Month: October 2020

加藤家へいらっしゃい! 〜名古屋嬢っ〜 – Wikipedia

『加藤家へいらっしゃい! 〜名古屋嬢っ〜』(かとうけへいらっしゃい なごやじょうっ)は、名古屋テレビが制作した日本のテレビドラマ作品である。堤幸彦の原案・演出による、シチュエーション・コメディ形式のホームドラマである。 作風として名古屋に関するパロディが多く、愛知県に縁がある出演者やスタッフが多い。主要人物では重泉充香(加藤環役)と斎藤工(中村洋一役)の2人が東京都出身である他は、愛知県出身が大半を占める。 制作局の名古屋テレビでは、2004年8月6日に初放送され、当初は単発で終える予定であったが、9%台の視聴率を記録し、同年10月6日 – 12月22日に週1回放送、全12回の連続ドラマとして進出した。テレビ朝日では2004年12月22日の28:01~28:55に放送開始され、24日28:00~29:00、26日26:15~28:45、27日26:30~28:00の計4日間、年末深夜帯にまとめて枠を設けた。その他同局系列の放送局でも順次放送された。 2005年3月25日にDVD-BOX化された。本編12話に加えて、先行した単発ドラマ1話と、DVD映像特典として「堤家へいらっしゃい」と「お値打ちエンディング!の巻」(第12話の書き直し)が収録されている。ドラマ本編はテレビで放送された「オリジナル・ヴァージョン」の他に、名古屋に関する用語を解説する字幕を追加した「名古屋解説・ヴァージョン」が収録されている。 あらすじ[編集] 愛知県名古屋市千種区本山地区在住の上流階級家庭の名古屋式日常生活を舞台にしたコメディ。単発ドラマとしては人物と名古屋文化の紹介といった内容で、ストーリー性はない。 第1話「レギュリャー化1発目! ドラゴンズもイチローもバンザイだわ! 「呪いの記念日」家政婦は一部始終を目撃していた!! 最後まで見てくれんと女子大生・環、困っちゃうがね! の巻」 光一郎と芳子の結婚25周年を祝う記念パーティを翌日に控え、光一郎は浮気相手の井上晴美から芳子へのプレゼントを受け取る。光一郎はプレゼントをリビングに置いて歯科医院に戻るが、その光景を隠れて見ていた環が中身を確認すると、それは黒い玉であった。芳子が宗方と帰宅すると環は隠れるが、芳子らは黒い玉を使用して説明書にあった呪いの儀式を実行してしまう。何をしても呪いは解けず苦悩する加藤家一同であったが、騒動を聞いて現れた美津子様が黒い玉を握り砕いて呪いは解ける。 第2話「さらばトラウマ!! 八丁味噌に秘められたひばりの初恋 悲しみの過去が映し出す仏法僧の影!! 名探偵・環がとっちめちゃうぞ♥の巻」

Continue reading

宋義 – Wikipedia

宋 義(そう ぎ、? – 紀元前207年)は、秦末の人。秦に反抗した楚に属し、懐王に仕えたが、項梁の後の楚の総大将となり項羽に殺害された。宋襄の父で、宋昌の祖父[1][2][3]。 かつて楚の令尹を勤めたことがあった[4][5]。 二世元年(紀元前209年)9月、かつての楚の将軍の項燕の子にあたる項梁が甥の項羽とともに、会稽郡守の殷通を殺して、秦に対して反乱を起こした。 二世二年(紀元前208年)6月、秦と戦っていた項梁は旧楚の懐王の孫(玄孫とも)で羊飼いに身を落としていた羋心を、祖父と同じ名前の懐王(後の義帝)として楚の王に擁立する。 同年8月、項梁は斉の田栄を救援し、東阿において秦軍を大破する。しかし、斉は、項梁に対して、秦との戦いにおける援軍を送ることを拒否した。 項梁は、斉からの援軍は受けられなかったが、定陶において再び秦軍を破る。項羽と劉邦もまた、李由(秦の李斯の子)を打ち取ったため、項梁は連戦連勝でますます秦軍を軽く見て、驕りが見えていた。 楚に仕え、項梁の軍にいた宋義は、「勝利のために将が驕り兵卒が怯惰になると敗れると言います。今、少々兵卒が怯惰になっているようですが、秦の兵は日々増えています。私は貴方のためにそれを心配しています」と諌めたが、項梁は聞かなかった。 同年9月、宋義は項梁に命じられて、斉への使者となった。道中で、斉の使者である高陵君(に封じられた)の顕(姓は不明)に会ったため、話した。「あなたはこれから武信君(項梁)と会うのですか?」。顕が「その通りです」と答えると、「私は武信君の軍を論じましたが、(武信君は)必ず敗れます。あなたが歩みを遅くすれば災いを避けられるでしょう。早く行けば、災いが及びますでしょう」と忠告した。果たして、項梁は定陶において、秦の章邯に敗れて戦死した。 項羽は彭城に帰り、楚の懐王は彭城に遷都する。 斉の使者であった高陵君の顕は、楚の軍にいる時に、楚の懐王に会見して、「宋義は、武信君の軍が必ず敗れると論じていました。それから数日して、果たして武信君の軍は敗れました。兵がまだ戦っていない時に、あらかじめ敗北の兆しを見抜いたことは、宋義は軍略を理解している証と言えるでしょう」と語った。 同年後9月[6]、懐王は宋義を召して、今後の事を図ると、宋義は大いに今後の事を論じた。そこで懐王は、宋義を上将軍に任じ、項羽を次将とし、范増を末将として、英布・蒲将軍らの諸将[7] は宋義に属させて、5万の軍を率いさせて[8]、(秦の章邯に攻撃を受けている)趙への援軍を命じた。宋義は卿子冠軍[9] と号した。 しかし、宋義は安陽に着いたところで、46日間も逗留し、進軍しなかった。 二世三年(紀元前207年)10月、斉の将である田都が斉の相である田栄に反し、趙の援軍に向かう楚軍に入り、項羽を支援する。 同年11月、項羽は宋義に進言した。「私は秦軍が趙王のいる鉅鹿を囲んでいると聞いています。早く兵を率いて、黄河を渡り、楚軍が秦軍を外から攻撃し、趙が秦軍の中(にある鉅鹿城)から応じて戦えば、秦軍を必ず破るでしょう」。宋義は項羽に言った。「そうではない。そもそも牛についた虻を手で打てても、牛の毛の中にいる虱を殺すことはできない。今、秦が趙を攻めて戦に勝てたとしても、兵は疲れているだろう。我ら楚軍は、疲弊した秦軍に乗じることができる。秦が勝てなければ、我らは兵を率いて太鼓を鳴らして西へ進軍すれば、必ず秦に勝利することができるだろう。鎧を着込み武器を取って戦うのは私より貴方に及ばないが、座して策略をはかるのは、貴方は私には敵わない」。

Continue reading

中島舞香 – Wikipedia

中島 舞香(なかじま まいか、1997年12月26日 – )は、日本の女優である。ミッシングピース所属。 来歴・人物[編集] [1] 映画[編集] ドラマ[編集] 「ハイポジ」TVO,BSテレ東 (2019) 舞台[編集] BIG UP「アンコール」演出:中野智之(PaniCrew)(2021) “STRAYDOG”本公演「幸せになるために」 演出:森岡利行 (2020) 「GO,JET!GO!GO! Vol.5」 演出:久松りょうた(2019)

Continue reading

下山町 (名古屋市) – Wikipedia

下山町(しもやまちょう)は、愛知県名古屋市瑞穂区の地名。現行行政地名は下山町1丁目及び下山町2丁目。住居表示未実施地域[WEB 5]。 名古屋市瑞穂区東部に位置する。北東は密柑山町、西は田辺通、南東は八勝通に接する。 地名の由来[編集] 弥富町の旧字下山に由来する。字下山は、当地には山が多く所在し、北側に位置する上山に対して、南側の下手にあたることから命名されたとされる。 沿革[編集] 世帯数と人口[編集] 2019年(平成31年)3月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 2]。 人口の変遷[編集] 国勢調査による人口の推移 1950年(昭和25年) 869人 1955年(昭和30年) 1,272人 1960年(昭和35年) 1,592人 1965年(昭和40年) 1,768人 1970年(昭和45年)

Continue reading

町村組合 – Wikipedia

町村組合(ちょうそんくみあい)は、町村制において、町村がその一部を共同処理するために設けることができた法人である。明治21年制定の町村制では第6章、明治44年制定の町村制では第7章に規定されていた。また、明治44年制定の市制には、市町村組合(しちょうそんくみあい)の規定があった。 町村組合が設立されるのは次の2つの場合がある。 複数の町村が共同で事務を行う場合は、協議を行い、監督官庁の許可を得て設立することができる。 資力が乏しく、法で定められた町村の義務的事務を行うことができない町村は、合併の協議がまとまらないか、あるいは合併すると不便になる場合は、郡参事会が議決することで設立させることができる。 解散には監督官庁の許可が必要である。 町村組合および市町村組合は、現行の地方自治制度における地方公共団体の組合に相当する。昭和の大合併以前は町村の規模が小さかったため、現在は存在しない全部事務組合や役場事務組合に相当するような町村組合もあった。 町村組合の実施例[編集] 北海道[編集] →浦河町外2ヶ村組合(1910年~1915年) – 荻伏村の町村組合離脱による改組 岩手県[編集] →内川目・外川目組合村(1892年~1946年) – 大迫町の町村組合離脱による改組 →岩泉町外二箇所組合(岩泉町・安家村・有芸村、1922年~1928年) – 岩泉村の町制施行による改組 福島県[編集] →塩川町・姥堂村組合(1909年~1954年)

Continue reading

イロナ・フォン・ウンガルン – Wikipedia

イロナ・フォン・ウンガルン(ドイツ語:Ilona von Ungarn, 1158年ごろ – 1199年5月25日[1])またはヘレナ(Helena)は、ハンガリー王女でオーストリア公レオポルト5世の妃。 イロナはハンガリー王ゲーザ2世とエフロシニヤ・ムスチスラヴナ(キエフ大公ムスチスラフ1世の娘)の間の娘である。1174年[2]、イロナは義理の兄弟にあたるバーベンベルク家のレオポルト5世と結婚した。イロナの兄イシュトヴァーン3世はレオポルト5世の姉アグネスと結婚していた[3]。 レオポルト5世は1186年に遠戚のシュタイアーマルク辺境伯オットカール4世との間で、シュタイアーマルク辺境伯領の相続をバーベンベルク家に確保するための協定を結んだ(ゲオルゲンベルク協定)[4]。また、レオポルトは聖十字架を手に入れたことで歴史に名を残し、その聖十字架はハイリゲンクロイツ修道院に寄贈された[5]。レオポルトは第3回十字軍に参加し、聖地でイングランド王リチャード1世と対立し、リチャード1世を捕縛したことでも知られる[6]。レオポルトはリチャード1世に対し莫大な身代金をかけ、その身代金で貨幣の刷新、シュタイアーマルクに新しい銀貨鋳造所の開設、および町の要塞化や建設を行った[7]。 レオポルト5世は1194年12月31日に落馬事故のけががもとでグラーツで死去し、イロナはその5年後に死去した。レオポルト5世の死後、オーストリアは長男フリードリヒ1世が、シュタイアーマルクは次男レオポルト6世が継承した[8]。 レオポルト5世との間に以下の子女をもうけた。 フリードリヒ1世(1175年 – 1198年) – オーストリア公(1194年 – 1198年) レオポルト6世(1176年 – 1230年)

Continue reading

大村由己 – Wikipedia

大村 由己(おおむら ゆうこ、天文7年(1536年)? – 慶長元年5月7日(1596年6月2日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての学者・著述家。播磨国三木の出身。号は藻虫斎梅庵。初め僧籍にあったが、還俗して豊臣秀吉に御伽衆として仕えた。秀吉の伝記である『天正記』の著者として知られる。 青柳山長楽寺(三木大村金剛寺の塔頭)の僧、頼音房が大村由己の前身である。若年の頃、京の相国寺において仁如集尭より漢学を学び、諸家の門を叩いて歌道を修め、その深い学識で世に知られた。羽柴秀吉の三木城攻めで大村一帯が秀吉の勢力圏となっていた時に、秀吉の祐筆となったといわれている。天正10年(1582年)の秀吉の中国大返しの際、姫路城における軍議にも参加していることから、この時期には既に秀吉の側近としての地位を確立していたものと思われる。同年、大坂・天満宮の別当となる。 天下統一に邁進する秀吉に近侍して、彼の軍記である『天正記』などを記述した。いずれも秀吉の偉大さを殊更強調して書かれたものであり、由己は豊臣政権の正統性を訴えるスポークスマンとしての役割を担っていたのではないかと推察されている[1]。 文禄の役では秀吉に従って肥前名護屋まで従軍した。当時の秀吉は能に傾倒すること甚だしく、既存の作品を演じるだけでは飽き足らず、由己に自身の偉業を後世に伝える新作能の作成を命じたといわれている。『吉野花見』『高野参詣』『明智討』『柴田討』『北条討』はいずれも秀吉を主役にとった由己作の新作能である。 特に『明智討』は文禄3年(1594年)3月15日に大坂城で、4月12日に禁中で、それぞれ秀吉本人の手によって披露されていることから、秀吉のお気に入りであったことが伺える[1]。 上記の軍記物や新作能以外に、謡曲・和歌・連歌・俳諧・狂歌などに多彩な才能を発揮した。藤原惺窩や山科言継・里村紹巴など、同時代の知識人たちとの交友も知られている。また、『梅庵古筆伝』を著すなど、古筆への造詣も深かった。 慶長元年(1596年)に摂津国天満天神で死去した。享年60。 『天正記』[編集] 天正8年(1580年)の三木合戦から天正18年(1590年)の小田原征伐まで、天正年間の秀吉の活躍を記録する軍記物。別名を『秀吉事記』とも。小瀬甫庵の『太閤記』など、後の秀吉主役の軍記物語の成立に大きな影響を与えた。由己の代表作である。元来12巻から成るが、全てが現存するわけではない。詳細は以下。 『播磨別所記』 主に三木合戦の様相を記述する。天正13年(1585年)には貝塚で蟄居中の本願寺顕如・教如親子の前で由己本人が朗読したと伝わっている。 『惟任退治記』(惟任謀反記) 本能寺の変から山崎の戦いを経て、信長の葬儀に至るまでを記述する。天正10年(1582年)成立。 『柴田退治記』(柴田合戦記) 賤ヶ岳の戦いとその前後の事情、秀吉の大坂城築城などを記述する。天正11年(1583年)成立。 『紀州御発向記』

Continue reading

グーフィー・グーファーズ – Wikipedia

グーフィー・グーファーズ(Goofy Gophers)は、ルーニー・テューンズのキャラクター。 当初2匹の名前は短編作品では存在せず、1960年のテレビ番組『バッグス・バニー・ショー』で『マックとトッシュ』という名前が付けられた[1]。これはMacintoshのジョークである。 モデルはハタリスで、礼儀正くて敬語を話すリスである。 グーフィー・グーファーズは、自身の短編作品『Goofy Gophers(1947年)』に初デビュー、作ったのはアニメーターのロバート・クランペット。 ノーム・マッケイブは以前、『Gopher Goofy(1942年)』で、2匹のハタリスキャラクターを作ったが、クランペット氏のキャラクターとは殆ど似ていなかった。短編作品が制作に入る前、クランペットがスタジオを離れたため、アーサー・デイビスがディレクターになった[2]。 マックは、メル・ブランクが担当し、トッシュは、スタン・フレバーグが担当した。 ワーナー・ブラザースのアニメスタジオが1969年に閉鎖されて以来、グーフィー・グーファーズの存在は薄まった。 だが近年、ワーナー・ブラザースのプロジェクトで複数のカメオ出演を作った。 マックとトッシュは『シルベスター&トゥイーティー ミステリー』のエピソード「I Gopher You」とダック・ドジャースのエピソード「K-9はキャディーさん(K-9 Kaddy)」と「ドジャースの農園天国(Old McDodgers)」に登場した。その後2011年の『ルーニー・テューンズ・ショー』では、大幅に出番が増えて登場した。新 ルーニーテューンズでは、「Fool’s Gold」の中で登場した。 出演した短編作品[編集]

Continue reading

マレ – Wikipedia

この項目では、モルディヴの首都について説明しています。その他の用法については「マレ (曖昧さ回避)」をご覧ください。 マレ(ディベヒ語: މާލެ‎、英語: Malé)は、インド洋の島国であるモルディブの首都。マレ島、ヴィリンギリ島、人工島フルマーレ(フルマレ)(英語版)、空港島(フルレ島)等で構成される街。カーフ環礁(英語版)の真ん中にある北マレ環礁(英語版)の南端に位置する。 モルディブの政治・経済の中心地で、貿易港でもある。目覚ましい発展を遂げる観光業のほか、主要産業の1つである漁業での水産物の加工も行われる。モルディブは各島ごとに単一の役割を担うことが多いが、マレ島はまさしく首都の島である。島の陸地全体が市街地化しており、人口は133,412人(2014年)[1]。モルディブの人口の1/3から1/4ほどが集中しており、多くの外国人労働者も存在する。東隣のフルレ島にはヴェラナ国際空港があり、2018年以降はシナマーレ橋によって連結されている。 マレは、人口密度が世界一とも言われており、人口圧力を軽減するためにヴェラナ国際空港と陸続きの人工島「フルマーレ」を造成し移住を促しており、2019年現在では約4万人が暮らしている[2]。2006年現在、居住しているのは2004年インド洋大地震による大津波で被災した住民である。 マレはケッペンの気候区分では熱帯モンスーン気候に属す。5月から12月までの長い雨季があり、残り4か月が乾季となる。マーレはこの気候帯の多くの都市とは異なり、年間を通じて最高が30℃、最低が27℃程度と気温の変化が少ない気候を持つ。年間の平均降水量は1,900 mm超である。 マレの気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月

Continue reading

クィントゥス・ポンペイウス – Wikipedia

クィントゥス・ポンペイウス(ラテン語: Quintus Pompeius、紀元前184年 – 没年不明)は紀元前2世紀中頃の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前141年にコンスル(執政官)、紀元前131年にケンソル(監察官)を務めた。 カピトリヌスのファスティによれば、ポンペイウスの父のプラエノーメン(第一名、個人名)はアウルスである[1]。ポンペイウスの祖先に関する情報は、これのみである[2]。キケロによれば、ポンペイウス家は「取るに足らない、あまり知られていない家系」で[3]、彼のキャリアにおいて先祖の功績に頼ることができなかった[4]。彼の父親がフルート奏者だったという噂さえある[5][6]。従って、典型的なノウス・ホモ(父祖に高位の公職者を持たず、執政官に就任した者)である[7][8]。 早期の経歴[編集] ポンペイウスの誕生年は紀元前184年と推定されている[9]。初期の経歴に関しては不明であるが[2]、キケロは「多くの人々の敵意、最大の危険、窮乏を乗り越えて、最高の栄誉を達成した」と述べている[3]。現代の研究者は、ポンペイウスを「スキピオ派」の一員と見ている。彼らは家族や友人関係、ギリシャ文化への愛、穏健な改革思考、などで結ばれていた[10][11]。ポンペイウスはスキピオ派の指導者であるプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス、とほぼ年齢が同じであった[12]。 当時のウィッリウス法の規定から、ポンペイウスは遅くとも紀元前144年にはプラエトル(法務官)を務めたはずである[8][13]。アッピアノスは紀元前143年にローマの将軍「クィントゥス」がルシタニア人の指導者ヴィリアトゥスとヒスパニアで戦い敗北したとしている[14]。これが正しければ、ポンペイウスはプロプラエトル(前法務官)としてヒスパニアに出征したと考えられる[8]。またアッピアノスはギリシア人であることもあり、個人名のクィントゥスと氏族名のクィンクティウスを混同している、つまりこの人物はポンペイウスではないとする説もある[2]。 何れにせよ、この頃までにポンペイウスは庶民の人気を得ており、これを背景にして紀元前142年の末に、執政官を選挙に出馬して勝利した[2]。ポンペイスの政敵には、ルキウス・フリウス・ピルス[15]、グナエウスとクィントゥスのカエピオ兄弟、クィントゥスとルキウスのメテッルス兄弟、等がいた[7][16][17]。ポンペイウスは出馬の時点では、自分は当選の意思はなくスキピオ・アエミリアヌスの親友であるガイウス・ラエリウス・サピエンスを支援すると称していたが、これは偽りであった。最後の瞬間に、ポンペイウスは自分に有利な票を集めていたことが判明した。プルタルコスによれば、これを知ったスキピオ・アエミリアヌスは、「フルート奏者の助けをこんなにも待っていたのは愚かなことだ」と笑ったという[5]。その後、彼はポンペイとの友情を断固拒否した[18]。 ポンペイウスの同僚執政官は、その政敵の一人であるグナエウス・セルウィリウス・カエピオであった[19]。元老院特別令により、ポンペイウスはヒスパニア・キテリオルに派遣されることとなり、グナエウス・カエピオの担当地域はイタリア本土となった。G. Simonはこの特別例が民会からのものだった可能性を示唆している。カエピオ兄弟は間違いなくこれを防止しようとしたが、成功しなかった[17]。 ヒスパニア[編集] ポンペイウスは海路を使って任地に到着した。ケルティベリアの近くで、前任者のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスから[20]、歩兵30,000と騎兵2,000からなる軍の指揮を引き継いだ。マケドニクスは執政官、さらにはプロコンスル(前執政官)として、2年間ケルティベリア人と戦い、大きな成功を収めていた。平地部においては、ローマに服従していない都市は、ヌマンティアとテルマンティアの2つだけとなっていた。紀元前153年から反抗を続けるヌマンティアの奪取が、ポンペイウスの主任務であった[21]。 ポンペイウスはヌマンティアの近くに野営地を設営した。ある日、馬に乗って野営地から出たポンペイウスをヌマンティア軍が追尾、これを攻撃した。ローマ軍は軽微な損害を負ったが、ポンペイウスは野営地に戻った。その後直ちに軍を出撃させ、平地部に陣を敷いた。ヌマンティア軍はローマ軍に向かって下ってきたが、自軍の塹壕と柵に誘い込むため、敗走を装ってとゆっくりと後退した[22]。ローマ軍は数には勝っていたが、兵士は連日の小競り合いで疲労していた。ポンペイウスはヌマンティアを簡単に攻略することはできないと考え、目標をテルマンティアに変更した。しかし、ここでも兵700を失い、トリブヌス・ミリトゥム(高級士官)の一部隊が敗走した。ローマ軍は岩場に追い込まれ、多くの兵士や馬が崖から落ちた。残りの者はパニックに陥り、武器を持って夜を過ごした。夜明けには敵が出てきて、通常の戦いが一日中続いたが勝敗はつかなかった。やがて夜になったために戦闘は終了した[23]。ポンペイウスは勝利を宣言したものの [24]、結局は退却した[25]。 ヌマンティアの遺構 ポンペイウスはマリアの攻略を新たな目標とした。数日間の包囲の末、マリアは降伏を決意した。交渉の最中、ポンペイウスはマリアを守っていた400人のヌマンティア兵を差し出すよう要求した。マリア側はこれに同意したが、これを知ったヌマンティア兵は夜になって住民を攻撃した。この騒ぎを聞いたローマ軍は街を占領し、ラグニは破壊され、貴族は皆殺しにされた。ポンペイウスは生き残った200人のヌマンティア人を解放したが、これは一部は同情のためであり、一部はヌマンティアとの講和を望んでいたためである[26]。この年の終わりまでに、ポンペイウスはローマに友好的なセダタニア人を襲っていたタンギヌスを首領とする盗賊を討伐した。多くの盗賊たちは捕らえられ、奴隷として売られた。冬の間、ポンペイウスはエデタニアで冬営した[27]。 紀元前140年、ポンペイウスは前執政官としてインペリウム(軍事指揮権)を維持し、引き続きヌマンティアと戦うこととなった[28]。春を待って、ポンペイウスは再びヌマンティアを包囲した。今回は街を外界から完全に遮断し、食料不足による降伏を狙った。封鎖を完全なものとするため、近くを流れる川を迂回させようとした。しかしヌマンティア軍は果敢に出撃し、其の度に工事を行うローマ兵は退却を余儀なくされた。結果、完全な封鎖は実現できず、兵の消耗のため軍の戦闘力も低下していった。加えて、隷下の兵士の多くは既に6年間もヒスパニアで戦っていたため、これらベテランを経験不足の新兵と交代させねばならなかった。結局、年末までに何の成果も得ることができなかった。退却を避けるため、ポンペイウスは野営地で冬営に入ったが、これが損害を拡大した。ローマ兵は寒さ、病気、さらにヌマンティア軍からの攻撃などで大量に死んでいった。結局、ポンペイウスはは軍をいくつかの都市に撤退させなければならなかった[29]。 一方でヌマンティアとテルマンティアの住民も、長引く戦争に疲弊しており、和平交渉を望んだ。ポンペイウスは表向きは降伏を要求したが、密かに譲歩に合意した。ポンペイウスは、捕虜、脱走者、人質の引き渡し、加えて9,000枚のマント、3,000枚の皮革、800頭の軍馬、銀30タレント

Continue reading
Exit mobile version