Month: March 2022

海野厚 – Wikipedia

海野 厚(うんの あつし、1896年8月12日 – 1925年5月20日)は、童謡作家、俳人。本名は厚一(こういち)。俳号は長頸子(ちょうけいし)。 静岡県安倍郡豊田村曲金(現:静岡市駿河区曲金二丁目)の出身。生家は大地主だったが、後に没落。 旧制静岡中学卒業後、早稲田大学に入学。童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に認められ童謡作家となる。俳句同人誌「曲水」にも参加。中山晋平らとともに「子供達の歌」を出版。雑誌「海国少年」の編集長も務めた。結核のため28歳で死去したため作品数は多くない。没後は西豊田小学校に隣接する法蔵禅寺に葬られ、墓石が存在する。 彼の母校である静岡市立西豊田小学校には「背くらべ」の歌碑が建てられている。また西豊田小学校すぐ南側の南幹線(カネボウ通り)沿いにある和菓子店の一角には、「海野厚生家跡」の石碑が建てられていた。しかし2012年に同店が閉店したため、2017年現在は企業敷地となっており現存しない。 この他に小田島作曲の「山は夕焼」を作詞したという説がある。 「ひなまつり」作曲:三宅延齢/中山晋平。(同じ詞に2つの曲がつけられた) 「信号機」作曲:本居長世 「七色鉛筆」作曲:外山國彦 「背くらべ」作曲:中山晋平 「露地の細道」作曲:中山晋平 「月夜の畑」作曲:中山晋平 「背くらべ」…… この作品は兄に背の高さを測ってもらった弟の視点で書かれている。しかし実際の厚はこの歌の兄の立場(7人兄弟の長兄)であった。柱の傷が去年のものではなく一昨年なのはこのころ東京に出ていた(早稲田大学在学中)厚が帰省できなかった時のことを弟の気持ちになって書いたからだといわれる(帰省できなかったのは結核の治療のため[1]、恩師の追悼会に出席していたためなど諸説ある)。 ^ 日本の童謡研究会『誰も知らなかった本当はこわい日本の童謡』2002年、ワニブックス p.113

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七十人訳聖書 – Wikipedia

七十人訳聖書(しちじゅうにんやくせいしょ、羅:Septuaginta, 「70」の意。LXXと略す)は、現存する最古の旧約聖書の 翻訳の一つである。キリスト教ではほぼ旧約聖書と同義(厳密には宗派で定義が異なる。本項の#構成とテキストを参照)、ユダヤ教では外典とされる。 ファラオの命でヘブライ人の経典(旧約聖書)をギリシア語に翻訳した聖書であると伝えられ、紀元前3世紀中頃から前1世紀間に、徐々に翻訳・改訂された集成の総称を言う。ラテン語読みであるセプトゥアギンタとも呼ばれる。Septuaginta の由来については諸説あるが、旧約偽典のアリステアスの手紙の伝える[1]、エジプトのファラオ・プトレマイオス2世フィラデルフォスの命で、72の訳者が72日間で「律法」(モーセ五書)の翻訳をなしたという伝説によるという説が有力である(その構成については旧約聖書の項を参照のこと)。この72人の訳者とは、イスラエルの十二氏族(英語版)の各氏族から各6名ずつ派遣された長老たちとされる。72人の長老達による訳書がいつごろ、なぜ七十人訳と呼ばれるようになったかは定かではないが、1世紀の著述家であるフラウィウス・ヨセフスはその著作『ユダヤ古代誌』において70人の長老と2名の使者がアレクサンドリアに派遣されたことを記述しており、少なくとも1世紀頃には既に七十人訳の名称が広まっていたと考えられている[2]。 伝統的に七十人訳とされているものには、ヘブライ語並びにアラム語で書かれた旧約聖書のギリシャ語訳のみならず、旧約聖書からは除外された文書で、これも同じくユダヤ人によって著作された文書で紀元前2世紀から紀元1世紀の間に完成した、経外書、外典、偽典などの名で知られる文書群も含まれる。この中にも原文はヘブライ語あるいはアラム語で著作された、と考えられ、その存在はギリシャ語、シリア語、ラテン語、エチオピヤ語などでしか伝わっていなかったものもある。その一部は、例えば、トビト書などのようにアラム語の形で死海文書の中に出て来たものもある。そのほか、第2、第3、第4マカベア書などのように、当初からギリシャ語で著作されたと考えられるものも同様に七十人訳の一部を成す。 成立背景と伝播[編集] ヘブライ語を読めないギリシア語圏のユダヤ人、また改宗ユダヤ人が増えたため翻訳がなされたと推測される。いわゆる「ディアスポラ」のユダヤ人はヘレニズムに先行するが、ギリシャ語話者ユダヤ人(ヘレニスト)は、アレクサンドロス大王の遠征以降、一層増加したと思われる。外交文書とか、通商交易に関した文書が翻訳されるということはいつの時代、どこでも行われたであろうが、旧約聖書のような量も多く、且つ内容も物語、詩文、法律文書、箴言など多岐にわたるものが翻訳されたのは、人類史上画期的であった。 新約聖書内には、旧約から引用する際、この訳を用いている場合が多い。パウロはヘブライ語、アラム語も読めたようであるが、書簡では引用に際して一部これを用いている。ヒエロニムスも旧約の翻訳の際に、これを参照している。また、ルネサンス以前の西欧では、ヘブライ語の識者が殆どいなかったためもあって、重宝されたようである。なお正教会ではこれを旧約正典として扱い、翻訳の定本をマソラ本文でなく、七十人訳におくことがある。 ちなみに、パウロを始め当時の使徒たちが用いていた旧約聖書は専らギリシア語訳の聖書であるため、この七十人訳聖書はキリスト教研究にとって極めて重要な聖書であると言える。また、七十人訳が、ラテン語、アルメニア語、コプト語、エチオピヤ語,グルジア語、古スラブ語など初期のキリスト教会の各方面で旧約が翻訳される時の基礎となった。 また、言語xから言語yに通訳、あるいは翻訳する時は、言語xで言われたこと、書かれていることを解釈、理解したことが前提とされる。したがって、七十人訳のなかで、ヘブライ語あるいはアラム語から翻訳された部分は旧約聖書の最古の聖書解釈を保存している、という意味でも重要であり、七十人訳は単にヘブライ語、アラム語の旧約原典の歴史をたどる、あるいはその背後にある原典の再構成のための本文批評のため以上の意義をもつ。それがために、七十人訳を現代語に翻訳してそれに注解を加えると言う企画も進行中である。その一つは、La Bible d’Alexandrieである。 最古の写本では、断片的なパピルス以外には、バチカン写本、シナイ写本、アレクサンドリア写本など4~5世紀のほぼ完全な写本が残っている。これは、ヘブライ語の最古の完全な写本であるレニングラード写本(1008年)より遥かに古く、旧約の本文批評の作業で重要な位置を占める。紀元前4、5世紀のヘブライ語原典を、ある程度想像できるからである。しかし、七十人訳が原典の忠実な翻訳であるとも限らないため、問題は多い。 構成とテキスト[編集] 七十人訳聖書が含む文書数は、現存している旧約聖書ヘブライ語写本より多く、ヘブライ語写本と七十人訳で細部が異なる文書もある。キリスト教徒が七十人訳を典拠としたことから、1世紀末、ユダヤ教はヤムニア会議でヘブライ語写本をもたない文書を排除することを決定した。これが現在のマソラ写本の範囲を決定しており、このとき排除された文書をユダヤ教では外典という。 キリスト教でも旧約の厳密な範囲をヤムニア会議で確定された正典の範囲に限る神学者もある。一方、歴史的には中世まではキリスト教徒のもつ旧約聖書は七十人訳とほぼ同じであったとする説もあり、現在でもカトリックや東方教会ではそうである。七十人訳の文書の中には、前述の通り、近代に入ってヘブライ語やアラム語の写本が発見されたものもある。 マルティン・ルターは、旧約聖書の底本をヘブライ語およびアラム語写本をもつもの、すなわちマソラ本文にのみ取った。その影響にあるプロテスタント諸派では、七十人訳にのみ含まれる文書を旧約外典と呼び、聖書に含まれない文書とみなす。 プロテスタント正統主義、聖書信仰では、ヤムニア会議以前から旧約聖書に正典としての権威があったことを前提にしており、ユダヤのヤムニア会議に権威をおいていない。また、歴史的にも正典と外典の区別があったことを前提にしている。[3][4][5] 近代に入ってから、現存の写本に基づいて学問的な七十人訳の校訂本を出版しようという試みがなされた。A.

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大アラコ古窯跡 – Wikipedia

大アラコ古窯跡(2009年)、左側の看板は2006年に立てられたもの。 大アラコ古窯跡(おおあらここようせき)は、愛知県田原市芦町大アラコ地区にある遺跡[1]。平安末期から鎌倉時代に栄えたと考えられている渥美窯の古窯跡のひとつ[2]。5基の登窯からなる[3]。国の史跡[3]。 座標: 北緯34度38分5.2秒 東経137度11分43.8秒 / 北緯34.634778度 東経137.195500度 / 34.634778; 137.195500 (大アラコ古窯跡) 渥美窯は、平安末期から鎌倉時代まで渥美半島で生産されており、山茶碗などの日常容器のほか蔵骨器や経筒容器などの用途に用いられたが、その後は衰退する。 1950年(昭和25年)6月に藤原顕長の銘の入った陶片が出土する。その後、数度の発掘調査を経て、同名の全容がわかる短頸壺をはじめ[4]、多数の銘文入り陶片が出土した。藤原顕長は勧修寺流藤原氏の人物で、院政期に活躍し1136年(保延2年)から1155年(久寿2年)にかけて二次の三河国司を務めている。三河守在任中には富士山での一切経埋納事業と関係して経塚造営を行い、静岡県三島市や山梨県南巨摩郡南部町の篠井山経塚などでも大アラコ古窯で生産された同銘文の経塚容器が出土しており、大アラコ古窯が使われていた時期も特定された。 他にも大甕・壺・鉢・山茶碗などが出土しており、顕長銘をもつ短頸壺などの出土遺物は愛知県陶磁美術館(瀬戸市)に保管されている[5]。 昭和30年代までは渥美半島で過去に陶器を作っていたことは知られておらず、それに当たるものは「謎の黒い壺」と呼ばれていた[6]。この大アラコ古窯跡の発掘を嚆矢として、渥美半島全域で古窯の調査が進み、多くの場所で陶器を生産していたことが明らかになったのである[6]。 1971年(昭和46年)に国の史跡に指定された[1]。 他の著名な渥美半島の窯跡[編集]

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南極点 – Wikipedia

座標: 南緯90度 西経0度 / 南緯90度 東経-0度 / -90; -0 南極点(なんきょくてん、英: South Pole)とは、自転する天体の最南端に当たる南緯90度地点のことである[1]。ほとんどの場合、地理学上の南極点は自転軸と天体表面が交差する点の内、南側にある1点が南極点である。もうひとつは北極点のことである。 以下本項では特に断らないかぎり、地球の南極点について述べる。 南極点は南極大陸上に位置し、1956年に建設されたアメリカ合衆国のアムンゼン・スコット基地内にある[1]。 南極点はあくまで地理学的な地点であり、方位磁石のS極が指し示す地磁気の極である南磁極(南緯64.6度、東経138.6度、1997年1月)や、地球磁場を完全な双極子磁場と想定した際にS極に当たる南磁軸極(南地磁気極)(英語版)(南緯78.6度、東経110.0度)とは一致しない[1]。 南極点の地理座標は、緯度であれば単純に南緯90度と与えられる。一方の経度では、表すことができない特異点である極(きょく)に相当する[1]。便宜的に経度を示す場合、南極点の方眼北(グリッド北)はグリニッジ子午線に沿っているとみなし、経度は西経(または東経)0度としている[2]。 地理学上の南極点[編集] 2000年に設置された南極点の標識ジオグラフィック・ポール。毎年位置が変えられる[3]。 訪問者用(観光用)に設置されている南極点のセレモニアル・ポール。年々、実際の南極点とずれてゆく宿命を負っている[3]。 南極点は南極大陸上にある。ただし、大陸移動があるため、地球の歴史において常にそうであった訳ではない。2011年現在それは、最も近い海岸線となるマクマード湾(英語版)から内陸におよそ1,300キロメートル(800マイル)の位置にある。そこには厚さおよそ2,700メートルの氷が大地を覆い、南極点はその氷床の上、標高にしておよそ2,835メートルの位置にある[4]。

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東尾久三丁目停留場 – Wikipedia

東尾久三丁目停留場 ひがしおぐさんちょうめHigashi-ogu-sanchome ◄SA 07 町屋二丁目 (0.3 km) (0.6 km) 熊野前 SA 09► 所在地 東京都荒川区東尾久三丁目 北緯35度44分43.4秒 東経139度46分27.8秒 / 北緯35.745389度 東経139.774389度 / 35.745389; 139.774389座標:

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秋沢淳子 – Wikipedia

秋沢 淳子(あきさわ じゅんこ、1967年4月8日[1] – )は、TBSテレビの社員で、元アナウンサー。 埼玉県飯能市出身。聖望学園高校、慶應義塾大学法学部政治学科卒業[1]。 1991年4月、TBSへアナウンサー27期生として入社、同期入社にはアナウンサーの安東弘樹[2][3](2018年3月退社)、TBSテレビ報道局記者・キャスターの竹内明、TBSラジオで国会担当記者を務めていた武田一顯、情報制作局制作プロデューサーの高橋一晃がいる。 アナウンサー時代の後期には、アナウンス部のデスクやTBSアナウンススクールの講師を兼任していた。2019年7月1日付で事業局国際事業部に異動。 アナウンサー時代の主な出演番組[編集] テレビ[編集] ラジオ[編集] 『異文化に恋して JUNKOの世界ウォッチング』(廣済堂出版、1995年) ^ a b 『テレビ・タレント人名事典(第6版)』日外アソシエーツ、2004年6月、18頁。ISBN 978-4-8169-1852-0。 ^ 「III 放送関係

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香港総督 – Wikipedia

香港総督旗 (1959年-1997年) 香港総督(ホンコンそうとく、英: Governor of Hong Kong、中: 香港總督/香港总督、略称港督)は、イギリス政府により任命されて植民地時代の香港を統治した官吏。香港政庁の首長。日本の占領時には、日本政府任命による総督がいた。 香港総督の役割は英皇制誥(イギリス国王開封勅許状、英:Hong Kong Letters Patent、1843年)および皇室訓令(英:Hong Kong Royal Instruction、同年)によって定義された。イギリス国王の名代として大きな権限を持ち、香港における軍司令官を兼ねた。行政諮問機関である行政局および立法機関である立法局の議員は1991年に最初の立法局直接選挙が行われるまで、全て総督により指名された。1997年の香港返還後は、行政権の大部分は香港特別行政区行政長官に、また軍事権は中国人民解放軍駐香港部隊司令員に引き継がれている。 歴代の香港総督の多くはイギリス植民地省の官僚が務めたが、1971年に就任したマクレホース卿以降は外交官出身者が多くなり、最後の香港総督であるパッテンは保守党幹事長も務めた政治家である。 香港の道路など公共施設には、イギリスから中華人民共和国に主権が返還、委譲された現在も、歴代総督の名前が多く用いられている。 総督の広東語名[編集] 香港で非漢字圏の人名は、一般に音の似ている字を当てはめて音訳する。歴代の香港総督の多くには、それとは別に中国人風の広東語名が付けられた。例えば、第28代総督クリストファー・パッテン(のち一代貴族パッテン卿)は、香港総督として着任するまでは柏藤(パッテンの音訳)と表記されていたが、着任後は彭定康と表記されるようになった。多くの場合、総督の苗字と名前の原音から近いイメージの音になり、なおかつ字義に悪いニュアンスが含まれないなど人名としてふさわしい字を注意深く選んで、2ないし3文字程度の一見中国人風の名前が名付けられた。中英間の関係を少しでも融和させようという意図の下に行われていた。 歴代香港総督の一覧[編集]

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一夜城 – Wikipedia

一夜城(いちやじょう)は、攻城などにおいて相手方の城に対する野戦陣地として構築される陣城のうち、非常に早く構築されたもののこと。 豊臣秀吉の一夜城[編集] 豊臣秀吉の手による以下の2つの城が知られているが、いずれも全く一夜で作られたものではない。 物語上では『絵本太閤記』出版以降に墨俣城が見られる。短期間で築城されたと見られる記録があるものに石垣山城がある。 墨俣城 『絵本太閤記』に初めて見られるとされ、『前野家古文書』に墨俣築城の経緯が記されている。しかし、織田信長にとっても、豊臣秀吉にとっても重要なこの築城にについて、太田牛一の『信長公記』をはじめとする良質の史料には、全く記載がない。秀吉が一夜城を築いたという話には、それが史実であることを窺わせる史料的な裏付けがない。今後、そうした史料が見出せぬ限り、秀吉が築いたという墨俣城は、実在しなかったと断言せざるを得ない。 石垣山城 小田原征伐の際に陣城として築かれた城で、小田原方から気付かれないように小田原城側の山の木を伐採せずに築城し、大方出来上がった時点で、木を伐採することで、一夜にして城が出来上がったかのように見せかけたとされる(『小田原北条記』巻九)。記録には、6月初旬に伊達政宗が訪れたときはまだ完成していなかったと伝えられているが、同月20日付けで千利休が古田織部に宛てた書状には「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記されているという[3]。後世の軍記物『小田原北条記』巻九では、「4月1日に、石垣山に兵を上げて陣屋を作り、矢倉を組み立て、その四方の壁面に杉原紙を張りまわした」ことで、一夜の内に「白壁の屋形」ができあがったと説明する。 下の物も一夜城と呼ばれることがある。 益富城 古処山城を本拠とする支城。秀吉軍が九州征伐で陥落させた際に火の海となったが、一夜が明けると益富城は見事に修復していた。実際は火の海にもなっておらず、村人が一斉に篝火を焚かせた物であり、城も村人の障子などを貼った物であった。 織田信忠の一夜城[編集] 信長の長男、信忠が1582年(天正10年)に高遠城を攻めた際、伊那谷に「一夜の城」を築いたという伝承がある。伊那市教育委員会が言い伝えられている地点を発掘調査したところ、堀を広げた痕跡などを確認。実際は一夜で新造したのではなく、元々あった居館を接収するなどして陣地に使った可能性もあると推定している[4][5]。ここを織田軍が実際に使ったかどうかの確認も含めて、今後も調査を続ける予定である[6]。 参考文献[編集] 藤本正行『信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像―』(JICC出版局、1993年) 関連項目[編集]

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コンスタンティン・チェルネンコ – Wikipedia

コンスタンティン・ウスチーノヴィチ・チェルネンコ(ロシア語: Константи́н Усти́нович Черне́нко、ラテン文字表記の例:Konstantin Ustinovich Chernenko、1911年9月24日[注釈 1] – 1985年3月10日)は、ソビエト連邦の政治家。ソ連共産党中央委書記長、最高会議幹部会議長の職にあって、1年余りに渡って同国の最高指導者であった。 生い立ちから権力の掌握まで[編集] 生い立ち[編集] 1911年9月24日、ロシア帝国のシベリア・クラスノヤルスクのノヴォショーロヴォ地区ボリシャヤ・テシ村にて生まれる。チェルネンコは貧農の出身であり[1]、父親は鉱山で働き、母親は農作業に従事していた。チェルネンコ自身は、幼少時には富農(クラーク)に雇われて働いた。1929年にコムソモールに入り、同年、ノヴォショーロヴォ地区宣伝・煽動部長となる。翌1930年、軍に志願し、ソ連と中華民国の間の国境警備隊に配属される。 共産党[編集] 1931年にソビエト連邦共産党に入党し、軍を除隊した後はクラスノヤルスク地方党宣伝部副部長となる。第二次世界大戦中はクラスノヤルスク地方党書記を務めた。モルダビア(現在のモルドバ)のキシニョフ教育大学を卒業し、第二次世界大戦終結後の1945年にペンザ州党委員会書記を経て、1948年にモルダビア共和国共産党中央委員会宣伝扇動部長となる。この時のモルダビア共産党第一書記が、後にソ連共産党書記長となるレオニード・ブレジネフであった。 ブレジネフの知遇を得たチェルネンコは、1956年にソ連共産党宣伝部大衆煽動活動課長に登用される。以後ブレジネフの側近として昇進を続け、1960年にブレジネフが憲法上の国家元首ポストである最高会議幹部会議長に就任すると同時に、彼の首席補佐官に就任した。1964年にフルシチョフが失脚し、ブレジネフが第一書記(後に書記長)に就任すると、翌1965年にチェルネンコは「書記長官房」の異名を取るソ連共産党中央委員会総務部長に指名された。その中で、政治局の議題の設定や、中央委員会が策定した多数の法案と決議案を準備するという任務や、さまざまな党幹部の電話を盗聴し、行動を監視するという任務を司った。また、毎日何百もの党文書に署名する仕事が与えられ、総務部長就任以来20年間に渡って書記長に就任してなおも総務部から提出された文書に署名し続けた。また中央委員会に投書部を設け、下僚の意見を積極的に吸い上げようとした。 1971年、中央委員会委員に昇進。1976年3月、中央委員会書記に抜擢された。さらに1977年に政治局員候補に、1978年11月には政治局員へと昇進した。 ブレジネフ政権末期の頃には党のイデオロギー担当の仕事に従事した。外国訪問の際にはソ連代表を率いた他、重要な会議にはブレジネフに同伴して出席した。1977年には憲法改正委員会の委員として新憲法の制定に尽力した。 1979年にテヘランのアメリカ大使館が作成したドキュメント 最高指導者として[編集] 書記長に就任[編集]

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