Month: April 2022

魁聖一郎 – Wikipedia

白鵬土俵入での太刀持の魁聖関(2012年9月30日) 魁聖 一郎(かいせい いちろう、1986年12月18日 – )は、ブラジル・サンパウロ出身で大島部屋(入門時は友綱部屋)所属の現役大相撲力士。日系ブラジル人3世で2014年に日本に帰化[2]。本名は菅野 リカルド。旧名リカルド(ヒカルド)・スガノ。身長195cm、体重204kg、血液型はO型。得意手は右四つ、寄り。最高位は東関脇(2016年7月場所)。いわゆる「花のロクイチ組」の1人[3]。趣味はゲーム。好物は焼肉、ハンバーガー、コーラ。 ブラジル在住時代[編集] 日系ブラジル人3世である。ブラジル出身であるが幼少期からサッカーは好きでなく中継も見なかった[4]。幼少期には父に無理やりサッカーをやらされて練習が終わると泣きながら家に帰ることがあったという[5]。16歳の頃に父親の知り合いで、子息が相撲をやっていた人に「体が大きいからやらないか」と誘われたのが直接のきっかけであり魁皇に憧れて相撲を始め[6]、全ブラジル相撲選手権大会・無差別級で優勝した経験を持つ。アマチュア時代は本人曰く「相撲は力だけで勝てた。今は間違ってもそんなこと思わないですけど、ブラジルのアマチュア時代はそうだった」こともあり、相撲にのめり込んでいったという[7]。とはいえ当時は相撲の稽古は週1度から2度程度であったといい、角界入り後に稽古量の違いを痛感したことを話している[8]。2006年7月に来日し、元十両・若東の黒田吉信から紹介された友綱部屋に入門した。四股名は友綱部屋伝統の「魁」と、キリストを意味する「聖」を組み合わせて「魁聖」となり、下の名前の「一郎」は祖父の名前から付けた。 入門から関取昇進まで[編集] 2006年9月場所に前相撲に出場し2勝2敗で初土俵。身長194cmの大柄な体を武器に、序ノ口と序二段でそれぞれ6勝1敗の好成績を挙げていずれも1場所で通過し、2007年3月場所に三段目へと昇進する。三段目では最初の2場所は好成績を挙げたものの、その後3場所連続して負け越してしまった。しかし、2008年1月場所では6勝1敗、翌3月場所では5勝2敗と連続して好成績を挙げ、同年5月場所において幕下へ昇進した。 幕下昇進後は2場所連続して勝ち越したものの、2008年9月場所から3場所連続して負け越してしまい、2009年3月場所では再び三段目へ陥落してしまった。1場所で幕下へ復帰した後、西幕下46枚目の位置で迎えた同年9月場所では7戦全勝の成績を挙げて優勝決定戦に進出した。優勝決定戦では臥牙丸に敗れて幕下優勝はならなかったものの、その後は幕下上位に顔を出すようになり、2010年5月場所において東幕下2枚目の位置で5勝2敗と勝ち越しを決め、翌7月場所に新十両へ昇進した。これによって10代友綱が育てた2人目の関取が誕生したことになる。 関取昇進後[編集] 2010年11月場所では11勝4敗の成績を挙げて優勝決定戦に進出し、4人による優勝決定戦を制して初の十両優勝を果たした。続く2011年1月場所でも東十両筆頭で8勝7敗と勝ち越しを決め、翌5月技量審査場所において新入幕を果たした。その5月技量審査場所では、1980年11月場所の佐田の海以来31年ぶりとなる新入幕での初日からの9連勝を記録し[9]、最終的には10勝5敗の好成績を挙げて、自身初となる敢闘賞を受賞した。この場所優勝した白鵬の優勝パレードでは旗手を務めた。その後は幕内で4場所連続して負け越してしまい、2012年3月場所には十両へ陥落したものの、その3月場所で10勝5敗の好成績を挙げ、翌5月場所において再入幕を果たした。同年7月場所では10日目まで1敗を守り、西前頭8枚目の位置ながら急遽大関との対戦が組まれたこともあり終盤に失速。それでも11勝4敗の好成績を挙げて2回目の敢闘賞を受賞した[10]。翌9月場所では最高位の西前頭筆頭へ昇進し、三役昇進も見えたが、4場所連続で負け越して幕内下位まで落ちた。 東前頭12枚目で迎えた2013年7月場所では初日から5連勝。10日目まで1敗を守り、一時に優勝争いにも参加したが、11日目からやや失速し、11勝4敗の成績を残しながらも敢闘賞受賞にはならなかった。続く9月場所、その次の11月場所は連続して7勝8敗の負け越しを喫したものの、2014年1月場所は12日目に7敗となって後がない状況から千秋楽まで3連勝して3場所ぶりの勝ち越しを果たす。翌3月場所は3枚半上昇となる東前頭3枚目の地位を与えられ、9日目に負け越しが確定した[11]ものの千秋楽まで食い下がって6勝9敗とした。2015年5月場所は12日目終了時点まで白鵬とトップを並走して優勝争いを盛り上げ、10勝5敗と好調を示すも三賞獲得はならなかった[12]。 西前頭7枚目で迎えた2016年3月場所は、11日目に勝ち越しを決めた後も白星を伸ばし、11勝4敗の好成績で終えた。千秋楽後、新三役の可能性について「三役なれるんかな。そんなに期待したら、上がれなかった時にショックが大きい」[13]と一抹の不安を口にしていたが、翌5月場所で無事新三役(東小結)に昇進。友綱部屋としては、現師匠が1989年5月に部屋を継承してからは1994年夏場所の魁皇以来2人目となる新三役で、ブラジル出身力士としては初の三役となった[14]。初土俵から10年近く掛かっての三役について、昇進の記者会見に同席した師匠は「入門当時(の期待度)からすれば三役に上がるペースとしては遅いかな。相撲に取り組む姿勢でスローな部分があるから仕方ないけど、とにかくノンビリしているのが、スローになった」[15]と歯がゆさを口にする一方で、「まだまだ上を狙える」[16]と奮起を促していた。 新三役場所以後[編集] 新三役となった5月場所は、大関以上の相手には照ノ富士にしか勝てず1勝6敗だったが、関脇以下では逸ノ城以外全勝と強さを発揮して千秋楽の栃煌山戦で勝ち越しを決めた。 翌7月場所は東関脇に番付を更新、師匠の定年までに関脇昇進を果たす形となった。成績は序中盤では2不戦勝(後述)に恵まれるなど健闘したが、終盤で負けが込み7勝7敗で迎えた千秋楽、同じく7勝7敗の大関・照ノ富士に敗れ7勝8敗[17]で場所を終えた。小結で迎えた翌9月場所も6勝9敗と負け越し。4場所ぶりの平幕で迎えた翌11月場所では3日目に白鵬に敗れ、大相撲史上3人目となる通算1000勝目を献上してしまった。以降も著しい不調に陥り、自身初となる初日から10連敗、終盤に挽回したものの3勝12敗で場所を終えた。翌2017年1月場所は前頭9枚目と大きく番付を落として臨んだ。中盤に負けが込み、10日目終了時点で7敗と勝ち越しに後が無くなったが、そこから5連勝で8勝7敗と勝ち越した。翌3月場所は場所前に右膝前十字靱帯断裂・右膝外側半月板損傷の大けがを負い当場所を全休する見込みだったが、全休すると十両落ちが必至となる番付だった関係上、6日目から強行出場。膝の踏ん張りが全く効かない状態で苦しんだが、3勝を挙げ十両落ちを回避した。しかし翌5月場所も、9日まで6勝3敗と好調の状態から終盤で負けが込み、最終的に7勝8敗と負け越し、31場所連続で務めた幕内からの陥落が決定した。東十両筆頭で迎えた翌7月場所は、初日から8連勝中であった朝乃山と9日目に対戦してがっぷりの右四つで土を付け幕内常連の力士としての力量を見せつけ、以降も白星を重ね11日目に早くも勝ち越し、翌9月場所の幕内復帰を確定させた[18]。10勝4敗で迎えた千秋楽に勝てば豊山・朝乃山・大奄美と4人で優勝決定戦を戦うことができたが、竜電に敗れてしまった。西前頭13枚目に帰り咲いた翌9月場所は4場所ぶりの幕内での勝ち越しとなる9勝を挙げ、復調をアピールした。以降も勝ち越しを続け、2018年3月場所は東前頭6枚目まで番付を戻し、場所前には変幻自在な取り口の弟弟子・旭大星らと充実した稽古で落ちた力を取り戻さんとしていた。その3月場所は初日から好調で、8連勝で中日勝ち越し。翌日も勝利し新入幕の2011年5月技量審査場所以来[19]となる9連勝としたが、逸ノ城に敗れて連勝がストップ。しかし翌11日目は貴景勝の休場により不戦勝で、幸運な形で二桁となる10勝目を記録。12日目は遠藤に敗れ2敗目。13日目は番付面よりも優勝争いを重視した審判部の判断で、横綱・鶴竜が対戦予定だった関脇・御嶽海[20]を外して魁聖を対戦させる、いわゆる「割崩し」を経験[21]したが、結果は鶴竜に叩き込みで敗れ連敗となり、優勝は逃した。しかし残り2日は連勝し、自己最多勝の12勝3敗(大関・髙安と並ぶ優勝次点)で28場所ぶり3回目の敢闘賞を獲得。一方で、先述の鶴竜に敗れたことで後述の不名誉な記録も樹立してしまった[22]。続く5月場所は三役から落ちる星の力士が1人しかないかった影響で三役返り咲きを逃し、僅か4枚半上昇の西前頭筆頭に甘んじた。その場所では関脇以上に全敗と壁に跳ね返され、10日目に負け越しを決定させ、最終的に6勝9敗。東前頭4枚目となった7月場所は、大関・高安を破るなどで9勝6敗の成績。2場所ぶりに西の筆頭に返り咲いた9月場所は、初日に大関・豪栄道を破るなど幸先の良いスタートとなったが、2日目からの横綱戦を3連敗。4日目は稀勢の里と58秒8の大相撲を演じた[23]が、寄り切られて黒星。大関以上からの星は結局豪栄道戦の1番に留まった。それでも平幕以下の力士相手には全て勝ち、11日目には大関獲りがかかっていた関脇・御嶽海を破るなど安定感を発揮して8勝7敗と勝ち越した。千秋楽に魁聖は帰り三役の可能性について「とりあえず期待はしない。期待して上がらなかったらがっかりしちゃう」[24]と、前述した新三役の前場所(2016年3月場所)千秋楽とほぼ同じ趣旨のコメントを残したが、翌11月場所は西小結となり、13場所ぶりに三役に復帰した。2019年3月6日、友綱部屋の大阪稽古場に出稽古に来た白鵬との稽古で元々痛みがあった首を悪化させた[25]。2場所の十両暮らしを経て西前頭16枚目で再入幕となった2020年1月場所は、成績自体は千秋楽に8勝7敗の勝ち越しに留まったが、この場所14勝1敗で幕内最高優勝を成し遂げた德勝龍に唯一土を付けたため、「1人だけ勝ったのに(三賞で授与される盾のジェスチャーをしながら)何かなかった?」と三賞をおねだりしていた[26]。 2020年6月20日に、約5年間の交際を経て外国出身で日本国籍の一般人女性と結婚した。新型コロナウイルス感染症の流行により、同じ都内在住にも関わらずなかなか会えないようになってしまったため「一緒に住めば会える」という気持ちになったという[27][28]。

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ひるぜんベアバレースキー場 – Wikipedia

ひるぜんベアバレースキー場(ひるぜんベアバレースキーじょう)は、岡山県北部の真庭市蒜山本茅部にある真庭市のスキー場である[1]。平成9年より、株式会社グリーンピア蒜山が管理・運営を行っている。 米子道の蒜山インターより約5分と非常に交通アクセスのよいスキー場である。また営業期間中は、曜日を問わずナイター営業している(ゲレンデコンディションによっては中止もあり)。全面スノーボード滑走可。 ベアーズバックコース ロックバレーコース フォックスロックコース ラビットコース ※全コース、ナイター滑走可 センターハウスにレストラン、ショップ、トイレ、休憩所に自動販売機コーナー、喫煙所、トイレ、センターハウス南側にキッズパーク(入場料一日500円、貸出用そり有り)、ゲレンデ西側にそり遊びのできる斜面あり。 ロックバレーコース リフト側にボードパーク開設、キッカー、レール、ボックスなどを無料で使用出来る。 また公式施設として、スキー・スノーボードのスクール「SAJ公認 蒜山スキー学校」、スキー・ボード・ウエアーのレンタルショップ「ベアバレーレンタサービス」もある。 2009年12月よりベアバックコースにタワー型人工降雪機10台設置し、近年の降雪量の減少に対応している。 2011年にはキッズパークに、スノーエスカレーターを設置し、お子様用のそり遊びに対応している。 2015年にゲレンデ東側に、第2ペアーリフトを増設し、混雑の軽減をおこなった。 2017年には、自動改札を導入している。 アクセス[編集] 関連項目[編集] ^ 真庭市ひるぜんベアバレースキー場条例 外部リンク[編集]

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オプトロム – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “オプトロム” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年7月) 株式会社オプトロムは、宮城県仙台市青葉区に本社を置く、CD-ROM、DVDおよび光ディスク用の原盤(スタンパー)を製造、販売していた企業である。 過去には三井グループ、ソフトバンクなどが出資していた。 かつては1995年頃より、B’z・ZARD・倉木麻衣等が所属するレコードレーベルBeingが制作・販売しているCD/DVDの製造を行っている事でも有名であったが、2015年9月をもってCD、DVDの製造から撤退した。 中核事業のCD・DVD事業の市場が縮小する中、環境エネルギー事業として蛍光灯「E-COOL」の製造販売を開始したが、業績は低迷しており8期連続で純損失を計上している。2013年3月期第3四半期には債務超過に陥ったが、2013年2月に筆頭株主の異動を伴う第三者割当増資を行い、2013年3月期での債務超過は回避されたものの、2014年3月期には通期で債務超過に陥り、同年7月には上場廃止にかかる猶予期間入り銘柄となった。2015年3月期は第三者割当増資などで債務超過を回避したものの、2014年2月に行った新株予約権の第三者割当の開示に関し、割当予定先の反社会的勢力等や違法行為との関わりについて虚偽の開示を行っていたことなど多数の虚偽の開示が明らかになり、上場契約違反等を理由に2015年10月1日をもって上場廃止となった。 外部リンク[編集]

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ギスプドワダ – Wikipedia

ギスプドワダ (つづり方は多数存在する)は、カナダのブリティッシュコロンビア州、およびアラスカ南東部の、ツィムシアン族のネイションの言葉で、オルカ(または “ゴンドウクジラ”)”クラン”(胞族)似対して用いられる名前である。それは、ブリティッシュコロンビア州のニスガ・ネイションやギトクサン・ネイションにおけるGisgahaast (variously spelled; also Gisk’aast) clanと同一もしくは類似のものと考えられている。。ギトクサン族がこの集団に対して、文字通りにとれば”ファイヤーウィードの人びとという意味のギスガアストGisgahaastという言葉を用いるが、ニスガ族はこの集団をツィムシアン族同様、オルカ・クランであるギスプドワダの名で呼んでいる。 ギスプドワダの名称は語源がはっきりしていない。 ギスプドワダの主要クレストはオルカ(ツィムシアン語ではネークル)と ハイイログマ (Mediik). ギスプドワダに属するツィムシアン族の人びとは、たいてい、ギッマラクサーンかギトナウィナークスどちらかのイエ集団に属している。 ギトマラクサーン Git’mlaxam[編集] ギトマラクサーンの起源は、スキーナ川の上流にあり、現在のギトクサン族のテリトリーにあたる、伝説上の土地テムラハン(別名としてテムラハム、ディムラハミドなどがある)もしくは”大草原の街”まで遡る。ギトマラクサーンはさらに細かく分けることができる。 ツィムシアン族におけるギトマラクサーンのイエ集団には、Gitkxaa?a (キトカトラ) 部族の王族であるTs’ibasaaが含まれる。 ギトナウィナークス Gitnagwinaks[編集] ギトナウィナークス(ときにNagunaksと綴られる)

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大須駅 – Wikipedia

大須駅(おおすえき)は、岐阜県羽島市桑原町にあった名鉄竹鼻線の駅である。 1929年(昭和4年)4月1日 – 竹鼻鉄道の駅として開業。 1954年(昭和29年) – 移転[2]。 1965年(昭和40年)度 – 貨物営業廃止[3]。 1985年(昭和60年)2月16日 – 無人化[4]。 1998年(平成10年) 12月 – 木造の駅舎を解体。 2001年(平成13年)10月1日 – 竹鼻線江吉良

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宣弘社 – Wikipedia

宣弘社(せんこうしゃ)は、1950年代から1970年代にかけて日本のテレビ映画の制作を手がけていた制作プロダクションで、現在はその著作権管理(ライツ)を事業とする企業である[1]。もともと、広告代理店として創業したが、2002年にこの部門は別会社「サン宣弘社(現:電通アドギア)」に譲渡している[2]。現在、源流を汲む電通アドギアは東京都中央区銀座に本社を構える。 戦後、ネオンサインなどの屋外広告事業を中心として発展[3]。その後、ラジオやテレビの番組製作に携わり、街頭テレビの設置なども推め、日本の放送事業の発展に寄与した[3]。 長年国産初のテレビ映画と称されていた『月光仮面』を企画制作したことでも知られる。厳密には、子会社である宣弘社プロダクションが制作母体であるが、企画部門は宣弘社にあった。『遊星王子』等の「製作」にクレジットされていた「小林利雄」は当時同社の代表取締役社長であり、脚本の「伊上勝」は当時の企画課長井上正喜のペンネームでのちに脚本家として独立した。のちの作詞家阿久悠は新卒から7年間、この企画課に所属した。 2002年にサントリー(現・サントリーホールディングス)とサン・アドが宣弘社の広告代理店事業を買収し、新設した「サン宣弘社」へ承継[注釈 1]。宣弘社が著作権を有する旧作作品については宣弘企画へ社名変更のうえ引き続き権利管理を継続する形となった[2]。 2008年7月8日、旧宣弘社のテレビ映画製作50周年を記念し、宣弘企画が社名を変更、株式会社宣弘社となった。現在はテレビ番組の制作は行っておらず、過去に制作した番組の著作権管理や、DVDソフト・キャラクターグッズの企画が主な業務となっている。 一方のサン宣弘社は2003年4月11日に電通が資本参画し、2005年4月1日に「アドギア」(株主構成:サントリー株式会社51%、株式会社サン・アド24%、株式会社電通15%)へ改称。中堅広告代理店として製作委員会への出資などを継続していた。 2010年までに電通がサントリーから持分を買取し(電通67%、サントリー33%)電通グループとなる。2011年4月に屋外広告の製作とセールスプロモーション(販売促進活動)に特化した広告会社として再出発することになり「電通アドギア」へ改称。現在に至る。 1928年 – 宣伝用品を扱う商店中村宣弘社創業[4]。 1941年 – 広告代理店として株式会社宣弘社を設立[4][注釈 2]。 1946年 – 小林利雄が社長就任[4][注釈 3][注釈 4]。

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