ハンジ・ミュラー – Wikipedia
ハンジ・ミュラー(Hansi Müller, 本名:ハンス=ペーター・ミュラー,Hans-Peter Müller, 1957年7月27日 -)は、ドイツのサッカー選手。選手時代のポジションはミッドフィールダー。左利きの技巧的な攻撃的ミッドフィールダーであり[3][4]、1980年代初頭にはドイツ国内において最高のサッカー選手の一人と評された[5]。 選手経歴[編集] 1963年にSVロート(ドイツ語版)の下部組織でサッカーを始め[6]、1969年にVfBシュトゥットガルトの下部組織へ移籍[6]。1975年にブンデスリーガ2部に所属するトップチームに昇格した[7]。シュトゥットガルトでは1976–77シーズンにブンデスリーガ2部優勝に貢献し1部リーグ昇格に貢献するなど中心選手の一人となり[7]、1982年に退団するまでの間にリーグ戦通算186に出場し65得点を記録した[7]。 西ドイツ代表としては1978年4月5日に行われたブラジル代表との親善試合でデビューし[2]、同年6月にアルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップでは4試合に出場した[2]。1980年にイタリアで開催されたUEFA欧州選手権1980ではベルント・シュスターらと共にチームを牽引[8][9]、全4試合に出場し優勝に貢献した[4]。大会終了後にはベスト11に選出されたほか[4]、同年にはヨーロッパにおいて最も優れた若手選手に贈られるブラヴォー賞を受賞するなど[10]、選手として最盛期を迎えた[4]。 1981年に入ると怪我の影響もあり[3]、同年9月2日に行われたポーランド代表戦を最後に代表から外れたが[2]、復帰戦となった1982年3月21日のブラジル代表戦では効果的なゲームメイクを行うなど復調を果たした[11]。一方、1982年にスペインで開催された1982 FIFAワールドカップでは膝の状態が芳しくなく[12]、2次リーグのイングランド代表戦と決勝のイタリア代表戦の2試合のみの出場に終わった[2]。その後、1983年9月27日に行われたハンガリー代表を最後に代表から退くまで国際Aマッチ42試合に出場し5得点を記録した[2]。 クラブレベルでは同年7月にイタリアのインテル・ミラノへ移籍[7][6]。デビュー戦となったエラス・ヴェローナ戦では直接FKを決める活躍を見せ[13]、入団早々にイタリア語を習得するなど環境に適応したが[13]、一方で膝の怪我を抱えていた[13]。1984年にインテルを退団し同じイタリアのカルチョ・コモで1シーズンプレーをした[7][6]。 1985年7月にオーストリアのFCスヴァロフスキ・チロルへ移籍すると好調なプレーを維持[14]。西ドイツ代表監督のフランツ・ベッケンバウアーはミュラーのプレーを評価し代表復帰の可能性を示唆したが[14]、ミュラー自身が後のインタビューにおいて「当時の代表の中盤にはタレントが揃い、控え選手として代表に復帰する気はなかった」「ベッケンバウアーに『優先順位としてはクラブでのプレーが先にある』と告げたところ、彼も承知した」と評するように復帰が実現することはなった[13]。 その後、2度のリーグ優勝と、UEFAカップ1986-87準決勝進出に貢献し[13]、1990年に現役を引退した[6][15]。 現役引退後はサッカー解説者やスポーツコンサルタントを務め[16]、1999年から2001年にかけて古巣のVfBシュトゥットガルトのマーケティングディレクターを務めた[7]。この他、2006年にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップではシュトゥットガルトの大使[17]、2008年にオーストリアとスイスで共同開催されたUEFA EURO 2008ではインスブルックの大使を務めた[16]。 2011年7月、VfBシュトゥットガルトの監査役に選出された[7]。2015年5月、アレクサンダー・ツォルニガー監督の進退問題についてテレビ局の取材を受けた際、ツォルニガーの続投を明言したことの責任を取り監査役を辞任した[18]。
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