フライング・ギャング – Wikipedia
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年8月) エドワード・イングランド、サミュエル・ベラミーの海賊旗 フライング・ギャング(Flying Gang)は、18世紀のバハマ諸島ニュープロビデンス島ナッソーを拠点とした海賊のグループ。多くは職を失った私掠船の乗組員や、フロリダで沈没したスペインの財宝船を漁りに集まったならず者たちで構成されており、海賊たちはこのグループで海賊共和国の自治を行い、外洋に進出して商船や港などを獲物にした。バミューダの総督は当時ナッソーには1000人以上の海賊がおり、100人ほどの住民を大きく上回っていると報告した。 ベンジャミン・ホーニゴールド[編集] ホーニゴールドはスペイン継承戦争で私掠船に乗り組んでいたが、ユトレヒト条約の締結によって海賊に転向した。拠点としてナッソーに目を付けたホーニゴールドは同業のジョン・コックラム、ジョン・ウェストと共にフロリダやキューバで海賊行為を行った。数万ポンドもの利益を得たホーニゴールドらは1715年11月、スループ船メアリー号を手に入れ、140人の乗組員と砲6門を搭載した海賊船に仕立て上げた。ホーニゴールドはナッソーに集結していた元私掠船関係者や難破船漁りを自らの保護下にあると公言し、植民地政府を脅迫し、海賊のグループをフライング・ギャングと名付けた張本人である。悪質な海賊たちの指導者である反面、ホーニゴールドは穏健派として知られ、祖国であるイギリスの船を襲おうとしなかった。この信条は後に部下たちの不興を買ってしまい、船長の座を追われることになる。1717年9月にイギリス国王ジョージ1世が投降した海賊に恩赦を与える旨の布告を発したさい、ホーニゴールドは率先してこの恩赦に飛びつき、自らの身分を合法化することに邁進した。翌1718年、新たにバハマ総督に任命されたウッズ・ロジャーズがナッソーに着任すると、ホーニゴールドは総督の私掠船として雇用され、周辺海域で活動する海賊を取り締まる立場に転身した。 ヘンリー・ジェニングス[編集] ホーニゴールドと並んでフライング・ギャングの共同創設者、あるいは共同指導者として知られるジェニングスは、ハリケーンによってフロリダ沿岸で難破したスペインの船団から財宝を掠奪した活動で悪名を轟かせた。ジェニングス本人は自らをジャマイカのハミルトン総督の私掠船だと認識しており、海賊である自覚はなかったが、フランス商船への襲撃など私掠行為を逸脱した活動によって外交問題を引き起こした。ハミルトンがこの問題で失脚した後、ジェニングスはジョージ1世によって正式に海賊であると認定され、本格的に活動拠点をナッソーに移す。プロビデンス島における有力な海賊指導者であったジェニングスはチャールズ・ヴェインやジャック・ラカムなどを手勢として従えていた。国王から海賊の恩赦の布告が届いた時、ジェニングスはバミューダ総督に投降して海賊から足を洗った。諸説あるが、ジェニングスは老後まで生き延びた珍しい海賊であるとされる。 エドワード・ティーチ[編集] 詳細は「黒髭」を参照 黒髭という異名で知られるティーチは黄金期の海賊で最も有名な人物であり、スペイン継承戦争で私掠船の乗組員として活動した後、ベンジャミン・ホーニゴールドの部下として海賊行為を行った。ティーチはフライング・ギャングの中核メンバーとして恐れられ、ホーニゴールドの元で多数の掠奪行為に従事した。1717年11月、ティーチはホーニゴールドの元から独立して海賊行為を行い、フランス船ラ・コンコルド号を攻撃してこれを捕らえた。船はアン女王の復讐号と改名されて最も有名な海賊船となり、悪名を轟かせた。この頃のティーチは6丁もの銃で武装し、帽子の下に点火した導火線を付けて顔の周りに煙が漂っているという恐ろし気な風貌をしていた。しかしその悪名の反面、ティーチは捕虜への虐待および殺害に及んだ記録が残っていない。チャールズタウンの封鎖などの活動の後、ティーチはノースカロライナを根城とし、当地で妻を娶り、イーデン総督の後ろ盾のもと海賊行為や密貿易を行った。オクラコーク島を拠点としたティーチはナッソーを追われたチャールズ・ヴェインやジャック・ラカム、ロバート・ディールなどと過ごしたが、バージニア植民地のスポッツウッド総督が派遣したロバート・メイナードとの対決で最期の刻を迎えた。ティーチの遺体には20か所の刺し傷と5か所の銃創が残っていたとされる。ティーチの頭は切断され、メイナードの船の船首に吊り下げられた。後年、ノースカロライナではティーチの亡霊に関する迷信がいくつか生まれ、「ティーチの灯り」という海上に謎の光が浮かび上がる現象が特に知られる。 ジョン・コックラム[編集] コックラムはベンジャミン・ホーニゴールドの初期の仲間として知られ、フロリダで海賊行為を行ったメンバーの指揮官であった。プロビデンス島近郊のハーバー島の悪徳商人リチャード・トンプソンを商取引を行ったコックラムは彼の娘と結婚し、エルーセラ島に移り住み、密貿易船で交易を行った。後年のコックラムは海賊というより盗品を流通させる密輸業者としての性格が目立つようになり、プロビデンス島の島外から海賊行為を支援した。1718年、ウッズ・ロジャーズ総督がナッソーに着任したさい、コックラムはホーニゴールドと共に総督を歓待し、さらに総督の私掠船として起用され、チャールズ・ヴェインの追跡などに従事した。島の議会にも席を持ったとされるが、借金から逃れるために逃亡して姿を消した。 ダニエル・スティルウェル[編集] エルーセラ島の悪徳商人ジョナサン・ダーヴェルの娘婿であるスティルウェルは、ベンジャミン・ホーニゴールドの元で海賊行為に従事した。この活動を問題視したナッソーの政府高官トマス・ウォーカーによって捕らわれ、ジャマイカで裁判にかけられそうになるが、ホーニゴールドに救出される。この1件でホーニゴールドとウォーカーの間には緊張が走り、ホーニゴールドはフライング・ギャングのメンバーに手出しした場合は家に火を放って家族諸共殺すとウォーカーを脅迫した。師であるホーニゴールドと同様、ジョージ1世の布告を受け入れ、軍艦に投降した。 トマス・バロウ[編集] バロウはスペインの財宝船を漁りにナッソーに集まったならず者のリーダー格であった。彼は自分の船を持たなかったが、島民から金品を奪い取り、ナッソーの総督を自称して島をかつてのマダガスカルのようにしてみせると豪語した(マダガスカルは17世紀、アダム・ボールドリッジなどの海賊の拠点であった)。後にバハマ総督に任命されたウッズ・ロジャーズに投降して足を洗った。 チャールズ・ヴェイン[編集] ヴェインはフライング・ギャングで最も悪質な海賊であり、捕虜を虐待し、海賊の掟をも無視する無慈悲な男として恐れられた。ヴェインはヘンリー・ジェニングスの手下として歴史に姿を現し、ジェニングスの元でスペインの財宝船を漁る遠征に参加した。1718年、ウッズ・ロジャーズ総督がナッソーに着任し、海賊への取り締まりを強化するが、ヴェインは投降することを拒否して外洋に脱出した。かつての仲間であるエドワード・ティーチが拠点にしてたカロライナに向かい、チャールズタウンの掠奪などを行った。ヴェインはティーチにナッソー奪還の手助けを求めるが、断られてしまう。バハマ諸島に戻ったヴェインはフランスの軍艦と遭遇するが、これの攻撃に反対したため、操舵手のジャック・ラカムにより船長の座を引きずり降ろされてしまう。小型船で追い出されたヴェインは運悪く嵐に見舞われホンジュラスの無人島に辿り着く。そこで商船に拾われるが、かつての同業者に正体を見破られてジャマイカに連行されてしまう。ヴェインは1721年3月29日にポートロイヤルで絞首刑に処され、その遺体は港のガン・ケイで晒しものにされた。 ジョサイア・バージェス[編集]
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