一遺伝子一酵素説 – Wikipedia

一遺伝子一酵素説(いちいでんしいちこうそせつ、英語:one gene-one enzyme hypothesis)とは、遺伝子研究の過程で唱えられた仮説で、個々の遺伝子はそれぞれ一つの酵素を指定するものであるとする説である。 遺伝子が酵素に関わっているとの見方はそれ以前からもあったが、生物学の分野で広く認められるようになったのはビードルとテイタムによる研究以降である。彼らはアカパンカビの栄養要求株という生理的形質に関する突然変異と、その遺伝について研究することで、この説の根拠を確定した。この説は遺伝子の役割を酵素を通じてタンパク質という特定の物質に結びつけた点で重要である。 一遺伝子一酵素説(one gene-one enzyme hypothesis)とは、遺伝子が酵素の合成を何らかの形で支配しているとする説である。生物体における現象は、生化学的な立場から見ればすべては化学反応であり、大まかに言えばそれらの一つ一つにはそれぞれ固有の酵素が関わっている。遺伝子はそれを支配している、というのがこの説の骨子である。個々の遺伝子はそれぞれが決まった酵素の合成に関わっており、酵素の特異性はそれに対応する単一の遺伝子に支配されている、ということである。酵素が合成されればそれが関わる反応が可能となり、それによって形質が発現する。 普通個体から突然変異によって生まれる特殊な形質は、たいていがこの遺伝子に何か不具合が生じたもので、その結果として特定の酵素が合成できなくなり、それによってその酵素の関わる化学反応が行われなくなる。そしてその結果として、形質に異常が生じるという風に説明できる。そのような遺伝子が往々にして劣性であることは、普通の遺伝子が問題の遺伝子と共存することで、前者から正常な酵素が合成できるから、その影響が表に出ないのだと考えれば納得がゆく。例えば突然変異の例としてよく知られるアルビノは色素を作れない個体であるが、これが色素を作る合成経路のどこかに不具合が生じたもので、ひいてはそこに関わる酵素に関する遺伝子に不具合が生じたのだ、と考えるものである。この遺伝子をヘテロに持つ個体では、正常な遺伝子も存在するから、色素の形成は行われるであろう。 遺伝学はその初期において、遺伝子がいかにしてその支配する形質を表す働きをするかという疑問を一旦は不問にする形で、ひとまず現象面から遺伝子のふるまいを検討し、そこから染色体説など重要な発展が行われた。その正体がDNAであることの発見もその系列にある。それに対して、この問題に直接に目を向けたのがこの説である。 この考え方が最初に発表されたのは案外古い。1908年にアーチボルド・ガロッドはアルカプトン尿症やフェニルケトン尿症の研究から、これらがメンデルの法則に従うこと、そしてその症状が前者ではチロシンなど芳香族アミノ酸の分解産物であるホモゲンチジン酸、後者ではフェニルピルビン酸が蓄積することによることを示し、おそらくそれらを分解できないことによるものであるとする、ほぼこれに近い考えを主張している。アルカプトン尿症ではGoss(1914)が、正常な血液にはホモゲンチジン酸を分解する酵素が存在すること、患者の血液にはそれが存在しないことを確認した。 ガロッドの説は当初は取り上げられなかったが、これはその頃までの遺伝学が形態に関する遺伝子ばかりを扱っていたため、純粋に生理的な形質に関わる遺伝子という概念になじめなかった面もあるようである。後にビードルはガロッドを「化学遺伝学の父」と呼んで彼の研究を賞賛している。 また、Onslowと Bassett はキンギョソウの黄色と白の花色の遺伝について研究し、これが色素であるアントキサンチンの合成に関わる遺伝子であることを見いだしている(1913)。 ここから、一足飛びに遺伝子が酵素として働くのではないかとの見方もあった。しかし、遺伝子が酵素そのものでないことも確認できた。たとえばコナマダラメイガの赤目系統の幼虫に、正常な黒目系統の精巣を移植すると、成虫の眼が黒くなることが知られている(1936 Caspariによる)。これは色素形成に関する酵素が精巣に含まれるためである。 このように、遺伝子が物質合成などの化学反応に、そしておそらく酵素に結びついているらしいことは次第に明らかになっていた。しかし、この説が広く認められるようになったのはビードルとテイタムの研究によるところが大きい。 ビードルとテイタム[編集]

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アンティポス – Wikipedia

アンティポス(古希: Ἄντιφος, Antiphos, 英語: Antiphus)は、ギリシア神話の人物である、主に、 プリアモスの子 タライメネースの子 テッサロスの子 アイギュプティオスの子 などのほか数人が知られている。以下に説明する。 目次 1 プリアモスの子 2 タライメネースの子 3 テッサロスの子 4 アイギュプティオスの子 5

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三好野本店 – Wikipedia

株式会社三好野本店(みよしのほんてん)は岡山県岡山市中区に本社を構える会社である。 駅弁などの弁当製造からサービスエリアの経営まで幅広い事業を展開している。 現社長の若林昭吾は、岡山商工会議所副会頭など地元の各種団体の要職を歴任する一方、「若さま」の愛称で地元民放局の番組でレギュラー出演し、明るい性格で得意の駄洒落を披露するなどしている。 1781年(天明元年) – 三好野の前身の米問屋「藤屋」が岡山の西大寺で創業。 1874年(明治7年) – 岡山市天瀬、高級旅館「三好野」を始める 1891年(明治24年) – 山陽鉄道敷設に協力したことにより、岡山駅開業と同時に駅構内の支度所の運営を任される。4月に山陽鉄道が倉敷市まで延長されたのを機に、駅弁の販売を始めた。 1901年(明治34年) – 岡山駅プラットホームの北側に洋館2階建ての支度所を開業。 1919年(大正8年) – 「合資会社三好野」を設立。 1937年(昭和12年) –

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聖金口イオアン聖体礼儀 (ラフマニノフ) – Wikipedia

『聖金口イオアン聖体礼儀』(せいきんこういおあんせいたいれいぎ、ロシア語: Литургия Святаго Иоанна Златоуста、英語: Liturgy of St. John Chrysostom)作品31は、セルゲイ・ラフマニノフが1910年に作曲した正教会の奉神礼音楽である。金口イオアンの定めた聖体礼儀に基づく無伴奏の混声合唱による聖歌であり、後の1915年に作曲された『徹夜禱』と並ぶラフマニノフの奉神礼音楽の大作である。 歌唱は教会スラヴ語による。 なお、一般に見受けられる『聖ヨハネ・クリュソストモスの典礼』『聖ヨハネス・クリソストムスの典礼』等といった表記は誤訳である[1]。 作曲の経緯[編集] ラフマニノフはこの作品を1910年の夏にタンボフ州イワノフカの別荘で作曲した。同時代人の証言によると彼は決して熱心な正教徒というわけではなく、その彼がこうした奉神礼音楽の大作を作曲したことは驚きを以て受け止められたという。ただしこの作品の手稿には彼自身の手で「完成、神に光榮」と書きつけられており、同じ言葉は最後の作品となった『交響的舞曲』の手稿にも見出すことができる。 元々ラフマニノフの創作において正教会聖歌の旋律は主要な着想の源泉だった。モスクワ音楽院在学中にはステパン・スモレンスキイによるロシアの教会音楽についての講義を受講しており、すでに1897年にはスモレンスキイから聖体礼儀の作曲を勧められていた[2]。 さらに熱心に彼に宗教音楽の作曲を勧めたのはアレクサンドル・カスタリスキーだった。カスタリスキーは1903年に自身の宗教音楽の作品の一つを次のような上書きとともにラフマニノフに贈っていた。 畏敬すべきセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ氏へ、カスタリスキーより。この世界にはラフマニノフ氏の霊感をがまん強く、しかし執拗に待ち望んでいる人々がいることを思い起こさせんがために。 ラフマニノフが聖体礼儀を作曲するに当たって助言を仰いだのもやはりこのカスタリスキーだった。ラフマニノフはこの作品を完成させると友人のニキータ・モロゾフへの(当時ロシアで用いられていたユリウス暦で)7月31日付の手紙で次のように述べた。 ちょうど今聖体礼儀を書き上げたところです。…聖体礼儀についてはかねてから考えていて、熱望していたのです。ふと何気なく取りかかってみたのですが、すぐに夢中になりました。それからは一気に仕上げてしまいました。これほどの喜びを以て作曲できたのは『モンナ・ヴァンナ』[3]の時以来久しくないことでした。 初演はこの年の12月8日(ユリウス暦では11月25日)にニコライ・ダニーリン指揮のモスクワ聖務会院合唱団により非公開で行われた。この初演を聴いた聖職者の一人は次のように感想を述べた。

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アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー – Wikipedia

アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー(Anton Friedrich Justus Thibaut, 1772年1月4日 – 1840年3月28日)は、18世紀のドイツの法律学者・音楽家。フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニーとの法典論争は著名である。 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国のハーメルンの出身。1792年にゲッティンゲン大学で法学を専攻し、翌年にケーニヒスベルク大学、さらに次の年にはキール大学に移った。ケーニヒスベルク時代にはイマヌエル・カントの講義を取っていたという。1796年にキール大学で学位を授与されて教授資格を得る。2年後にローマ法員外教授、1801年にはローマ法正教授となる。1802年にイェーナ大学に移り、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、フリードリヒ・フォン・シラー、ヨハン・ハインリッヒ・フォスらと親交を結ぶ。1803年に書かれた『パンデクテン法の仕組』(System des Pandektenrechts) はローマ法の基本書として重んじられた。1806年にはハイデルベルク大学に招聘され、以後の生涯の活動の舞台となった。 1814年、『統一的ドイツ一般民法典の必要性について』(Über die Nothwendigkeit eines allgemeinen bürgerlichen Rechts für

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岩下方平 – Wikipedia

岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい[1]、文政10年3月15日(1827年4月10日) – 明治33年(1900年)8月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。勲一等子爵。通称は左次右衛門、左二[1]。 文政10年(1827年)、薩摩藩士・岩下亘の長男として鹿児島城下の下加治屋町に生まれる。その後、岩下典膳道格の養子となる。安政3年(1856年)、相良長基の紹介により30歳で平田銕胤の国学塾気吹舎の門人となった[2]。 安政5年より始まる安政の大獄では、江戸において水戸浪士と結託して幕政打開を図ったが、挫折して帰藩する。安政6年(1859年)11月、精忠組に参加。文久2年(1862年)、伏見において銕胤嫡男平田延胤と面会し、島津久光挙兵上京の目的や寺田屋騒動の顛末について延胤に報告した[3]。文久3年(1863年)9月、薩英戦争の和平交渉の正使として交渉を担当する。薩英戦争の状況については師の平田銕胤に書翰を送り、詳細を報じている[2]。 慶応元年(1865年)、家老を勤める。慶応3年(1867年)のパリ万博では、「日本薩摩琉球国太守政府」使節団長として、野村宗七や市来政清ら藩士等9人を率いて参加し、同年夏に帰国の際には、シャルル・ド・モンブランと数人のフランス人技術者を伴った[4]。小松帯刀や西郷隆盛、大久保利通とともに藩政をリードし、倒幕活動に尽力した。王政復古の大号令では、徴士参与として小御所会議に参席。明治2年(1869年)9月、維新の功として永世賞典禄1000石を下賜された。 新政府においては、京都府権知事や大阪府大参事、元老院議官、貴族院議員などを務めた。明治21年(1887年)、維新の功により子爵を授けられ、明治23年(1890年)10月20日、麝香間祗候となる[5]。死去に際して勲一等瑞宝章が授けられた。享年74。 位階 勲章等 親族・家族[編集] 親族に岩下方美がおり、岩下方平関連の資料は方美の子孫が整理している。 注釈[編集] 出典[編集] 参考文献[編集] 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書

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重松隆志 – Wikipedia

重松 隆志(しげまつ たかし、1973年6月28日 – )は、日本の俳優。京都府出身。ストレイドッグプロモーション所属。舞台や映画、テレビなどで幅広く活躍する実力派俳優である。 出演作品[編集] 舞台[編集] 2000年 2001年 2002年 「半神」作/荻尾望都 脚本/野田秀樹 演出/永元絵里子 「竜二 〜お父さんの遺した映画〜」原作/生江有二 脚本・演出/森岡利行 「いるかホテル」 作・演出/酒井健太郎] 「心は孤独なアトム」 作・演出/森岡利行 「マスタード★ケチャップ」 作・演出/永元絵里子 2003年 「電脳ギンガ帝国Verdes」 作・演出/永元絵里子 「竜二 〜お父さんの遺した映画〜」原作/生江有二 脚本・演出/森岡利行

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日本サンガリアベバレッジカンパニー – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “日本サンガリアベバレッジカンパニー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年12月) 株式会社日本サンガリアベバレッジカンパニー(にほんサンガリアベバレッジカンパニー、英語: Japan Sangaria Beverage Co., Ltd.)は、大阪府大阪市東住吉区に本社を置く飲料メーカーである。 創業者の石山正二が、1951年(昭和26年)、大阪にて「石山食品工業社」を設立[1][2]。創業当初より瓶入り清涼飲料・乳酸菌飲料・乳飲料の製造及び販売を専業とする中で、日本万国博覧会が開催された1969年(昭和44年)にUCC上島珈琲が発売し、評判となった「UCCコーヒー」に続く形で、1971年(昭和46年)に発売した「サンガリア缶コーヒー」を発売。 1974年(昭和49年)に、商品名のサンガリアは唐代の詩人・杜甫の代表作『春望』の冒頭「国破れて、山河あり」[注 1]をヒントに現社名に改名[3][2]。また、この時期に同社の代表商品ともなる「サンガリアラムネ」を発売し、缶入りラムネとしてロングセラー商品にすると共に、現在までラムネを製造販売する事業者内としては、日本最大の企業として知られる。[要出典] 淹出した緑茶に少量のアスコルビン酸(ビタミンC、酸化防止剤)を添加し、容器に窒素を無菌充填する事で鮮度を維持し、長期保存しても変色させない技術を開発し製法特許を取得。これを基に缶入り緑茶を発売し、コーヒー、紅茶等他の飲料にも順次適用を拡大、追従する同業他社から莫大な特許料収入を得た。[要出典]また、加温ができるペットボトル容器の開発や、凍らせても大丈夫なペットボトル容器の開発を日本初で行った。 緑茶に限らず、スーパー・コンビニのプライベートブランドへの最大手OEM供給元である他、独自技術を活かして同業他社にも積極的なOEM供給を行っている。[要出典]自社ブランドによる販売地域は当初近畿に限定されていたが、知名度の向上に従い全国展開するようになった。

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有元秀文 – Wikipedia

有元 秀文(ありもと ひでふみ、1949年[1] – )は、日本の教育学者である。 山口県立岩国高等学校卒業[2]。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業[1]国語科教諭、文化庁文化部国語課国語調査官、国立教育研究所教科教育研究部主任研究官、国立教育政策研究所教育課程センター総括研究官などを務めた[1]。アナウンサーの上柳昌彦は教え子。 2014年11月、『まともな日本語を教えない勘違いだらけの国語教育/なぜ、文科省の国語教育は主張する子どもを育てられないのか!?』(合同出版)が第14回日本文芸アカデミー大賞を受賞した[3]。 『「相互交流のコミュニケーション」が授業を変える』(2001年、明治図書出版、ISBN 4182563174) 『読書へのアニマシオン入門』(2002年、学習研究社、ISBN 4054014763) 『子どもが必ず本好きになる16の方法・実践アニマシオン』(2005年、合同出版、ISBN 4772603484) 『「国際的な読解力」を育てるための「相互交流のコミュニケーション」の授業改革』(2006年、渓水社、ISBN 4874409210) 『子どもが本好きになる七つの法則』(2008年、主婦の友社、ISBN 407261226X) 『必ず「PISA型読解力」が育つ七つの授業改革』(2008年、明治図書出版、ISBN 418321713X) 『PISA型読解力が絶対育つ授業実践事例集』(2008年、教育開発研究所、ISBN

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福井県中学校の廃校一覧 – Wikipedia

福井県中学校の廃校一覧(ふくいけんちゅうがっこうのはいこういちらん)は、福井県内の廃校になった中学校の一覧。対象となるのは、学制改革(1947年)以降に廃校となった中学校、および分校である。学校名は廃校当時のもの。廃校時に中学校が所在していた自治体がその後、合併により消滅している場合は、現行の自治体に含める。また現在休校中の県内の中学校や分校も、事実上廃校となっているものが多いため、参考として本項に記載する。 ()内は、廃校になった年である。 目次 1 福井市 2 敦賀市 3 小浜市 4 大野市 5 勝山市 6 鯖江市 7 あわら市 8 越前市 9

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