Month: March 2022

西浦聡生 – Wikipedia

西浦”ウィッキー”聡生(にしうら”ウィッキー”あきよ、1983年8月8日 – )は、日本の男性総合格闘家。長崎県東彼杵郡出身。KRAZY BEE所属。 2005年5月29日、ウィッキー聡生のリングネームでプロ修斗デビュー。中村浩士にKO勝ち。 2006年10月14日、修斗ライト級(-65kg)新人王決定トーナメント決勝で石澤大介に判定勝ちし、新人王獲得。 2006年12月25日、修斗で田村彰敏と対戦し、0-3の判定負け。 2007年3月16日、修斗で門脇英基と対戦し、2-1の判定勝ち。 2008年2月11日、CAGE FORCE初出場となったCAGE FORCE EX -eastern bound-のフェザー級王座決定トーナメント1回戦でキム・ジョンマンと対戦し、パウンドでKO勝ち。 2008年9月27日、CAGE FORCE 08の初代フェザー級王座決定トーナメント準決勝で孫煌進と対戦し、3-0の判定勝ち。12月6日、CAGE FORCE 09のトーナメント決勝で星野勇二と対戦し、0-3の判定負け。準優勝に終わった。 DREAM[編集]

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買物ブギー – Wikipedia

「買物ブギー」(かいものブギー)は、1950年(昭和25年)発売の笠置シヅ子の歌。作詞・作曲は服部良一(作詞は村雨まさを名義)。吹き込みは1950年(昭和25年)2月11日、発売は1950年(昭和25年)6月15日発売。レコード番号A822B。 1949年(昭和24年)の日劇ショー(サンデー毎日主催)のために作られた。当時ちょうど入院していた服部を笠置が見舞い、新曲を頼まれた服部が頭に浮かんだのが上方落語の「無い物買い」であり[1]、これをもとに詩を付け、5分以上の大作となった。評判となりレコーディングされたが、当時のSPレコードでは収録出来ないので短縮バージョンで行われた。立て続けに歌う複雑な歌詞に、流石の笠置も「ややこし、ややこし」とぼやいたのを、服部が面白がって急きょ曲に取り入れたという。笠置は下駄履きに買い物かごの扮装で歌い踊り、あまりの激しさにいつも下駄が真二つに割れてしまった。 レコード売上は45万枚[2]に達した。 笠置は本楽曲を1952年の「第2回NHK紅白歌合戦」で歌唱した。 松竹映画『ペ子ちゃんとデン助』劇中に、今でいうプロモーションビデオのような映像(映像上でのタイトルは「買物ヴギ」)が存在し、その中には若き日の黒柳徹子も出演している。東宝映画「トットチャンネル」ではこのエピソードを元にしNHKの歌番組に設定を変えている。 映画『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』では、湯浅政明演出によるアニメーションで使われている。 斬新な歌[編集] 歌詞すべてが大阪弁であり、軽快なテンポで40品目の品物を歌い並べ「オッサン、オッサン」と連呼するなど斬新な内容で、いわゆる「立て板に水」の能弁を主題とするやり方は、洋の東西を問わず、特に日本では歌舞伎、落語、講談などの古典芸能から屋台の口上にまで多く見られる。服部はそれをブギにアレンジ、笠置が表現した。 歌詞に「わしゃつんぼで聞こえまへん。」「これまためくらで読めません。」という語句があり、差別用語にあたる(但し差別用語には明確な基準があるわけではない)として、長らく放送されなかった。その部分は近年の復刻版ではカットされたり、カバー版では歌詞を「私は耳が不自由で聞こえまへん。」に変えるなどしている。オリジナル版ラスト部分では、煙草屋で買いたい物のメモを見せるが、そこの「お婆さん」は目が不自由で買い物できず、「ああしんど」とオチになる。この部分も上記とおなじ理由で歌われなくなった。 また、歌詞に仁丹という特定の商品名があるので、NHKでは歌われない。 2010年(平成22年)7月26日放送のNHKラジオ深夜便「にっぽんの歌こころの歌」懐かしの歌謡スター 笠置シヅ子集では、「仁丹」部分は放送された。 歌唱したアーティスト達[編集] 関連項目[編集]

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オオヤマガメ – Wikipedia

オオヤマガメ(大山亀、Heosemys grandis)は、イシガメ科オオヤマガメ属に分類されるカメ。 カンボジア、タイ南部、ベトナム南部、マレーシア(マレー半島北部)、ミャンマー、ラオス南部[1][2][3] 最大甲長43.5センチメートル[1][2][3]。種小名grandisは「大型の、巨大な」の意で、和名や英名と同義(giant=巨大な)[3]。背甲はやや扁平で、上から見ると細長い[3]。項甲板はやや小型で、楔形か等脚台形[3]。椎甲板には筋状の盛り上がり(キール)がある[1][3]。第1椎甲板は中央部より前部で最も幅広く縦幅と横幅の長さはほぼ等しいが、縦幅よりも横幅の方が長い個体もいる[3]。第2-5椎甲板は縦幅よりも横幅の方が長い[3]。背甲の色彩は黒や暗褐色一色[2][3]。喉甲板はやや突出し、左右の喉甲板の間にごく浅い切れ込みが入る個体が多い[3]。背甲や腹甲の継ぎ目(橋)や腹甲の色彩は淡黄色で、放射状に黒や暗褐色の斑紋が入るが老齢個体では不明瞭になることもある[1][3]。 頭部は中型で、吻端はわずかに突出する[3]。顎の咬合面は狭く、顎を覆う角質(嘴)は鋸状に尖らない[3]。頭部の色彩は暗褐色や灰褐色で、虫食い状に淡黄色や黄褐色、灰白色の斑紋が入る個体が多い[3]。指趾の間には水かきがあまり発達しない[3]。 幼体は背甲が扁平で、上から見ると円形[3]。また後部縁甲板の外縁が鋸状に尖る[1][3]。さらに背甲のキールや外縁が淡黄色[3]。 オスは腹甲の中央部が凹む[3]。また尾が太くて長く、尾をまっすぐに伸ばした状態では総排出孔全体が背甲の外側にある[3]。メスは腹甲の中央部が凹まないかわずかに膨らむ[3]。また尾が細くて短く、尾をまっすぐに伸ばしても総排出孔の一部が背甲よりも内側にある[3]。さらにメスの成体は背甲後部と腹甲後部が骨の縫合から靭帯による結合に変わり、腹甲に可動性ができる[3]。これにより大型の卵が産みやすくなると考えられている[3]。 低地から丘陵にかけての流れの緩やかな河川、湖沼、湿原、水田やこれらの周辺などに生息する[3]。陸棲もしくは半陸棲で、水辺の陸上や浅瀬で活動する事が多い[3]。 食性は植物食とされるが、飼育下では動物質も食べる[3]。 繁殖形態は卵生。1回に1-8個の卵を産む[3]。卵は28℃の環境下において99-113日で孵化した例がある[3]。 人間との関係[編集] 生息地や中華人民共和国では食用や薬用とされることがある[3]。 開発による生息地の破壊、水質汚染、食用の乱獲などにより生息数が減少している[3]。2003年にワシントン条約附属書IIに掲載された[3]。タイやミャンマー、ラオスでは商業目的の輸出が厳しく規制されている[3]。 ペット用に飼育されることもあり、日本にも輸入されている。流通量は多くはなかったが、ワシントン条約に掲載されたことにより流通量は減少している[3]。アクアテラリウムか、テラリウムで飼育される。大型種の上に成長が早いため、大型のケージが用意できない場合は一般家庭での飼育は向かない[1][3]。飼育下では配合飼料にも餌付く[3]。カルシウムが少ない動物質の餌のみを与え続けると、急激に成長するものの発育異常や突然死を引き起こす可能性がある[3]。また飼育下だとスペース上の関係から肥満しやすい傾向があるため注意が必要[3]。そのため葉野菜や水草などの植物質を、成長に伴い多く与えるようにする[1][3]。協調性が悪く(特に発情したオス)同種他種問わず噛みつく個体もいるため、基本的に単独で飼育する[3]。 参考文献[編集] ^ a b c d

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ルスピタレート・ダ・リュブラガート – Wikipedia

ルスピタレート・ダ・リュブラガート (L’Hospitalet de Llobregat IPA:[lʊspɪtəˈlɛt də ʎʊβɾəˈɣɑt])は、スペイン・カタルーニャ州バルセロナ県バルサルネス郡のムニシピオ(基礎自治体)。バルセロナ都市圏に含まれる。バルセロナに次いでカタルーニャ州で2番目の人口を有する。スペインのみならずヨーロッパ有数の人口密度を持つ都市として知られている。スペイン語表記は定冠詞のないHospitalet de Llobregat(オスピタレート・デ・ジョブレガット)。 最初に定住地のあった記録は、新石器時代に遡る。リュブラガート川流域で、人類の定住を示す石器が見つかっている。古代ローマの足跡は、メドゥーサの頭部を描いた葬送用装飾といったものがあり(現在バルセロナ考古学博物館蔵)紀元前2世紀からある。しかし、市の古名であるプロベンサーナ(Provençana)は、10世紀になるまで歴史に現れなかった。現在の市名はカタルーニャ語に元を発しており、中世の時代、サンタ・アウラリア・デ・プロベンサーナ教会の隣にあった巡礼宿に由来している。市は18世紀まで村の特性を持ち続けていたが、最初の紡績工場ができたことで人口流入が起きた。1960年代と1970年代にも二回目の移民ブームがおこり、国内の所得の低い州からの入移民が相次いだ。しかしこの移民ブームは必要とされる施設の建設に合致せず、1990年代には公共の投資が学校、住宅、レジャー施設になされだだけに終わった。 定住人口の22%以上がスペイン国外生まれであり、主としてエクアドル、ドミニカ共和国、モロッコである。しかしルスピタレート・ダ・リュブラガートは、欧州連合(EU)の加盟国からの永住人口及び非永住人口も多数抱えている。これらの人口は、2006年調査では78%がスペイン生まれ(52%がカタルーニャ人)で、その他は以下のようになっていた。 スペイン -  207,930人 アメリカ -  35,628人 アフリカ -  7,935人 アジア -  5,375人 ヨーロッパ(EU非加盟国) - 

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国道263号 – Wikipedia

国道263号(こくどう263ごう)は、福岡県福岡市城南区から佐賀県佐賀市に至る一般国道である。 福岡市の市街地の西部、城南区の荒江交差点を起点とし、旧早良町域を通り、福岡・佐賀県境の三瀬峠を越えて佐賀市域に入り、旧三瀬村・大和町を抜け、佐賀市中心市街地の北部にあるSAGAアリーナ前交差点が終点で、概ね南北に延びている。 県庁所在地である福岡市と佐賀市を直接つなぐ国道である。しかし、三瀬峠とその前後は脊振山地を越えるため車線こそ2車線であるが、急勾配と急カーブが連続し、かつてはローリング族が多かった。三瀬峠のバイパス道路として、三瀬トンネル有料道路が供用されている。 路線データ[編集] 一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。 路線状況[編集] 愛称[編集] 重複区間[編集] 国道323号(佐賀県佐賀市大和町大字梅野 – 佐賀市日の出1丁目・SAGAアリーナ前交差点(終点)) バイパス[編集] 三瀬トンネル有料道路 – 三瀬峠付近での冬季交通規制や急カーブ・急勾配を解消するために建設された。1986年(昭和61年)にトンネル部分、2008年(平成20年)に福岡側のループ橋部分が供用開始された。歩行者は無料で通行可能であるが、トンネル以外に歩道は無い。軽車両以上は有料である。料金徴収期間は2030年2月までの予定。佐賀県道路公社が管理している。 佐賀市大和町の肥前国庁前交差点から佐賀市高木瀬町の佐賀工場団地交差点までの区間はバイパスが整備されており、重複している。 整備[編集] 宿拡幅  大和拡幅 

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オアシス・オブ・ザ・シーズ – Wikipedia

オアシス・オブ・ザ・シーズ(Oasis of the Seas)は、アメリカのロイヤル・カリビアン・インターナショナルが運航するクルーズ客船である。2009年10月に同社に納入され、同年12月1日に就航、2010年には初のオアシス級の姉妹船としてアリュール・オブ・ザ・シーズ[1]両船はフロリダ州フォートローダーデールのエバーグレーズ港からカリブ海の航路で運航されている。[2]2010年3月には乗船旅客数6,000人を超す記録を樹立した。[3] また、オアシス・オブ・ザ・シーズは同社所有のフリーダム・オブ・ザ・シーズを抜き、当時世界最大のクルーズ客船となった。[4]しかし、同船より全長50mm長いアルーア・オブ・ザ・シーズに同記録は更新された。ただし、この長さの差は同一規格で設計された両船の測定時の鋼材の温度差によるものであると考えられている。[5] ロイヤル・カリビアン・インターナショナル社のフリーダム・オブ・ザ・シーズ級の拡大版とされ、総トン数においてフリーダム級を、サイズにおいてキュナード・ラインのクイーン・メリー2を抜き、世界最大のクルーズ客船となった。総客室数は2,706室で、そのうち2,210室はオーシャンビューとなっている。ちなみに、本船の全長361m、全幅47mは2014年に予定されているパナマ運河拡張工事完了後に通過可能な限界値、全長366m・全幅49mに非常に近い値ではあるが、通過は可能である。 建造は、STXヨーロッパ造船のフィンランド・トゥルク工場で行われた。 船内施設[編集] コンセプトの「近所付き合い」を基に造成された。 商業施設など[編集] ロイヤル・プロムナード 20世紀初頭のアメリカを再現。他船に比べ幅が二倍になり、上にあるセントラルパークから自然光を取り入れたため、より開放的な空間になった。周りには多数の店舗が並び深夜までオープンしている。イベントも時々行われる。 セントラルパーク 船上公園。本物の草木が植えてあり散歩も楽しめる。遊歩道が左右にあり、真ん中にはロイヤル・プロムナードに日光を取り入れるための窓がある。屋根がないため雨が降ると傘をささなくてはいけない。 ボードウォーク 回転木馬がある海岸沿いの遊歩道をイメージしたエリア。船の前方側にはセントラルパークやロイヤル・プロムナードがあり、後方のアクアシアターとも繋がっている。周りには子供やファミリー向けのショップが並ぶ。 エンターテインメント[編集] シアター 1380席の大型劇場。豪華に飾られたシアターでは「ヘアスプレー」「シカゴ」などのブロードウェイミュージカルや手品、歌、アクロバット等が催される。 アクアシアター

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地方財政委員会 – Wikipedia

地方財政委員会(ちほうざいせいいいんかい)は、廃止された日本の行政機関。 地方財政委員会(第一期)は、1948年(昭和23年)1月7日に、内閣に設置された合議制の行政機関。1949年(昭和24年)6月1日に廃止された。→地方財政委員会#第一期 地方財政委員会(第二期)は、1950年(昭和25年)5月30日に、総理府に設置された合議制の行政機関(行政委員会)。1953年(昭和27年)8月1日に廃止された。→地方財政委員会#第二期 概要[編集] 地方財政委員会(第一期)は、1948年(昭和23年)1月7日、内務省の廃止[1]に伴い、地方財政委員会法(昭和22年法律第155号)に基づいて、内閣に設置された合議制の機関である。1949年(昭和24年)6月1日、地方自治庁設置法(昭和24年法律第131号)に基づいて廃止され、その業務は同日に設置された地方自治庁に引き継がれた[2]。 委員[編集] 地方財政委員会は、内閣総理大臣に任命された5名(後に6名[3])の委員から構成された。5名は次の者から、各1名が選任された。 他の行政事務を分担管理しない国務大臣 国会議員の中から代表者として衆議院議長及び参議院議長の指名した者[3] 都道府県知事の代表者として 市長の代表者として 町村長の代表者として 委員長[編集] 地方財政委員会委員長は国務大臣たる委員をもって充てることとされ、初代の地方財政委員会委員長には、片山内閣の国務大臣・竹田儀一が就任した。 事務局長[編集] 荻田保:1948年1月7日 – 1949年6月1日 所掌事務[編集] 地方財政委員会は、「国家公益と地方公共団体の自主権とが調和するように、地方財政の自主化を図るため、左に掲げる事項を包含する計画を立案する。」ものとされた(地方財政委員会法2条)。

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厚木市役所 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “厚木市役所” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年6月) 厚木市役所(あつぎしやくしょ)は、日本の地方公共団体である厚木市の組織が入る施設(役所)である。 所在地[編集] 開庁時間[編集] 8時30分から17時15分(月曜日から金曜日) 本庁舎1階市民課・国保年金課は土曜日(8時30分~正午)も開庁。 閉庁日 アクセス[編集] 庁舎[編集] 階 概 要 5F

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マシュー・フォンテーン・モーリー – Wikipedia

ニューヨークにあるモーリーの胸像 マシュー・フォンテーン・モーリー(Matthew Fontaine Maury、1806年1月14日 – 1873年2月1日)はアメリカ合衆国の海軍士官、海洋学者、海洋気象学者。 1806年にバージニア州フレデリックスバーグで出生。テネシーで育ち1825 年に海軍士官学校の生徒として海軍に入った。彼は長く海上生活を送り、世界中の航海に参加した。それをもとに彼は1834 年に海洋の航海術に関する本を書き、これは海軍の標準の教科書となった。1839年の公務中に馬車事故で右足の自由を失い、海上での勤務を終えた。この怪我がもとで彼は1842年にワシントンにある海軍の海図と装備の補給所本部長への任命へとつながり、そこで彼は大規模な海図プロジェクトを立ち上げた[1]。 彼は海洋を航行している船の航海日誌を集めて、海図上にその航跡と風の観測結果を記入して、1851年から「風と海流の図(Wind and Current Charts)」を発行した。これは、海洋を航行する際の最適な航路と、時期によってその航路でどんな状況が予想されるかという最初の体系的な情報となった。この図は航海期間の短縮および海上での費用と遭難者の減少という功績を挙げ、モーリーはこれによって国際的な名声を得た[1]。 英国陸軍工兵隊が、アメリカに地上気象観測の共同システムを構築することを提案した際に、彼はそれを世界規模にすることを構想した。しかし、他の気象学者の賛同は得られず、海上の軍艦の気象観測に絞られた。初の国際海上気象会議が1853 年にブリュッセルでケトレが主宰して開かれた。アメリカほか10か国が参加して国際的な船舶気象観測資料の報告形式の統一、収集・交換等のシステムが確立された。これは海上だけだったが、世界初の標準化された気象観測となった。しかし、各国はこれを厳格に守ったわけではなかった[2]。イギリスでは、これをきっかけに商務省に気象局が作られてロバート・フィッツロイ提督がその責任者となった。 1855 年にモーリーは海洋学の教科書として海の自然地理学(The Physical Geography of

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ナイフ形石器 – Wikipedia

ナイフ形石器(ナイフがた せっき)とは、後期旧石器時代に特徴的な、石刃(刃器)などの剥片に刃潰し剥離(剥片自身がもつ鋭い側縁の一部をナイフの刃のように残し、ほかの側縁を鈍くつぶす調整剥離)を加え、現在のナイフに似た形に仕上げた石器である。海外では先端の尖ったナイフ形石器を尖頭器に含んで扱うことが多いが、日本では両刃の槍先形尖頭器とは区別して片刃の利器をナイフ形石器と呼称する。 石刃技法の普遍化とともに現れる石器であり、切り出し小刀のように鋭い刃と先端をもつ突刺形のナイフ形石器とカッターナイフにも似た切截形のナイフ形石器とがある。前者の一部には槍先などの狩猟具もあったが、後者はそのほとんどは加工具として使用された。毛皮や肉、樹皮などを切るために用いられ、磨製の刃よりも格段に鋭利であった。 ナイフ形石器の一種である剥片尖頭器は中国許家窯、峙峪、小南海遺跡から発掘されている[1]。また朝鮮半島にかけてみられる。 この石器群が、主に生産活動に使用された時期を「ナイフ形石器文化期」とも呼ばれ、3万年前頃から1.4万年前頃まで存続する。なお、この文化期の終わり頃の1.5年前かやや遡る頃になると、関東・中部地方を中心に槍先形尖頭器の石槍が現れた。ナイフ形石器を凌駕するようになった。 ナイフ形石器は、製作・使用された時期や地域、素材となった剥片の性質、刃潰し剥離が施された部位、あるいは全体の形の違いなどから、 東山型 - 石刃の基部を加工 - 東北地方から北海道網走郡津別町まで分布。山形県小国町東山遺跡で初確認 杉久保型 - 縦型石刃の先端部及び基部への刃潰し加工 - 主に中部地方北部から東北地方にかけて分布。長野県信濃町杉久保遺跡で初確認 茂呂(もろ)型 - 一縦型石刃の側縁と反対側基部への刃潰し加工 -

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