Month: August 2021

スズダル中佐の犯罪と栄光 – Wikipedia

『スズダル中佐の犯罪と栄光』(スズダルちゅうさのはんざいとえいこう、英:The Crime and the Glory of Commander Suzdal)はコードウェイナー・スミスによる短編小説。「人類補完機構シリーズ」の一つ。初出はアメージング・ストーリーズ1964年5月号。英語ではThe Rediscovery of Man (ISBN 0-915368-56-0)、日本語では伊藤典夫訳で『S-Fマガジン』1976年2月号に「スズダル艦長の罪と栄光」として掲載され、その後『鼠と竜のゲーム』(ISBN 978-4150104719)に収録された。 あらすじ[編集] 人類補完機構のスズダル中佐は銀河系の果て探検の使命を帯びて亀人(冷凍睡眠についた主人の代わりに何世代にも亘り船を管理する下級民、非常にゆっくりと歳を取る)たちと共に貝殻船で送り出された。 それから1万年余りの時が流れ、彼は惑星アラコシア(Arachosia)から流れ着いたカプセルを発見する。カプセルには災厄に襲われた殖民者たちの悲劇がすばらしい女の声で記録されていた。スズダルはアラコシアへ進路をとった。 到着したアラコシアでスズダルは恐ろしい真実を知る。 カプセルの伝えた真実は最初の20年だけであった。声は女のものですらなかった。アラコシアの人々は恐ろしくも悲しい怪物だったのだ。真実は次の通りであった。 殖民から20年と3ヶ月と4日目、アラコシアの女性全てに同時に癌が発症した。人間だけでなく雌の鳥、獣、魚も同様で、下等で雌雄の分極が明確でない昆虫や植物だけが繁栄した。雌性そのものがこの星では発癌性だったのである。治療は不可能であった。だが女医のアスタルテ・クラウスにより、生存している女たちは一人残らず性転換を受け、死の運命からは救われた。生き残った女は胸も平たく筋骨隆々でたくましく喧嘩っ早く死に物狂いなおんな男となり、通常の生殖で子孫を残すことはできなくなった。クラウス博士は男とおんな男たちの指導者となり、腹部に男性の組織の一部を外科的に移植して男が男の赤ん坊を産む生殖法を遺した。世代を重ね、アラコシア人は奇妙で暴力的な風習を発達させ、気づかぬうちに怪物と成り果てていた。男であり女である彼らは自らを「クロプト」(klopts)と呼んだ。彼らはかつて自分たちを捨てた地球を憎悪し、復讐を企てていた。

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第33回選抜高等学校野球大会 – Wikipedia

第33回選抜高等学校野球大会(だい33かいせんばつこうとうがっこうやきゅうたいかい)は、1961年3月29日から4月5日まで甲子園球場で行われた選抜高等学校野球大会である。 例年は4月1日に開幕していたが、この大会は3日繰り上げて開幕した。 北海道・東北 関東・東京 中部・北信越 組み合わせ・試合結果[編集] 1回戦 – 準決勝[編集] 1回戦 2回戦 準々決勝 準決勝   4月1日(2)    高松商 2 3月29日(3)  作新学院

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アリス・ベタリッジ – Wikipedia

アリス・ベタリッジ(英語: Alice Betteridge、1901年 – 1966年)とは、オーストラリアのヘレン・ケラーと呼ばれた3重苦(盲聾唖)の女性で、オーストラリアで初めて、複合障害を抱えながら近代教育を習得した人物である。 Alice Betteridge(8-9歳)1910年頃 王立盲ろう児協会(聴覚障害と視覚障害児のための王立協会)(en:Royal Institute for Deaf and Blind Children RIDBC)の運営する学校のひとつは彼女にちなんでアリス・ベタリッジ学校(RIDBC Alice Betteridge School)と名付けられている。 誕生[編集] ソーヤーズ・ガリー[1]

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南泳臣 – Wikipedia

南泳臣남영신 生誕 1962年 韓国慶尚南道蔚山市 所属組織 大韓民国陸軍 軍歴 1985 – 最終階級 陸軍大将 テンプレートを表示 南泳臣 各種表記 ハングル: 남영신 漢字: 南泳臣 発音: ナム・ヨンシン

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クリス・ブーシェ (バスケットボール) – Wikipedia

クリストファー・ブーシェ (Christopher Boucher , 1993年1月11日 – ) は、カナダのプロバスケットボール選手。セントルシア・カストリーズ出身。NBAのトロント・ラプターズに所属している。ポジションはパワーフォワード。 生い立ち[編集] セントルシアに生まれる。父親はカナダ人、母親はセントルシア人である。5歳のときにカナダのモントリオールに移住したが、その後両親が離婚した。サッカーとアイスホッケーをして育ったが、家が貧しかったため、16歳のときに高校を中退してレストランの皿洗いとして働き始めた。その後バスケットボールを始め、地元の大会で好成績を残したことで注目を浴びるようになる。 カレッジ[編集] ニューメキシコ・ジュニアカレッジ(英語版)で1年間、ノースウエスト・カレッジ(英語版)で1年間、オレゴン大学で2年間プレーしたが、4年次に右足の前十字靭帯を断裂する大怪我を負ってしまう。それでもブーシェは2017年のNBAドラフトにエントリーした。 ゴールデンステート・ウォリアーズ[編集] 怪我の影響でドラフト前のワークアウトが行えず、ドラフトではどこからも指名されなかったが、ドラフト後にゴールデンステート・ウォリアーズとツーウェイ契約を結んだ。怪我から復帰後はGリーグのサンタクルーズ・ウォリアーズでプレーし、2018年3月14日にNBAに昇格して同日の試合でNBAデビューを果たしたが、シーズンではこの1試合のみの出場となった。契約のルール上プレーオフではロースターから外れたが、チームは連覇を達成した。オフの6月22日にウォリアーズから解雇された[1]。 トロント・ラプターズ[編集] 2018年7月20日にトロント・ラプターズと契約し[2]、9月26日にツーウェイ契約となった[3]。シーズン開幕後はGリーグのラプターズ・905で28試合に出場して平均27.2得点、11.4リバウンド、4.1ブロックの活躍を見せ、2019年2月10日にラプターズと正式契約を結んだ。NBAで28試合に出場し、プレーオフでもロースター入り。プレーオフでの出番はほとんどなかったが、チームはブーシェが前年所属したウォリアーズを倒して優勝し、自身2年連続の優勝となった。オフにGリーグのMVPを受賞した。 2019-20シーズンはプレータイムが大幅に増加し、飛躍のシーズンとなった。2019年12月25日のボストン・セルティックス戦でキャリアハイの24得点、2020年3月3日のフェニックス・サンズ戦でキャリアハイの15リバウンドを記録した[4]。オフにFAとなったが、11月23日にラプターズと2年1350万ドルで再契約した[5]。 NBA個人成績[編集] レギュラーシーズン[編集] シーズン

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パリの恋人 – Wikipedia

この項目では、アメリカ映画について説明しています。同名の韓国ドラマについては「パリの恋人 (テレビドラマ)」をご覧ください。 『パリの恋人』(ぱりのこいびと Funny Face)は、1957年のアメリカ合衆国のロマンティック・コメディのミュージカル映画。主演はオードリー・ヘプバーンとフレッド・アステア。ヘプバーンは本作が初めてのミュージカル映画。監督は『恋愛準決勝戦』でアステアと組んだスタンリー・ドーネン。ドーネンは、後に『シャレード』と『いつも2人で』でもヘプバーンと組んだ。 あらすじ[編集] 小さな本屋で働くジョー(オードリー・ヘプバーン)は、共感主義に没頭していた。ある日、彼女はひょんな事からファッション雑誌のモデルを依頼される。ジョーにとってはパリに行けることはうれしいことではあったが、モデルの仕事は初めてだったため、少々不安だった。 それでも、ジョーはパリで共感主義の元祖フロストル教授に会えるという期待を胸に、雑誌の編集長マギー、カメラマンのディックと共にジョーはパリへ飛び立つ。 キャスト[編集] この節の加筆が望まれています。 東京12チャンネル版吹替 – 初回放送1970年11月19日『木曜洋画劇場』。 ソフト版吹替 – 2001年発売のDVDに初収録。後に発売されたBDにも収録。 スタッフ[編集] ベースになったのは脚本家のレナード・ガーシュが1951年、ブロードウェイのために書いた『結婚の日』という台本である[2][3][4]。ガーシュが親しい友人になった写真家リチャード・アヴェドンの半生をもとに書いたもので[2]、最初は別の音楽が付いていた[4][5]。それがMGMミュージカル制作の第一人者ロジャー・イーデンスの目にとまり、『踊る大紐育』で一緒に仕事をしたスタンリー・ドーネンが監督をすることになった[4][5]。 ガーシュがドーネンにシナリオを読んでいると、暗室の場面で「これじゃモデルなんかになれない。変な顔(Funny Face)」という部分でガーシュとドーネンの目が合い、ドーネンが「ここであの歌を使える!」と叫び、ガーシュも「ガーシュウィン!」と叫んだ[5]。二人は1927年にフレッド・アステアが出演した舞台『ファニー・フェイス』のためのジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウィンのスコアから歌を探したところ、「我々が設定した新しい場面に合うように初めからできていたのではないかと思えるほど」だったという[5]。

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小瀬川 – Wikipedia

小瀬川(おぜがわ)は、広島県と山口県の県境付近を流れる一級河川の本流。 多様な呼称[編集] 小瀬川 2007年12月2日撮影 小瀬川は古代から安芸国(広島県)と周防国(山口県)の境になっており、広島県側では「木野川」、山口県側では「小瀬川」という呼称で知られていた。河口の大竹市では、「一つの川に二つの名前が存在した例は、全国でも珍しい[1]」としている。 小瀬川・木野川[編集] この川は旧安芸国(広島県)と周防国(山口県)の国境になっていて、河川法上の公称は「小瀬川」であるが、広島県側では「木野川」(このがわ[2])、山口県側では「小瀬川」(おぜがわ)呼ばれてきた[2]。 山陽道(西国街道)がこの川を渡る地点では、広島側の木野村(大竹市木野)と山口側の小瀬村(山口県岩国市小瀬)との間に芸防の渡し船が通じていた[2]。これを安芸国・広島藩側では「木野川渡し[4]」、周防国・長州藩(岩国藩)側では「小瀬川の渡し[5]」と呼んでいた[1]。 安政6年(1859年)の安政の大獄で江戸へ護送されることになった吉田松陰は、そこで一句残している[5]。 夢路にも かへらぬ関を 打ち越えて 今をかぎりと 渡る小瀬川 — 吉田松陰、[5] 1893年(明治26年)『地学雑誌』第5巻第3号(東京地学協会刊)には、「小瀬川は其上流を木野川と云う」とある[7]。 1968年(昭和43年)、(現)河川法制定に伴い一級河川指定(国の管理)の際に「小瀬川」に定められた。「大竹市歴史研究会」によれば、このときおそらく「川の名称は河口に向かって右岸の地名を当てるという、国の行政上の原則」に従って「小瀬川」の名称が採用されたという。かつて国が木野地区内に「一級河川小瀬川」の看板設置を試みたが、木野地区住民が「木野川なら土地を提供する」と拒否したとの逸話があるという[要出典]。 1982年(昭和57年)に中国新聞社が刊行した『広島県大百科事典』では、広島県内でも「小瀬川」の呼称が定着し、「木野川」「あまり使われなくなった」としている[8]。 国境の川[編集] 後述のように、この川は古代から安芸国と周防国の国境とされており、天平6年(734年)にも国境と定められたという記録がある[9]。これは、当時の洪水で河道が移動してしまったために、このとき改めて国境を定め直したのだろう、と推測されている[10][11]。

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下村敦史 – Wikipedia

下村 敦史(しもむら あつし、1981年7月9日[1] -)は、日本の小説家・推理作家。京都府生まれ[2]。 1999年に京都府立向陽高等学校II類理数系を自主退学し[1]、同年大学入学資格検定合格。 2006年より9年連続で江戸川乱歩賞に挑戦。2014年、5度目の最終候補となった『闇に香る嘘』(応募時のタイトルは『無縁の常闇に嘘は香る』)で第60回江戸川乱歩賞を受賞し小説家デビュー[2]。選考委員の有栖川有栖は「相対評価ではなく、絶対評価でA」、今野敏は「自信をもって世に出せるものを送り出せた。ぜひ期待してほしい」と語った[3]。 文学賞受賞・候補歴[編集] 太字が受賞したもの 2007年 – 「過去からの殺人」で第10回角川学園小説大賞(ヤングミステリー&ホラー部門)候補。 2007年 – 「暗き情熱のアレーナ」で第53回江戸川乱歩賞候補[4]。 2008年 – 「贖罪に鳴る鐘――サグラダ・ファミリア」で第54回江戸川乱歩賞候補[5]。 2011年 – 「牙を剥く大地」で第57回江戸川乱歩賞候補[6]。

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アダムとイヴ (ティツィアーノ) – Wikipedia

『アダムとイヴ』(西: Adán y Eva, 英: Adam and Eve)は、盛期ルネサンス、ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオが制作した絵画である。油彩。主題は『旧約聖書』「創世記」のアダムとイヴの物語であり、ティツィアーノは古代の彫刻などからアダムとイヴの図像を作り上げ、鮮やかな色彩の風景の中に2人を描いている[1]。具体的な制作年や注文主は不詳だが1550年頃の制作と考えられている[1]。バロックの巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスが模写した作品の1つとしても知られており、いずれもマドリードのプラド美術館に所蔵されている[1][2]。 「創世記」によるとエデンの園で神によって創造されたアダムは「園の木々の果実はどれを食べても良いが、知恵の木の果実だけは食べてはならない」といわれた。その後、神はアダムの肋骨からイヴを創ってアダムの妻としたが、イブは蛇にそそのかされて知恵の木の果実を取り、夫であるアダムにも与えて2人で食べた。しかしそのことを知った神は2人をエデンの園の東方に追放した。 ティツィアーノは「創世記」におけるアダムとイヴの物語を忠実に視覚化している。知恵の木の左側にアダムが座し、右側にイヴが立っている。知恵の木には1匹の半身半蛇の姿をした蛇がおり、誘惑されたイヴは知恵の木を見上げ、蛇に向かって手を伸ばして知恵の木の果実を受け取っている。それに対してアダムはイヴを止めようとしている。知恵の木の果実は伝統にしたがってリンゴによって表現され、2人の下半身はやや不自然な形で伸びるイチジクの枝葉で覆われている。またイヴの足元には1匹のキツネが描かれ、悪徳と欲望をほのめかしている[1][2][3]。 源泉[編集] ティツィアーノはバチカン美術館のラファエロ・サンツィオのフレスコ画『アダムとイヴ』(Adam ed Eve)から座像のアダムと立像のイヴを組み合わせるアイデアを得ている。アダムのポーズは古代ローマの彫刻『瀕死のガリア人(英語版)』に由来する。1550年代のティツィアーノの作品はこの彫刻から影響を受けており、失われた絵画『タンタロス』(Tantalo)あるいは『ラ・グロリア』(La Gloria)における予言者モーセにそれを見ることができる[1]。一方の果実を受け取るイヴのポーズは『ファルネーゼの牡牛(英語版)』の彫刻のディルケがもとになっている[1][3]。またアルブレヒト・デューラーの1504年の版画『アダムとイヴ』(Adam und Eva)との関連性も指摘されている[1]。加えてティツィアーノの1511年のパドヴァのフレスコ画や一説に画家の弟フランチェスコ・ヴェチェッリオ(英語版)の作とされる『ルクレティア』(Lucretia)[4] といった作品と同じように、イヴの顔に影を落とすことで劇的な効果を生み出している[1]。 制作[編集] X線撮影による科学的調査はティツィアーノが構図を大きく変更したことを明らかにした。もとの構図ではアダムは現在のように身体を正面ではなく、もっとイヴの側に向けていた。またイヴの左腕はもっと低い位置にあり、下の枝からリンゴを自ら取っていた。同様に蛇も少し低い位置にあり、二股の尻尾はもとの構図では2本の枝であった[1]。このイヴの左腕と蛇の位置の変更は、リンゴを取る行為がイヴ自らではなく、蛇に誘惑された結果であることをより明確に示すことにある。しかしこれらの変更は構図上の問題に十分な解決をもたらさなかった。その原因はティツィアーノが彫刻作品に忠実であり過ぎたことにある。そのためティツィアーノはアダムの下半身を覆うために不自然な形でイチジクの葉を加える必要があり、画面全体の効果を損なっている[1]。後に、ルーベンスは本作品を模写した際にこの欠点に気づき、アダムのポーズをX線撮影が明らかにした元の構図に近い形に変更し、さらにアダムからイチジクの葉を取り去っている。ルーベンスは他にも変更を加えており、その結果、ルーベンスの『アダムとイヴ』はティツィアーノの数多くの模写の中で唯一、オリジナルを凌駕する作品となっている[1]。

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室山の戦い – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “室山の戦い” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年6月) 室山の戦い(むろやまのたたかい)は、寿永2年(1183年)11月29日、播磨国室山(現兵庫県たつの市御津町室津港の背後にある丘陵)に陣を構える平氏軍を、源行家軍が攻撃して敗れた戦い。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。 寿永2年(1183年)7月末に源義仲と源行家は平氏を追い落として入京するが、その時点から序列を争う両者の不和が現れていた。弁舌が立ち後白河法皇に取り入る行家と、その粗野な振る舞いで法皇の不興を買う義仲との関係は、義仲の敗色が濃くなると共に悪化していく。義仲は後白河法皇の再三の要請で9月20日に西国の平氏追討に向かうが、閏10月1日の水島の戦いで敗北し、15日に都へ戻る。19日には義仲が法皇や公卿を連れて北陸へ向かうとの風聞が流れ、翌日には義仲がこの風聞は行家が広めた嘘であると否定している。法皇に取り入って出し抜こうとする行家と、西に平氏の脅威を抱えながらそれを阻止しようとする義仲の関係は険悪を極めた。 義仲の在京軍勢はすでに瓦解を始め、行家は公然と義仲と別行動を取るようになり、11月8日に西国の平氏追討の任を朝廷から公式に受けて京から出陣した。『玉葉』の同日条によると、行家の軍勢はわずか270余騎であり、九条兼実はその軍勢の少なさを不審がっている。 ほぼ同じ頃、鎌倉の源頼朝から代官として派遣された源義経と中原親能の軍勢が近江国に到着して都の情勢を伺っており、平氏、鎌倉、法皇、行家と四面楚歌に陥った義仲は、完全な孤立状態に追い詰められ、その焦燥は11月19日の法住寺合戦で爆発する事になる。 一方、行家は11月29日(『玉葉』による。『吉記』では28日)、播磨国室山に陣を構える平知盛・平重衡率いる平氏軍を攻撃する。五段構えに布陣した平氏軍は、陣を開いて攻め寄せる行家軍を中に進入させて包囲した。行家は郎従百余名を討たれながら大軍を割って逃げ、高砂まで退いたのち、海路で本拠地の和泉国に到着し、河内国へ越えて長野城(大阪府河内長野市、金剛寺領長野荘)へ立て籠もった(『平家物語』「室山」)。 この行家惨敗により、平氏側では水島合戦に続く勝利を得て都奪還の気運が高まり、即時上洛を主張する知盛と反対する宗盛との間で口論となっている。12月には都で平氏上洛の噂が流れ、近江国に控える鎌倉軍の動きを警戒する義仲を刺激した。義仲は12月2日に平氏に起請文を送って和平交渉に乗り出し、奥州の藤原秀衡に頼朝追討の院庁下文を出させるが、いずれも不調に終わり、諸勢力が水面下で様々に動く中、事態は宇治川の戦いへと展開してゆく。 義仲は翌年の正月、河内国長野城に立て籠もって反旗を翻した行家を追討すべく樋口兼光を派遣し、行家はそこでも敗れて紀伊国の名草へ逃げ込んでいる。行家は義仲滅亡後の2月3日、再び都に戻って義経に接近し、鎌倉との対立を煽ることになる。 関連項目[編集]

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