叢雲 (吹雪型駆逐艦) – Wikipedia
叢雲(むらくも)[1]は、大日本帝国海軍の吹雪型駆逐艦5番艦[2][3]。叢雲の艦名は、帝国海軍の艦船として東雲型駆逐艦・叢雲に続いて2代目である[4]。1929年(昭和4年)5月に竣工した。同型5-8番艦は艦名に雲がつき(叢雲、東雲、薄雲、白雲)、4隻は吹雪型駆逐艦の「雲級」とも呼ばれた[5]。1942年(昭和17年)10月、サボ島沖海戦で沈没した重巡洋艦古鷹の乗員捜索後に米軍機の空襲を受けて大破し、雷撃処分された。 建造から開戦まで[編集] 1927年(昭和2年)4月25日、藤永田造船所で起工された[6]。翌26日、第39号駆逐艦の艦名が与えられた[7][8]。1928年(昭和3年)8月1日、叢雲と改名され[9][10]、9月27日に進水[11]、1929年(昭和4年)5月10日に竣工した[6]。同型6-8番艦の東雲、白雲、薄雲は前年7月に竣工しており、叢雲が第二艦隊第二水雷戦隊の第12駆逐隊に編入されて雲級4隻が揃った [12]。他の3隻は駆逐隊を転じた時期もあったが[13]、叢雲は太平洋戦争開戦まで第12駆逐隊に所属した[14]。 竣工2か月後の7月9日、第二水雷戦隊が豊後水道で演習中、午後10時頃に駆逐艦望月が叢雲の右舷に衝突した[15][16][17]。叢雲乗員1名が死亡し、2名が負傷した[18]。望月は駆逐艦三日月に、叢雲は白雲に曳航され、呉に帰投した[16]。 1931年(昭和6年)12月1日、東雲が第20駆逐隊に編入し、第12駆逐隊は叢雲、薄雲、白雲となった[19]。1934年(昭和9年)6月29日、演習中に駆逐艦の深雪と電が衝突した。叢雲と駆逐艦初雪が切断された深雪の艦首部分の曳航を試みたが濃霧で見失い、翌日も捜索したが発見できなかった[20][21]。 1935年(昭和10年)4月、満州国皇帝の溥儀が戦艦比叡を御召艦として来日することになり、第12駆逐隊が比叡の供奉艦に指定された[22]。第12駆逐隊は比叡を護衛して日本と中国大陸を往復した。9月26日、叢雲は三陸沖で演習中、台風により多数の艦が損傷する第四艦隊事件に遭遇し[23]、甲板などが損傷した[24]。10月10日から呉海軍工廠に入渠した[14]。 1936年(昭和11年)12月1日、東雲が第12駆逐隊に戻って再び4隻体制になった[25]。第12駆逐隊は1937年(昭和12年)12月1日に第二水雷戦隊、1938年(昭和13年)12月15日に第二航空戦隊、1940年(昭和15年)5月1日に第一艦隊・第三水雷戦隊に編入された[14][13]。7月以降は第二遣支艦隊に編入され、日中戦争にともなう華中での沿岸作戦、北部仏印進駐作戦などに参加した[26][27]。莆田市の興化湾・南日水道で海上封鎖の任務中、薄雲が日本軍機雷に触雷して大破し[13]、叢雲は薄雲を台湾まで曳航した[28][注釈 1]。薄雲は10月15日に第12駆逐隊から除かれ[13][29]、12駆は3隻となった。興化湾に停泊中の叢雲には海賊が度々訪問し、中杉清治艦長や士官が海賊の根拠地を視察するなどの交流があったという[注釈 2][30]。11月3日、叢雲は呉に戻った[31]。 1941年(昭和16年)4月下旬から8月上旬まで、内海西部で訓練を実施[32]。8月13日から第12駆逐隊3隻は佐世保海軍工廠で修理と整備を行った[33]。9月12日、叢雲と東雲が次年度に第12駆逐隊として空母 蒼龍、飛龍と第二航空戦隊を編制する内示があった[34][35]が、太平洋戦争の開戦で実現しなかった。9月26日、佐世保を出発して瀬戸内海に移動し、訓練に従事した[36]。11月20日、第12駆逐隊の叢雲、東雲、白雲はマレー作戦に参加するため桂島沖を出発した[37][38]。 太平洋戦争[編集] 太平洋戦争開戦時に第12駆逐隊は第三水雷戦隊に所属しており、小沢治三郎中将(南遣艦隊司令長官)指揮下でマレー作戦に従事した[14]。12月17日、ボルネオ島攻略作戦に従事していた東雲がセリア附近でオランダ軍飛行艇に空襲され沈没した[39]。叢雲は捜索を行うが乗員は全員戦死し、沈没の痕跡しか確認できなかったという[39][40]。第12駆逐隊は叢雲、白雲の2隻となった[40]。南方作戦が一段落した後、軽巡由良や第五水雷戦隊と共に蘭印作戦に参加した[41]。 3月1日のバタビア沖海戦で、第12駆逐隊は第五水雷戦隊や重巡三隈、重巡最上、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)、駆逐艦敷波等と共同し、連合軍艦隊の重巡ヒューストンと軽巡パースを共同で撃沈した[42][43]。東日出夫艦長は軍装を整え、軍刀を持って艦橋に立ち指揮を執ったという[38]。両艦撃沈後の午前3時30分、第12駆逐隊はソワートウェー島西方約5カイリでオランダ海軍駆逐艦エヴェルツェン(エヴェルトセン)を発見、砲撃した[44][45]。エヴェルツェンは煙幕を張り逃走したがセブク島で座礁、放棄された[45][46]。朝、エヴェルツェンを発見した叢雲は装載艇を派遣して無人の艦内を調査し[47]、ビールやジャガイモを見つけて食卓に供したという[38]。調査隊が離艦直後、エヴェルツェンは爆発して失われた[48]。 3月10日、白雲は第20駆逐隊に編入、叢雲は第三水雷戦隊の第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)に編入された[49]。6月上旬のミッドウェー海戦で、第三水雷戦隊は戦艦大和などの主力部隊に随行した[50]が、叢雲が交戦する機会はなかった。 7月15日、第11駆逐隊司令に杉野修一大佐が就いた[51]。同月中旬、インド洋方面通商破壊作戦「B作戦」が発動され、第三水雷戦隊など参加艦艇が マレー半島西岸メルギーに招集された[52][53][54]。空母の援護もなく、商船拿捕を目的とした作戦に水雷戦隊の士気は下がったという[55]。8月8日、アメリカ軍がガダルカナル島に上陸したため作戦の中止が決定し、集結した各隊はダバオを経由してトラック泊地やソロモン諸島へ向かった[54]。8月24日、第三水雷戦隊は第八艦隊(司令長官三川軍一中将)・外南洋部隊に編入された[56]。25日、叢雲など第11駆逐隊はラバウルに到着した[57]。 ガダルカナル島の戦い[編集] 8月24-25日の第二次ソロモン海戦でガダルカナル島への輸送船団が撃退された日本軍は、高速の駆逐艦で物資の輸送を行う通称鼠輸送を余儀なくされた[58]。8月28日14時、叢雲と駆逐艦
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