Month: September 2019

ピアノソナタ第14番 (モーツァルト) – Wikipedia

ピアノソナタ第14番 ハ短調 K. 457 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したピアノソナタである。 モーツァルトが作曲した短調のピアノソナタは『第9番(旧第8番)イ短調 K. 310 (300d)』とこの作品のみである。モーツァルトのピアノソナタの中で最も激しく劇的な展開を見せており、後に音楽家となる初期のベートーヴェンに強い影響を与えたと言われる。 1784年にウィーンで作曲された(モーツァルト自作の作品目録では、同年10月14日に完成したと書かれている)。翌1785年に『幻想曲 ハ短調 K. 475』と共に「ピアノフォルテのための幻想曲とソナタ 作品11」としてアルタリアから出版された。短調であるが故に、その後のピアノソナタの新地平を切り開いたこのモーツァルトの記念碑的なピアノソナタは、モーツァルトの楽譜の写譜をしていたフォン・トラットナーの妻でモーツァルトのピアノの弟子でもあったテレーゼ・トラットナー夫人に献呈された。 この曲と幻想曲の自筆譜は長く行方不明となっていたが、1990年7月にアメリカ合衆国のフィラデルフィアで発見され、同年11月21日にサザビーズで競売にかけられて落札者により88万ポンドで落札された。この自筆譜ではテンポおよび曲の細部に出版譜とは異なる部分がある。 曲の構成[編集] 第1楽章 モルト・アレグロ(自筆譜ではアレグロ) ハ短調、4分の4拍子、ソナタ形式。 stemUp

Continue reading

ザクロの聖母 – Wikipedia

『ザクロの聖母』(ザクロのせいぼ、伊: Madonna della Melagrana)は、イタリアのルネサンス期、フィレンツェ派の巨匠、サンドロ・ボッティチェッリが1487年頃に制作した板上のテンペラ画である。「トンド」としてよく知られている円形式を用いることにより、中心人物である聖母マリアと幼子イエス・キリストに焦点が当たっている。聖母子は両側にいる天使によって左右対称に囲まれている。ボッティチェッリがテンペラグラッサを使用していることで、ルネサンス期に一般的な「自然主義的」様式として知られている写実的な外観が人物に与えられている。聖母マリアは左手にザクロを持って、イエスを優しく腕に抱いているが、表現されているザクロは宗教的な作品における意味についていくつかの異なる解釈がある。ルネサンス期の芸術家は他の名を成した芸術家の作品を模倣して自身の技術を習得したため、『ザクロの聖母』の複製は多数存在する。本作は現在、フィレンツェにあるウフィツィ美術館に展示されている。 『ザクロの聖母』は、ボッティチェッリとして一般に知られているアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・ヴァンニ・デイ・フィリペーピ(1445–1510年)による絵画である[1]。ボッティチェッリはフィレンツェで生まれ育ち、人生の大部分をフィレンツェのルネサンス期に最も称賛された芸術家の1人として過ごした。ボッティチェッリは10代前半に勉学を放棄し、フィレンツェで最も影響力のあった画家の1人、フィリッポ・リッピ(1406-1469年)の下で芸術家としての修業を開始した。リッピは権力のあった有名なメディチ家によってフィレンツェで大切に保護されていたが、修道院や教会のために作品を制作し[2]、線描の明瞭さと女性像の描写でよく知られていた。その芸術は、ボッティチェッリの様式に大きな影響を与えており、重要である。『ザクロの聖母』は、ボッティチェッリがフィレンツェの工房で制作した多くの絵画の1つである。ボッティチェッリは他の多くの著名な作品も描き、『ザクロの聖母』の制作時にはすでに芸術家として確立されていた。絵画が依頼されたものであるのか、また誰によって依頼されたのかはわかっていない。 絵画の中で、ボッティチェッリは表現されている人物を非常にたやすく識別できるようにした。中央の聖母マリアとして知られている聖母は、その両側に3人ずついる天使に左右対称的に囲まれている。聖母を取り巻く天使たちは、ユリとバラの花輪で聖母を崇拝している[3]。イエス・キリストはザクロの上に片手を置いて、聖母マリアの腕の中に穏やかに横たわっているが、聖母マリアとイエスは二人とも悲しそうな表情をしている。聖母マリアとイエスの表現は、神の子イエスが将来耐えるであろう痛みと拷問を鑑賞者に思い起こさせることを目的としたものである。 ボッティチェッリはその画業を通じて高度な技術を持ち、頻繁に制作を依頼された芸術家であった。『ザクロの聖母』で、ボッティチェッリはイタリアのルネサンス芸術家としての技術を示している。本作の様式は、ルネサンス美術で一般的に見られる「本物さながら」を意味する「自然主義」である。ボッティチェッリは、輝く天の光となっている垂直線を使用して、聖母マリア、イエス、ザクロに鑑賞者の注意を引きつけている[4]。トンドとして知られている円形式の使用は、聖母子とザクロに注意が向けられるのに役立っている。また、聖母マリアとイエスの両側に同数の天使を描くことによって左右対称の様式を用いている。画家は注意深いフリーハンドによる木炭のデッサンで、人物像をしっかりと描写することから始めた。ボッティチェッリはしばしば最近の革新を採用することを厭わなかったが[5]、本作の最も重要な革新はテンペラグラッサの使用であった。テンペラグラッサは卵黄に油を加えることで変化させた絵具の一種であり、本作に見られるように絵具がより透明になった。ボッティチェッリは、肌の色調と、使用した顔料を塗る際の絵筆の技術でよく知られており、非常に薄い不透明な層に顔料を塗り重ねることがよくあった。これは、画家たちには「スクランブル」としてよく知られている。ボッティチェッリは本作に見られるように、白、黄土色、辰砂、赤い顔料の半透明の層を重ねて使用している。画家が描く女性の顔は淡い色の磁器のようで、頬、鼻、口の部分に微かなピンク色の筆触が見られる。ボッティチェッリは、神の子などの幼児を辰砂の釉薬や赤い顔料のアクセントなどで、より濃い色で塗っている[5]。使用されている顔料は非常に冷めた色調であるが、さまざまな豊かな色が混ざっている。天使たちが暗い色調を持っている一方、聖母子の肌の色調と衣服にずっと明るい色を使用することによって、聖母子は際立っている。 ボッティチェッリの作品、『ザクロの聖母』には、聖母マリアが持っているザクロの意味についていくつかの異なる解釈がある。 心臓の解剖学[編集] 絵画中のザクロは、心臓の解剖学的構造の正確な表現として認識されている。 15世紀後半、ボッティチェッリは人体解剖学への関心の再興と古代に失われた医学的知識の再生を知ることとなった[6]。ルネサンスの芸術家は、死体の解剖を通してこの失われた知識を取り戻すことができた。ルネサンス時代、芸術家は解剖学者になることは非常に価値があると感じて、人体をよりよく理解するようになり、芸術作品をより生き生きとしたものに改善することがでた。作品の題名、『ザクロの聖母』は、聖母マリアの手に握られている果物に由来している。ザクロはキリストの苦難と復活の象徴としての役割を果たしており、キリスト教では生から死への移行と復活を象徴している。ザクロは、残された種から最終的にふたたび生まれるからである[7]。開いたザクロに見える赤い種は、人類を救ったイエスの流血を鑑賞者に想起させるためのものである。ザクロの皮を剥いた部分は、心臓の心室と同じく非対称の心室を表している。ボッティチェッリは内側の海綿状の膜を表示し、仮種皮(シードポッド)を5つの空間に放出している。これらの空間は、心房、心室、および主な肺動脈幹を表している。最上部は2つの部分に分かれており、上大静脈と3本の枝がある大動脈弓を模倣したものとなっている。ザクロはまた、イエスの心臓の位置を覆う胸の左側の前に位置している。実際の心臓の解剖学的構造と、イエスの胸の上のザクロの描写との、これらの驚くべき類似性は、聖母マリアとイエスが持っているザクロに隠された心臓の仮説がおそらく的を得ていることを示している。 聖母マリアの美徳[編集] 第二に作品にザクロを描きいれることは、聖母マリアを称賛するのに役立つ。イエスはキリスト教の中で最も重要な人物であるが、聖母マリアはその母親として重要な役割を果たしている。聖母マリアは、幼子イエスの全体的な成長を助ける強力な感情的および身体的基盤の両方を提供することにより、幼子イエスの成長に重要な役割を果たしているのである[5]。イエスが成長するにつれて、母マリアはイエスの成長する身体を扶持し、適切な栄養を提供し続ける。聖母マリアの母親としての義務には、保護を提供し、必要な技術、規則、価値観を教え、それらをイエスが一生保持するようにすることも含まれる。マリアは、神の子を産み育てるための母親としてのこの特別な役割を忠実に受け入れたために、神からのこの途方もない偉業を受け入れたために、勇気、愛、最大限の信仰などの多くの名誉ある美徳を有していることを示している。 ルネサンス期には、芸術家が他の芸術家の作品を模倣することは珍しいことではなかった。確立された芸術家の作品の複製を制作する練習は、芸術的な修行にとって重要であった。『ザクロの聖母』の複製は多数存在する。イングリッシュ・ヘリテッジの上級コレクション保護官であるレイチェル・ターンブルは、自身の工房にあった作品 (ボッティチェッリ作品の質の悪い複製と見なされていた) の黄色い装飾部分を何年もかけて取り除いた後、その作品が実際にはボッティチェッリのフィレンツェの工房が制作したオリジナルの複製であることを発見した[8]。レイチェル・ターンブルは、チームと何年にもわたって精力的に取り組んだ後、元の複製の上に塗られていた絵具を削除して、より本来の状態にし、元の筆触と絵具を見つけることができた。調査の後、専門家たちは絵具の試験を行うことができ、作品がルネサンス時代の作品であることがわかった。ロンドンのイングリッシュ・ヘリテッジの専門家は、使用された絵画の様式と筆触から、彼らの工房にあった絵画が確かにボッティチェッリのフィレンツェの工房作のオリジナルであると判断することができたのである。 ^ “Sandro Botticelli”. TotalHistory.

Continue reading

極化恒等式 – Wikipedia

極化恒等式を示すベクトル 数学において、 極化恒等式(きょくかこうとうしき)あるいは偏極恒等式(へんきょくこうとうしき)(英:polarization identity)とは、2つのベクトルの内積をノルム線型空間のノルムで表現する恒等式である。 ‖x‖{displaystyle |x|} をベクトル x のノルム、 ⟨x, y⟩{displaystyle langle x, yrangle } をベクトル x と y の内積とすると、フレシェ、ノイマン、ヨルダンによる基本的定理は次のように記述される [1][2]。

Continue reading

関東平野 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “関東平野” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年6月) 関東地方の主要地形 関東平野(かんとうへいや)は、関東地方一都六県にまたがる日本で最大の平野。 広さは約1万7000km2に及び、国土面積の5パーセント近く、日本全国の平野(9万平方キロメートル、国土の約4分の1)の18パーセントを占める。2番目に広い十勝平野(約8千平方キロメートル)、3番目に広い石狩平野(6500平方キロメートル)と、かなり差がある[1]。四国(18,297.78km2)の面積に近い。 手前関東平野。遠い山並みは中央が男体山と日光連山、その左が三国山脈。東京国際空港上空より。(2006年11月撮影)   薄い赤色の地域がフォッサマグナ   赤線が中央構造線 関東地方一都六県にまたがり、北は西から順に妙義山・榛名山・赤城山(以上、上毛三山)・皇海山・袈裟丸山(以上、足尾山地)・日光白根山・男体山・女峰山・赤薙山(以上、日光連山)・高原山、那須岳、八溝山地・多賀山地に、西は箱根山・関東山地に囲まれ、東は鹿島灘・九十九里浜に、南は房総丘陵・三浦丘陵や東京湾・相模湾に囲まれている。 河川は北西部山地から東南方向に向かって流れ太平洋に注ぐ。主な河川として三国山脈を水源とする利根川、足尾山地を水源とする渡良瀬川、日光連山・帝釈山地を水源とする鬼怒川・田川、八溝山地を水源とする小貝川、関東山地を水源とする烏川・荒川・多摩川、丹沢山地を水源とする相模川などがある。支流を含めた利根川の流域面積は関東平野全体の約1/2を占める。 台地は武蔵野台地・相模野台地(相模原台地)・大宮台地・下総台地などがあり、関東ローム層という火山灰土壌(南関東は富士山・箱根山、北関東は浅間山・赤城山・男体山・那須岳などに由来する)で覆われている。丘陵は第三紀層を基盤とする多摩丘陵、狭山丘陵、加治丘陵、比企丘陵などがある。 関東平野は、新第三紀以来続く、関東造盆地運動という変化により形成された。これは現在の関東平野の中央部を中心にして沈降が起こり、周囲の山地などが隆起する運動である。これにより周囲の山地からの土砂が非常に厚く堆積し(第三紀層が3000mにも達する)、それがさらに隆起することにより丘陵や台地が多く形成された。フォッサマグナの東縁線、中央構造線などの大型の構造線が平野の中央部に存在すると考えられているが、このようにして軟らかい堆積層が厚く積もっているため、地震の発生原因となる活断層を発見することが困難になっている(断層は堆積層下の地下3000mの基盤に存在する)。その他、河川の運んだ土砂等の自然堆積物による陸地化も起きており、縄文時代末期から弥生時代初期(およそ3000年以上前)には、ほぼ現在の地形になっていた。 日本最大の平野であるが、東京都心である山手線内側は坂が少なくない。その周辺は武蔵野台地と東京低地の境目であり、河川・波などの浸食で凸凹になっている。そのため赤坂・乃木坂・神楽坂・道玄坂という坂のつく地名や、渋谷・四ツ谷・日比谷などの谷であったり、台・窪・丘などの地名も多い。また武蔵野台地にも国分寺崖線・立川崖線という大きな崖があり、その先には多摩丘陵という丘が多い地形になる。多摩丘陵は三浦丘陵につながっており、越えた西側には相模野台地がある。反対の東側に行けば、下総台地という高台になる。2つの台地に挟まれたエリア(主に下町)は東京低地で、荒川沿川は海抜ゼロメートル地帯と呼ばれる。

Continue reading

抱擁〜犬の散歩はお願いね、そして明かりはつけておいて – Wikipedia

『抱擁〜犬の散歩はお願いね、そして明かりはつけておいて』(Walk the Dog and Light the Light)はブロンクス出身のシンガー、ソングライター、ピアニストのローラ・ニーロによる9枚目のスタジオアルバム。前作『マザーズ・スピリチュアル』の後、9年以上の間をあけて1993年の晩夏にリリースされた。本作は1989年のニーロのライブ・アルバム『ライヴ・アット・ザ・ボトム・ライン』に続くもので、その雰囲気は同様にレイドバックして気楽なものとなっている。2001年に『エンジェル・イン・ザ・ダーク』としてリリースされたアルバムのレコーディングを1994年に開始していたが、このアルバムがニーロの生前にリリースされた新曲で構成された最後のアルバムとなった[3]。『抱擁〜犬の散歩はお願いね、そして明かりはつけておいて』は好意的な評論をうけ[4][5][6]、そしてニーロはハーモニー・ボーカル・グループとの親密なデートを重ね、アルバムをサポートした。 『抱擁〜犬の散歩はお願いね、そして明かりはつけておいて』は、ライブ・アルバム『ライヴ・アット・ザ・ボトムライン』となった1988年のツアーから生み出された。そのため、音楽は同様にレイドバックしており、1970年代半ばから組んでいるパーカッション奏者二ディア・”リバティ”・マータを含む、ほぼ同じメンバーのミュージシャンをフィーチャーしている[7][8]。 このアルバムはニーロと共にスティーリー・ダンのプロデューサーであるゲイリー・カッツによって制作された[1]。ニーロの豊かでスモーキーな歌声がフェミニズム、動物の権利、ネイティブ・アメリカンの権利などのトピックに関した歌詞を歌い、サウンドはスムースでソウルフルである[6]。 特記あるものを除き、ローラ・ニーロの作詞作曲 # タイトル 作詞・作曲 時間 1. 「メイビー・ベイビー – Oh Yeah Maybe

Continue reading

The Cheserasera – Wikipedia

The Cheserasera(ザ ケセラセラ)は日本の3ピースロックバンド。かつての所属レーベルは日本クラウン。所属事務所はBAD MUSIC GROUP。「ケセラセラ」、もしくは「ケセラ」と略されて呼ばれる。 メンバー[編集] 宍戸 翼(ししど つばさ) 1989年4月5日 – ボーカル、ギター担当。血液型:B型。千葉県出身。身長175cm。 西田 裕作(にしだ ゆうさく) 1985年4月8日- ベース担当。血液型:A型。東京都府中市出身。 2008年までクリープハイプに在籍していた。 美代 一貴(みしろ

Continue reading

レオポルド・カルボ=ソテーロ – Wikipedia

レオポルド・ラモン・ペドロ・カルボ=ソテーロ・イ・ブステーロ(スペイン語: Leopoldo Ramón Pedro Calvo-Sotelo y Bustelo, 1926年4月14日 – 2008年5月3日)は、スペイン・マドリード出身の政治家。1970年代の民主化後もっとも短命だった首相である。 1926年4月14日、マドリード生まれ。レオポルドはマドリード土木学校(現・マドリード工科大学)で土木工学を学び、化学工業の労働者として働いた後[1]、1967年から1968年にはレンフェの社長を務めた。1965年から1973年にはマドリード市長を務めた。フランシスコ・フランコ死去後の1975年から1976年にはカルロス・アリアス=ナバーロ政権の通産大臣[1]、1976年から1977年にはアドルフォ・スアレス政権の公共労働大臣、1980年から1981年にはスアレス政権の第二副首相を務めた[1]。1981年2月に民主中道連合(UCD)の分裂の結果スアレスが首相を辞任すると、カルボ=ソテーロがUCDの党首に就任し、UCDはカルボ=ソテーロをスアレスの後継首相に指名した[2]。その後国王の承認を得たが、1981年2月23日の首相信任投票時には、スペイン陸軍や治安警備隊の過激派集団が国会議事堂に突入し、下院議員350人を人質とするクーデター未遂事件、いわゆる23-Fが起こっている[1]。2日後の2月25日に改めて行われた信任投票で下院はカルボ=ソテーロを信任し[3]、首相となった。1982年12月の総選挙でフェリペ・ゴンサレスが首相に就任するまで1年10か月間首相を務め、スペインの西欧接近策を進めた。UCD党内には北大西洋条約機構(NATO)加盟に対する慎重論があり、またスペイン社会労働党(PSOE)やスペイン共産党はNATO加盟について可否を問う国民投票の実施を要求したが、カルボ=ソテーロはそれらを押し切って1982年にNATO加盟を決断した[4][1]。カルボ=ソテーロの首相在任時にほぼすべての自治州政府が成立し、カルボ=ソテーロは前任のスアレスが残した問題を処理して成果を挙げたが、1981年後半からUCDは分解しはじめ、カルボ=ソテーロは1982年8月に議会を解散して総選挙に臨んだ[5]。1982年の総選挙では社会労働党に敗れて野党に転じ、民主中道連合は解散した。 カルボ=ソテーロは8人の子を儲けた。2008年5月3日、マドリード州・ポスエロ・デ・アラルコンの自宅で死去した。死因は心停止。 父親のレオポルド・カルボ=ソテーロ(息子と同名)は著作家[6]。カルボ=ソテーロ家は政治家の家系であり、叔父のホセ・カルボ=ソテーロ(英語版)は王党派のスペイン革新党党首であり、ミゲル・プリモ・デ・リベラ政権で財務大臣を務めたが[1]、1936年7月に左翼系の青年将校によって暗殺された。この暗殺事件はスペイン内戦につながる軍部の武装蜂起のきっかけとなった[7]。 参考文献[編集] 立石博高 編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年

Continue reading
Exit mobile version