エットーレ・バスティコ – Wikipedia

エットーレ・バスティコ(Ettore Bastico、1876年4月9日 – 1972年12月2日)は、イタリア王国の軍人、陸軍元帥。 ボローニャに生まれる。軍歴の最初は、第3ベルサリエリ連隊へ士官候補生としての配属。第一次世界大戦中は様々な師団司令部で参謀将校を務めていた。1927年に准将に昇進し、1932年に師団司令官に就任。独裁者ベニート・ムッソリーニに黒シャツ隊師団の編成を命じられた。1935年、第二次エチオピア戦争に従軍し、軍団司令官となる。 第二次世界大戦中の1940年、ドデカネス諸島(イタリア領エーゲ海諸島)総督に任命される。翌1941年にリビア総督・軍総司令官となった。ドイツアフリカ軍団は公式にはバスティコの隷下にあったが、バスティコは度々その司令官ロンメルと対立し、「爆弾」にちなんだ「ボンバスティコ」というあだ名を付けられた。1942年にロンメルが元帥に列せられると、バランスを取るためにムッソリーニは8月12日にバスティコを元帥に列した。エル・アラメインの戦いに敗れ、アフリカ失陥が目前となった1943年2月にリビア総督を解任された。その後は終戦まで軍務に就くことはなかった。 戦後は軍事史家・作家として活動し、1957年にはイタリア共和国功労勲章(伊:Ordine al merito della Repubblica Italiana)を授与されている。 1972年に96歳の長寿でローマにおいて死去。イタリア王国陸軍元帥最後の生き残りであった。 軍人としての評価[編集] 1970年代までバスティコの評価は惨憺たるものであった。バスティコと同時期に北アフリカ戦線を戦ったロンメルが「有能なドイツ軍人」として神話化されたことで、ロンメルと対立したバスティコは守旧的で無能なイタリア軍の将軍の典型例として矮小化されたのである。この傾向は、グデーリアンやマンシュタインら他のドイツ軍将校の回顧録において、イタリア軍はじめ同盟国が将校から兵士に至るまで軟弱で軍備も貧弱であるとの評価がなされた事によりさらに強められていた。 しかし1980年代以降、軍事史研究の中でドイツ軍の再検討が進められ、ロンメルの戦略立案能力に疑問符が付けられた結果、上記のような評価は大きく修正されることとなる。具体的には、当時北アフリカに集積された物資のデータなどが検討された結果、補給・作戦支援的観点からエル・アラメインへの進撃に反対したバスティコやカヴァッレーロ、ケッセルリンクの視点は妥当であると指摘されたのである。これらの研究を通し、バスティコは現在、北アフリカという戦場をよく理解し、補給の重要性を正しく認識できていた優秀な上級将校として再評価が進められている。 参考文献[編集] General Ettore Bastico

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それいけ!アンパンマン 空とぶ絵本とガラスの靴 – Wikipedia

『それいけ!アンパンマン 空とぶ絵本とガラスの靴』(それいけアンパンマン そらとぶえほんとガラスのくつ)は1996年7月13日公開の映画『それいけ!アンパンマン』シリーズ通算第8作。同時上映作品は『それいけ!アンパンマン ばいきんまんと3ばいパンチ』。 全日本私立幼稚園連合会、社会福祉法人日本保育協会推薦作品。キャッチコピーは『忘れないで・・・夢と希望。』。 香美市立やなせたかし記念館オープン記念映画として製作された。本作ではシンデレラの住むおとぎの国を舞台にし、ガラスの靴をめぐってアンパンマン達が大冒険をする作品である。 脚本は映画シリーズでは初登板となる米村正二。またゲストヒロインのカボちゃん役には女優の吉野公佳が担当し、以後の映画シリーズでゲストキャラクターの声優を女性タレントが担当する事になる。 本作の劇中音楽はワルツが多く使用され、TVシリーズではダンスシーンで使われることがある。 あらすじ[編集] ある日、うさぎ図書館で「シンデレラ」の続編となる本を見つけたメロンパンナ。その内容は誰もが知っているシンデレラのお話ではなく、ガラスの靴が突然二手にわかれて、シンデレラと結婚した王子様が離れ離れになってしまいおとぎの国も不幸になってしまったという内容だった。 その夜、メロンパンナが「おとぎの国に行ける事が出来たら、ガラスの靴を見つけられるのに」と物思いに耽っていると、絵本の中からふくろうのホッピーが現れた。ホッピーの話によると、魔人ガラゴンのせいでシンデレラの住んでいるおとぎの国がメチャクチャになってしまったとの事。ガラスの靴を見つけられれば、おとぎの国も元通りになるのだ。 アンパンマン達は絵本のトンネルをくぐりおとぎの世界に向かった。しかし、その様子を見ていたばいきんまんとドキンちゃんも、アンパンマン達の後を追っておとぎの国へ。ガラゴンを騙してアンパンマンをやっつけようと企むばいきんまんとガラスの靴を見つけておとぎの国のお姫様になろうと思っているドキンちゃん。 果たして、ガラスの靴の行方は? そして、おとぎの国は元の平和な世界に戻るのだろうか。 登場キャラクター(キャスト)[編集] 詳細はアンパンマンの登場人物一覧を参照。 レギュラーキャラクター[編集] アンパンマン 声 –

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水田恐竜 – Wikipedia

水田 恐竜(みずた きょうりゅう) 生誕 (1964-02-01) 1964年2月1日(58歳) 日本長崎県 国籍 日本 職業 漫画家 活動期間 1990年 – ジャンル 4コマ漫画 代表作 放課後キッチン テンプレートを表示 水田

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クレイジー・イン・ラブ – Wikipedia

この項目では、ビヨンセとジェイ・Zの楽曲について説明しています。ITZYのアルバムについては「CRAZY IN LOVE」をご覧ください。 「クレイジー・イン・ラブ」を披露するビヨンセとジェイ・Z(2009年、ロンドン) 「クレイジー・イン・ラブ 」(英: Crazy in Love)は、アメリカ合衆国のR&B歌手、ビヨンセと、ヒップホップ・ラッパー、ジェイ・Zとの共演楽曲である。 ビヨンセとジェイ・Z、プロデューサーのリッチ・ハリスンによって作られ、ビヨンセのソロ・デビュー・アルバム『デンジャラスリィ・イン・ラヴ』の先行シングルとなった。この曲のブラスの部分は、1970年にザ・シャイ・ライツが発表した「Are You My Woman (Tell Me So)」からのサンプリングである。 2003年7月8日に、アルバムからの先行シングルとしてリリースされ、アメリカ合衆国とイギリスのナショナルチャートで首位を獲得し、その他の国でもトップ10入りした。この楽曲にはさまざまな批評も受け、ビヨンセ自身も様々な賞を受賞した。 2021年、「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500 (The RS

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スター・オン・ステージ あなたならOK! – Wikipedia

『スター・オン・ステージ あなたならOK!』は、かつて存在した日本のテレビ番組である。略称は『あなOK』 NETテレビ(現・テレビ朝日)で1973年4月2日 – 同年9月24日に放送された公開オーディション番組でありあいざき進也、藍美代子らを輩出したことで知られる。 企画制作は渡辺プロダクション。司会はNHKの長寿番組『ジェスチャー』『NHK紅白歌合戦』等や、TBSの『日本レコード大賞』の司会で知られ、渡辺プロ制作のフジテレビの『新春かくし芸大会』にも起用されていた高橋圭三であり、さらに井上順やザ・ドリフターズが進行役を務めていた。 本番組が制作されるきっかけとしては1971年にスタートした日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』の成功がある。『スタ誕』は、1972年(昭和47年)7月1日の初代チャンピオン・森昌子デビューと前後して視聴率を大台の20%台へと伸ばしていた。森も「花の中三トリオ」と呼ばれた山口百恵もホリプロの所属であったため、「スタ誕」で台頭するホリプロへの牽制としてナベプロの肝いりで新しいオーディション番組を作ることとなった。 この際、放送枠の確保に当時NETの系列局だった毎日放送の社長(当時)、高橋信三に依頼し、1年ほど経過した後NETから提示されたのは木曜20:00 -21:00枠だったが、TBSの裏番組『ありがとう』が当時視聴率40%を超える「お化け番組」で、とても勝負にならないという理由からNET・MBSと再三にわたり調整を行った結果、当時の人気番組だった日本テレビの『NTV紅白歌のベストテン』にぶつかる形となり、これ以上NET・MBSに無理を頼めなくなったナベプロ側は、音楽・バラエティで裏表の番組に同一事務所のタレントをブッキングすることを避けていた当時の業界の習慣もあり[1]、番組自体の打ち切りか放送枠移動を日本テレビ側に申し入れたが[2]、日本テレビ側はこれを拒否[3]。協議は物別れに終わり、ナベプロ側は番組からの撤退を強行せざるを得なくなり、ナベプロの歌手は一部例外を除いて『歌ベス』に出演できなくなった。また、日本テレビも『スタ誕』の新人スターを新興のプロダクションに配分するという条件でホリプロやサンミュージック、田辺エージェンシーなどの芸能プロダクションから全面協力を取り付けたため、逆にナベプロ以外のプロダクション所属歌手は『あなOK』には出演しなかった。そこまでのリスクを背負ってスタートした番組であったが、わずか2クールで放送を終了した[3]。 なお番組自体は2クールで終了したが、次番組『ビッグスペシャル』でも前期まではワンコーナーとして不定期に行い、決勝大会も同番組で行われた(この時の司会も高橋圭三)。また、NETテレビは翌1974年10月から1年間オーディション番組『あなたをスターに!』を制作・放送したが、こちらは渡辺プロは番組制作に直接関与せず、他のプロダクションとともにスカウトで参加している。 広島ホームテレビでは、本来の月曜20:00枠で『ワールドプロレスリング』を遅れネットしていたため(本来の金曜20:00枠ではフジテレビから『ゴールデン歌謡速報』を同時ネット)、押し出される形で本番組を日曜15:00からの遅れネットで放送していた。また、本番組放送時点では『NTV紅白歌のベストテン』は広島県では放送されていなかった(本番組終了後の1975年10月改編よりネット開始)[4]。これは、当時広島テレビ放送が日本テレビ系列とフジテレビ系列のクロスネット局で、月曜20:00枠を『水曜ドラマシリーズ』(フジテレビ)の遅れネット枠に充てていたことや、広島ホームテレビが広島テレビ放送の編成から外れた日本テレビ・フジテレビの番組を相当数受け入れていたことによる措置である[5][6]。 優勝者・デビュー[編集] 五十嵐夕紀は同番組に応募してナベプロにスカウトされ、スクールメイツに入った[9][10] ⇒ 1977年4月『6年たったら』でデビュー

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東のエデン 放送部 – Wikipedia

東のエデン 放送部(ひがし- ほうそうぶ)は、テレビアニメ『東のエデン』の放送開始に伴い、アニメイトTVで配信されたインターネットラジオ番組。全14回。また、携帯サイトのアニメイトON AIR!では、『東のエデン 放送部 楽園こぼれ話』と題し、web版とは異なるパーソナリティによる番組が全14回配信された。web版パーソナリティは滝沢朗役の木村良平と森美咲役の早見沙織。携帯版パーソナリティーは大杉智役の江口拓也。 東のエデン 放送部[編集] 概要[編集] アニメ『東のエデン』の情報を伝えつつも、大幅に脱線しながら進行する。 パーソナリティ[編集] コーナー[編集] 近況報告板談話室・滝沢朗[1] ふつおたのコーナー。謎の多い展開となったアニメ本編の今後の展開を予想するメールや、劇中で発生する事件「迂闊な月曜日」に因んで、“迂闊な”体験を紹介するメールなどが多く紹介された。 セレソン チャレンジ!!(2スレッド目〜) パーソナリティーやゲストに関する問題に答えて、アニメ内で登場する『セレソン』のように、時間内に見事100億円を使いきり、ご褒美を手に入れるため、パーソナリティーの2人がクイズに挑戦するコーナー。ちなみに、ご褒美は毎回ケーキなどのスイーツである。 配信[編集] 回数 配信日

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エラゼン・ローベック – Wikipedia

エラゼン・ローベックErazem Lorbek FCバルセロナ (バスケットボール)  No.25 ポジション パワーフォワード 基本情報 スロベニア語 Erazem Lorbek 生年月日 (1984-02-21) 1984年2月21日(38歳) 国籍 スロベニア 出身地 ユーゴスラビア連邦スロベニアリュブリャナ 身長 208cm (6 ft 10 in)

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プラマック・レーシング – Wikipedia

プラマック・レーシング 2021年のチーム名 プラマック・レーシング・チーム 本拠地 イタリア カーゾレ・デルザ 代表 パオロ・カンピノティ ライダー 5. ヨハン・ザルコ89. ホルヘ・マルティン53. エステベ・ラバト マシン ドゥカティ・デスモセディチ GP21 タイヤ ブリヂストン ライダーズチャンピオン –

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チャールズ・シェリントン – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “チャールズ・シェリントン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年10月) サー・チャールズ・スコット・シェリントン(Sir Charles Scott Sherrington, 1857年11月27日– 1952年3月4日)は、イギリスの生理学者。1932年神経細胞の研究でノーベル生理学・医学賞をエドガー・エイドリアンと受賞した。 近代神経生理学のパイオニアでシナプスの命名者である。関節の筋が収縮すると、その逆側の筋(拮抗筋)が弛緩すると言う『シェリントンの法則』に名前が残っている。 シェリントンはロンドン生まれ。ケンブリッジ大学でマイケル・フォスターに生理学を学び、1887年からはセント・トマス・メディカル・スクール(現キングス・カレッジ・ロンドン)に勤めた。1895年にリヴァプール大学の教授になり、1913年にはオクスフォード大学の生理学の教授に就任。1893年に王立協会のフェローに選出され、1920年から1925年の間は会長を務めた[8]。1924年メリット勲章を叙勲。1935年に引退。 ^ Neurotree profile:

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ポール・ポジション (映画) – Wikipedia

ポール・ポジション Formula uno, febbre della velocità 監督 マリオ・モッラオッタヴィオ・ファブリオスカー・オレフィッチ 音楽 グイド&マウリツィオ・デ・アンジェリス 撮影 エンニオ・グァルニエリヤン・デ・ボンダニロ・デジデリジョン・ジョプソン 編集 マリオ・モッラ 製作会社 レーシング ピクチャーズ 配給 東映洋画 公開

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