Month: March 2022

東新木停留場 – Wikipedia

東新木停留場(ひがししんぎていりゅうじょう)は、高知県高知市高須新木にあるとさでん交通後免線の路面電車停留場。 東新木停留場は1975年(昭和50年)に新設された停留場である[1]。 乗り場は2面あり、2本の線路を挟み込むように配置される[4]。互いの乗り場の位置は斜向かいに離れていて、東にはりまや橋方面行きの乗り場、西に後免町方面行きの乗り場がある[4]。はりまや橋方面には安全地帯となるホームが設置されるが、後免町方面は北を並走する道路上に白線で乗り場が示されるのみ[4]。 隣の停留場[編集] とさでん交通 後免線 田辺島通停留場 – 東新木停留場 – 新木停留場 ^ a b 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳』11 中国四国、新潮社、2009年、60頁。 ISBN 978-4-10-790029-6。 ^ 服部重敬(編著)『路面電車新時代 LRTへの軌跡』山海堂、2006年、296頁。ISBN 4-381-01816-8。

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ヴィレッジミュージック – Wikipedia

株式会社ヴィレッジ ミュージック(Village Music Inc.)は、過去に存在した芸能事務所でレコード・レーベル。ソニー・ミュージックエンタテインメント傘下のソニー・ミュージックアーティスツの子会社(持株100%)の一つであった。2011年4月、ソニー・ミュージックアーティスツが株式会社ヴィレッジミュージックを吸収合併し法人としては消滅している。その後、SMAの内部部署としてレーベル管理等は行われている。所属アーティストのうち、T-SQUAREは2014年11月にT-SQUARE Music Entertainmentに再移籍。 主にジャズ・フュージョンのアーティストのマネージメント及びCDやDVDの制作・発売をしていた。また音楽スクールのアーティスツ・ヴィレッジ及びヴォーカリスツ・ヴィレッジも運営していた。 2002年にはプロデューサーの伊藤八十八の元、サブ・レーベルEighty-Eightsを発足、ハンク・ジョーンズの晩年の作品などを手掛けていた。 2006年4月1日に株式会社ヴィレッジ・エーと株式会社ヴィレッジ・レコードは合併し、株式会社ヴィレッジ ミュージックに社名を変更。 2011年4月、ソニー・ミュージックアーティスツが株式会社ヴィレッジミュージックを吸収合併し法人としては消滅。以降はソニー・ミュージックアーティスツがヴィレッジレコードレーベルを管理している。 所属していたアーティスト[編集] T-SQUARE 伊沢麻未 GENERAL HEAD MOUNTAIN 朝水彼方 Vitarise(ビタライズ )

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中条町 – Wikipedia

中条町(なかじょうまち)は、かつて新潟県北蒲原郡にあった町。新潟県北東部に位置し、日本海に面していた。 面積は84.58平方キロメートル。全長15kmにおよぶ海岸線を有する。胎内川河口に広がる典型的な扇状地。乙(きのと)地区では伏流水が自噴し、わずか標高8mの地点に高山植物のミズバショウが自生している。 隣接していた自治体[編集] 中世には周辺一帯に奥山荘といわれた荘園が存在し、鎌倉時代から戦国時代までは中条氏が支配した。近世には新発田・村上という2つの城下町の中間に位置することもあり宿場町として栄えた[2]。なお、宿場町のまち並みは合併後の2010年度に新潟県の景観づくりモデル地区に指定されている[3]。 市町村合併[編集] 黒川村との1町1村による任意合併協議会が2003年12月25日に設立された。 2004年9月17日に(法定)合併協議会へ移行した。 2004年1月12日、黒川村長布川陽一は、中条町長丸岡隆二に「両町村の住民同士における信頼関係が損なわれた」として協議会の中断を通告。翌1月13日に予定されていた法定合併協議会は中止となった。 町長:丸岡隆二(2004年から) 産業[編集] 農業は、コシヒカリの生産を中心に、葉たばこ、チューリップの球根の生産が盛んで、チューリップの球根の生産量は日本一。特産品は、やわ肌ネギ、幻のぶどう「タノレッド・タノブラック」など[5]。 工業は、昭和30年代に天然ガスが発見されて以降大手化学工場が進出し、アクリルなどを生産。また一部は都市ガスとして供給されている。そのほかにも大手企業の工場が進出する。天然ガスは水溶性ガスが多く、副産物としてかん水を産出しヨードの生産や温泉に利用されている。 町中心部の北西には広大な工業団地がある。 姉妹都市・提携都市[編集] 大学[編集] 高等学校[編集] 県立高校の学区は2000年までは村上学区、2001年以降は第1学区(新発田・村上)[6]。2000年の町内中学生の進学先高校は中条、村上、村上桜ケ丘、中条工業、新発田農業、村上女子、新発田中央の順に多かった[6]。このほか、合併後に開志国際高等学校が開学している。 中学校[編集] 中条町立中条中学校 中条町立乙中学校

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石垣山 – Wikipedia

石垣山(いしがきやま)は、神奈川県小田原市にある山である。標高262メートル。豊臣秀吉が石垣山一夜城を築城したことで知られる。1959年、「石垣山」の名称で国の史跡に指定された。 史跡「石垣山」[編集] 石垣山は、小田原城の南西約2.8キロメートル地点に所在し、天正18年(1590年)、豊臣秀吉が後北条氏の小田原城を攻略した際、築いた本陣のあったところであり、その名称は城壁の石垣に由来している。旧名は笠懸山と称した。なお、石垣山城は、関東で最初に造られた総石垣の城であり、その石積みは近江国の穴太衆による野面積みといわれる。本陣は、4月5日に着工して6月26日に竣工し、山頂部を占めて早川を隔て眼下に小田原城方面を一望のうちにおさめることに成功した。 城跡は、長い年月を経たうえ、1923年(大正12年)の関東大震災で数多くの石垣が崩壊してしまったが、本丸を最高地点として二の丸、南曲輪、井戸曲輪などが配置されて、雄大な石垣ものこり、当時の規模や構造が明瞭に観察できる。なかでも「井戸曲輪」は、谷状地の底部に湧き出る湧水の清浄さをまもるためにわざわざ石垣をめぐらせたもので、きわめて稀少な遺構である。 小田原征伐後は廃城となったが、その歴史的意義とあわせて城歴が限定されていることは、築城史を研究する際の規準となる遺跡であり、学術上の価値が高いことから、1959年(昭和34年)5月13日、国の史跡に指定された。現在は「石垣山一夜城歴史公園」として史跡の保存と整備が進められている。 ギャラリー[編集] アクセス[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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藤森祥平 – Wikipedia

藤森 祥平(ふじもり しょうへい、1978年12月26日 – )は、TBSテレビ報道局外信部の記者(JNNニューヨーク支局特派員)で元・アナウンサー。 東京都の出身で、慶應義塾高等学校から慶應義塾大学経済学部へ進学。高校では硬式野球部で活動していた。 大学卒業後の2001年4月1日付で、有馬隼人・竹内香苗と共に、東京放送(当時)へアナウンサー36期生として入社した[1][2]。 入社当初から、報道・情報番組のキャスターやスポーツ中継の実況を担当。報道・情報番組では、2015年3月まで平日夕方 – 夜間の帯番組(『イブニング・ファイブ』『総力報道!THE NEWS』『イブニングワイド』『Nスタ』)、以降は2021年9月まで『あさチャン!』(平日早朝の帯番組)へ出演していた。『イブニング・ファイブ』へ出演していた時期には、『J-SPO』(日曜日深夜のスポーツ情報番組)と合わせて、週に6日生放送番組へレギュラーで登場した期間があった。 スポーツアナウンサーとしては、ボクシング(テレビ中継)・競馬(TBSラジオでの中継)の実況や、K-1などのリポーターを不定期で務めている。かつては、『J-SPO』のサブキャスター以外にも、『イブニングワイド』や『ウォッチ!』(『あさチャン!』の前身番組)でスポーツキャスターを務めていた。 その一方で、『恋のから騒ぎ』(日本テレビ)に出演した経験のある一般女性と、2006年6月に結婚。2021年7月1日からは、TBSテレビ社内での人事異動によって、「総合編成本部アナウンスセンター アナウンス一部エキスパート特任職スペシャリストアナウンサー兼 情報制作局情報一部」という役職に就いていた[3]。 『あさチャン!』が2021年9月30日で終了したことを受けて、翌10月1日付でTBSテレビ報道局の外信部に異動。異動の直後は、海外支局への赴任に備えながら[4]、「報道局記者」の立場で日本国内の取材リポートを随時担当していた。その一方で、2021年10月16日には、アナウンサー時代の同年8月までレギュラーでパートナーを務めていた『週末ノオト』(TBSラジオ)のエンディングにサプライズで登場した。 2021年12月からは、TBSテレビが運営するJNNニューヨーク支局で特派員を務めている。もっとも、着任直後の同月下旬に新型コロナウイルスへ感染したため、実際には療養を経て翌2022年1月から取材活動を始めている[5]。 アナウンサー時代の担当番組[編集] テレビ[編集] ラジオ[編集]

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経営事項審査 – Wikipedia

経営事項審査(けいえいじこうしんさ)とは、日本の建設業において、公共工事の入札に参加する建設業者の企業規模・経営状況などの客観事項を数値化した、建設業法に規定する審査。略して経審(けいしん)とも呼ばれる。 経営事項審査とは、建設業法(昭和24年5月24日法律第100号)第4章の2に定める「建設業者の経営に関する事項の審査等」のことである。同法第27条の23では第1項で「公共性のある施設又は工作物に関する建設工事で政令で定めるものを発注者から直接請け負おうとする建設業者は、国土交通省令で定めるところにより、その経営に関する客観的事項について審査を受けなければならない。」と規定され、第2項では経営事項審査は、「経営状況」及び「経営規模等」(経営規模、技術的能力、その他の客観的事項)について数値による評価をすることにより行う」と規定している。また、第3項では「経営事項審査の項目及び基準は、中央建設業審議会の意見を聴いて国土交通大臣が定める。」と規定しており、制度改正には必ず中央建設業審議会(中建審)が開催される。 「経営状況」の分析は国土交通大臣の登録を受けた者(登録経営状況分析機関)が行う。一方、「経営規模等」の評価は国土交通大臣又は都道府県知事が行う。 経営事項審査を必要とする工事[編集] 建設業法第27条の23第1項における「公共性のある施設又は工作物に関する建設工事で政令で定めるもの」については、建設業法施行令第27条の13で定められている。 第二十七条の十三 法第二十七条の二十三第一項の政令で定める建設工事は、国、地方公共団体、法人税法(昭和四十年法律第三十四号)別表第一に掲げる公共法人(地方公共団体を除く。)又はこれらに準ずるものとして国土交通省令で定める法人が発注者であり、かつ、工事一件の請負代金の額が五百万円(当該建設工事が建築一式工事である場合にあつては、千五百万円)以上のものであつて、次に掲げる建設工事以外のものとする。 一 堤防の欠壊、道路の埋没、電気設備の故障その他施設又は工作物の破壊、埋没等で、これを放置するときは、著しい被害を生ずるおそれのあるものによつて必要を生じた応急の建設工事 二 前号に掲げるもののほか、経営事項審査を受けていない建設業者が発注者から直接請け負うことについて緊急の必要その他やむを得ない事情があるものとして国土交通大臣が指定する建設工事 — 建設業法施行令(昭和三十一年政令第二百七十三号)より抜粋[1] 同令における「これらに準ずるものとして国土交通省令で定める法人」については、建設業法施行規則第18条で定められている[2]。 手順[編集] ①建設業者が登録経営状況分析機関に対し経営状況分析申請を行い、登録経営状況分析機関は経営状況分析を行ったときは、遅滞なく、当該経営状況分析の申請をした建設業者に対して、当該経営状況分析の結果に係る数値を通知(具体的には「経営状況分析結果通知書」を交付) ②建設業者が国土交通大臣又は都道府県知事(審査行政庁)に対し経営規模等評価申請を行い、審査行政庁は経営規模等評価を行ったときは、遅滞なく、当該経営規模等評価の申請をした建設業者に対して、当該経営規模等評価の結果に係る数値を通知(具体的には「経営規模等評価結果通知書」を交付) ③建設業者が審査行政庁に対し、総合評定値の請求を行う。ただし、建設業者は①で通知された経営状況分析の結果に係る数値を自社の建設業の許可をした国土交通大臣又は都道府県知事(許可行政庁)に提出しなければならない。審査行政庁は、経営規模等評価の申請をした建設業者から請求があったときは、遅滞なく、当該建設業者に対して、総合評定値(客観的事項の全体についての総合的な評定の結果に係る数値)を通知(具体的には「総合評定値通知書」を交付) ④審査行政庁は、公共工事の発注者(発注行政庁)から請求があつたときは、遅滞なく、当該発注者に対して、当該建設業者の総合評定値(当該発注者から当該建設業者の「経営状況分析」に係る数値及び「経営規模等評価」に係る数値の請求があった場合は、これらの数値を含む。)を通知。ただし、当該業者が総合評定値の請求をしていない場合は、審査行政庁は「経営状況分析」に係る数値を持っていないため、「経営規模等評価」に係る数値のみを通知すればよい。 となる。よって、建設業者は「経営状況分析」のみの受審でもよいし、「総合評定値」を請求しなくてもよいのだが、ほぼすべての発注者における入札参加資格審査申請では総合評定値を求められるため、実際はほぼすべての申請業者は③まで行う。また、②と③は同時進行で行われ、審査行政庁から交付される「通知書」も一体化している。なお、この「通知書」は下部に(参考)として「経営状況分析」に係る数値も掲載しているため、この「通知書」だけで、経営状況分析を含む経営事項審査全体の審査結果が把握できる。 公共工事を受注したい建設業者はこの経営事項審査を受けることが義務付けられている。有効期間は審査基準日(通常は決算日)から1年7ヶ月間。また、有効期間内に審査事項が変更になった場合、再審査を受けないと不利益をこうむることがある。 この経審の総合評定値を客観点とし、これに各官庁・地方自治体等の独自の基準(主観点)を加えた総合点数で、入札ランクを決定する官庁・地方自治体等がほとんどである。 審査行政庁(国土交通大臣又は都道府県知事)が定めた添付書類(裏付け資料)を基に審査され、ペーパーカンパニーや暴力団関連の建設業者、いわゆる不良不適格業者を排除する仕組みを取り入れている。 審査は、審査基準日における下記に列挙する項目を評価する。審査を申請する日に審査事項が改善していても、審査基準日においての状況で判断する。

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内藤昌豊 – Wikipedia

内藤 昌豊(ないとう まさとよ)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣で武田四天王の一人。「内藤昌豊」の名で伝わるが、1977年に服部治則は正しい実名は「内藤 昌秀(まさひで)」であると指摘している[注釈 2]。 出生から信玄時代[編集] 『武田三代軍記』によれば、大永2年(1522年)、武田信虎の重臣・工藤虎豊(下総守)の次男として生まれたという。父・下総守の事跡は不明であるが、永正5年(1508年)に武田信虎に反乱して敗北し、郡内地方の小山田平三とともに伊豆国韮山の伊勢宗瑞(北条早雲)を頼って逃れた人物に「工藤殿」がおり、これが下総守に相当するとも考えられている。 初見史料は永禄2年(1559年)6月12日で、「工藤源左衛門大尉」を名乗り信玄の側近として活動していることが確認される。永禄6年頃から永禄13年頃まで信濃国深志城を守備している。『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは本隊に所属し、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍したという。 永禄9年(1566年)までに信濃国深志城(松本城、長野県松本市)の城代を務める。武田氏は西上野侵攻を行い、同永禄9年9月に箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)を攻略し、永禄10年(1567年)3月に白井城を攻略し、西上野を領国化する。昌豊は永禄9年頃から後閑氏など上野国衆の取次を務めている。箕輪城代は永禄9年から翌永禄10年まで春日虎綱・真田幸綱による在番で、永禄11年(1568年)から永禄12年(1569年)には浅利信種が務めている。浅利信種は永禄12年10月6日の三増峠の戦いにおいて戦死したため、昌豊は信種の後任として永禄13年から元亀元年(1570年)4月頃までに箕輪城代となり、長篠合戦で戦死する天正3年まで務めている。なお、三増峠合戦で昌豊は小荷駄隊を率いて自軍の補給を支えたという。 永禄10年8月12日の時点では「工藤源左衛門尉昌秀」を名乗っている。昌秀は永禄12年8月26日の時点で「内藤修理亮」を名乗っており、断絶していた武田家譜代の内藤家の名跡を継承し、内藤姓に改め、同時に修理亮を名乗ったと考えられている(工藤氏の家督は兄・昌祐が継いだ)。昌秀は永禄13年4月3日付武田信玄書状において「内藤修理亮」を称していることが確認され、同月10日には箕輪城代着任が確認される。このため、内藤改姓は箕輪城代就任に伴うものであったとも考えられている[要出典]。 元亀2年(1571年)12月には越後上杉氏から上杉家臣北条高広・景家を通じて同盟の申し出があり、このころ武田氏は北条氏政と甲相同盟を結んでいたため、昌秀は信玄側近の跡部勝資と協議し、これを退けている。 最期[編集] 元亀4年(1573年)4月に信玄が死去した後は、子の勝頼に仕えた。 天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは、原昌胤・山県昌景とともに左翼に配置され、西上野国衆を相備にしていたと考えられている。『甲陽軍鑑』によれば内藤隊は織田軍本隊と戦い、また『本多家武功聞書』によれば本多忠勝と戦ったとしているが、不明。『甲陽軍鑑』によれば、武田勢が敗退する中、昌秀は馬場信春とともに勝頼を戦場から逃すため踏みとどまり、今川氏真の使者として徳川家康の陣中見舞いに訪れ徳川軍の中にいた朝比奈泰勝により討ち取られたという。享年54。 なお、小山田多門書伝平姓小山田氏系図写・『甲乱記』によれば昌秀は長篠合戦以前に「大和守」に改称していることが確認される。 人物・逸話[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “内藤昌豊” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii ·

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バブルカー – Wikipedia

この項目では、欧州で第二次世界大戦後作られた小型自動車について説明しています。日本でバブル景気の頃に作られた自動車については「旧車」を、そのうちでも特に高級車については「ハイソカー」をご覧ください。 バブルカー(Bubble car )は超小型自動車(マイクロカー)の一種。呼称の由来は、小さな車体に対する大きなキャノピー(キャビン)がバブル(泡)を連想させることから。 メッサーシュミット・KR200 ハインケル・カビーネ 富士自動車・フジキャビン この種の車両はヨーロッパ各国で1940年代末期から出現した。第二次世界大戦の戦禍の影響から困窮が続く中、航空機や兵器などの軍需企業の民需転換策や、新興企業の自動車業界参入が図られていたドイツやイタリア、フランスを中心に周辺の中小国でも生産された。1920年代以前のサイクルカーの流れを汲む、極めて小さく廉価な簡易自動車である。 イソ/BMW・イセッタ、メッサーシュミット・KR200などが代表例として知られる。最低限の装備、機能しか持たないため、ほとんどが三輪車であったり、ドアの枚数が削減され、通常の自動車では想定されないドアレイアウト(イセッタ、ハインケル等の前面ドア、メッサーシュミットのキャノピー式ドア等)を持つなど、特徴的なデザインを備える。メッサーシュミットは「雨を避けることが出来るスクーター」として発想されているため、カビネンローラー(キャビン付きスクーター)と名乗っていたが、これが広まってバブルカー全体を指す言葉として使われることがある。 バブルカーの特徴として、敗戦で軍需を失ったドイツ等の元航空機メーカーに多数参入事例があり、シンプルな中にも航空機技術で培った最先端技術(モノコックフレームや大型アクリル成形など)が盛り込まれていたことが挙げられる。流線形の導入やプレス加工技術の採用、タイヤの小径化など、前世代のサイクルカーと比較して大きく進歩を遂げていたことも特徴である。定員は2名か、運転者1名以外に子供2名程度であった。 エンジンはコンパクトで軽量・簡易、かつ過負荷に耐えるという条件から、強制空冷単気筒エンジンが多く、2ストロークエンジンが主であった。一部には2気筒タイプなど例外も存在した。排気量は各国の税制にも影響されたが、一般に150 cc – 400 cc程度であった。自社エンジンを持たず、ザックス等のエンジンメーカーから汎用エンジンを購入して搭載する事例もまま見られた。元航空機メーカーならではの軽量化や空気抵抗軽減が図られていたこともあり、小型エンジン故に加速性能こそ低かったものの、当時の交通速度に適した70 – 100 km/h程度の速度には到達できた。 1950年代にはヨーロッパの経済復興が未だ進展していなかった事情も相まって、これらの簡易車両にはヨーロッパの大衆層から一定以上の需要があった。ことに、1956年のスエズ危機に際してエジプトに賛同したシリアがペルシア湾から地中海に抜ける原油パイプラインを封鎖、当時ペルシャ湾の石油に依存していたヨーロッパ各国が重大な石油危機に陥ったことで、ヨーロッパ各国では経済性に優れたミニチュアカーが一時的に普及した。 その後石油が再び安定供給され、多くのメーカーが500

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パッターニー県 – Wikipedia

パッターニー県 จังหวัดปัตตานี この項目は英語版を元に作成されています。 パッターニー県(パッターニーけん、タイ語: จังหวัดปัตตานี、マレー語: Patani、ジャウィ文字: ڤطاني)は、タイ王国南部(深南部)の県(チャンワット)の一つである。ナラーティワート県、ヤラー県、ソンクラー県と接する。 パッターニーはマレー半島のタイランド湾側に位置する。 マレー半島北部・タイ南部には古くはヒンドゥー教を国教とするランカスカ王国(英語版)(2世紀 – 14世紀)が栄えていた。 13世紀、ランカスカ王国がシュリーヴィジャヤ王国の属国となり、スマトラ島のパレンバンへ遷都した際に、パッタニーに独立王朝のパタニ王国(14世紀/1516年 – 1902年)が成立した。1516年にはポルトガル人の探検家ゴディーニョ・デ・エレディア(ポルトガル語版)がパタニを訪れたことから、西洋史では1516年に発見されたことになっている。 パタニ王国は、スコータイ王朝、アユタヤー王朝、チャックリー王朝と朝貢関係にあったが、1770年頃、ソンクラーを拠点にシャム軍が侵略して属国とした。バンコク王朝(英語版)のチャックリー改革により半独立状態になっていたパタニ王国は廃止され、大英帝国との協定によってパッターニーはマレー人が多く住みながらも、タイの一部となった。 パタニ王国廃止直後から独立運動が盛んになり、2004年には多くの死者を出す武力衝突も起こっている[1]。 タイ族よりもマレー人が主に住み華人なども多い。また、パッターニーの住民の80%はムスリムである。 県章にデザインされている大砲はパタニ王国の官吏・林道乾によって制作されたパヤー・ターニー(マレー語ではスリ・パタニ)である。以前パッターニーに設置されていたものであるが、1785年(タイ仏暦2328年)、バンコクに移された。現在防衛省本部の庁舎前に飾ってある。(大砲の詳細はラージャ・ビルを参照のこと。) 県花はハイビスカス(Hibiscus rosa-sinensis)、県木はタキアン(Hopea

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山崎たくみ – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “山崎たくみ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年9月) 山崎 たくみ(やまざき たくみ、1964年4月14日[3][6] – )は、日本の男性声優、音響監督。東京都出身[3]。 経歴 幼いころ「鳥になりたい」という夢を持ち、その次は鳥は無理だから、宇宙飛行士になりたいという夢を持っていた。軍のパイロットが宇宙飛行士になるケースが多いことを知り、「戦闘機のパイロットになろう」と憧れていたが、中学時代、本の読み過ぎで近視になり断念する。高校時代に演劇部の部長の友達に廃部寸前の演劇部に名前を貸す形で入部したが、「せっかくだから一回くらい出ない?」と言われ、脚本と舞台を担当する。その後、舞台をしばらくやって声優としてデビューする[5]。 バオバブ学園(現:ビジュアル・スペース俳優養成所)4期生[7]、ぷろだくしょんバオバブ[1]を経て、現在はT.S.P代表。 人物 特色 シリアスからコミカルな役どころまで多彩に演じている[4]。

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