Month: February 2018

しんがり 山一證券 最後の12人 – Wikipedia

『しんがり 山一證券 最後の12人』(しんがり やまいちしょうけん さいごのじゅうににん)は、清武英利によるノンフィクション小説。 1997年11月、当時四大証券と呼ばれた証券会社(野村證券・大和證券・日興證券・山一證券)の一角であった山一證券が自主廃業を発表した。ほとんどの社員が再就職に奔走する中、会社に踏み留まって経営破綻の原因を追究し、清算業務に就いた一群の社員がいた。真相究明と清算業務を続け、最後まで会社にとどまった”しんがり”社員たちの懸命な闘いを描いた実話に基づいた小説。1997年当時、読売新聞社で社会部次長として、山一證券の破綻を取材していた著者が、元社員に対して追加取材を実施して完成させた[1]。 小説は2014年度、第36回講談社ノンフィクション賞を受賞した[2]。 WOWOW連続ドラマW『しんがり 山一證券 最後の聖戦』としてテレビドラマ化され、2015年9月より放映された。 あらすじ[編集] 隠岐島出身の嘉本隆正は、高校卒業後山一證券に就職。30年に渡って8つの支店に勤務、大阪での取締役本部長を経て、1997年3月に常務に昇進。本社勤務となり業務監理本部長に就任した。その矢先である4月11日、山一證券に大蔵省証券取引等監視委員会(通称SESC)特別調査課の立入検査が入る。 1989年に、総会屋の小池隆一は、第一勧業銀行から32億円もの不正な無担保融資を得て、それをもとに4大証券会社の株を30万株ずつ取得。これで得た株主提案権を盾に、小池は各証券会社に利益供与を求め続けていた。1996年に野村證券社員による内部告発で、その事実が明るみに出ていた。山一證券も利益供与を行っており、SESCによる立入調査に至ったのだった。 4月15日、山一證券創業100周年。 7月30日、東京地検、SESCが商法と証券取引法違反容疑で山一證券を強制捜査し、三木淳夫前社長を含む8名が逮捕される。 8月11日、総会屋への利益供与の責任をとって旧経営陣11名が一斉に退陣し、野澤正平が社長に就任する。 8月14日、樽谷紘一郎顧客相談室長が何者かによって殺害されると言う山一証券顧客相談室長殺人事件が発生する。 10月10日、岡村勲山一證券顧問弁護士の妻が殺害されると言う山一証券代理人弁護士夫人殺人事件が発生する。 小池への利益供与額は数億円のものであったが、社内調査の中で、利益供与問題とは別に巨額の簿外債務の存在が明るみとなる。1989年のバブル崩壊を端に発した損失補填は、飛ばしと呼ばれる不正会計処理がなされ続けた。歴代のトップによって隠蔽され続けたその額は2,600億円にまで膨れ上がっていた。メーンバンクの富士銀行や大蔵省に救済を求めたが、いずれも拒否される。会社更生法による事業継続を模索するが断念。 11月17日、山一證券が主幹事を務めた北海道拓殖銀行が破綻、北洋銀行への営業譲渡を発表。

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年上ノ彼女 – Wikipedia

この項目には性的な表現や記述が含まれます。免責事項もお読みください。 『年上ノ彼女』(としうえのヒト)は、甘詰留太による日本の漫画。白泉社の『ヤングアニマル嵐』にて連載された。単行本は全6巻。 この作品は、前提的には青年漫画であるため、性的な描写を含む。しかしそのストーリー運びは、基本的に「体の付き合い」もある青年男女の健全な交際であり、いわゆる「エロ主体」の青年漫画ではないストーリー重視の作品である。とはいえ成人向け漫画出身の甘詰留太作品でもあるため、ねっとり濃厚な性的描写も盛り込まれている。 あらすじ[編集] 主人公伊藤努は大学で、児童文学同好会に所属している。新年度のサークル会員を募集中、いつも夢に出てくる少女に瓜二つの小山内揚羽と出会った。揚羽は児童文学同好会に入会し、歓迎コンパで年齢が25歳で大検を経て大学に入学したことを話したが、それ以上は尋ねられても答えずコンパはお開きとなった。その帰り道、酔った努は揚羽の家に連れ込まれた。ワケありっぽい彼女は、ワケありっぽい主人公に興味を示し、ひょんとしたことから同居生活を始めることに。 登場人物[編集] 本項目では特に断りがない限りは作品に倣い主人公とヒロインを下の名前で表記する。また、作品中で時間の経過があるので、最終話時の年齢なども記する。 主人公とヒロイン[編集] 伊藤 努(いとう つとむ)20歳 大学2年生(連載開始時)→24歳 出版社社員(最終話) 少年のときに悪戯で忍び込んだ土蔵で偶然であった女性(アゲハの姉)に性的ないたずらをされたことが理由で、その体験をたびたび夢で追想し続け、不能に悩まされていた。たまたま同じサークルに入部してきた姉に瓜二つだったアゲハに興味を示す。 性格は晩生で柔和。ただし他人が嫌がることを強要する(セクハラなど)者には義憤から自分の弱さも省みず突っ掛かるなど、正義感の強いところがある。名古屋に短気で一本気な父・暢気な母・しっかり者の姉がいる。 当初はアゲハを「小山内さん」と呼んでいたが、不能克服後は名前で呼ぶようになる。交際するようになって以降に本人曰く、「アゲハが足りないとダメ」らしい。 就職活動で悩んでいた際、面接で何度か一緒になった村田と同境遇ということで浮気をしていたことがあったなど、案外状況に流されがちなところもある。 留年の末、翌年秋に卒業、就職を果たし、同冬に結婚式を挙げた。 小山内 揚羽(おさない

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坂合黒彦皇子 – Wikipedia

坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ[1][2]/さかあいのくろひこのみこ[3][4]、生年不明 – 安康天皇3年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では「坂合黒彦皇子」のほか「境黒彦皇子」、『古事記』では「境之黒日子王」と表記される。「坂合(境)」は一説に地名[5]。 第19代允恭天皇の皇子である。 『日本書紀』・『古事記』によれば、第19代允恭天皇と、皇后の忍坂大中姫(忍坂之大中津比売命、稚野毛二派皇子の女)との間に生まれた5男4女のうち、3番目に生まれた皇子である[5][6]。 同母兄弟に木梨軽皇子・安康天皇(第20代)・八釣白彦皇子・雄略天皇(第21代)がいる[1][2]。 『日本書紀』雄略天皇紀によれば、安康天皇3年8月に安康天皇が眉輪王によって殺されたのち、雄略天皇は同母兄弟の八釣白彦皇子と坂合黒彦皇子を共犯者として疑った。八釣白彦皇子は雄略天皇に斬り殺され、同じく殺されそうになった坂合黒彦皇子は、眉輪王とともに葛城円の邸宅に逃げ込んだ。葛城円は贖罪として娘と私地を献上しようとしたがかなわず、雄略天皇は火を放って葛城円・眉輪王・坂合黒彦皇子を焼き殺したという[2][7]。この時、坂合部連贄宿禰(坂合部は一説に坂合黒彦皇子の名代・子代[8])が皇子の遺骸を抱いて焼き殺され、その舎人が回収にあたるも遺骨を選別できなかったため、1つの棺に入れて「新漢 本南丘(いまきのあやのつきもとのみなみのおか、新漢槻本南丘)」に合葬したという[7]。 『古事記』安康天皇段では、安康天皇が目弱王(眉輪王)に殺されたことを知った大長谷王子(雄略天皇)が、黒日子王のところに行って天皇が殺されたことを告げたが、黒日子王は驚きもせず煮え切らない態度を示したため、大長谷王子は怒ってその場で黒日子王を斬殺したとする[2][6]。 墓は、宮内庁により奈良県吉野郡大淀町大字今木にある坂合黒彦皇子墓(さかあいのくろひこのみこのはか、 北緯34度24分29.37秒 東経135度45分30.74秒 / 北緯34.4081583度 東経135.7585389度 / 34.4081583; 135.7585389 (坂合黒彦皇子墓))に治定されている[9][4]。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「ジヲウ古墳」[10]。

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出雲市立今市小学校 – Wikipedia

出雲市立今市小学校(いずもしりつ いまいちしょうがっこう)は、島根県出雲市今市町にある公立の小学校。 今市小学校は、住宅と商店が混在する市街地にあり、北側で出雲交流会館(出雲芸術アカデミー)と出雲市シルバー人材センターが、南側で国道184号に隣接している。出雲市役所、出雲中央郵便局も約300メートルと近く、直線距離で北方向700メートルに国道9号、島根県立中央病院、ゆめタウン出雲ショッピングモールやヤマダデンキなど大型商業施設、飲食店などがある。また、直線距離で南方向800メートルにはJR出雲市駅や一畑電車電鉄出雲市駅がある。 当校の吹奏楽部はコンクールでの受賞経験が多く、全日本吹奏楽コンクール島根県大会では金賞・最優秀を、全日本小学校バンドフェスティバル中国大会では最優秀を受賞している。2019年11月23日の第38回全日本小学生バンドフェスティバルでは、中国ブロック代表として全国大会に出場し銀賞を受賞した[1][2]。 2018年(平成30年)4月には、出雲市ICT活用教育モデル事業の指定校(児童用タブレット50台導入)となった。2020年4月の児童数は、518名。 年表[編集] 1873年(明治6年) 5月12日 – 島根県神門郡今市村第七番小学校を大念寺に開校 9月 – 大念寺から救恤所跡(新町)に移転 1886年(明治19年)10月 – 塚根(塚松)に移転新築 1896年(明治29年)4月 – 島根県簸川郡今市町尋常小学校と改称 1904年(明治37年)4月

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イギリス国鉄371形・381形・471形電車 – Wikipedia

イギリス国鉄371形・381形・471形電車は、イギリス国鉄末期にネットワーク・サウスイーストセクターが計画した電車で、ネットワーカーシリーズの一員である。サウス・イースト・イングランドでの運用が予定されたが[1]、いずれも国鉄の財政難により計画は実現することはなかった。 371形・381形[編集] 2形式とも交流25000V架線と直流750Vの第三軌条の両方に対応する交直両用電車として計画され、「ユニバーサルネットワーカー」という愛称がつけられる予定だった。371形はテムズ2000の輸送力増強用、381形はビクトリア、チャリング・クロスからケント沿岸方面、キングスクロスからのグレートノーザン系統、フェンチャーチ・ストリートからのロンドン・ティルベリー・アンド・サウスエンド線(英語版)などの旧型車置き換え用として予定されていた[2]。 471形は「メインライン・ネットワーカー」と呼ばれ、ケント方面の長距離運用の主力だった411形の置き換え用として計画された。1991年8月に発表されたモックアップによると当時の南西部の最新型だった442形「ウェセックス・エクスプレス」と同様の先頭貫通路つきの4両編成、側扉は戸袋を有し、座席配置が2+2および2+3の普通席と1等個室の2クラスが設けられたが、両クラスとも座席の間隔はさほど変わらなかった。広報によると、冷房装置、車内販売準備室、公衆電話、床のカーペット、半自動ドア、1等個室の各席の読書灯、快適さを考慮した背の高い座席、拡声システム、およびLED式乗客案内装置が設置されるとされた。1993年に運行開始予定とされたが、1992年の時点で資金不足が伝えられ、それから大きな動きはなかった[3]。 先頭部のモックアップ(ロンドンビクトリア駅) 普通車のインテリア 計画中止後[編集] 371形・381形・471形が断念されたのち、その代替として既存の465形の派生型である365形交直両用車が増備されることとなり、このうちグレートノーザン系統用の25編成、ケント沿岸系統用の16編成、合計41編成が長距離運用に対応するよう設計変更された [4]。 テムズリンクで約30年間主力として活躍した319形交直両用車は、シーメンスデジロシティファミリーの一部である700形に置き換えられた。一方、エレクトロスターシリーズは南東部のいくつかの長距離ルートで利用されている。375形と377形の両方のエレクトロスターには、クラス700の納入中にテムズリンクによって一時的に運用されていた387形と同様、交直両用のバリエーションがある。現在、365形の全編成がグレートノーザンルートで使用されている[5]。357形はLTSサービスで使用されている[6][7][8]。  

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近南極星区 – Wikipedia

近南極星区(きんなんきょくせいく)は、中国における星官(星座)の区分のひとつで、それまで中原地方では観測されなかった三垣二十八舎に含まれない天の南極周辺の領域のことである。北宋時代に成立した『蘇頌星図』の 「渾象南極圖」では、まだこの領域は空白で何も描かれていなかった。 明末期の崇禎帝の時世にイエズス会士アダム・シャール(湯若望)が徐光啓らとともに編纂した天文書 『崇禎暦書』(1631-35年) には、この領域に西洋の星表に基づいた23個の星座が追加されている。ヨハン・バイエルの『ウラノメトリア』(1603年)の影響が大きいとされている。それは、この領域に追加された星官の名称がバイエル星座の翻訳であったり、それと関連性のある命名がなされているからである。当時、北京天文台には『ウラノメトリア』が2部所蔵されていたという[1]。 近南極星区にある星官は、『明史』「天文志」にも見えており、また、徐光啓が作成した2番目の星図『赤道両総星図』のほか、フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)の『霊台儀象志』(1624年)や清代になって成立したイグナツィウス・ケーグラー(戴進賢)の欽定『儀象考成』(1757年)にも取り入れられている。『儀象考成』で増加した星については、ジョン・フラムスティードの『大英天球誌』(予備版:1712年、修訂版:1725年)に依拠していたとの説もある[2][3]。 ^ 方豪 『李之藻研究』 1979年、96頁。 ^ 陳遵嬀 『中国天文学史』 第1冊、上海人民出版社、1980年、251頁。 ^ 伊世同 『中西対照恒星図表』 科学出版社、1981年、187頁。 ^ 香港太空館

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革命防衛委員会 (ブルキナファソ) – Wikipedia

革命防衛委員会(かくめいぼうえいいいんかい、フランス語: Comités de Défense de la Révolution、CDR)は、1983年から1987年にブルキナファソに存在したトーマス・サンカラによって設けられたサンカラの革命を推進する機関で、ローカルに点在し、職場に設置された。キューバの革命防衛委員会に影響され、また政治的かつ社会的な統制を行う機関として機能した。 [1] 背景[編集] フランスからの独立から20年後、オートボルタは軍事政権と反乱に苦しんでいた。1982年、ジャン=バプティスト・ウエドラオゴが当時のセイェ・ゼルボ政権を転覆し、大衆救済評議会(CSP)の統治を開始した。しかし、CSPでは、1983年1月に首相に任命されたサンカラ大尉らが率いる急進派と、穏健派での対立が発展していた。 サンカラはその後すぐに逮捕されたが、1983年8月4日にブレーズ・コンパオレ大尉によるクーデターによって解放され、大統領に就任した。また、国を統治するために革命民族評議会(CNR)が設立された。彼は社会的、文化的、経済的、政治的な改革を行い始め、彼はそれを「民主的で大衆的な革命」(フランス語: Révolution démocratique et populaire、RDP)と呼んだ。 サンカラの政策には、伝統的首長の特権の廃止、女性の権利向上、腐敗の撲滅、反帝国主義に基づく外交政策、土地の再分配、予防接種、識字運動、農地改革の推進などが含まれていた。彼は革命から1年経った時、新しい国民性を促進するために、国号をオートボルタからブルキナファソに改名した。彼は、社会の根本的な変革を達成するために、ますます国に対する政府の統制を行使し、最終的には労働組合と独立した報道機関を禁止した。また、腐敗した役人、「怠惰な労働者」、そして反革分子と見做された人々が、人民革命会議で公に裁判にかけられた(フランス語: Tribunaux populaires de la

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オイゲニン – Wikipedia

Eugenin 5-hydroxy-7-methoxy-2-methylchromen-4-one 別称 5-Hydroxy-7-methoxy-2-methylchromone 識別情報 CAS登録番号 480-34-2  PubChem 10189 ChemSpider 9777  ChEBI O=C1c2c(O/C(=C/1)C)cc(OC)cc2O InChI=1S/C11H10O4/c1-6-3-8(12)11-9(13)4-7(14-2)5-10(11)15-6/h3-5,13H,1-2H3  Key: SUTUBQHKZRNZRA-UHFFFAOYSA-N  InChI=1/C11H10O4/c1-6-3-8(12)11-9(13)4-7(14-2)5-10(11)15-6/h3-5,13H,1-2H3 Key: SUTUBQHKZRNZRA-UHFFFAOYAN 特性 化学式 C11H10O4

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アルデンテ (アルバム) – Wikipedia

『アルデンテ』は、日本のバンド・マカロニえんぴつのインディーズ1作目のミニ・アルバムである。 2012年に結成されたマカロニえんぴつにとって初の全国流通盤となった作品[2]。本作についてはっとりは「ここにいるぞっていう、主張の一枚」としている[3]。 本作に収録の6曲のうち、3曲は自主制作盤から3曲が選出された楽曲となっており、冒頭の2曲は本作のために書き下ろされた楽曲となっている[3]。 2014年12月12日に本作のトレーラー映像が公開された[4]。 楽曲解説[編集] 鳴らせ 本作のリード曲[5]で、アルバムのために書き下ろされた[3]。 歌詞はギリギリに出来たもので、レコーディングの予備日も飛んでしまい、はっとり曰く「ここ逃したらねぇぞ」という日に出来たとのこと[3]。 ミュージック・ビデオは、川崎龍弥が監督を務めた作品[5]。 ワンドリンク別 マカロニえんぴつにとって初となる女性目線の楽曲[3]。 タイトルはライブハウスで使用される言葉で、はっとりは「普通に読めばライブハウスの歌で、少し皮肉ったりもしつつ、でもそれを比喩で女の人が人には言えないような恋をしている」と語っている[3]。 零色 タイトルは冷凍食品とかけたはっとりによる造語で、「れいしょく」と読む[3]。タイトルについてはっとりは、「メンタルが弱ってる人や鬱になっちゃう人って、ある日ある時から自分の中を何かが支配しているような感覚になると思うんですよ。それで体内に取り入れるというか、入ってきてしまったという意味で、食べ物のレイショクとかけてみたりして」と語っている[3]。 幸せやそれに似たもの はっとり曰く「フラれ唄」[3]。はっとり曰く「『零色』を出す前は、これがマカロニえんぴつと言えば、みたいな曲だった」[3]。 歌詞については「半分実体験・半分後付け」としている[3]。 なんだったっけ 活動初期から存在していた楽曲で、バンド結成時に最初に声をかけたサティに渡したデモ音源がこの曲であった[6]。 歌詞は大学1年生の時に書かれたもので、はっとりは「今とはだいぶ年が経つから、何でそんなに逆ギレしてんの?って(笑)」と語っている[6]。歌詞の世界観については「ちょっと『零色』をポップにした感じ」とし、「新しい環境とかに馴染めない人が抱えている何か、息苦しさみたいなものを唄った歌」と説明している[6]。

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