Month: December 2017

ハラール – Wikipedia

この項目では、イスラーム法の用語について説明しています。 ハラールに従った肉屋(フランス、パリ) ハラール(アラビア語: حلال‎;[1]繁体字中国語: 清真 せいしん、拼音: qīngzhēn)は、イスラム法で許された項目をいう。端的にはイスラム法上で、行って良い事や食べることが許されている食材や料理を指す。日本語に訳すと、「合法的にある法律に基づいてやる事(許可)」[2]という意味となる。なお、日本では「ハラル」と書くことも多い[3]。ハラールは物(食べ物、飲み物、化粧品)だけではなく事(約束、契約、仕事)も含まれる。 反対の概念をハラーム(アラビア語: حرام‎[4])と言い、「やってはいけない物・事(禁止)」という意味となる。 イスラム法の下では豚肉を食べることは禁じられているが、その他の食品でも加工や調理に関して一定の作法が要求される。この作法が遵守された食品がハラールとされる。 このことから他国の料理を出す飲食店もハラールに対応して本来の調理や食材を変えて経営することがある[5]。 なお、ハラールとハラームの間に疑わしい物・事を意味するシュブハ(アラビア語: شبهة‎[6])という概念がある。シュブハな食品はできるだけ食べることを避けることとされている。ハラール認証の目的はシュブハな事を明確にする事である。 豚の他、犬、獲物を捕獲するための牙や爪がある虎・猫などの動物、キツツキ、ロバ、ラバを食べることが禁止されているが、それ以外の肉であっても屠殺が正規の手順に従ったものでなければ食べられない。このため、ムスリムは単純に材料表示だけを見て判断することが出来ないためハラールの表示が必要となる。 ただし、世界的に統一された基準はなく、各国の認証機関によって制度が異なっているため、ある国では禁止されている食品や規定が、他の国では問題とならないこともある[3]。信仰とは神と個人との契約であり、ハラルの基準を問題視する事は、他人の信仰に口を挟むことと同義となるため、ムスリムが自分の考えとは異なる基準のハラルを問題視することは難しい[7]。このため、ムスリムによっては、自分が信頼するハラルマーク以外のマークには近づかないとする人もいる[8]。ムスリムが大多数を占めるエジプトなどの中東では、出回っている食材がハラールであることが当然のため、生活する上であまり人々に意識されない。一方で、豚肉をよく使う華人も多い東南アジアでは、かなり意識される傾向があるとされる[9]。 クルアーンの第二章173を根拠に、緊急時にはハラールではない食品を食べることも容認されている。スマトラ島沖地震でインドネシアのイスラム教徒に対して外国からの援助物資に豚肉などが入っていたとしても食べて良いとするファトワーが出され公式に食べて良いとされたことがある。しかし一方で逆の事例として、中国・四川省で発生した四川大地震により被災した中国在住のイスラム教徒は、非常事態であったにもかかわらず、ハラームの救援物資の利用を拒否する者が多かった。非イスラム教徒が多数派を占める地域においては、ハラールを守ることは殊の外重要視される場合もある。 マレーシアの大型スーパー内の非ムスリム向けノンハラール(ハラーム)コーナー ムスリムの人口が乏しい国家や地域では、イスラム諸国からの旅行者や留学生などのために、シールなどによって食品がハラールであることが示されていることが多い。これとは対照的に、ムスリムとその他の宗教の信徒の人口が拮抗している国家や地域では、原則として無表示の食品をハラールとしつつ、ムスリム以外を顧客として想定したハラームの食品に限って表示がなされていることがある。 サウジアラビアなどイスラム原理主義の強い国では法律でハラールでない食品の販売や輸入流通が禁止されている国もある。そのような国でハラールでない食品を販売した場合には犯罪とされ、ハラールでない食品をハラールであると偽装することも犯罪とされている。 イスラム諸国会議において、ハラールの世界標準規格が議論されているが、宗派の違いや加盟国間の文化、経済情勢、政治的利害関係などが原因で標準化には時間がかかると言われている。

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戸谷半兵衛 – Wikipedia

戸谷 半兵衛(とや はんべえ)は、18世紀から19世紀の本庄宿の新田町(現在の本庄市宮本町と泉町の辺り)に店をかまえ、代々戸谷半兵衛を襲名していた豪商であり、宿役人。店の名の「中屋」にちなんで中屋半兵衛とも呼ばれた(こちらの名の方が認知度は高い)。中半の略称でも親しまれている。中山道で最大の宿場である本庄宿の豪商として全国的に名の知れた商人であった。本店は本庄宿の「中屋」であるが、江戸室町に支店である「島屋」を持ち、代々京都の方の商人とも付き合っていたため、その人脈はかなり広く、才能にも、度胸(行動)にも優れていた(京都にも支店はあった)。中屋は、太物、小間物、荒物などを商った。戸谷家は、経済面の救済だけでなく、文化面でも影響力が強い一族であり、関東一の豪商ともされる(『関八州田舎分限角力番付』に西方筆頭の大関として位置付けられている)。大名への貸し金も多額であった。しかし、その返済は滞り、未回収金は数万両に及び、この為、安政5年(1858年)頃より、幕府への御用金納入に支障をきたし、名字帯刀を取り上げられ、さらに家財闕所等の処分を受けるが、明治期には回復した。 初代戸谷半兵衛光盛[編集] 通称を戸谷 三右衛門(1703年 – 1787年)と言い、元禄16年に五代目戸谷伝右衛門の次男として生まれる(光盛は諱)。彼については18世紀末から19世紀の随筆『耳袋』にも記されており、その豪傑ぶりと知名度の高さがうかがえる。ただし、『耳袋』は噂をもとに記述されているためか、戸谷を鳥居と記述しているなど、明らかな誤表記が目立つ。『耳袋』の記述によれば、三右衛門は元々通り油町の仲屋と言う呉服店に丁稚(でっち)から勤め、重手代にまで登りつめた人物とされ、その後、成功して、呉服やその他諸品を商ったとされる。多くの活動が認められ、公での名字帯刀を許されていた。中屋の暖簾印である¬中ム(縦に並べて書く)は三右衛門が考えたもので、『中』は家名の中屋を意味し、こう書くことによって、『虱(シラミ)』と言う字になる。印の意味を訊ねられた三右衛門は、「シラミはよく増えて絶えないから」と答えたと言う。『商家高名録』の中で中屋の暖簾印を確認する事ができる(ムと言うより中の字の下に△)。 明和8年(1771年)に久保橋、安永2年(1773年)には馬喰橋を自費で石橋に掛け替え、天明元年(1781年)には神流川に土橋を掛け、馬船を置き無賃渡しとした。天明3年(1783年)の飢饉時には麦百俵を、また、浅間山噴火による諸物価高騰の際には貧窮者救済金を拠出する等の奇特行為により、名字を子孫まで許される(帯刀については一代限り)。天明7年(1787年)に85歳にして没する。 『耳袋』や『新編武蔵風土記稿』では、光盛(みつもり)ではなく、三右衛門の通称で記述されているが[1]、隠居後も活躍し続けた事で、三右衛門の名の方が世間では有名となった為である。『耳袋』では中屋三右衛門の名で記載されている。 『耳嚢』における逸話[編集] 『耳嚢』に記述された逸話として、ある店で当主が亡くなり、子供が店主として継いだ為、潰れかけた店があったが、三右衛門が機知を働かせ、立て直させた話がある。京商人の気質(代々付き合いのある家とは仲を悪くしたくない為に強気に出ない)を利用し、言いくるめ、大量の品物を安値で仕入れ、売りさばかせたというもので、難クセをつけて騙して値切ったという点で、現代では違法行為であるが、語りとしては、騙した事(京商人の信頼関係を揺さぶり、値切らせた話)より、地方都市(=天領の宿場)の商人が京商人を言いくるめた大胆さと豪傑さが強調された語りとなっている。 二代目戸谷半兵衛修徳[編集] 延享3年(1746年)に三右衛門の三男として生まれたが、兄弟が若くして没していった事で、二代目を継ぐ事となる。継いでからわずか3年目(安永4年に30歳)にして没し、父である光盛が健在であった事からも業績はよく知られていない。妻の常は内田伊左衛門の娘で俳諧を嗜んだとされる。 三代目戸谷半兵衛光寿[編集] 戸谷半兵衛光寿像(個人蔵) 通称を戸谷 双烏(1774年 – 1849年)と言い、幼名を半次郎。2歳の頃に父が没した為、祖父と義父(横山三右衛門)の後見により家業振興に没頭し、若いながらも中屋の隆盛期を築く(その祖父も13歳の頃に亡くなる)。義父の助力によって商才を研かれたとされる。10代半ばより俳諧の才能を発揮し、高桑蘭更(京都東山に芭蕉堂を営む)や常世田長翠に師事した。俳号を紅蓼庵双烏と称した。師の一人であった常世田長翠は、その縁からのちに双烏が建てた小簔庵(こみのあん)に招かれ、8年間にわたり、本庄宿に滞在する事となり、中央俳壇が本庄宿を根拠地にして活動した。その為、本庄宿では商人にして俳人と言った人物が増えた。彼も祖父と同様に公での名字帯刀を許された。また、信心深く、京都の智積院の境内に石畳を、江戸の真福寺には常夜灯を寄進している。

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第9航空団 – Wikipedia

代 氏名 在職期間 出身校・期 前職 後職 臨時第83航空隊司令(1等空佐) – 村上英士 1972.10.11 – 1973.10.15 陸士58期 臨時那覇派遣隊 第83航空隊司令 第83航空隊司令 1 村上英士(1等空佐) 1973.10.16 –

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タラモア・デュー – Wikipedia

ブランドが印字された樽 タラモア・デューは、ウィリアム・グラント&サンズ社(英語版)が製造している世界で2番目に大きいアイリッシュ・ウイスキーの販売ブランド[1]で、2015年の時点で年間950,000ケース以上を販売[2]している。 このウイスキーは元々、1829年にアイルランドのオファリー県タラモアに設立された旧タラモア蒸留所(英語版)で生産されていた[3]。 名前は、元の蒸留所の責任者で後に所有者となるダニエル・E.ウィリアムズのイニシャル(D.E.W.)に由来[3]している。1954年、旧蒸留所は閉鎖され、ウィスキーの在庫が少なくなったため、このブランドは1960年代に別のアイルランドの蒸留所であるジョン・パワーズ&サン社に売却され、その後3つの主要なアイルランドの蒸留所の合併に続いて1970年代にコーク県のミドルトン蒸留所(New Midleton Distillery)に生産が移された[4]。 2010年に、タラモア郊外に新しい蒸留所を建設したウイリアム・グラント&サンズ社がこのブランドを買い、2014年にオープンして60年の休眠の後にウイスキーの生産をタラモアの町に復活させた[5]。 2012年、ビジターセンターが、以前は元の蒸留所に属していた改装済みの保税倉庫に開設され、ガイド付きツアーと50分から5時間の範囲での個別指導テイスティング講座が開かれている[6]。 タラモアのベリーキーにあるビジターセンターは、旧蒸留所が所有していた保税倉庫にある。 タラモア・デューの起源はマイケル・モロイによってタラモアに蒸留所が設立された1829年まで遡る[3]。彼の死後、蒸留所は、甥のバーナード・デイリーに最終的に譲られ、ダニエル・E.ウィリアムズを蒸留所の責任者に任命した[3]。ウィリアムズの注意深い監督の下で、蒸留所は拡大し繁栄して、彼のイニシャル(D.E.W.)が付いたウイスキー、タラモアD.E.W. を発売した[3]。 1954年、当時のアイルランドの多くの企業と同様に、禁酒法、英国アイルランド貿易戦争、アイルランド自由国によって導入された高税などのさまざまな要因による販売の落ち込みにより、蒸留所は生産を停止した[3]。 1960年代、ウィスキーの在庫が少なくなり、蒸留所を再開するのではなく、所有者はダブリンの蒸留所であるジョン・パワーズ&サン社にブランドを売却することを選択し、1966年、そこは他の2つのアイルランドの蒸留所と合併し、アイリッシュ・ディスティラーズ(Irish Distillers)を設立し、1970年代には既存の蒸留所を閉鎖し、コーク県ミドルトンに建設された新しい蒸留所(New Midleton Distillery)に生産を統合した。 1994年、アイリッシュ・ディスティラーズは、世界的な販売資源をジェムソン・アイリッシュ・ウイスキーに集中して、このブランドはC&Cグループに売った[7]。その後、C&Cグループはリキュールとスピリット事業全体(タラモア・デューを含む)を売却し、2010年にウイリアム・グラント&サンズ社が3億ユーロで買収した[8]。その時点で、タラモア・デューはミドルトン蒸溜所でのライセンスの下でまだ生産されていた[9]。したがって、ブランドの拡大はミドルトンからのウイスキーの入手可能性を頼りにして、大幅な成長が予想されたため、会社は、外部委託生産ではなく、タラモアに新しい蒸留所を建設することを選択した[9]。 蒸留所の建設は段階的に行われ、2014年にフェーズ1が完了し、60年ぶりにウィスキーの生産がタラモアに戻った[5]。新蒸留所はモルトとポットスティル(単式蒸留)の両方のウイスキーを生産する能力を持っていた。ただし、グレインウイスキーの生産を可能にするための連続式蒸留器はまだ設置されおらず、したがって、タラモア・デューは計3種類のウイスキーをブレンドしたものとなり[10]ブレンド用のグレインウイスキー部分は、フェーズ2が完了するまでミドルトンから供給され続けることとなった[8]。 2015年の時点での売り上げは年間約950,000ケースである(2005年以降2倍になっている)[2]。 タラモア・デュー

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平成26年豪雪 – Wikipedia

平成26年豪雪(へいせい26ねんごうせつ)は、2014年(平成26年)2月に日本で発生した雪害(豪雪)である。平成26年2月雪害とも呼ばれる[1]。日本国政府が設置した平成26年(2014年)豪雪非常災害対策本部では、2月14日から16日までの大雪等による被害の取りまとめや対処が行われているが[2]、本項では2月上旬の関東地方を中心とした大雪についても併せて記述する。 2月4日正午から6日にかけて冬型の気圧配置となり、下層寒気については「10年に1度」の強い寒波が日本列島に流れ込み全国的に寒い日が続いた。最高気温0℃未満の真冬日となった地点数は、5日・6日と2日連続で400地点を超えた(4日は日付変更直後の深夜から早朝にその日の最高気温を記録した地点が多く、昼になるにつれ気温が著しく低下した)。また、低気圧が急速に発達を続けたため8日・14日と2週続けて広い範囲(関東・甲信越・東北(主に福島県と宮城県)(新潟県の一部も含む)地方を中心)に大雪となった。いずれも冬型の気圧配置によるものではなく南岸低気圧が通過した影響で発生したものであり、上空の気温が低かったことから全国的に雨ではなく雪となった。 積雪量は関東平野部でも30〜80 cm、甲信越地方および奥多摩・秩父・丹沢・箱根・静岡東部などの内陸部では1m以上に達し、山中湖村で最大時には積雪187cm(国土交通省)[3][要検証 – ノート]を記録するなど、山間部では2m前後にまで達した[4]。 気候の専門家で構成された気象庁の検討会は、今回の太平洋側における大雪やアメリカの寒波、イギリスの大雨について、30年に1度の異常気象との見解を示している[5]。 2月7日から9日にかけての降雪[編集] 前線を伴った低気圧が日本列島の南をゆっくり通過したため中国・四国地方から東北地方にかけて大雪となった。8日3時に1002hPa(四国沖)だった低気圧は9日3時には984hPaに発達、東京都心でも20cm以上の積雪が予測されたため気象庁は7日の夕方に記者会見を開くなど関東地方での大雪が警戒された。 7日は西日本を中心に大雪となり岡山市で20年ぶりに9cmを観測した。8日は東海地方で午前中、関東地方で夕方から夜にかけてまとまった雪が降り、千葉(1966年観測開始)で歴代最深となる33cmの積雪を記録する[6] など、千葉県では北西部や房総丘陵などで積雪が40〜60cmに達した地点もあった。また、東京都千代田区大手町で観測史上8位となる最深積雪27cmを記録するなど東京都心でも1994年以来20年ぶりの積雪20cm以上・45年ぶりの積雪25cm以上を記録[7]。8日の最高気温は平年より5℃以上低くなったところが多く、全国のアメダスのうち393地点では最高気温が0℃未満の「真冬日」となった。 翌9日には低気圧が北東に移動し、仙台市で1926年の観測開始以来歴代3位となる最深積雪35cmを記録するなど関東と東北の太平洋側で記録的な大雪となった[8][9]。 これらの大雪は上空の寒気が非常に強かったことから、南岸低気圧がもたらすものとしては比較的軽い乾雪となったところが多く、雪の重みによる被害は比較的少なく済んだ。この非常に強い寒気の影響で北海道では8日朝の冷え込みが強まり、北海道の11地点で最低気温が-30℃以下になった(最低は幌加内町の-33.8°Cで、平年比-18℃)ほか、札幌でも-14.3℃で平年を7℃下回った。 2月11日の降雪[編集] 低気圧が小笠原付近を通過し、その北を弱い気圧の谷が通過したため関東地方に雪雲が広がり、千葉県や茨城県を中心に積雪を観測し東京都心でも一時的に雪が舞った。千葉市では前回の南岸低気圧により11cmの雪が残っていたがその上に雪が降り積もり、一時的に最深積雪が21cmに達した。 2月14日から16日にかけての降雪[編集] 低気圧が日本の南岸を発達しながら通過し、近畿から東北にかけて大雪となり、特に関東内陸や甲信では記録的大雪となった。 13日、九州の南で低気圧が発生。九州は、雨中心の天候であったが、気温の低い夜に降水が発生したため、福岡県などでもみぞれを観測した。宮崎県北部や大分県の山沿いでは、気温が低かったため、大雪となった。 14日未明には中国・四国でも降雪が始まり、四国では14日午前中まで雪で、高松市や徳島市などでは積雪を観測し、山沿いでは30センチ前後の大雪となった。14日明け方からは、近畿から関東にかけて雪となり、近畿・東海では昼前を中心に、関東・甲信では15日未明を中心に大雪となった。 15日未明に関東・甲信越で雪のピークを迎えたが、低気圧が陸地に近づいたため、雪を降らせていた寒気と低気圧の暖気の影響で大気の状態が不安定となり、南岸低気圧としては珍しく、関東南部では雷が発生し、竜巻注意情報も発表された(ただし、竜巻は観測せず)。それを境に関東南部では雨に変わり、朝まで降り続いたが、関東内陸や甲信では寒気が残ったため、朝まで雪が続いた。東北では、昼過ぎにかけて雪となった。 西日本[編集]

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関口製造所 – Wikipedia

関口製造所(せきぐちせいぞうしょ)は、江戸幕府が幕末に設置した兵器製造工場である。「関口大砲製造所」とも呼称された。明治政府に官収され、その設備は東京砲兵工廠へ引き継がれた。本項では、「湯島大小砲鋳立場」に始まる江戸幕府の洋式兵器製造の歴史を含めて記述する。 前史[編集] 江戸幕府は黒船来航により、急遽江戸湾防備の対策に取り組み、嘉永6年(1853年)8月下旬から品川台場の建設を開始した。そこに設置する大砲を製造するため、湯島(現在の東京医科歯科大学所在地)に幕府直営の「湯島馬場大筒鋳立場」が設けられた。安政2年(1855年)の組織改革により小銃製造も行われ「湯島大小砲鋳立場」と改称した。江川英龍の指導で鉄砲鍛冶が大砲の鋳造を行っていたが、従来からの製法による青銅砲であったため品質が低く、そのため欧州の先進技術を導入した新工場が計画された。 関口製造所[編集] 文久2年(1862年)2月、関口水道町で新工場の建設が開始され、12月には小栗忠順が銃砲製造の責任者に任ぜられると、製造所頭取には武田斐三郎が任命され、同時に友平栄などを製造技術者として登用した[1]。この場所が選ばれたのは、砲身に咆腔を錐であける錐鑚機の動力として水車を用いるため、水利の便が良かったからである。その外の設備として鋳造所が建設され、咆腔に螺旋状の溝を切る施条機などの機械類はオランダ、フランスから輸入された。文久3年(1863年)に操業を開始し、元治元年(1864年)には小栗より幕府大砲製造事業の合理化が図られ、湯島大小砲鋳立場を廃止して関口製造所に統合された。 滝野川反射炉[編集] 関口製造所で製造された大砲は青銅製であったが、当時の欧州では鉄製大砲の時代を迎えていた。そのため、元治元年(1864年)、関口に反射炉を建設することが計画されたが、低湿地のため反射炉を置くには不適であった。他に適地を求めたところ滝野川村(現在の酒類総合研究所東京事務所所在地)に建設を決定し、武田斐三郎が責任者となり工事が進められた。耐火煉瓦は伊豆梨本から運び、器材は韮山反射炉で使用していたものを移転させ、慶応2年(1866年)には完成した。 明治政府時代[編集] 明治元年(1868年)、新政府は関口製造所、滝野川反射炉を接収し軍務官の管轄下に置き、兵器の製造修理を行った。1870年3月3日(明治3年 2月2日)、兵部省に造兵司が新設され関口製造所と滝野川反射炉を管轄とし、同年10月(旧暦)、一部の設備を吹上上覧所跡に移転した。1871年、造兵司は関口製造所・滝野川反射炉の設備を元に、近代兵器生産の拠点工場として東京工場を小石川の旧水戸藩邸跡(元後楽園遊園地)に建設し、火工所(小銃実包の製造)が操業、翌年には銃工所(小銃改造・修理)、大砲修理所の作業が開始された。これが東京砲兵工廠の始まりとなった。 製造兵器[編集] 参考文献[編集] 関連項目[編集]

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ベルニー – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ベルニー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年8月) 『ベルニー』(Bernie)は、1996年にフランスで製作されたアルベール・デュポンテル監督・主演のブラック・コメディである。 フランスにおいてコメディアン、俳優として活躍するアルベール・デュポンテルが監督脚本を務めた本作は、過激なブラックコメディとして仕上がっている。その功績が認められて、初監督作にしてセザール賞の新人監督賞にノミネートされたほか、1998年に開催されたゆうばり国際ファンタスティック映画祭に正式出品されている。驚くほどピュアで、世間知らずな主人公のベルニーをデュポンテル自身が演じており、独特の雰囲気を醸し出している。 ストーリー[編集] 孤児院で30年間過ごしてきたベルニー・ノエル(アルベール・デュポンテル)は、ある日ようやく施設から出ることになる。しかし生まれて間もなく孤児院へやって来たベルニーは、施設を出ても行くあてがない。そこで施設にある自分に関する書類に目を通したベルニーは、自分がとあるアパートのゴミ捨て場で拾われたことを知る。最後には“恐らく両親による行為”と書かれているのだが、自分で勝手に憶測を進めたベルニーは、何らかの事件により両親は仕方なく自分を捨てたのだと解釈。おまけに今は自分の助けが必要な時と思い込んだベルニーは自分の父親と母親を探しに施設を出る。しかし、そのころ当のベルニーの両親は、父親は酒癖の悪い浮浪者になり果て、母親は富豪と再婚して新たな再出発を遂げていた。そんなこととも露知らず、父親と微妙な再会を果たしたベルニーは、元妻に異様な復讐心を燃やす父親と共に母の住む豪邸へ向かう。 キャスト・スタッフ[編集] キャスト[編集] ベルニー・ノエル:アルベール・デュポンテル Albert Dupontel ドナルド・ウィリス:ローランド・ブランシェ Roland

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