ウィリアムズ・FW15C – Wikipedia

ウィリアムズ・FW15C(Williams FW15C)は、ウィリアムズが1993年のF1世界選手権参戦用に開発したフォーミュラ1カー。デザイナーはパトリック・ヘッドとエイドリアン・ニューウェイのコンビで設計した。 ウィリアムズは1991年シーズンのFW14をベースにアクティブサスペンションを搭載したFW14Bを開発。1992年シーズン開幕3戦をこれで戦い、ヨーロッパラウンドが開幕する第4戦スペインGPから、アクティブサス専用に設計されたウィリアムズ・FW15を投入する予定だったが、他チームに対して大きなアドバンテージがあったため、FW15の投入は1993年に先延ばしされた。レギュレーション改訂でトレッドやリアタイヤのサイズが縮小され、エンジン搭載方法を変更したことから「FW15C」と改名された[2]。 車体のデザインはFW14Bの基本コンセプトに沿いながら、パワーステアリング、パワーアシストブレーキ、アンチロック・ブレーキ・システム(ABS)などのハイテク装備を追加した。アクティブサスペンションはシステムが整理され、FW14Bではフロントサスペンションの接合部に張り出していたバルジがなくなった。機能も改良され、距離センサーからサーキットのどこを走っているかを検知し、ピッチやライドハイト(車高)を全てコントロールしていた[2]。ホイールロックが発生すると距離センサーが正確な値を計測できなくなるためABSを搭載し、1993年シーズン用にモディファイを施した。 チームは無段変速トランスミッション (CVT) やローンチコントロールの開発も行っていた。CVTを採用すればエンジンをほぼ一定の回転数で使用できるので、ルノーは吸気管・排気管の長さやバルブタイミングなどを最適化して開発することが予想できた。デザイナーのエイドリアン・ニューウェイによればテスト走行で聴いたエンジン音は「ひたすら退屈」で、もし実用化されればF1の観客には不評だったに違いないと述べている[3]。 結局、1994年シーズンに施行されたレギュレーション改訂により、ハイテク装置の多くが使用禁止となった。 1993年シーズン[編集] 1993年イギリスGPでFW15Cをドライブするプロスト ドライバーは1年休養していたアラン・プロストと、前シーズンブラバムからF1デビューを果たし、ウィリアムズのテストドライバーを担当していたデイモン・ヒルを起用した。 ボディとリアウィングには1993年のサブスポンサーとして関わったSEGAのロゴとセガ自社のマスコットキャラクターソニック・ザ・ヘッジホッグが描かれていた。 プロストは開幕戦から7戦連続を含む13回ポールポジション獲得、決勝レースではクラッチの扱いに苦慮して何度かエンジンストールを演じて順位を大幅に落とす場面が見られたものの、シーズン7勝を挙げて4度目のドライバーズタイトルを獲得した。ヒルも第11戦での初優勝から3連勝し、2年連続コンストラクターズタイトルを獲得した。 なおこの年をもって1985年以来8年間にわたってメインスポンサーを務めていたキヤノン、およびキャメルとの契約を終了し、赤・白・黄色・青の「キヤノンカラー」も見納めとなった。 翌1994年シーズンのハイテク禁止を受け、オフシーズン・テスト用に翌年よりメインスポンサーとなるロスマンズ・カラーに塗り替え、アクティブ・サスペンション、トラクション・コントロール、ABSなどのハイテク装備を全て外し、エンジンもルノー・RS6に載せ替えた「FW15D」が登場した。 スペック[編集] シャーシ[編集] シャーシ名 FW15C ホイールベース

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追いかけたいの! – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “追いかけたいの!” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年9月) 『追いかけたいの!』(おいかけたいの)は、1988年10月26日から同年12月21日まで、フジテレビ系列で毎週水曜日20:00 – 20:54に全9話が放送された連続テレビドラマである。 主演は南野陽子。また、宮沢りえの連続テレビドラマ初出演作品でもある。 スポーツ新聞新米記者の白鳥と新米カメラマンの黒岩の取材における奮戦を描く。 本作はフジテレビ・共同テレビ制作作品であり、1984年10月から始まったこの時間帯の連続テレビドラマとしては唯一、大映テレビが制作に関わっていない作品である。 キャスト[編集] サブタイトル[編集] 各話 放送日 サブタイトル

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道の駅とみうら – Wikipedia

道の駅とみうら(みちのえき とみうら)は千葉県南房総市の国道127号上にある道の駅。 当駅が開設された当時の富浦町はビワ(房州びわ)の産地で[4]生産が日本一であり[5][6][7]、1993年(平成5年)8月25日に道の駅とみうら枇杷倶楽部と命名された[8]。 歴史・概要[編集] 1993年(平成5年)4月22日に千葉県内初の道の駅として登録されて[2]、同年8月25日に道の駅とみうら枇杷倶楽部と命名され[8]、同年11月27日に開業した[3]。 休憩施設などの他物販施設も併設して[9]、開業時点では年間10万人の利用者を見込んでいたが[10]、2002年(平成14年)度には年間60万人の利用者を集めるようになった[11]。 2000年(平成12年)3月には全国道の駅グランプリで最優秀賞を受賞した[12]。 2004年(平成16年)11月にはびわワインを復活し[13]、2006年(平成18年)1月にはびわ葉茶工場を新設して新装開業した[14]。こうした活動が「地域の活性化に貢献した」として2006年(平成18年)8月に道路功労者として表彰された[15]。 また、2015年(平成27年)度には全国モデル道の駅に選定された[16][広報 1]。 駐車場(乗用車65台、大型車15台、身体障害者用4台) トイレ(男10、女8、身体障害者用1) 公衆電話 枇杷倶楽部 枇杷倶楽部ショップ 1階 枇杷倶楽部カフェ 1階 インフォメーションコーナー 1階

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鶴見橋 (広島市) – Wikipedia

鶴見橋(つるみばし)は、広島県広島市の京橋川に架かる道路橋。 明治時代からある人道橋(歩道橋)が、1990年に現在の道路橋に架け替えられた。2001年土木学会デザイン賞受賞。 広島市道比治山庚午線(平和大通り)起点に位置する橋。橋名の由来は下記歴史参照。 上流に東広島橋、下流に被爆橋梁の比治山橋がある。東詰交差点が広島県道37号広島三次線および広島電鉄皆実線との交点、さらに東へ行くと比治山トンネルへと入る。西へ行き平和大橋を渡ると広島平和記念公園に入る。 東詰たもとには被爆樹木シダレヤナギがあったが枯死し、現在のものは同じ根から被爆後に生えたものが存在している[2]。 諸元[編集] 特徴[編集] 2001年土木学会デザイン賞受賞理由として、構造デザイン、欄干デザイン、西側の橋詰広場の3つが挙がる。 主桁は、本来であれば鈑桁が合理的な支間割であるが、景観性を加味し両外側は箱桁を採用している。欄干は頂部の笠木石(御影石の一種)を鋼棒が支える構造となっている。 そして橋詰広場は、道の両側に直径36mの半円状の広場で平和大通りと河岸緑地そして京橋川とを繋ぐ空間を演出している。 昔、比治山に鶴(ソデグロヅル)が飛来していて、それを見るために現橋東詰あたりに広島藩により「鶴見小屋」が置かれていた[3]。また江戸時代、防犯のため城下には架橋規制がしかれており[4]、京橋川にはここの上流側に西国街道筋の京橋があるのみで、ここには「比治山渡し」という渡し場があった。 明治に入ると廃藩置県により架橋規制は解かれ、1880年(明治13年)この地に橋長110m幅5.4mの木橋として架橋、鶴見小屋から「鶴見橋」と名前が付いた[4]。 1945年(昭和20年)8月6日原爆被災、爆心地から1.70キロメートルに位置した[5]。当時この橋の西詰では建物疎開で学徒や義勇軍が動員されており、出動学徒だけで49パーセントが死亡している[5]。橋自体は、木製高欄の一部が熱線により自然発火し床にも広がりつつあったところへ、避難者が協力して砂をかけて消しとめたため落橋には免れた[5]。上流にあった柳橋が焼け落ちてしまったため、比治山橋と共に市内から比治山へと避難者がたくさん押し寄せ、死者も続出し凄惨な現場となった[5]。なお爆心地側の西側にあった建物のほとんどは全焼しており、西方は己斐、南方は宇品まで見渡せる状況だった。 同年9月の枕崎台風、同年10月の阿久根台風により京橋川は相次いで増水、この橋も流出の危険があったが、近隣住民の手により桁に引っかかりそうになる流木などの浮遊物を取り除いたため、落橋から免れた。 1948年(昭和23年)、砂舟が橋脚を破損し一部落橋した。その後直されたが、1958年(昭和32年)再び木橋で架けなおされる(2代目)。1973年(昭和48年)鉄筋コンクリート桁の幅1.8mの人道橋(歩道橋)に架け替えられた(3代目)。 1990年(平成2年)平和大通りの幅員に合わせ、広島市道比治山東雲線整備に伴い、現在の橋に架けかえられた(4代目)。 ギャラリー[編集] 1930年ごろの広島市。京橋川下流から2番目の橋が鶴見橋。 1945年被爆後。写真上部中央の橋が鶴見橋。 1955年頃比治山から広島市内を望む。初代の歩道橋。

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ユージン・ヴァン・リード – Wikipedia

ヴァン・リード(左)と通訳のヒコ(浜田彦蔵)。1858年 ユージン・ヴァン・リード(Eugene Miller Van Reed, 1835年5月17日 – 1873年2月2日)は、オランダ系のアメリカ人商人。元駐日ハワイ総領事[1]。明治初期に日本人を初めてハワイに移民させた人物として知られる[1]。 アメリカに滞在していた浜田彦蔵を知ったことを機に日本に対する関心を深め、開国後の安政6年(1859年)に神奈川にあった米国総領事館の書記生として日本に派遣された。 いったんアメリカに帰国の後、慶応2年(1866年)にハワイ王国の総領事の資格を得て再来日をし、江戸幕府と国交締結交渉を行うが失敗。そのまま横浜に滞在して貿易商を開業して、東北地方諸藩との取引を行った。高橋是清が慶応3年(1867年)に勝海舟の息子・小鹿と海外へ留学した際に、リードは学費や渡航費を着服した。さらに高橋のホームステイ先である彼の両親は、高橋を騙して年季奉公の契約書にサインさせ、オークランドのブラウン家に高橋を奴隷として売った。 慶応4年(1868年)、江戸幕府に対して日本人のハワイ移住に関する許可を獲得した。4月19日に江戸幕府解体後に設置された明治政府の横浜裁判所に募集した移民に対する旅券下付を総領事の資格で申請を行った。これに対して裁判所は日本とハワイに国交がないことを理由に彼の総領事としての資格を否認。さらに王政復古後の江戸幕府の許可であることを理由に許可自体も無効とした。これに対して彼は無効処分の取り消しか、賠償金4,000ドルを要求する一方で、6日後に英国船に141名の日本人を乗せて移民を強行した。これが「元年者」と呼ばれ、後の日系アメリカ人成立のさきがけとなった。また、当時スペイン領であったグアムへの移民の斡旋も行っている。 明治4年7月4日(1871年8月19日)にアメリカ合衆国の仲介で正式に日本とハワイの国交が結ばれた。この時、ヴァン・リードの資格が問題となったが、ハワイ王国から全権の資格を得ていたアメリカ公使ロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグの計らいで領事業務に限定することを条件に総領事としての立場を認めることとなった。翌年にはハワイ王国から改めて総領事に任命された。 1873年に病気療養のためジャパン号でサンフランシスコに帰る途上、ホノルル滞在中に病没した[2]。彼の墓は、カリフォルニア州サンノゼのオークヒル・メモリアルパーク(Oak Hill Memorial Park)にある[3]。 岸田吟香らとともに新聞『もしほ草』を創刊するなど、文化的な業績も知られる。 関連する事件[編集] 生麦事件[編集] 文久2年8月21日(1862年9月14日)に起きた生麦事件では、事件発生前に島津久光の行列に遭遇するが、下馬し馬を道の端に寄せた上で行列に道を譲り、脱帽して礼を示した。薩摩藩士側もヴァン・リードが行列に礼を示していると了解し、特に問題は発生しなかった。後に英国人4名が薩摩藩士に殺傷される事件が起こったことを聞き、英国人側の非礼な行動を非難する意見を述べている。

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秦万里子 – Wikipedia

秦 万里子(はた まりこ、1956年3月28日 – )は、日本の歌手、ピアニスト、作曲家、作詞家。 生い立ち[編集] 東京都杉並区出身。祖父は日本コロムビア元社長の秦米造。祖父も音楽好きだった影響もあって自宅には多数のレコードがあり、幼少から音楽に親しむ。3歳よりピアノをはじめ、5歳で自作曲で発表会に出る等、作曲をはじめていた。初等科、女子中、高等科と学習院で学ぶ。 その間、アメリカンポップス、プログレッシブロックなどを片っ端からコピーし、楽譜がなくてもなんでも弾けるようになる。 音楽家への道[編集] 国立音楽大学器楽科ピアノ専攻に進学。在学中よりバンドのキーボーディスト、ダディ竹千代&東京おとぼけCATSのメンバーとしても活動。その一方、作曲家・鈴木邦彦経営のポップスク講師として、スタジオにもミュージシャンとして出入りを始める。1978年卒業。 祖父の病の看病のため、一切の外部音楽活動をやめて子どもたちの音楽教室を開く。持ち前の絶対音感、即興性、コピー能力を活かし、徹底的に楽しい「生徒がやめないレッスン」を提供する。 祖父死去の後、28歳の時にロサンゼルス・オリンピックのファンファーレに感銘を受け、作曲者のジョン・ウィリアムズに弟子入りしようと思い立ち渡米[1]。ウィリアムズへの師事は叶わなかったが、1985年にアメリカ・バークリー音楽学院へ留学。CRAIG NAJJARに師事、ピアノ、アレンジ、ソングライティング、指揮などを習う。 帰国後 ピアノプレーヤ(YAMAHAの自動演奏ピアノ)のソフト作りに関わり、日本テレビ『スクスクのびのび』、ソニーハンディカムのコマーシャルなどの音楽を制作。 一方、幼稚園などで幼児教育にも力を注ぎ、即興でその現場に合う歌をつくり、ライブ感溢れる授業をつづけた。それが主婦の歌へとつながる。2006年よりNYパワーハウスと共に歩み始め、「半径5メートルの日常を歌う音楽家」として知名度を上げていく。なお、歌の作詞は4歳年下の妹でドッグシッターの秦典子が多数担当している。 芸能活動[編集] 2009年1月、52歳で徳間ジャパンコミュニケーションズからライブアルバム『半径5メートル物語』[4]でメジャーデビュー。日常や、そのときの感情をこまやかに切り取り、それを歌にすることで多くの主婦の心をつかむ。2010年4月よりNHK総合で平日10時5分から放送の『歌うコンシェルジュ』のコンシェルジュ役として登場、2年間ホステスを務める。 2010年、フジテレビ放映の番組『ライオンのごきげんよう』のOP曲「あっけらカンとごきげんよう」を作曲(秦典子が作詞、歌唱を小堺一機が担当)。 2011年3月の東日本大震災に際し、海外からの支援へ感謝を込めた楽曲「Heroes 2011,

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マット・ジャガース – Wikipedia

マット・ジャガース(Matt Jaggers、1985年3月27日 – )は、アメリカ合衆国の男性総合格闘家。インディアナ州コナースビル出身。Team Wolfpack所属。元KOTC世界バンタム級王者。 レスリングを学び、2005年に総合格闘技デビュー。 世界王座獲得[編集] 2008年2月22日、KOTC世界バンタム級(-66kg)王座決定戦でジョー・ヴォアザンと対戦し、3-0の判定勝ちを収め王座獲得に成功した[1]。 2008年6月13日、初防衛戦でラザール・ストジャディノヴィッチと対戦し、TKO負けを喫し王座陥落した。 戦極[編集] 2009年3月20日、戦極初参戦となった戦極 〜第七陣〜のフェザー級(-65kg)グランプリ1回戦でマルロン・サンドロと対戦し、スタンド状態からの肩固めで見込み一本負け。8月2日のリザーブマッチでジョン・チャンソンと対戦し、三角絞めで一本負け。 総合格闘技 戦績 26 試合 (T)KO 一本 判定 その他

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アンバー・パシフィック – Wikipedia

アンバー・パシフィック (Amber Pacific) とは、アメリカ合衆国ワシントン州,シアトルにて結成されたポップ・パンクバンドである。 “All Time Low”等と共にHopeless Recordsを代表する人気バンドだったが、2008年に同レーベルから離脱。その後、大手のVictory Recordsへと移籍した。これまでに3枚のアルバムをリリースしているが、いずれも各メディアから高い評価を得ている。 現在のメンバー[編集] マット・ヤング/Matt Young (ヴォーカル) ウィル・ナッター/Will Nutter – (ギター・キーボード) デイビー・リスポリー/Davey Rispoli –

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