白山 (花街) – Wikipedia

この項目では、花街について説明しています。その他の用法については「白山 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 白山(はくさん)はかつて東京都文京区白山一丁目に存在した花街。 沿革・概要[編集] 白山は江戸時代、指ヶ谷(さすがや)と呼ばれ小役人屋敷が並んでいたが明治期に農地として開墾された。明治20年(1887年)頃、農地を開発し、明治27年(1894年)、銘酒屋(飲み屋に見せかけ、私娼をおいて売春させた店)を開業させたのが花街の起源となった。主な客は陸軍造兵廠東京工廠(現・東京ドーム敷地)に務める工員、不良の徒であった[1]。その賑わいは当時、その付近に居住していた作家・樋口一葉が『にごりえ』で記述している。 その銘酒屋街が芸妓の花街に転身したのは明治45年(1912年)のことである。花街の発起人となったのが酒屋兼居酒屋を経営する秋本鉄五郎であった。秋本は指ヶ谷に花街設立と私娼、無頼の徒を掃討する目的で明治41年(1908年)から6年にかけて警視庁に指定地許可を数回出願し[2]、政治家の大井玄洞、鳩山和夫(鳩山一郎の父、鳩山由紀夫の曾祖父)の助けを借りて6年目の明治45年6月、ようやく正式に許可が下りた[3]。指ヶ谷は指定地制定後最初の花街となり、大正から昭和初期にかけて許可された花街の先駆けとなった[3]。 許可後、組合が結成され、隣接の白山神社から名前を取り、「白山三業組合」とした。料理屋、待合、芸妓置屋が相次いで開業し、大正元年9月(1912年8月に改元)には置屋78軒、待合5軒、料理屋10数軒、芸妓30数名であった[4]。大正4年(1915年)3月、秋本は三業組合を三業会社に変更し、社長に就任した[4]。交通機関の発達により花街は繁栄し、大正9年(1920年)には待合59軒、置屋96軒、芸妓348名に増加[5]、大正11年(1922年)、上野公園で開催された大正博覧会の余興に白山芸妓が出演し喝采を浴びた[6]。 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生し東京市内の各花街が被災され、逃れてきた芸妓、経営者らは白山を借りて営業した。 大正13年(1924年)4月、秋本鉄五郎が死去、その養子である秋本平十郎が組織を継ぎ、2階建ての新見番を落成した。昭和2年(1927年)、花街指定地が拡張、路地の石畳が整備された。だが昭和12年(1937年)辺りから戦争が迫り、芸妓、業者は軍隊への慰問、接待し、昭和20年(1945年)3月の東京大空襲から免れ、同年8月に終戦を迎えた。この時の芸妓数は117名であった[7]。 同年8月22日、特殊慰安施設協会(通称・RAA)が発足され、戦災を免れた白山に接待所、接待婦82名が置かれ、外国人を相手にした。しかし梅毒が蔓延、施設は閉鎖、白山花街は戦前の繁栄には戻らなかった[8]。 昭和22年(1947年)、各業種(芸妓置屋、待合、料理屋)による白山互業組合が結成、昭和25年(1950年)、三業組合と替え、後に新興株式会社、三業株式会社に名称変更、組織移行した[9]。昭和47年(1972年)には料亭22軒[10]、昭和52年(1977年)、料亭12軒、芸妓20名となり、昭和54年(1979年)、昭和55年(1980年)頃、組合は解散、花街は終焉。平成30年(2018年)現在、白山には花街時代の建物、路地が残されている[11]。 ^ 『東京 花街 粋な町』p.140 ^ 『花街 異空間の都市史』p.156 ^ a

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褐簾石 – Wikipedia

褐簾石 (かつれんせき、アラナイト、Allanite) は希土類元素を多量に含む、緑簾石グループに属するソロケイ酸塩鉱物。主に泥質の変成岩や珪長質の火成岩に生成する。一般的な化学式はA2M3Si3O12[OH]で、Aサイトにはイオン半径の大きなCa2+、Sr2+、希土類元素イオンが入る。MサイトにはAl3+、Fe3+、Mn3+、Fe2+、Mg2+などが入る[4]。しかし、Th、U、Zr、P、Ba、Crなどが入ることもある。国際鉱物学連合によると褐簾石グループに属する鉱物はセリウム褐簾石 (Allanite-(Ce))、ランタン褐簾石 (Allanite-(La))、ネオジム褐簾石 (Allanite-(Nd))、イットリウム褐簾石 (Allanite-(Y)) の4つある。最も多い希土類元素はそれぞれセリウム、ランタン、ネオジム、イットリウムである。 煙水晶の表面の褐簾石 (White Mountain Wilderness産、2.7 × 1.8 × 1.7 cm) 褐簾石は最大20%の希土類元素を含み、有用な希土類元素の原料となる。トリウムなどの放射性元素が入ることに伴う現象が観察される。放射性ハローがあることが多く、放射能が高い場合は結晶構造が破壊されていることもある(メタミクト化)。放射線により破壊されていない褐簾石の年代はそれとは異なる方法で決定される[5]。 褐簾石は通常黒色だが、褐色、紫褐色のこともある。褐鉄鉱のような黄褐色の物質に覆われることもある[6]。単斜晶系で、柱状の結晶になる。モース硬度は5.5-6で比重は3.5-4.2である。95℃という非常に低い温度で高温発光する。 褐簾石は1810年にスコットランドの鉱物学者のトーマス・アラン

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麗〜花萌ゆる8人の皇子たち〜 – Wikipedia

『麗〜花萌ゆる8人の皇子たち〜』(レイ〜はなもゆるはちにんのおうじたち〜、原題:月の恋人 – 步步驚心:麗、ハングル:달의 연인 – 보보경심 려)は、2016年8月29日から2016年11月1日までSBSで放送された韓国のテレビドラマ[1]。全20話。 ある日突然、高麗時代にタイムスリップしたヒロインが皇子たちと繰り広げるロマンスとともに、皇子たちの王位を巡る争いを描く。 韓国を含むアジア各国で大ヒットした2011年の中国のテレビドラマ『宮廷女官 若曦』の原作である『步步驚心』の韓国ドラマ化。原作者は、中国の女性ベストセラー作家である桐華(トン・ホァ)[2]。 あらすじ[編集] 化粧品販売員コ・ハジン(IU)は、親友と恋人に裏切られて傷ついた気持ちを紛らわすため、公園でぼんやりとしていたが、公園内にある池で子どもが溺れているのを目にする。思わず飛び込み、子どもを助けたハジンだったが、逆に自分が溺れてしまう。目が覚めると、なんとそこは高麗時代だった。ハジンの魂は、ヘ・スという少女の体で目覚め、宮廷で暮らすことに。そこでハジンは、世にも美しい8人の皇子たちと出会う。優しい第8皇子ワン・ウク(カン・ハヌル)に惹かれていく一方で、冷徹な第4皇子ワン・ソ(イ・ジュンギ)に心が揺さぶられる。 登場人物[編集] 制作[編集] 2015年6月25日、キム・ギュテ監督と制作会社BaramiBunda Inc.は、桐華の原作小説「步步驚心」の韓国語版の制作の初期段階にあると発表した[3]。同年9月15日、 NBCユニバーサルが投資家に加わり、150億ウォンの予算の半分をカバーした[4]。NBCユニバーサルが初めてアジアドラマに投資する作品で、中国や東南アジアといったグローバル市場を対象に100%事前制作として完成度まで最高に引き上げるという計画である[5][6]。 2016年1月25日、YGエンターテインメントも投資家に加わった[7]。 中国のストリーミングプラットフォームYoukuは、1エピソードあたり40万ドルで本作を購入し、これまでに販売された中で最も高価な韓国ドラマとして、以前「太陽の末裔」と「むやみに切なく」によって更新された記録を上回った[8][9]。 しかし、数か月後に「マン・ツー・マン

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藤井康一 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “藤井康一” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年3月) 藤井 康一(ふじい こういち、1957年(昭和32年)4月19日 – )は、日本のミュージシャン。ウシャコダのメンバー。 千葉県木更津市生まれ、松戸市に育つ。小学生時代に、毎週見ていた「大正テレビ寄席」での牧伸二に魅了され、親にウクレレを買ってもらったのが音楽に興味をもったきっかけであった。中学時代からはフォークギターにはまり、吉田拓郎、泉谷しげる、古井戸などのコピーを行う。高校時代はDeep Purple、Doobie Brothersにはまり、地元の同級生達とウシャコダを結成する。 1978年、ヤマハ主催のEastWestで、ウシャコダが最優秀グランプリを受賞。翌年、デビューする。 1985年、味の素CFソング「シュガーケイン」をキングレコードよりをリリースし、ソロデビュー。翌1986年、コロムビアレコードより、ソロ・アルバム「独立宣言」をリリース。1988年、FM795(FM埼玉)開局時より2年間「サンデー・オン・ザ・ウェイ」(日曜日7:00~12:00)のパーソナリティとして生放送を担当。なお、1989年の放送にて、小学生の頃からあこがれていた牧伸二を番組に招き、弟子入りを許されるとともに「牧伸三」の芸名を授与された。1991年にはFM北海道(Air G)

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実践倫理宏正会 – Wikipedia

一般社団法人実践倫理宏正会(じっせんりんりこうせいかい)は、一般社団法人。1946年(昭和21年)5月に東京吉祥寺で上廣哲彦によって設立され、1953年(昭和28年)4月1日に社団法人の許可を受けた[1][2]。午前五時に「朝の誓い」を唱和などする朝起会を主な活動としている[4]。機関誌「倫風」や関連図書を発行している[5]。 平成16年度総務省の調査では日本で2番目に賛助会員等が多い公益法人[3]。会員は主婦が中心[4]。 上廣哲彦の設立した生活倫理実践会が前身[6][4]。 実践倫理宏正会は自らを宗教団体ではなく社会教育団体であると位置付けるが、研究者からは宗教団体と見なされている[7]。 活動の中心は朝5時 – 6時にもたれる朝起会で、「朝の誓(五つの誓)」の唱和、(元)会長の著作集を読む「倫読」、会友(会員)による反省や決意の発表、体験談である「演談」、「結びの誓」の唱和などがなされる。そこでは目上、目下のけじめをはっきりさせ、自我をとり、自己を変えることによって夫婦それぞれの本性に基づいた働き、役割を明確にして、お互いに協力し合うことが奨励される。さらに自然の法則に則した生き方を心がけ、働く喜びを体得することが大切であるとする。実践倫理宏正会は日本各地に「朝起会」を行うための「朝起会場」を持っており、1978年時点で会が認可した会場が360あった[8]。その後約1000か所に増えた[2]。個々の朝起会場は人数・会費納入額・勧誘運動の成果(「倍加運動」)などによって格付けされている[8]。 朝起会は「生活実践の訓練の場」であり[1]、午前5時から「朝の誓」の唱和[8][1]・会長の著書を読む「御本読み」[8]・会員が体験談を語る「演談」[8]・講師(責任者)によるまとめ[1]などが行われる。男性よりも時間の都合をつけやすい女性の参加者が多い[8]。「朝の誓」は 今日一日 三つの恩を忘れず 喜んで進んではたらきます 今日一日 人の悪をいわず 己の善を語りません 今日一日 気付いたことは 身がるに直ぐ行います 今日一日 腹を立てず 不足の思いをいたしません

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中央大学 – Wikipedia

「中央学院大学」とは異なります。 「中央大学」のその他の用法については「中央大学 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2018年1月) あまり重要でない事項が過剰に含まれているおそれがあり、整理が求められています。(2021年3月)出典検索?: “中央大学” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 画像提供依頼: 1960 – 1970年代の駿河台校舎 の画像提供をお願いします。(2020年3月) 中央大学

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