羽室嘉右衛門 – Wikipedia
7代 葉室 嘉右衛門(嘉右衞門、はむろ かうえもん[1] / かえもん[2]、1856年12月26日(安政3年11月29日[注釈 1])- 1924年(大正13年)8月25日[1][3])は、明治から大正期の地主、農業経営者、酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、京都府何鹿郡中筋村長。幼名・逸郎[2]、松逸郎[2]。 丹波国何鹿郡延村[2][3](京都府[1]何鹿郡延村[4]、中筋村字延[3]を経て現綾部市[2]延町)で、大庄屋、地主、酒造業、農業・6代羽室嘉右衛門、富美の長男として生まれる[2][3]。栗村の綾部藩郷学校・広畔堂に入り藩儒・沢井広重に師事し漢学を修めた[1][3][4]。1876年(明治9年)父の隠居により家督を相続し、7代嘉右衛門を襲名した[3]。農業、酒造業を営む[1]。 1884年(明治17年)7月、大島村外四カ村戸長に就任し、その後、所得税調査委員を務めた[3]。1889年(明治22年)5月、町村制施行による中筋村の成立に伴い初代村長に就任し[1][2][3]、1894年(明治27年)5月まで在任[3]。1890年(明治23年)10月、補欠選挙で京都府会議員に選出され3期在任し、1898年(明治31年)5月に退任した[1][2][3][4]。この間、郡部会副議長を務めた[3]。政党は自由党に所属し、その後立憲政友会に転じた[3]。1899年(明治32年)9月、何鹿郡会議員に当選し1901年(明治34年)7月まで在任し、この間、同議長も務めた[3]。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(京都府郡部、立憲政友会)で当選し[2][3][5]、衆議院議員に1期在任した[1][4]。その他、京都府教育会何鹿郡部会初代会長、何鹿郡農会長などにも在任した[1][2][3][4]。 実業界では、1883年(明治16年)11月、何鹿郡本宮町(現:綾部市)に明瞭銀行を設立して頭取となり、1901年(明治34年)府の同行解散まで在任[2][3]。1887年(明治20年)弟波多野鶴吉が羽室邸の一角に製糸場「羽室組」を創業した際に資金援助を行い、それが発展して1896年(明治29年)5月、郡是製糸(現グンゼ)が設立すると初代社長に就任し1901年9月まで在任した[1][2][3]。その他、京都府農工銀行設立委員、同取締役、西陣製織監査役なども務めた[3]。 1924年8月、脳溢血のため東京市で死去した[3]。 国政選挙歴[編集] 注釈[編集] ^ 『京都府議会歴代議員録』943頁では、安政3年11月30日とするが、暦の上では11月30日は存在しないので、便宜上11月29日とする。 出典[編集] ^ a b
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