた。座席は快適で、貨物スペースもあり、2つの座席のどちらにもペダルがあるなど、日常に利用する乗り物としての機能を持っていた。しかし重量が約50kgと重く、変速ギアが3段でブレーキの効きが悪いなどの問題があった。1983年、Carl-Georg Rasmussenが古い設計図を再発見し、それを現代風に手直ししたLeitraを製作している。Leitraは現在、最も長く販売されているベロモービルである。 1985年、Sinclair C5というベロモービルの量産が試みられた。C5は電動アシスト付きトライクであり、量産して低価格(約10万円)で販売するよう設計された。しかしC5は重く変速ギアを持たないうえ、快適な乗車姿勢を設定する際に重要なペダルとシートの間隔を調整する機能がなかったため失敗に終わった。このためC5はベロモービル全体に悪い印象を持たせることになった。 1990年代になると、メーカーの数も増え、現在は多くのベロモービルが世界中に存在している。その多くはオランダやドイツである。最近は電動アシスト付きのベロモービルも登場している。モーターはホイール内に設置される設計が多い。

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ヴォンゴレ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ヴォンゴレ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年4月) ヴォンゴレ・ロッソ トマトを潰していない中間的な物 ヴォンゴレ(伊: vongole、ボンゴレとも)は、アサリなどの二枚貝を使ったイタリアのカンパニア州・ナポリのパスタ料理である[1]。 イタリア語の vongole は、本来はアサリ類・ハマグリ類などのマルスダレガイ科の二枚貝を指すヴォンゴラ(vongola)の複数形で、料理のことはイタリアでは spaghetti alle vongole(スパゲッティ・アッレ・ヴォンゴレ)などとよぶ。スパゲッティ以外にもヴェルミチェッリ[注釈 1]やリングイーネなどのロングパスタが使われる[2]。

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