Month: October 2017

二条教基 – Wikipedia

二条 教基(にじょう のりもと)は、南北朝時代の公卿・歌人。関白・二条師基の子。官位は関白、左大臣。南朝に仕えた。 南朝の補任記録が残されていないために具体的な官歴については不明である[2]。正平5年/観応元年(1350年)9月北朝大嘗会の御禊行幸に供奉した廷臣の中に「正五位下藤原朝臣教基」[3]とあるのが初見とされるが、これは故実典礼の見習のために北朝に一時出仕していたものか。正平一統下の正平7年(1352年)2月には、左近衛大将として後村上天皇の住吉行幸に供奉し、正平8年/文和2年(1353年)6月南軍の大将として2回目の京都回復を果たした「二条大納言左大将歟兄弟」[4]とは教基と弟・教忠を指すと思われる。同年7月には早くも内大臣任官の話が持ち上がっており、官職を超越されることを憂えた右近衛大将・洞院実世が書状で父・公賢に助力を求めてきたという[5]。公賢はこれに対してどうすることも出来ないと答えているものの、教基が正平9年/文和3年(1354年)4月にもなお左近衛大将のままで、大臣に任じられた形跡のないところを見ると、やはり何らかの手は打たれたのかも知れない。 正平11年/文和5年(1356年)2月関白として見任[6]。正平16年/康安元年(1361年)12月四条隆俊・日野邦光と共に大将として天王寺から入洛し、僅か20日間ながら4回目の京都回復を果たした[7]。ただし、その間の正平15年/延文5年(1360年)4月に興良親王(護良親王の王子)が叛して賀名生行宮を攻撃した際、南朝は「二条前関白殿」[8]を大将軍としてこれを討伐しているが、この「前関白」が教基であれば、一旦散位を経た後に関白に還補されたことになる。また、村田正志は、正平16年か17年(1362年)頃に書かれたと推定される後村上天皇宸翰消息を根拠として、当時の関白教基が伊勢北畠家の居館に下向した可能性を示唆している[9]。 その後しばらく後村上天皇の下で関白を務めたようであるが、辞職の時期に関しては史料を欠くために明確にし難い。ただ、天授元年/永和元年(1375年)の『五百番歌合』に出詠した「前関白」、弘和元年/永徳元年(1381年)12月に成立した『新葉和歌集』の作者「入道前関白左大臣」は、教基に比定されるのが通説であるから、この両年間に出家し、弘和元年(1381年)もなお存命していたことになるだろう。「入道前関白左大臣」は同集に13首入集するが、その内容からは、関白に二度任じられたこと(冬・496)、自邸で百首歌を主催したこと(恋一・679)、正平15年(1360年)9月の住吉行幸に供奉して三首歌を披講したこと(賀・1400)などが窺える。 備考[編集] ^ a b 『南山要記』には天授2年5月21日(1376年6月8日)に55歳で薨じたとあり、これから逆算すると生誕は元亨2年(1322年)となるが、固より信憑性に乏しい。 ^ 近世の偽書とされる『南朝公卿補任』によれば、教基の官歴は以下のとおりである(『系図纂要』も同様)。延元4年(1339年)従三位、興国2年(1341年)権中納言正三位、同4年(1343年)権大納言、同5年(1344年)従二位、正平2年(1347年)左大将正二位、同8年(1353年)内大臣、同9年(1354年)従一位、同10年(1355年)右大臣、同11年(1356年)関白氏長者、同13年(1358年)左大臣、同20年(1365年)辞職、天授3年(1377年)出家。 ^ 『園太暦』観応元年9月28日条 ^ 『園太暦』文和2年6月10日条 ^ 『園太暦』文和2年7月17日条 ^

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オスターホルツ郡 – Wikipedia

オースターホルツ郡 (ドイツ語: Landkreis Osterholz, 低地ドイツ語: Landkreis Oosterholt) は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州北部に位置する郡で、北西部大都市圏に含まれる。郡庁所在地はオスターホルツ=シャルムベックである。 位置[編集] 郡の北と西には「オースターホルツァー・ゲースト」(直訳: オースターホルツの砂の土地)が形成されている。東部は、大部分が18世紀に開墾された「トイフェルスモーア」(直訳: 悪魔の泥炭地)があるハンメ川(ドイツ語版、英語版)とヴュンメ川(ドイツ語版、英語版)の下流低地に属している。郡の西端は「オースターシュターダー・マルシュ」(直訳: オースターシュタットの肥沃な湿地)がヴェーザー川沿いまで広がっている[2]。 隣接する郡[編集] 本郡は、北から時計回りに、クックスハーフェン郡、ローテンブルク(ヴュンメ)郡、フェルデン郡(いずれもニーダーザクセン州)、ブレーメン市(ブレーメン州)、ヴェーザーマルシュ郡(ドイツ語版、英語版)(ヴェーザー川を挟んだ対岸、ニーダーザクセン郡)と境を接している。 歴史的、組織的に関連する地域[編集] オースターホルツ郡の歴史的発展は、エルベ=ヴェーザー・トライアングルに広がっていた旧ブレーメン=フェルデン公領(ドイツ語版、英語版)によっていた。この領邦には、オースターホルツ郡の他に、現在のクックスハーフェン郡、ローテンブルク (ヴュンメ) 郡、シュターデ郡、フェルデン郡が含まれていた。教会、文化、社交組織、商業会議所などの社会組織、福音主義教会管区、景観保護協会などは現在も歴史的な地域の境界を反映している。ブレーメン=フェルデン公領はその後も、シュターデ代官区、シュターデ行政管区(県)として存続した。シュターデ行政管区は1978年にリューネブルク行政管区に編入された。リューネブルク行政管区も2004年以後は存在していない。 創設と1939年までの発展[編集]

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R-TYPE TACTICS – Wikipedia

『R-TYPE TACTICS』(アール・タイプ タクティクス)は、アイレムソフトウェアエンジニアリングから2007年9月20日に発売されたPlayStation Portable用戦略シミュレーションゲーム。R-TYPEシリーズの生誕20周年作品に当たる。 シューティングゲームとしてはシリーズ最終作として製作された『R-TYPE FINAL』に登場した多数のR戦闘機の設定が活かされ、様々なRタイプ戦闘機が宇宙や異星、異次元空間を舞台にグロテスクなバイド帝国のユニットと戦闘を繰り広げるSFシミュレーションゲームとなっている。 店頭チラシでは、世界観を別解釈で再構築と記載されており、本編(『I』から『Final』まで)とはパラレル的な設定が見て取れる。 北米では『R-TYPE COMMAND』(アール・タイプ コマンド)として販売。販売はアトラスの米国法人が担当。なお、COMMAND版では年表設定が少し異なって表記されている。 続編として、『R-TYPE TACTICS II -Operation BITTER CHOCOLATE-』が発売されている。なお、アイレムがイベントで配布した『アイレムぶるるん2007最新版』ではR-TYPE TACTICSの記事が4ページ載っていたり、『アイレムぶるるん2008』で外伝小説が書かれ、登場人物が『II』で副官としても登場する。 ストーリー[編集] 遥か未来の地球。人類は銀河系・ペルセウス腕の中央付近に謎の生命体の大群を観測した。それらは増殖を繰り返しながら明確に地球への進路を取っていた。いつしか「バイド」と呼ばれるようになったその生命体群に対抗すべく、地球軍は次元戦闘機を開発する。Rシリーズと呼ばれるそれらの戦闘機は戦艦並の火力と高い機動性によって局地的には驚異的な戦果をあげたが、圧倒的な物量を誇るバイドを全滅させるには至らず、やがてはバイドの大群は太陽系の外縁部にまで到達してしまった。 地球ではあくまでバイドに抗戦すべきだという意見と地球を棄てて脱出すべきだとの意見で論争が続いていた。その論争に決着がつかぬうちに、ある司令官に指令が下される。残された戦力を持って木星軌道上に入りつつあるバイドを撃退せよ、と…。

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溝淵春次 – Wikipedia

溝淵 春次(みぞぶち はるじ、1903年(明治36年)6月16日[1] – 1978年(昭和53年)11月7日[2])は、大正末から昭和期の弁護士、政治家。参議院議員。 目次 1 経歴 2 脚注 2.1 注釈 2.2 出典 3 参考文献 香川県[1][2][注釈 1]で溝淵岩吉の五男として生まれる[1]。1919年(大正8年)立命館大学法科を卒業した[1][2][3][注釈 2]。その後、日本大学研究室で研究した[1]。 1924年(大正13年)高等試験司法科試験に合格し弁護士を開業した[1][2][3]。1930年(昭和5年)大阪府会議員に選出され[2][3]、立憲政友会大阪支部幹事長を務めた[4]。その他、日本アンチモニイ鉱業社長も務めた[1]。

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昔話 – Wikipedia

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2019年7月) 昔話(むかしばなし)は、「民俗学で、口承文芸の一つ」[1]。言語学者ロマーン・ヤーコブソンの言葉をかりれば、「昔話は典型的な集団財産である。精神文化の社会化した部分、たとえば言語あるいは昔話は、個人的な創造が支配的な分野よりもはるかに厳格で画一的な法則にしばられている」[2]。日本昔話は日本の民話のひとつ。「ムカシ」「ムカシコ」「ムカシガタリ」などとも呼ぶ。民衆の生活のなかから生まれ、民衆によって口承されてきたもので口承文学、また民俗資料の一。テレビアニメ化やビデオアニメ化もされている。 「むかし」という確かではない時や「あるところに」という不明な場所を発端句として用い、本当にあったかどうかは知らないけれどという心持ちで語り継がれる話。 そのため、固有名詞を示さず、描写も最小限度にとどめ、話の信憑性に関する責任を回避した形で語られる。時代や場所をはっきり示さず、登場人物の名前も「爺」「婆」などのように性別や年齢などの特徴をもとにした普通名詞が多い。「桃太郎」も「桃から生まれた長男」の意味しか持たない。 「てっぺんぐらりん」、「どんどはれ」、「とっぴんぱらりのぷう」等の言葉で終わることが多く、これを結句と呼称している。結句は地域によってそれぞれの言葉が用いられる。 昔話の語り口・特徴[編集] 昔話とは、昔の人たちが代々世々伝承してきた、語り物としてのおとぎ話のことである。そのような昔話には、独自の語り方が存在する。その語り口・語り方の隅々、語りのすじ道の端々には、往古の先人たちの子どもへの思い入れが凝縮している。まず、語りの場において、昔話は一体どこに存在しているのか。それは、語られている時間のあいだだけ実在しているものである。ということは、すなわち、昔話が語り終わられたら、それはその場から消失するということである。これは、昔話の形態が、時間的文芸であることによる。このことは、同じく、演奏され終われば消える、音楽と相い似た関係にある。 さて、昔話の語り口について見てみると、それはとても簡単で明瞭であることがわかる。そのようなわかりやすい文体であるのは、語り物であるからであり、そのような語り口によって語られるのが、昔話なのである。そして、ひととおり昔話が語り終えられると、独特の定型的な結末句で終わるのが慣例となっている。この結末句は地方によって異なり、岡山の「しゃーんしゃん」や飛騨の「しゃみしゃっきり」、岩手の「どんとはれ」や秋田の「どっとはらえ」など、土地土地の結末句が伝えられている。また、この結末句に対応するように、昔話は独特の発端句ではじまる。こちらは、「昔むかし、あるところに」などの語り口である。 日本の主な昔話[編集] 昔話の型[編集] ^ 『講談社カラー版 日本語大辞典』 講談社 1989年、1914頁。ISBN 4-06-121057-2。 ^ ロマン・ヤコブソン「ロシアの昔話について」(1945)〔アファナーシエフ『ロシア民話集(上)』(中村喜和編訳)岩波文庫 1988年、第2刷、359-391頁、引用は375頁〕。ISBN 4-00-326421-5。 参考文献[編集] 小澤俊夫 『こんにちは、昔話です』

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ローズ・オニール – Wikipedia

ローズ・セシル・オニール(Rose Cecil O’Neill, 1874年6月25日–1944年4月6日)はアメリカ人の漫画家、イラストレーター、芸術家、作家。アメリカの女性漫画家として最初期の一人。1909年に発表したキューピーは世界的なキャラクターとなった。1912年に発売されたキューピー人形の人気により、一時は世界で最も裕福な女性イラストレーターだった[1][2]。芸術制作や大人向けの小説・詩集の執筆も行った。女性参政権の活動家でもあり、全米女性の殿堂(英語版)に迎えられている[3]。 生い立ち[編集] ローズ・セシル・オニールは1874年6月25日にペンシルベニア州ウィルクスバリで生まれた。父ウィリアム・パトリック・ヘンリーと、「ミーミー」と呼ばれていた母アリス・セシリア・アセナテ・セニア・スミスの間の第二子だった[2]。書籍商の父親は浮世離れした文学・美術・演劇の愛好家だった。実際的な性格の母は教師であり、才能ある音楽家・女優でもあった[2][5]。オニールはアイルランド系の父親からケルト的な想像力を受け継いだといわれている。きょうだいが五人おり、妹のカリスタは後年にローズのマネージャーとして長く生活を共にすることになる。ローズが生まれてまもなく、一家はネブラスカ州の開拓地を目指したが、大草原での生活に挫折してオマハの街に移った。伝統的な夫婦の役割とは対照的に、ミーミーが教師として一家の稼ぎ手となり、ウィリアムは家で子供と遊ぶことが多かった。 ローズ・オニールは幼いころから絵画や文筆に才能と情熱を発揮した。一家の暮らし向きは悪く[10]、絵は父の本から独学で学ぶしかなかった[5]。オニールはミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチの絵に親しみ、シェイクスピアやホメロスを愛読した[11]。13歳で『オマハ・ヘラルド(英語版)』紙が主催する児童画のコンテストに応募し、「地獄へと導く誘惑 (Temptation Leading to an Abyss)」と題する絵で一等を獲得した。審査員は受賞者が幼すぎることから模写を疑い、その場で絵を描かせてみたという。 それから2年のうちに、コンテストの審査員を務めていた『オマハ・ワールドヘラルド』紙の編集者や『エヴリバディ・マガジン』誌のアートディレクターの紹介によって、地元オマハの出版物『エクセルシオール』『ザ・グレート・ディヴァイド』などにイラストレーションを描くようになった。父は書店業で家族を養うのに苦労していたため、稿料は家計の足しにされた。そのかたわらオマハのセイクリッド・ハート修道院付属学校に通った。 第一世代の女性イラストレーターとして[編集] 『パック』に掲載された一コマ漫画「そぶり (Signs)」(1904年)。エセル「あの人ったら、あたしを見る目がとても優しくて、そばにいってあげると舞い上がるし、冷たくするとひどい落ち込みようなの。これってどういう意味かしら?」母親「エセルや、その方がとんだ役者だってことだよ」 『パック』1900年4月号の表紙絵「ジョージアにて (In Georgia)」。ピート「これでも奴隷だったころよりマシかねえ、トムのとっつぁん?」アンクル・トム(英語版)「どうだかなあ。あのころぁ誰もわしらをリンチなんぞしなかった、もってえねえからな!」 1893年、オニールの父は娘の才能を生かすためニューヨークに送って画家の道を進ませようとした。その途上、シカゴの万博に立ち寄ったオニールは生まれて初めて本格的な絵画や彫刻を目にした。それまでは父の蔵書で見るしかなかったものだった。ニューヨークでは聖レジス修道女会の修道院に預けられた。オニールは修道女に付き添われて出版社を回り、小説の原稿やポートフォリオに収めた60枚の絵を持ち込んだ。絵は数社の出版社に売れ、新しく依頼も得られた。

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ユダヤ暦 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ユダヤ暦” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年8月) ユダヤ暦(ユダヤれき、ヘブライ語: הלוח העברי‎、英語: Hebrew calendar)は、ユダヤ人の間で使われている暦法である。 ユダヤ人はこの暦法をヘブライの月の算出に用いる。それによって読むべきトーラーを決め、その日に読むべき聖詩を定め、祝日を定めている。正月にあたる「ニサンの月」は大麦の収穫の始まりを祝う月でもある。 バビロン捕囚の影響[編集] 「ニサンの月」は別名「アビブの月」というように、月名が2つ存在するのは、バビロン捕囚期(『列王記』までの時代と『エズラ記』より後の時代の中間期)にバビロニア暦の影響を受けて月の名に変化があったためという説がある[1]。このニサンという月名もバビロニア語の「ニサンヌ」に由来する。バビロン捕囚中、キュロス2世(大王)による解放以前、メディアの勢力下となった時代を想定して描いている『エステル記』の3章7節に「ニサンの月」という月名があらわれる。 太陽暦のグレゴリオ暦とは異なり太陰太陽暦である。第13月(閏月)の挿入は19年に7回の頻度(メトン周期)で行われている。 宗教暦と政治暦[編集] 古代ユダヤには、春から1年が始まる宗教暦(または「教暦」「新暦」ともいう)と、秋から1年が始まる政治暦(または「政暦」「旧暦」ともいう)との2種類があったが、ユダ族(南王国)では後者を使っていたため、その流れで現代のユダヤ暦も政治暦のほうに準拠している。宗教暦の年始めの月はアビブの月で、今の太陽暦(グレゴリオ暦)では3月から4月の時期にあたり、中国の陰暦では仲春(旧暦の2月)または季春(旧暦の3月)にあたる。政治暦では秋から新年が始まるのでこの月は7番目(閏年では8番目)になる[2]。

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岡本梨奈 – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典が不足しています。存命人物の記事は特に、検証可能性を満たしている必要があります。(2020年10月) 一次資料や記事主題の関係者による情報源に頼って書かれています。(2020年10月) 人物の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。(2020年10月)出典検索?: “岡本梨奈” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL おかもと りな 岡本 梨奈 生誕 (1977-09-28) 1977年9月28日(44歳) 日本

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第二正典 – Wikipedia

この項目では、第二正典に含まれる文書について説明しています。聖書共同翻訳事業によって訳された聖典の説明については「旧約聖書続編」をご覧ください。 第二正典(だいにせいてん、英: Deuterocanonical books)とは、旧約聖書の中でカトリック教会では正典とするが、プロテスタントでは正典とせず外典や偽典として扱われている書物のこと。聖公会は正典と同格の文書として受け容れるが、教義の源泉とすることは禁じている。 成立時のキリスト教では、七十人訳聖書と呼ばれるギリシア語訳の聖書を自分たちの旧約聖書としてきた。この聖書はユダヤ人が持っているヘブライ語(ヘブル語)の聖書に含まれない文書(あるいは文書の一部)をいくつか含んでいたが、これらの文書は初期のキリスト教徒らがギリシア語を用いるユダヤ教徒から聖なる書物として受け継いだ[1]「聖書」であるとしてきた。ヒエロニムスのように、含まれる文書の範囲が異なることを強調して、ヘブライ語の聖書に含まれる文書のみを聖書とすべきだとする動きや、それによってヘブライ語聖書に無い諸文書を「第二正典」として(ヘブライ語聖書にある)正典とは一応区別しようとする動きがあったが、カトリック教会では現在でもヘブライ語聖書に無いいくつかの文書を正典と同格の意味で第二正典として聖書の中に入れている。 しかし、マルティン・ルターは聖書をドイツ語に翻訳するにあたり、それまで使われていたラテン語の聖書(ウルガータ)からではなくヘブライ語原典から直接翻訳したため、ヘブライ語聖書に含まれる文書のみを内容とした聖書ができあがった。この「ヘブライ語聖書に含まれる文書のみを内容とした聖書」は、その後多くのプロテスタント諸派に受け継がれることになった。 カトリック教会とプロテスタントの共同のエキュメニズムとされる翻訳である新共同訳聖書では、第二正典を『旧約聖書続編』という名称で含むものと含まないものの二種類が販売されているが[2]、現行の新共同訳聖書(旧約聖書続編付き)では、第二正典のうち『マカバイ記』のうち第3・第4を除いて、『エズラ記(ラテン語)』(『第4エズラ書』・『第2エスドラス書』とも)を加えて、旧約聖書と新約聖書の中間に配置されている。しかし、カトリック教会で伝統的に使用されてきたラテン語聖書(ヴルガータ)では、七十人訳聖書から翻訳したため第二正典を区別することなくマソラ本文(ヘブライ語聖書)由来の正典と混在させて配列しており、フランシスコ会訳聖書などカトリックの翻訳聖書ではその順序を踏襲している。 また一方正教会では正典に含まれない重要文書を不入典書と呼び、正典(入典書)とは厳格に区別している。 プロテスタントの扱い[編集] 各派における扱いはさまざまであるとする新共同訳聖書の主張に対し、それらを旧約外典と呼び正典と峻別するプロテスタントの立場からは、新共同訳の主張は「正典と外典の違いについてあまりにも無知な意見である」との指摘がある[3]。 ウェストミンスター信仰告白など歴史的なプロテスタント福音主義の信仰告白は聖書を66巻であると告白しており、プロテスタントである福音派の立場からは新共同訳聖書が「聖書の外典を続編として加え」たことについて、「読者にはその区別がよくわからないようです[4]」、「カトリック教会も受け入れない外典が付け加えられている[5]」と指摘されている。 七十人訳聖書は写本によって多少の異同はあるが、後のマソラ写本39巻に加えて下記の書物を含んでいる。 上記のうち、第1エズラ書(ギリシア語)とマナセの祈り、およびマカバイ記のうち第3・第4マカバイ記は、カトリック教会では正典としていない。) ^ 新共同訳聖書 序文 p(Ⅲ) 1987年 日本聖書協会 ^

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