かとうかなこ – Wikipedia

かとうかなこは、クロマチック・アコーディオンの奏者。 以下の記述は、主に公式サイトの記述による(https://www.katokanako.com/profile.html )。 大阪府豊中市出身。4歳からアコーディオンをはじめる。 全日本アコーディオンコンクールでは、第6回(小学生の部)、第7回(ジュニアの部) 第1位、また第8回(総合)で優勝を果たす。 高校卒業後フランスに渡り、4年の留学中、全仏コンクールでも各部門で3度、第1位を獲得する。 フランス帰国後全国でコンサート活動を中心に、舞台や演劇などの音楽制作を行う。 フランスや北欧のダンス音楽など多くのレパートリーを持つが、特にオリジナル曲のファンが多く、 CMディレクター、写真家、演出家など多くの制作関係者からの使用依頼が多い。 2019年10月10日に9枚目のアルバム、【光と陰】をリリース。 ローランドから発売された電子アコーディオンのFR-1のイメージアーティストに選ばれた(プロモーション映像はイタリアで撮影)。 自らの感情を委ねるように、蛇腹と呼吸を合わせながら風景の浮かぶ演奏を続けている。 80歳を過ぎても演奏し続ける事が目標。楽器たちには愛称をつけ、ステージでもメンバーとして紹介している。 ポーランドとの共同プロジェクトで、0~18ヶ月までの赤ちゃんを対象とした公演を日本、中国、ポーランド、ドイツで開催。 子どもの音楽における発育も手がけている。 2018年は、エディット・ピアフ没後55年記念公演≪エディット・ピアフ ~愛の賛歌~≫(アカデミー賞受賞作品)ピアフの声を担当したジル・エグロの来日ツアーで、アコーディオン奏者として参加。エストニアの女性アコーディオン奏者トゥ-リキ・バートシクとを結成し 全国5ヶ所ツアーを周る。 近年は、アジア圏を含め海外での公演依頼が増え、各地で公演を行っている。

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中島正 – Wikipedia

中島 正(なかじま ただし、1910年(明治43年)6月25日 – 1996年(平成8年)8月22日)は日本の海軍軍人、航空自衛官である。海軍では海兵58期卒業、最終階級は中佐。空自での最終階級は空将補。 1910年6月25日、熊本県に生まれる。福岡県三池中学校。何度も展覧会に絵を出展するなど、最初は画家志望だったが、従兄弟に勧められて海軍兵学校(第58期)を受験。1930年11月、卒業。その後の遠洋航海では船酔いして寝込み、船乗りがこれではと海軍をやめようかと思っていたところ、帰国後の術科講習で「航空最適、甲の上」という適性検査の結果を知らされ、それ以降航空畑を歩むことになる。1932年4月、少尉。 1933年11月、海軍中尉。飛行学生第24期卒業(大村航空隊付)。1934年11月、空母「赤城」乗組。1935年10月、横須賀航空隊。1936年3月、大村航空隊。 1936年12月、海軍大尉。空母「加賀」分隊長。1937年9月4日、新鋭の九六式艦上戦闘機2機にてカーチスホーク3機撃墜。九六式艦戦の実戦での初戦果となった。1938年3月、第12航空隊分隊長。 顔全体に火傷がある半沢行雄兵曹は中島分隊長に「見苦しい、下がれ、俺の目のつくところへ二度と顔を出さないようにしろ」と叱られた[1]。 1938年9月、佐伯航空隊分隊長。1938年12月、空母「龍驤」分隊長。1939年10月、第12航空隊分隊長。1940年7月、大村航空隊分隊長。1940年11月、佐世保航空隊分隊長。1941年10月、海軍少佐。1941年11月、大村航空隊飛行隊長。 太平洋戦争[編集] 1941年12月、太平洋戦争開戦。1942年3月、台南空飛行隊長。ニューギニア・ソロモン方面の航空戦に参加した。1943年2月、251空飛行長。1943年6月、横空飛行隊長。 1944年7月、201空飛行長に就任。1944年10月20日に神風特攻隊が採用され、特攻の恒常化で中島は次第に思いやりを欠く言動が増えていき、毎日平然と特攻をさせるため、周囲も中島を避けるようになっていた[2]。中島が特攻を推進していたことに対して、立場上仕方がなく、内心つらかったのではないかという声もある[3] が、中島によれば「辛いとか、苦しいとかいうような気持ではなく、説明しがたいある種の感動であった」という[4]。中島は「俺は死なない。神風特攻隊の記録を後世に残すため内地に帰る」という発言もあった[5]。 201空の角田和男によれば、士官室で全員特攻を唱える中島に対し、203空飛行隊長岡嶋清熊少佐は特攻に反対で、全員引き連れて内地に帰ると言っており、「特攻は邪道である。内地に帰り再編成の上、正々堂々と決戦をすべきである。203空からは一機の特攻も出させぬ」と頑張り、激論を交わしたという[6]。また、中島が特攻によるタクロバンの桟橋の破壊を命じた際に、いくらなんでもそれは残念なのでカラ船でもいいから船を目標にしてほしいと願出があったが、中島は「目的は戦果じゃない。死ぬことにあるんだ」と答えたという[7]。特攻の直掩機に対しては「敵から攻撃を受けても反撃してはいけない、特攻機の盾になって全弾身に受けて進めろ」と命令したという[8]。 角田和男は、中島から直掩だけと言われて行った先で直掩の後に特攻も行かせるように指示を出していた件を直接問いただしたが、黙ってにっこり笑った。角田はこの時の赤子のような美しい目で若い人たちを死なせたのではないかと語っている[9]。 1944年10月27日、第二神風特攻隊忠勇隊の直援・確認を務めた菅野直大尉が特攻戦果を報告しにくると、中島は「戦果が大きすぎる何か勘違いしていないか、レイテへ行って本当に体当たりをしたのか、本当に目撃したのか」と発言し、菅野は憤って腰の拳銃をそのまま5発、床に発砲した。隊員の笠井智一らもあの言いぐさはないと憤ったという[10]。 1945年1月、343空副長。着任した際、「343空も特攻へ使われるのか」と隊員達に不安が漂ったが、343空の戦闘301飛行隊長菅野直大尉が源田実司令に働きかけて中島を早々に転任させた[11]。3月9日第五艦隊長官宇垣纏中将に招待されフィリピン台湾での特攻に関する戦訓を話すが、宇垣は新しい感銘は受けなかった。[12] 1945年3月31日、第五艦隊付、721空(神雷部隊)に特攻の訓練、指導のため中島が派遣された。4月6日、菊水一号作戦のため、桜花隊員や第十航空艦隊を由来とする爆戦隊員に対し、ダイブは45-60度で甲板か煙突か艦橋に突入するように説明する。しかし、中島が退出した後、中島少佐は自分で飛んでいないから知らないとして、高高度からは無理なので20-30度で舵の故障を狙って艦尾に突入し、航行不能にして潜水艦がとどめをさすと訂正された[13]。1945年6月、彩雲で特攻を行う723空の副長就任。 戦後[編集]

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鈴木智樹 – Wikipedia

鈴木 智樹(すずき ともき、1985年6月8日 – )は、北海道岩見沢市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはMFで主にボランチとしてプレー。 ミドルレンジからのシュートを得意とした。 コンサドーレ札幌ユース時代に世代別代表に選出されるなど頭角を現す。2003年の天皇杯全日本サッカー選手権大会ではユース選手ながらトップチームに帯同し3試合に出場、1得点を挙げる活躍を見せた。翌2004年にトップチームに昇格。ルーキーイヤーから出場機会を掴み、レギュラー定着とまではいかなかったものの、2006年までは毎年、20試合以上に出場。特に2006年は30試合以上に出場し2得点を挙げるなど中心選手の一人としてチームを支えた。しかし、2007年、三浦俊也監督が就任すると、それまで主に右サイドで起用されていた芳賀博信がボランチで起用されるようになり、また外国人ボランチとしてカウエも加入したことからポジションを失い、リーグ戦、カップ戦とも出場することがないまま、シーズンを終えた。2007年以降は練習試合でディフェンダーを経験するなど、課題であった守備力の向上に努めるとともに本職のボランチ以外へもプレーの幅を広げたが、巻き返しが期待された2008年も出場機会を得ることができず、シーズン終了後に戦力外通告を受けた。その後、Jリーグ合同トライアウトを受け複数クラブからのオファーがあったものの、同時にコンサドーレ札幌から強化部スカウト就任を打診され、現役引退を決意。2009年1月5日、所属していたコンサドーレ札幌より現役引退と強化部スカウト就任が発表された。 所属クラブ[編集] 指導者経歴[編集] 個人成績[編集] 国内大会個人成績 年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算 出場

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自発 (文法) – Wikipedia

日本語の文法における自発(じはつ)とは、動詞の表現様式で、行為・動作を人が積極的意志を持って行うのでなく、自然にあるいはひとりでに実現する現象・作用のようにいう表現である。助動詞の「れる」「られる」などによって行われる。 普通、行為・動作を表す能動態の動詞では、動作主(行為者)を主格(格助詞「が」で表される)で、他動詞における被動者(対象物)を対格(「を」)で表現する。しかしこの表現はある人が積極的意志を持って行う感じがあるので、それを避けるために「それが自然であり、他の人でもそうするだろう」という感じを含めて自発表現が用いられる。 上代では自発の助動詞「ゆ」が存在した。 瓜食はめば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆいづくより来りしものぞまなかひにもとなかかりてやすいしなさぬ(山上憶良『子等を思ふ歌一首、また序』 万葉集) 瓜を食べれば、(食べさせてやりたいと)子供たちのことがおもわれる、栗を食べればなおさら偲ばれる。(子供は)どこからの賜りものなんだろう、(離れていると)目の前にむやみに出てきて、ゆっくり寝ることもできない。 古語の助動詞である「る」「らる」は、現代語の「れる」「られる」の基となった。もともと、自発の助動詞「る」は古語の「生る(ある)」の語尾から派生したものである。語幹がアの音であるため、未然形がア段である四段活用、ナ行変格活用、ラ行変格活用にはそのまま「る」を、未然形がア段ではない上一段活用・上二段活用(共に未然形がイ段)、下一段活用・下二段活用・サ行変格活用(未然形がエ段)、カ行変格活用(未然形がオ段)には、ラ行のア段の音である「ら」をつけて「らる」を接続させた。下記のように、現代語において、五段活用・サ行変格活用には「れる」、他の活用には「られる」を未然形の後につけるのは、未然形の音がア段であるかそうでないかによる。(現代語のサ変においては、ア段の音での活用が認められる) 自発の助動詞[編集] 動詞の未然形に助動詞「(ら)れる」をつける方法は、特に主観的な考え・感覚などを示す動詞に用いられる。例えば、思う→思われる、悔やむ→悔やまれる、偲ぶ→偲ばれる、感じる→感じられる、見る→見られる。五段活用・サ行変格活用には「れる」、他の活用には「られる」を未然形の後につける(語幹の後に“(r)areru”をつけるとも解釈される)。動作主(経験者)は省略することが多いが、明示する場合には「に」で表すのが普通。対象物は「が」で表す。 例: 私はあの日の情景を思いだす→(私には)あの日の情景が思いだされる その他の自発的表現[編集] 「見える」「聞こえる」[編集] 語尾を「〜える」とした「見える」「聞こえる」は、「見る」「聞く」に「れる」の古形「ゆ」を付けた形で、自発的な意味を持っている。自発の助動詞の場合と同様、経験者を「に」で表すことができる。ただし現在では「見られる」「聞かれる」とは意味的に使い分けられている。 例: 「鈴の音が聞こえる」(具体的対象) 「操作が難しいという声が聞かれる」(抽象的対象) 自発動詞[編集] 一部の他動詞に対して、独立の自発動詞を用いる場合もある。動作主は重要でなく(もしくは不明で)、それよりも被動者を強調したい場合に、活用形式を変えて自動詞化(脱使役化)したものが用いられる。 例: 建てる→建つ

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伊方町 – Wikipedia

伊方町(いかたちょう)は、愛媛県の南予地方、佐田岬半島に位置する町。 四国電力伊方発電所(原子力発電所)があり、一時は四国の電力消費量のおよそ4割を供給していたが、全発電機が定期検査に入った2012年(平成24年)1月13日から送電を停止している[2]。 町の中心部湊浦で撮影 三崎港と三崎市街地 町内全体が佐田岬半島の基部から先端にかけての地域であり、全体が細長い形をしている。稜線が半島の背骨の如く延び、半島の両側に急速に海に落ち込む地形をしており、大規模な河川は無く、平地はわずかであるために穏やかな傾斜地に集落とみかんなどの耕作地が集中している。半島の北側は瀬戸内海に、南側は宇和海に面している。町内では天気が良好な時は本州の中国山地及び九州の九州山地を望むことができる[3]。さえぎる山岳がないため、風が強く、風力発電が行われており、半島の稜線には風車が林立している。6箇所、58基、出力は67,700kWである[4]。また、宇和海側の塩成・川之浜地区には若干の砂浜が見られ、海水浴場となっている(愛媛県の宇和海沿岸における砂浜は貴重)。それが故に台風の影響を受けやすい場所である[5][6][7][8]。 山 : 全体が半島の稜線を成し、両側(宇和海側・瀬戸内海側)に集落が広がる 河川 : 大川 湖沼 : 亀ヶ池 海から見た佐田岬半島 人口[編集] 人口は1955年3月31日の旧・伊方町合併時は1万人を超えていたが、山間部かつ居住可能な場所が少ないため、大規模な宅地開発は行われなかった。2005年4月1日の周辺3町を合併した新・伊方町誕生後は再び1万人を超え、約1万2000人となったが、その後9千人強に減少している。平成29年3月31日付で原発立地自治体としては珍しい過疎地域に指定された。 伊方町と全国の年齢別人口分布(2005年) 伊方町の年齢・男女別人口分布(2005年) ■紫色 ― 伊方町■緑色 ―

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千光寺 (魚津市) – Wikipedia

千光寺 小川山千光寺の観音堂山門 奥に観音堂 所在地 富山県魚津市小川寺2934 山号 小川山 宗派 真言宗 本尊 観音菩薩 創建年 (伝)天平18年(746年) 開基 (伝)行基 正式名 小川山千光寺 テンプレートを表示 千光寺(せんこうじ)は、富山県魚津市小川寺にあった真言宗の寺院。 現在は、観音堂などと心蓮坊、光学坊、蓮蔵坊があり、三坊はそれぞれ別の寺院となっている。観音堂と3つの坊を合わせた敷地は広大であり、大規模な寺院であったことが偲ばれる。 小川山千光寺観音堂 右奥は白山社

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京葉臨海鉄道臨海本線 – Wikipedia

臨海本線(りんかいほんせん)は、京葉臨海鉄道が運営している鉄道路線である。 千葉港に進出してきた企業の原料や製品を輸送するために1963年に一部が開業、1973年に全線が開業した。臨海本線は、1960年代に国鉄が計画した東京外環状線における京葉線の一部(蘇我 – 木更津間)を成すもので、当初計画では木更津で国鉄房総西線に接続する予定であった[2][3]。 路線データ[編集] 管轄(事業種別):京葉臨海鉄道(第一種鉄道事業者) 路線距離(営業キロ) 蘇我駅 – 北袖駅間 19.9km 市原分岐点 – 京葉市原駅間 1.6km 北袖分岐点 – 京葉久保田駅間 2.3km 軌間:1067mm

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10000000 – Wikipedia

10000000(千万、一千万、いっせんまん、せんまん、ちよろず、英称:ten million)は自然数、また整数において、9999999の次で10000001の前の数である。 合成数であり、約数は 1, 2, 4, 5, 8, 10, 16, 20, 25, 32, 40, 50, 64, 80, 100, 125, 128,

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小樽港 – Wikipedia

小樽港 天狗山から眺めた小樽市街と小樽港(2011年8月) 所在地 国 日本 所在地 北海道小樽市 座標 北緯43度12分09秒 東経141度00分47秒 / 北緯43.20250度 東経141.01306度 / 43.20250; 141.01306座標: 北緯43度12分09秒 東経141度00分47秒 / 北緯43.20250度

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徳島中央郵便局 – Wikipedia

徳島中央郵便局(とくしまちゅうおうゆうびんきょく)とは、徳島県徳島市八百屋町にある郵便局。民営化前の分類では集配普通郵便局であった。局番号は62001。 住所:〒770-8799 徳島県徳島市八百屋町1-2 併設施設[編集] ゆうちょ銀行徳島店(松山支店徳島出張所):取扱店番号620010 – 徳島県内で唯一の同行直営店舗である。 なお、かんぽ生命保険徳島支店は、当局に併設ではなく、中洲町にある富士火災徳島ビル内に設置されている(当局の南東約500m)。 分室[編集] 〒770-8998 徳島県徳島市東沖洲2-66 東海運マリンピアロジスティクスセンター 2011年(平成23年)8月28日、徳島市東沖洲2-60の旧郵便事業徳島ターミナル支店跡地に、ゆうパック専門拠点として設置。2019年(令和元年)10月28日、東海運マリンピアロジスティクスセンターに移転。ゆうゆう窓口の設置はなし。 出張所(局外ATM)[編集] すべて民営化に伴い、ゆうちょ銀行松山支店に移管されている。 1872年8月4日(明治5年7月1日) – 徳島郵便役所として開設[1]。 1875年(明治8年)1月1日 –

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