Month: October 2017

カール・ツンベルク – Wikipedia

『日本植物誌』(”Flora Japonica”) カール・ペーテル・ツンベルク(Carl Peter Thunberg [ˈkɑːɭ ˈpeːtər ˈtʉːnˈbærj], 1743年11月11日 – 1828年8月8日)は、スウェーデンの植物学者、博物学者、医学者。カール・フォン・リンネの弟子として分類学において大きな功績を残した。また出島商館付医師として鎖国期の日本に1年滞在し、日本における植物学や蘭学、西洋における東洋学の発展に寄与した。出島の三学者の一人。 日本語表記[編集] 日本語での姓の表記が一定せず、ツンベルク[1]、ツンベルグ[2][3]、ツンベリ[3]、ツンベリー[4]、トインベルゲ[5]、ツーンベリ、ツュンベリー[2][6]、ツューンベリ[2]、チュンベリー、ツェンベリー、トゥーンベルイなどがある。スウェーデン語に近い発音表記は、トゥーンベリ[3][1]である。なお、名前の中のhは当時の名前では発音しないのが一般的である。 1743年11月11日、スウェーデンのヨンショーピング(Jönköping)に生まれる。 ウプサラ大学のカール・フォン・リンネに師事して植物学、医学を修めた。フランス留学を経て、1771年オランダ東インド会社に入社した。これは日本を含む世界各地の動植物を分類させるためにリンネが弟子のツンベルクを派遣したという説がある[6]。 まずツンベルクはケープ植民地でオランダ語を身につけるとともに、3年かけて喜望峰周辺を探検した。後年”Flora capensis”、『喜望峰植物誌』をまとめ、喜望峰周辺の固有の生態系を報告した[6]。 その後セイロン、ジャワを経て、1775年(安永4年)8月にオランダ商館付医師として出島に赴任した。当初は出島から出ることを許されなかったため、出島へ運びこまれる飼料から植物や昆虫を採取した。医師としては、梅毒に対して昇汞(しょうこう、塩化水銀(II)のこと)を処方する水銀療法を行った。劇的な治療効果を挙げ、長崎で多くの患者が治療を受けた。この療法は通詞の吉雄耕牛らにも伝授された[6]。 翌1776年4月、商館長に従って江戸参府を果たし、徳川家治に謁見した。ツンベルクにとって出島・長崎を離れての旅は日本の文化・生物相等を調査する大きなチャンスであり、道中では箱根などで多くの植物標本を収集した。江戸滞在中には桂川甫周、中川淳庵らの蘭学者を指導した。日本語、特にオランダからの外来語も観察している[7]。長崎への帰途では大坂の植木屋でも多くの植物を買いこんだ[6]。 しかしその年のうちに日本を離れ、バタヴィアに戻った。商館長からはさらなる滞在を要請されたが、行動が制限されて研究が進まないために見切りをつけたとされている[6]。

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村田敏郎 – Wikipedia

村田 敏郎(むらた としろう、1919年9月10日 – 2007年4月17日)は、日本の薬学者(薬物動態学・生物薬剤学)、文部官僚。勲等は勲二等。学位は医学博士(県立鹿児島医科大学・1961年)、薬学博士(東京大学・1961年)。静岡薬科大学名誉教授、財団法人日本薬剤師研修センター名誉会長、社団法人日本薬学会有功会員、社団法人日本薬物動態学会名誉会員。 東京帝国大学医学部助手、東邦女子医学薬学専門学校教授を経て、文部省や厚生省に勤務し、札幌医科大学医学部助教授、熊本大学薬学部教授、静岡薬科大学薬学部教授、静岡薬科大学学長(第5代)、財団法人日本薬剤師研修センター理事長(初代)、学校法人共立薬科大学理事長、財団法人日本薬剤師研修センター会長(第2代)などを歴任した。 東京府出身の薬学者である[1]。日本において薬物動態学を開拓した先駆者であり[2]、薬剤学の一分野として生物薬剤学を確立したことでも知られている[2]。また、静岡県の名産品である緑茶に含まれるテアニンについて研究していたことでも知られている[2]。東京帝国大学や東邦女子医学薬学専門学校で教鞭を執ったのち[1]、文部省や厚生省に技官として勤務した[1][2]。その後、札幌医科大学、熊本大学、静岡薬科大学で教鞭を執った[1]。静岡薬科大学では学長に選任され[1][2]、共立薬科大学を運営する学校法人では理事長に就任するなど[1][2]、教育・研究機関の要職を歴任した。また、日本薬剤師研修センターの創設に尽力し[2]、初代理事長に就任した[1][2]。 生い立ち[編集] 1919年(大正8年)9月10日、東京府にて生まれた[1][† 1]。国が設置・運営する松本高等学校に進学した[3][† 2]。さらに国が設置・運営する東京帝国大学に進学し[1][† 3]、医学部の薬学科にて学んだ[1]。太平洋戦争のさなかである1944年(昭和19年)9月、東京帝国大学を卒業した[1]。それにともない、薬学士の称号を取得した[† 4]。なお、後年になって「尿中乳酸排泄量に関する研究」[4]と題した博士論文を執筆しており、これにより1961年(昭和36年)3月31日に県立鹿児島医科大学より医学博士の学位を授与されている[4][5][† 5][† 6]。また、「1-エチニルシクロヘキシルカルバメートの生体内変化の研究」[6]と題した博士論文も執筆しており、これにより1961年(昭和36年)10月12日に東京大学より薬学博士の学位を授与されている[5][6][† 7]。 薬学者として[編集] 1945年(昭和20年)4月、母校である東京帝国大学に採用され[1]、医学部の助手として着任した。同年8月15日、太平洋戦争が終結した。戦後の混乱の中、以降も引き続き東京帝国大学に勤務した。1948年(昭和23年)8月、額田教育報恩会が設置・運営する東邦女子医学薬学専門学校に転じ[1][† 8][† 9]、教授に就任した[1]。1951年(昭和26年)2月、技官として文部省に入省した[1][†

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ジャーナル・スクエア-33丁目線 – Wikipedia

ジャーナル・スクエア-33丁目線Journal Square–33rd Street PATH ジャーナル・スクエア駅に停車中の列車 概要 種別 地下鉄 系統 パストレイン 現況 運行中 所在地 ニュージャージー州ハドソン郡、ニューヨーク市マンハッタン 起終点 ジャーナル・スクエア駅(西端)33丁目駅(東端) 駅数 8駅 運営 所有者

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クラース・アルストレーマー – Wikipedia

クラース・アルストレーマー(スウェーデン語: Clas Alströmer、1736年8月9日 – 1794年3月5日)は、スウェーデンの実業家、科学者のパトロン、博物学者である。スウェーデンの実業家、ヨーナス・アルストレーマー (実業家)(英語版)の息子である。 アリングソースに生まれた。ウプサラ大学で博物学、化学、経済学を学んだ。彼の学んだ時期のウプサラ大学の教授陣はカール・フォン・リンネや大僧正ヴァレリウス、バーチ(Anders Berch)がいた。18歳で家族の不動産の管理に携わった。1760年から1764年までスペイン南部の農業の研究を行い、イタリア、フランス、ドイツを経由して帰国した。薬草や魚類、貝殻などの博物学標本をアリングソースの博物館やリンネのために収集した。リンネはその功に対してユリズイセン科(Alstroemeriaceae)、アルストロメリア属 (Alstroemeria)にアルストレーマーの名前をつけた。1770年にヨーテボリに移り父親のもとで働き、裕福な商人の娘と結婚した。スウェーデン最大の商社を運営した。1768年に科学アカデミーの会員となり、ヨーテボリの王立科学文芸アカデミーの会員となった。トルビョルン・ベリマンやカール・ツンベルクらのスウェーデンの科学者を支援したことでも知られる。 参考文献[編集] Nordisk familjebok, Alströmer, 3. Klas Göteborgssläkter under 1700-talets senare del :

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立川吉幸 – Wikipedia

立川(たてかわ)吉幸(きっこう) 本名 渡邉(わたなべ)正美(まさみ) 生年月日 (1973-08-31) 1973年8月31日(48歳) 出身地 日本・千葉県勝浦市 師匠 二代目快楽亭ブラック立川談幸 名跡 1. 快楽亭ブラ房(1997年 – 2005年)2. 立川吉幸(2005年 – ) 出囃子 春風がそよそよと

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園木登 – Wikipedia

園木 登(そのき のぼる、1901年(明治34年)8月16日[1] – 1962年(昭和37年)12月23日[2][3])は、大正から昭和期の官吏、農業協同組合指導者、政治家。参議院議員。 熊本県鹿本郡山東村大字小野(植木町大字小野を経て現熊本市北区)で生まれる[1]。1914年(大正3年)3月、山東小学校を卒業し、同年4月、熊本県立中学済々黌(現熊本県立済々黌高等学校)に入学したが、1915年(大正4年)9月、肋膜炎となり同校を退学[1][注釈 1]。その後回復して家業の農業に従事した[1]。 1922年(大正11年)11月、朝鮮総督府官吏となり、1931年(昭和6年)6月まで在任[4]。同年11月、満州国官吏に任官し新京警察署に赴任[5]。1937年(昭和12年)10月、満州国官吏を辞任し、同年11月、北京の北支派遣軍嘱託となり特務部総務課に配属[5]。1939年(昭和14年)3月、北支派遣軍嘱託を辞し、同年4月、山東省青島特別市政府官吏に転じ特務機関の仕事に従事[5]。1943年(昭和18年)3月、市政府官吏を辞任し、同年4月、青島国立競馬会理事に就任[5]。1945年(昭和20年)4月、陸軍補充兵として現地召集され二等兵として終戦を迎えた[5]。戦後、戦犯容疑者として軟禁されたが、1946年(昭和21年)8月に釈放され帰国[5]。故郷に戻り農業に従事した[5]。 1948年(昭和23年)8月、山東村農業協同組合長に就任し、同年9月、熊本県販売農業協同組合連合会監事となり、さらに農業委員に当選[5]。その後、同県販売農業協同組合連合会理事、同県販購農業協同組合連合会専務理事、同会長、同県農業協同組合中央会理事、同県農業会議議員、全国農業協同組合共済連合会理事、東亜農薬社長、全購買農業協同組合連合会専務、同副会長、北海農機取締役、家の光協会理事、養鶏中央協議会理事、日本科学飼料協会理事、日本国際酪農連盟理事、組合貿易連合監査役、コープ食品取締役などを務めた[2][6]。 1961年(昭和36年)12月、自由民主党に入党[3]。1962年(昭和37年)7月の第6回参議院議員通常選挙に熊本県地方区から自民党公認で出馬して当選[7]。同月、全購買農業協同組合連合会副会長を辞し非常勤理事に就任[5]。同年12月、東京大学医学部附属病院で死去し[5]参議院議員に1期在任した[2]。 坂田大『園木登評伝』坂田情報社、1964年。 注釈[編集] ^ 『議会制度百年史 – 貴族院・参議院議員名鑑』338頁では修了 出典[編集] ^ a b

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相鉄ホールディングス – Wikipedia

相鉄ホールディングス株式会社(そうてつホールディングス、英: Sotetsu Holdings, Inc.)は、相模鉄道など相鉄グループを統括する純粋持株会社である。本社は神奈川県横浜市西区北幸二丁目の相鉄本社ビル内に所在。略称は相鉄HD。 相鉄ホールディングスの前身は、大正時代に設立された鉄道事業者である相模鉄道である。同社は本業の鉄道事業以外にも、バス事業や不動産事業などを営む多角的経営を行い相鉄グループを形成した。第二次世界大戦後の首都圏への人口集中なども手伝って大手私鉄にまで上りつめたが、バブル崩壊以後の平成不況により経営の効率化を行うことになった。1990年代末から2000年代半ばにかけて鉄道事業とバス事業を除く各事業を分社化したり他社へ譲渡したりして、2009年には鉄道事業を分社化、商号を相鉄ホールディングスに変更した。この時点では一部のバス事業を行う事業持株会社であったが、2010年に傘下の相鉄バスに全路線を譲渡し、純粋持株会社に移行した。 相鉄本線が乗り入れる横浜駅西口付近の一等地に数多くの不動産を持つ大地主であり、相鉄グループ内唯一の上場企業(東証1部)である。 グループ内で百貨店事業を行なってはいないが、ターミナル駅である横浜駅の駅ビル「相鉄ジョイナス」の核テナントとし髙島屋横浜店が入居しており、ターミナルデパートとなっている。相鉄は横浜高島屋出店に大きく関与しており、そういった経緯から相鉄ホールディングスと髙島屋の関係は深く、髙島屋の株主にもなっている。 相鉄グループの全国・海外展開[編集] ホテルサンルートを買収する形で相鉄グループは実質的に全国展開を行っているものの、以前は相鉄グループ内での自力での首都圏以外への全国展開は行っていなかった。2015年に相鉄フレッサインが京都府京都市の2箇所で開業させることを発表し、初めて相鉄グループ自力での全国展開を開始させることになった[3][4]。 相鉄グループは2020年代にかけて、ホテル事業の海外展開も進めている(韓国、ベトナム、タイ王国、台湾)[5]。 前身である相模鉄道時代の沿革も併せて記す。 相模鉄道[編集] 1917年(大正6年)12月18日 – 神奈川県高座郡茅ヶ崎町(現:茅ヶ崎市)にて相模鉄道株式会社設立。 1918年(大正7年)7月 – 砂利の採掘、販売の許可を受ける。 1919年(大正8年)9月 –

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ファビオ・デ・ジェズス – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “ファビオ・デ・ジェズス” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年3月) ファビーニョ 名前 本名 ファビオ・デ・ジェズスFábio de Jesus ラテン文字 FABINHO 基本情報 国籍 ブラジル

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国光 (リンゴ) – Wikipedia

国光(こっこう、英:Ralls Janet、またはRalls Genet、Rawls Jennet)は、セイヨウリンゴの品種名である[1][2]。アメリカ合衆国バージニア州原産で、日本への導入年は1868年(慶応4年・明治元年)[注釈 1]1871年(明治4年)の2説がある[注釈 2][1][3][4][5]。日本では明治・大正・昭和の約100年間にわたってリンゴ生産の基幹品種として、紅玉とともに広く栽培された[1]。その後、価格の暴落と品種の更新などが要因となって主力品種の座から降りた[1]。国光は「ふじ」、「恵」などの交配親である[1]。 起源と日本での栽培史[編集] 国光はアメリカ合衆国バージニア州の原産で、起源については次のような話が伝えられている。第3代アメリカ合衆国大統領(1801年-1809年)を務めたトーマス・ジェファーソンは、フランス大使のエドモン=シャルル・ジュネ(en:Edmond-Charles Genêt、在任1793年 – 1794年)からリンゴの枝を入手した[2][6]。ジェファーソンはその枝をバージニア州アマースト郡のカレブ・ロールズ果樹園に託して、栽培と普及を図った。18世紀の後半までにこのリンゴはRalls Genetの名称で多く栽培されるようになり、やがて名称も英語化されてRalls JanetやRawls Jennetなどとも呼ばれるようになった[1][2][6]。 Ralls Janetが日本に導入されたのは、1868年(慶応4年・明治元年)[注釈 1]あるいは1871年(明治4年)の2説がある[注釈 2][1][2][3][4][5]。このとき、アメリカ合衆国から導入されたリンゴは75品種を数え、ロールス・ジャネット(国光)の他にはジョナサン(紅玉)、スミスズ・サイダー(柳玉)、ベン・ディヴィス(倭錦)など、後の有力品種が含まれていた[5]。 導入当初のロールス・ジャネットという名称では普及せず、栽培地域によって「49号」(北海道)、「晩成子」(岩手)、「雪の下」(青森)、「キ印」(山形)などまちまちな地方名称で呼ばれて混乱していた[1][2][3][7]。1894年(明治27年)5月に仙台で「第1回りんご名称選定協議会」が開催されたが、その結果を不満として津軽地方の代表は会から脱退した[8][9]。津軽地方では同年6月に独自に「津軽地方苹果名称一定会」を開催し、名称の統一は先延ばしされた[8]。名称の統一が実現したのは1900年(明治33年)で、このときに「国光」という名称に統一された[1][2][7][9]。この名は、前年に行われた皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と九条節子(後の貞明皇后)成婚の慶事にあやかったものだった[注釈 3][1][2][1]。

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七人の証人 – Wikipedia

『七人の証人』(しちにんのしょうにん)は、西村京太郎の長編推理小説。1977年に実業之日本社から刊行された。 無人島を舞台にした作品で、西村の作品としては『殺しの双曲線』以来の「クローズド・サークル型」の舞台設定となる。このため、事件に直接登場する人物は、探偵役の十津川警部を含めて9人のみ。また、連続殺人ものでもある。 ストーリー[編集] 警視庁捜査一課の十津川警部は、深夜、帰宅途中を何者かに襲われ、不覚にも誘拐されてしまう。気がついた時には、奇妙な場所にいた。そこは無人島を改装し、世田谷区にある町の一部分をそっくり再現した場所だった。散策する十津川の前に、建物や車から次々と人間が現れる。彼ら7人の共通点は、1年前の3月27日(基点となるのは26日の夜)に起こった「木下誠一郎殺人事件」の目撃者であり、法廷で証言していたことだった。 そして、十津川ら8人を誘拐した老人・佐々木勇造が、猟銃を手に現れる。佐々木の息子・佐伯信夫は、「木下誠一郎殺人事件」の容疑者として実刑判決を受け、服役中に病死していた。佐々木の目的は、証言の信憑性を自らの手で確かめることであり、そのために無人島に犯行現場とその周辺を再現していたのだった。また、事件に無関係な十津川を誘拐したのは、客観的な立場から事件を検討させるためであった。 検証が始まり、事実が浮き彫りになっていく。ある者は虚栄心から、またある者は自分に不利な事実をごまかすため、証言に虚偽の内容を盛り込んでいた。それが明らかになるにつれ、証人が次々と殺害されてゆく。犯人は息子の復讐を狙う父親なのか、それとも他の証人の中にいるのか?佐々木ではない場合、動機はどこにあるのか?十津川は7人の証人達の人物像と証言を検討し、解決の大きなヒントを掴む。 登場人物[編集] 十津川省三 警視庁捜査一課の警部。帰宅中、拉致される。客観的な立場からの検証役を期待されて連れてこられた。 佐々木と7人の仲裁役となり、佐々木をリンチから守ったり、逆に佐々木の猟銃を海へ捨てる、などの方法をとる。 作品の上でも探偵役を務める。 佐々木勇造 佐伯信夫の父親。年齢は64歳。ブラジルで18年過ごし、大金を手にしていた。 生き別れた一人息子の無実を信じ、全財産を投じて無人島に町を再現。証人達のことを調べ上げた上で今回の事件を起こす。行動は突飛で情熱的だが、理性的な対応を心がける人物。 島の建物は、事件に関係する部分(各人の住居など)は精密に再現してあるが、それ以外はハリボテになっている。 無人島は東京のラジオ放送が入る距離にあるが、「一番近い島まで30kmはある」と説明している。島を出る方法は、定時に接近するボートに合図をすることだが、「事件解決までは合図を出さない」、と宣言した。 故人[編集] 本編開始時点では故人となっている人物(1年前の事件の容疑者と被害者)。 佐伯信夫 1年前の事件の容疑者。懲役9年の刑を宣告されたが、獄中で病死。年齢は事件当時21歳。無職で住所不定だった。

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